昨日、国内旅行支援策が始まった、という関連のエントリをさせていただいた。
実はブログを書きながら、何かモヤモヤしたものを持ちながら書いていた。
というのは、以前「歩く旅行」について、エントリをした記憶があったからだ。
そのモヤモヤは何だったのか?と、薄い記憶をたどってみたところ、英国の「歩く権利」を基にした「フットパス」という旅行の在り方に、似ている事に気づいたのだ。
Beyond Health:「歩く権利」から生まれたイギリスのフットパス
この記事を読んでいて、故エリザベス2世が領地であり亡くなられたバルモラル城の丘陵地を、杖を突いて歩く写真が何枚もあったことを思い出したのだ。
BAZAAR:素顔のエリザベス女王 保存版アルバム(4枚目)
このような写真からも、英国では「歩くこと」そのものが、当たり前のことでありその場所は限定されるものではない、ということなのだと想像する。
それが「フットパス」と呼ばれる、丘陵地や森の中等を歩く「権利」のようなものへと発展したのだろう。
それに対して、日本では「歩く」ことそのものが、「どこかへ行く」という目的を持った行動となっているように思う。
「散歩」のようにあとでなく歩く、ということはあっても多くの場合「ある程度ルートが決まっている」のではないだろうか?
その一例が、京都の「哲学の道」かもしれない。
今は観光地となっている、銀閣寺から若宮神社までの約2㎞の道を、京都大学教授で哲学者であった西田幾太郎が散歩をしながら思想をしていた、ということから名付けられた小道(今では小道とはいいがたいが)だ。
しかし、高度成長期以降日本は「速さ」というものに、価値が置かれるようになっていったように思う。
その象徴的なものが、新幹線であり高速道路なのではないだろうか?
確かに、交通網の整備により高速化が実現し、これまで手に入れる事が出来なかった食べ物が、手に入りやすくなった。
と同時に、より速さが求められるように宅配等は基本「翌日配達」となった。
これらの「速さ」により、確かに生活の利便性は格段に上がったと思う。
思うのだが、その「速さ」を求めるあまり、忘れてきたものがあるような気がしている。
それが、カタチとしてハッキリさせたのが、「コロナ禍」だったようにも思えるのだ。
だからこそ、「日本文化を感じるフットパス」という提案が、されるようになってきたのでは?と考えている。
昨日エントリをしたような「日本文化を感じるためのフットパス」は、旅行会社が企画をしなくてはできないものではない。
むしろ、地域のことを知っている(はずの)地元の人たちが集まって、オリジナルのプランをたてる、という方法があるように考えている。
もちろん、プロモーション等については外部からの協力が必要だと思うのだが、その外部も地元出身で都市部でそのような仕事に携わっている人の協力を仰ぐ、という方法もあるはずだ。
逆に、「地元を離れていたからこそ見える価値ある風景」という発見があるかもしれない。