昨日、名古屋市長選挙があった。
Yahoo!等のニュースでも取り上げられていたので、結果はご存じの方も多いと思う。
前名古屋市長であった、河村さんの政策をそのまま引き継ぐような、結果となった。
しかも、選挙前に言われていた下馬評が高かった他の候補者を(表現は悪いのだが)瞬殺するような、圧倒的な得票数だったようだ。
昨日の名古屋市長選、1週間ほど前にあった兵庫県知事選、1か月前にあった衆議院選挙の時にも感じたことなのだが、「政治家とは、どんな人物であるべきなのか?」という点だ。
見解は人それぞれだと思うのだが、おそらく共通しているのは「現在よりも、より良い社会にしてくれるリーダー」像なのではないだろうか?
そんな有権者の思いとは別に、世界の政治的リーダーたちは「(今よりも)より良い社会にしてくれる人」が、選ばれているのだろうか?
そんな時、古典について解説をするYoutube channelを見ていて「なるほど」と、思ったのだ。
その古典とは、プラトンの「ティマイオス」と「クリティアス」を取り上げていた内容だったのだ。
プラトンについて、説明をする必要はないと思う。
古代哲学というか西洋哲学の祖ともいえるソクラテスの弟子でありソクラテスの言葉を残した人物でもある。
ソクラテスの話は「対話」によって、成り立つのだがこの「ティマイオス」と「クリティアス」もまた、「ソクラテスがこんな話をした」というところから、始まる。
その話の初めにあるのが「国を治める人物」についてなのだ。
この時ソクラテスは「国家の守護者」という言葉を最初に挙げている。
そして「国家の守とは、「勇気があり、並外れて『知を愛する』という素質が備わっていなくてはならない」という、ある種の定義のようなモノを指し示している。
ここで気になるのは「知を愛する」という言葉だ。
哲学の英語「philosophy」は、ラテン語の「知を愛する」という、意味からきていると言われている。
言い換えれば、政治家に求められる資質の一つは「より良い社会にする為の哲学を持っている人」ということにもなる。
それだけではなく、ソクラテスの有名な言葉「無知の知」という言葉もまた、「知」ということを大切にしている。
では、この時代の「知」とは何か?
それが学問という範疇ではなく、様々なモノ・コトに心を、その本質を知る為に努力をし続けることなのでは?という、気がするのだ。
あくまでも、私の解釈でありYoutubeの内容ではない、と断っておきたいのだが、世界各国で自己権威を示す為に様々な諍いを起こしている国のリーダーたちにはこの「知」というモノが感じられない。
それは日本においても、同様なのかもしれない。
というのも、安倍政権の頃だったと思うのだが、盛んに言われた言葉の一つが「反知性」だったからだ。
この「反知性」という言葉は、机上の理論に頼り現実を見ないことへの反発のようにも、とらえられていたようにも感じるのだが、そこには「身体的に感じることを大切にする」のではなく、「暴力的で、自分の力で多くの人をねじ伏せる」という、自己中心的なところがあったのではないだろうか?
このような「暴力的で、力で多くの人をねじ伏せる」社会は、決して豊かな社会ではないし、いわゆる二極化を生み出しやすい社会だともいえるのでは?
それが、今の日本の政治家の一つの姿だとしたら…「善き国をつくる」ことを、政治家の皆さんは古典から学んで欲しい、と感じている。