日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

去るもの日々に疎し

2006-07-09 23:44:35 | CMウォッチ
今月から始まったテレビCMに、気になるモノがある。
「ミニッツメイド」という、ジュースのCMである。

父親が台所でジュースを飲みながら、朝食を準備している。
なぜか、母親の姿はない(未公開の30秒CMでは、既に会社に出かけたという設定になっている)。
そこへ、幼稚園の年長組か小学校の低学年くらいの娘が起きてきて、一緒に食事をする。
エンドは、娘と一緒に出勤する父親というシーンで締めくくられている。
テレビCMを見ている、同じ年くらいのお子さん(特にお嬢さん)を持つ、父親としては理想?のシーンかも知れない。

このCMをはじめてみた時、「久しぶり」と思いながらも名前を思い出せなかったのが、父親役の俳優・三上博史さんだ。
いわゆるトレンディードラマ大流行の頃、ドラマだけではなくテレビCMなどで、毎日のように見ていたように記憶している。
ところが、いつのまにかテレビCMなどで見かけないな~と思っていたら、テレビドラマでも、見かけなくなってしまった。
もちろん、ご本人は舞台などで活躍をされていたようなのだが、テレビなどのメディアを基準とすれば、「忘れられた存在」となっていたような気がする。
「メディアに露出する」ということは、実際の活躍とは別に「イメージや印象での存在感」という力を持っているように感じる。

先日、現役引退を表明した中田英寿さんなども、その一例のような気がしている。
実際ここ2、3年、彼は所属チームでレギラーという、扱いの選手ではなかった。
にもかかわらず、活躍していた印象があるのは日本代表での試合と、テレビCMや「成コレ」と呼ばれた帰国時のファッションという話題が、常にあったからでは無いだろうか?
サッカー選手としての、彼の実力を云々しているのではない。
人のイメージや印象は、メディアに左右され、時には「虚像」さえも作っている可能性があるということなのだ。

実際、4年前の日韓大会終了1ヶ月あまり過ぎた頃、近所のファーストフード店で女子高校生たちが「サッカーって、終わったよね。ベッカムってどこか(カッコ)良かったんだろう?」「ベッカムって!?すっかり忘れてた!」という会話をしていたことがあった。
当時ベッカム選手は、チョコレートのCMなどに出演していて、それなりの頻度で女子高校生たちも、見ていたはずなのだ。
ところが、サッカーという話題が無くなり、「興味の対象」ということも含めて、メディアの露出が(一時に比べると)減っただけで、「過去の人」状態になってしまうのである。

「去るモノは、日々に疎し」とは言うが、日本人の忘れっぽさと移ろいやすさからいえば、今日のスターも明日には「過去の人」となってしまうのかも知れない。

手段が目的に変わるとき

2006-07-09 12:07:46 | 徒然
アクセスをしてくださる一部の方には、すっかり行動を読まれていると思います。
昨日のお休み理由は・・・「ご想像の通り」です。
当然、早起きをしてのテレビ観戦でした。

昨夜のニュースで、奈良の母子3人焼死事件の犯人となった、高校1年生の長男の減刑を求める嘆願書が1500人集まったとあった。
この事件の詳細や背景となる事柄がニュースなどで報道されるたびに、「窒息しそうなこども」という言葉が思い浮かぶ。

犯人となった高校1年の長男は、「医者」になるため中高一貫の有名進学校へ進学し、それまで好きだったサッカーも、父親の意向で辞めさせられている。
深夜、父親の書斎でマンツーマンの勉強に明け暮れ、時には勉強が出来ないことで暴力を振るわれていたようだ。
学校関係者のコメントによれば、「このままでも、医学部進学は出来た」くらいの成績だったようだが、父親とすればもっと偏差値の高い医学部への進学を求めていたのだろう。
これでは「医者になるための、医学部進学」ではなく「偏差値の高い医学部進学」が、最大の目的だ。
「医者になるため」という目的が、いつのまにか「(偏差値の高い)医学部進学」へと変わってしまっている。
「志」が何処かへいってしまった進路は、無気力な進路でしかない。

「医師」という職業は、社会的地位も高く責任も大きい。
それは「人の命を預かる」仕事だからだ。
でも「偏差値の高い医学部出身」に、どれだけ大きな意味を占めるのだろう?
もちろん、医学界にも「学閥」というモノがあったり、師事する教授による力関係のようなモノがあるのだろう。
それが、「名医」の基準なのだろうか?
難度の高い脳外科や心臓外科手術を成功へと導く医師も「名医」なら、患者の気持ちを察し、分かりやすい言葉で病気のことを話し治療法を説明し、患者の不安を取り除くことが出来る医師も「名医」だろう。

医師になるための「医学部進学」という手段が、「偏差値の高い医学部進学」という目的へと父親の中で変化したことが、この事件の虚しさや哀しさのベースにあるような気がしてならない。