裏千家、表千家の家元の邸宅から
ほんの少し歩いた所に、
応仁の乱の激戦地、百々橋跡があります。
百々橋跡
現在は、ごくごく普通の通りとなっていますが、
当時は、この地を南北に流れていた小川に
架かっていた小さな橋「百々橋」(長さ約7,4m、幅約4m)を
隔てて細川勝元率いる東軍と山名宗全が率いる西軍とが、
数度にわたり激しい合戦が行われました。
百々橋の礎石
現在は、小川は埋められ百々橋もなく、
当時の激戦の様子を知る礎石だけが残されています。
平家が落ち延びた四国の地の「祖谷のかずら橋」の場合は、
簡単に向こう側に攻め込むことは出来ないと思いますが、
百々橋の規模からすると、川も小さな川のようなので
橋も川も「そんなの関係ねえ!」のはずなんですよね。
関ケ原の合戦のような雌雄を決する合戦を
やろうと思えばやれたと思うのですが、
何らかの理由があってやらなかった?
それとも、やれなかった?
雌雄を決する合戦が行われなかったとすると、
この場所では、数度の小競り合いが起きた?
例え小競り合いだったとしても、
両軍合わせて25万を超える大軍の小競り合いですから、
物凄い数の武士達が刃を交えた激戦地と呼ばれても
何ら不思議ではありません。
京都を焼き尽くした応仁の乱の戦いは
京の都の地に留まらず、
全国に飛び火して全国の至る所で戦いが始まります。
旧百々御所 宝鏡寺門跡
百々橋跡に隣接して宝鏡寺はあります。
開山は、光厳天皇(こうごんてんのう)の
皇女、華林宮恵厳(かりんのみやえごん)禅尼で、
多くの皇女が歴代となり「百々の御所」の称号を賜っています。
人形塚
江戸時代末期に、揺らぎ始めた徳川幕府を、
朝廷の権威と幕府を結び付けることで立て直そうとして
孝明天皇の妹、和宮親子内親王と
徳川将軍、家茂公の結婚を推進しました。(公武合体)
婚礼には難しい諸事情があったけれども
幕府は必死になって何とか話をまとめ、
和宮親王が江戸へと向かう際の行列は、
沿道でその行列の全て見送るには
4日も要した凄すぎる花嫁行列だったそうです。
この花嫁行列の江戸までの道のりを、
警護しやすいとの理由から
東海道53次の方ではなく、1日中山道でもなく、
旧中山道を利用したそうです。
ここ宝鏡寺には、その和宮親子内親王が幼き頃、
宝鏡寺をよく訪れすごろく、貝合わせをしたり、
遊んでいた庭があるようです。
そして、
応仁の乱の主要人物として外せない
将軍、足利義政の妻の日野富子が後に出家して、
宝鏡寺に隣接する大慈院に入寺し、
現在、大慈院は宝鏡寺に受け継がれています。
ですので、この宝鏡寺も
応仁の乱と無関係ではありません。
本堂
宝鏡寺も普段は非公開なので
たまたま開いていた表門から敷地内へお邪魔して、
写真撮影していると、
白地の小さな看板に「拝観拒絶」の文字が、
言葉が強すぎる。。。何があったのだろうか。
そんな宝鏡寺は、11月1日より特別公開で
参拝可能となるようです。
堀川通
堀川通を渡って西軍の中心人物の住居跡へ向かいます。
この通りを少し南に下ると二条城がある通りになります。
山名宗全邸宅跡の石碑
応仁の乱の西軍の中心人物だった山名宗全の邸宅跡です。
応仁の乱は、この人と東軍の中心人物だった細川勝元が、
政治への影響力を争ったことで大きくなり、
その二人が亡くなったこと(戦死ではありません。)によって
終息に向かいます。
相国寺から山名宗全邸宅跡まで歩いてみて実感するのが、
山名宗全の邸宅跡や西陣跡の石碑がある場所と
細川勝元の邸宅や相国寺との距離が
本当に近いんですよね。
東軍が16万、西軍が11万とも言われている大軍が、
私の足で歩いて20分程度の狭い土地に
存在していたことになるのですが、
私の感覚では、
互いが陣を敷くなんて悠長な距離ではなく、
互いの軍が雌雄を決するために
全軍あげて斬り合っている距離なんですよね。
ただ関ケ原の合戦の時代と違って、
優れた飛び道具の鉄砲が無い時代では、
両軍の陣地の距離は近くなるような気もしますし、
弓と刀と槍が武器の中心だった時代ですから、
弓を弾き続けるにしても、
重い鎧を身に纏い、重い刀や槍を振り回すにしても、
相当な体力が消耗しそうなので、
あれだけの大軍同士の合戦では、
そうそう決着がつくものではないのかもしれません。
山名宗全邸宅跡を後にして、
上立売通を通って、
今回の京都巡り最後の大聖寺に向かいます。