「去るもの日々に疎し」にコメントを下さった、「気功家」さんありがとうございました。
別に中田英寿さんに対して、批判はしていないつもりです。
むしろ、スポーツマスコミと言いますか、「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手を必要以上に持ち上げるような提灯記事に対して、批判的なだけで・・・。
むしろ「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手とマネジメント契約をしている事務所は、そのマスコミなどが作り上げたイメージを上手に使って、「カッコイイ(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」像を作りあげただけだと思います。
ただ、HPでの「伝え切れなかった」という言葉には、リーダーとしての資質不足の反省よりも、周囲の無理解を嘆いているような印象を受けたのは本当のことです。
さて、好きな選手ですか・・・今回の日本代表で言えば加地選手でしょうか?巻選手なども嫌いではありません。小野選手のように「1本のパスにメッセージが込められる」選手は、とても魅力的ですね。
好きな国は・・・以前はオランダだったのですが・・・ダービッツが好きでしたので。
今回のオランダは、以前のオランダと言うイメージが無く残念に思っています。
国・クラブチーム関係なく、組織的で攻撃的なサッカーをするところが好きです。
今日になってジダンの頭突き事件?の真相の一部が、明らかになった。
フランスのテレビに出演したジダン自らが、その真相を語った訳だが・・・。
日本では「試合中屈辱的なことを言うのは、日常的なこと」で「我慢できなかったジダンにも問題がある」という内容が多いように感じる。
でも、本当のところはどうなのだろう?
と言うのは、ジダンがアルジェリアからの移民で、イスラム教の影響を少なからず受けていると言う背景を見ていないような気がするからだ。
イタリアのマテラッツィ選手は、ジダンに「売女(ばいた)の息子」というニュアンスのことを言ったらしい。
「娼婦」と言う言葉よりもはるかに、蔑んだ言葉を使っている。
欧州のクラブチームの試合では、相手を挑発するためにこのような言葉を日常的に使っていると言うのが、上述の内容なのだがイスラム教の社会では母親や母親代わりの姉のは、家族のなかでも絶対的存在だと言うことを聞いたことがある。
私たち日本人がイメージしているような、「ハーレム」社会ではないのだ。
ましてキリスト教とも大きく違う。
イスラム社会における、「母親」の重大性を理解する必要があるのではないだろうか?
でもW杯では、幾つモノ素晴らしい場面も観ることが出来た。
宗教や人種、それまでの軋轢のようなモノを忘れさせるような場面だ。
準決勝ドイツのGKレーマンに声をかけるカーンや、試合後互いに健闘を讃え抱き合うような場面だ。
そこには宗教や人種と言った「壁」を越えたスポーツの素晴らしさがあった。
そのような場面が決勝で見られなかったことが、残念に思う。
宗教と日常生活が密接ではない日本人からすれば、大袈裟な感覚なのかも知れない。
しかし、情報化され「世界」との距離と時間が無くなりつつあるからこそ、「寛容と敬愛」が必要だと言う気がする。
別に中田英寿さんに対して、批判はしていないつもりです。
むしろ、スポーツマスコミと言いますか、「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手を必要以上に持ち上げるような提灯記事に対して、批判的なだけで・・・。
むしろ「(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」というサッカー選手とマネジメント契約をしている事務所は、そのマスコミなどが作り上げたイメージを上手に使って、「カッコイイ(中田)ヒデ」もしくは「NAKATA」像を作りあげただけだと思います。
ただ、HPでの「伝え切れなかった」という言葉には、リーダーとしての資質不足の反省よりも、周囲の無理解を嘆いているような印象を受けたのは本当のことです。
さて、好きな選手ですか・・・今回の日本代表で言えば加地選手でしょうか?巻選手なども嫌いではありません。小野選手のように「1本のパスにメッセージが込められる」選手は、とても魅力的ですね。
好きな国は・・・以前はオランダだったのですが・・・ダービッツが好きでしたので。
今回のオランダは、以前のオランダと言うイメージが無く残念に思っています。
国・クラブチーム関係なく、組織的で攻撃的なサッカーをするところが好きです。
今日になってジダンの頭突き事件?の真相の一部が、明らかになった。
フランスのテレビに出演したジダン自らが、その真相を語った訳だが・・・。
日本では「試合中屈辱的なことを言うのは、日常的なこと」で「我慢できなかったジダンにも問題がある」という内容が多いように感じる。
でも、本当のところはどうなのだろう?
と言うのは、ジダンがアルジェリアからの移民で、イスラム教の影響を少なからず受けていると言う背景を見ていないような気がするからだ。
イタリアのマテラッツィ選手は、ジダンに「売女(ばいた)の息子」というニュアンスのことを言ったらしい。
「娼婦」と言う言葉よりもはるかに、蔑んだ言葉を使っている。
欧州のクラブチームの試合では、相手を挑発するためにこのような言葉を日常的に使っていると言うのが、上述の内容なのだがイスラム教の社会では母親や母親代わりの姉のは、家族のなかでも絶対的存在だと言うことを聞いたことがある。
私たち日本人がイメージしているような、「ハーレム」社会ではないのだ。
ましてキリスト教とも大きく違う。
イスラム社会における、「母親」の重大性を理解する必要があるのではないだろうか?
でもW杯では、幾つモノ素晴らしい場面も観ることが出来た。
宗教や人種、それまでの軋轢のようなモノを忘れさせるような場面だ。
準決勝ドイツのGKレーマンに声をかけるカーンや、試合後互いに健闘を讃え抱き合うような場面だ。
そこには宗教や人種と言った「壁」を越えたスポーツの素晴らしさがあった。
そのような場面が決勝で見られなかったことが、残念に思う。
宗教と日常生活が密接ではない日本人からすれば、大袈裟な感覚なのかも知れない。
しかし、情報化され「世界」との距離と時間が無くなりつつあるからこそ、「寛容と敬愛」が必要だと言う気がする。