2011年 アメリカのイリノイ州で
18歳の娘が誕生日の贈り物が
バースデーカードのみだったことに腹を立て
精神的苦痛を味わったとして母親を訴えました。
娘は母親に慰謝料を請求しましたが
裁判所は、娘の訴えを却下。
確か日本の場合は、
家庭内の揉め事には民事不介入で
門前払いだった気がします。
(個人の考えで正しくないかも。)
アメリカの法律も同じとは限りませんが
顔見知りの近所の大人に相談するかのように
訴訟が身近なものなんでしょうかね。
私が読んだ記事の外側を除いて
記事の母親と娘の間に起きた出来事に
受けた印象や感想を持つとしたら
開いた口が塞がらなくなります。
今回のケースでは却下されていますが、
仮にこんな訴訟が受け付けられて娘が勝訴したら
文句言ったもん勝ちの社会かのような
印象を持ってしまうことになります。
それまで贈られていたプレゼントが無かったら
寂しく悲しい気持ちになることも
腹が立つことも理解できるとしても
訴訟までして母親を屈服させようとするのは
如何なものか。
母親にも経済的事情とか
母親なりの何らかの考えがあったのかも知れませんが、
何であれどうであれ
反発した娘に訴えられた母親は
凄く驚き呆れるでしょうし、
それ以上に凄く悲しい気持ちになるかと思います。
親子なので関係が終わることは無いと思いますが、
他人の場合は、それまでの関係は終わりますよね。
ただ私が読んだ記事の外側に
母親の娘に対する向き合い方が
以前より色々と問題ある態度を取っていて
我慢、我慢、我慢と重ねてきたものが
今回の一件で爆発したかもしれません。
だとしたら
母親に反省を促す最善の方法ではないにしても
頭から否定することではないのかなと思ったりします。
多くの場合は、凄く分かりやすく
〇×の感想を持てるような出来事は少ないので
全くの外野でしかないものが
気持ちを違えている同士の間に立っても
両方の気持ちに寄り添うことは出来ても
どちらかの気持ちに寄り添うことは
難しいのかなと思ったりします。
ただ本人同士では見逃してしまう
良い落し所を発見する手伝いは
出来るのかも知れないと思うのです。