日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

レナウンの倒産

2020-05-15 19:15:50 | ビジネス

Yahoo!のトピックスにも取り上げられていた「レナウン倒産」という記事。
日経新聞:レナウン、民事再生手続きへ コロナで販売減 (会員記事の為全文を読むことはできない)

レナウンが、中国の企業に買収されたのは2013年のことだった。
このころから、日本のアパレル企業は全体的に不振だったという印象があった。
唯一元気が良かったのが、ユニクロだろうか?
後の有名なアパレル企業そのものは、いわゆる「ファストファッション」の勢いに押されていたような記憶がある。
その中でレナウンが、真っ先に中国企業に買収された、という記憶がある。

個人的には、1960年代後半の「ワンサカ娘」のCMの印象が、とても強くその当時の日本経済の勢いのようなモノを感じる(感じるようになったのは、大人になってからだが・笑)。
その後、多くの日本のアパレル企業が海外のブランドとライセンス契約をすることで、日本のファッション市場においても「海外のブランド」が紹介されるようになり、「海外ブランド」そのものが少しだけ身近なモノにした。
例えば鐘紡はクリスチャン・ディオール、レナウンはランバンなどとライセンス契約をしていたのだ。
1990年代に入ると、それまでライセンス契約をしていた海外ブランド側から契約の打ち切られるようになった。
その頃からだろうか?日本のアパレル企業に、勢いが無くなり始めたような気がしている。
その後のユニクロなどをはじめとする「ファストファッション」の登場により、それまでのアパレル企業は、ますます窮地に追い込まれていくようになった。

その中でも一番ダメージを受けたのが、レナウンだったのかもしれない。
2013年の中国企業による買収には、驚いたがレナウンという企業そのものの魅力を以前より、感じられなくなっていた、というのもあったように思う。

だからと言って、レナウン展開しているブランドに魅力が無かったわけではないと思う。
特にメンズに関していうなら、「ダーバン」や「アクアスキュータム」、「インターメッツオ」といった、コンサバティブでありながら、オシャレ感のあるブランドを展開していた。
どのアパレル企業でも同じだと思うのだが、メンズでの売り上げよりもレディースでの売り上げがしっかり無いと、経営としては厳しかっただろう。
それは、百貨店の売上構成を見ても、一目瞭然だろう。

何より婦人服そのものが、なかなか売れない時代になってきているのかもしれない。
それは単に「新型コロナウイルス」の感染拡大という問題だけではなく、女性のお金の使い方が変わってきている、ということなのかもしれない。
「ファストファッション」で、シーズンごとに服を買い替えることが当たり前になっていれば、レナウンをはじめとするアパレル企業は価格的に太刀打ちできない。
それだけではなく、女性のファッションそのものがカジュアル化してきている。
女性向けファッション誌などでも、「少ない服で、1週間コーデ」等の特集が、毎シーズンのように組まれる。
TPOによって着分けるというよりも「ワンマイル=TPOに関係なく、様々な場面で着られる服」という、意識になってしまうのも、当然かもしれない。

そう考えると、レナウンの倒産は女性のファッションに対する意識とお金の使い方の変化によるところのほうが、大きいのかもしれない。



「緊急事態宣言」解除は、今なのか?

2020-05-14 19:37:16 | 徒然

先日、全国を対象に発令されていた「緊急事態宣言」だが、1週間以上感染者が確認されていない県が解除となった。
これにより、鳥取県などはGW明けの5月7日から、県立学校などでの授業再開を決めた。
このようなニュースを聞くと、少しづつだが「日常生活」を取り戻しつつあるのだな~と、感じる。

そして今日、安倍さんは39県の「緊急事態宣言」の解除を発表した。
讀賣新聞:緊急事態宣言39件で解除へ…首相「8都道府県も可能であれば、31日を待たずに」

今回解除の対象となった愛知県だが、新しい感染者が出ている。
前回のように「1週間以上感染者が確認されない」等の基準があれば、解除も納得できるのだが、今回の39県という多くの県での解除には、なんとなく不安が残る。
理由は上述した「新しい感染者が出ている」という点だ。

3月、安倍さんがいきなり「全国の小中高校の一斉臨時休校」を発表した。
それから約1週間後(だったと思う)、この休校を解除するような発言をした。
その結果、丁度桜が咲き始めていたこともあり、街中には「花見客」が大挙して、出かけた。
それが、要因だったとは言い切れないが「新型コロナウイルス」の感染が爆発的に増えたのが1週間~2週間後だった。
時間的経過を見れば、「一斉休校の解除」が多くの生活者に「新型コロナウイルスは終息に向かいつつあるので、(外出しても)大丈夫」という社会的雰囲気を創ってしまったのではないか?という、指摘がされた。

その後「小中高校の休校」を含めた「緊急事態宣言」により、「不要不急の外出の自粛」が要請され、随分窮屈な生活が始まった。
中には「コロナ鬱」だとか「コロナ離婚」などという言葉や、医療者やエッセンシャルワーカーと呼ばれる、社会を支える為に感染リスクがありながらも仕事をし続ける人達へ、心無い言葉を投げかける人達(個人的には、その人の本来の姿が表面化しただけだと思っている)が続出する等、社会全体が殺伐としたものになっている。
それだけではなく、経済そのものが停滞していることが、政府にとって大きな問題として捉え、急いで「解除」をしようとしているのでは?と、感じている。

しかし、本当に今39県の「緊急事態宣言を解除」して、大丈夫なのだろうか?
理由は3月の「一斉臨時休校」の一連の対応と、その対応を受けての「人の行動」への心配である。
「緊急事態宣言」を解除するにしても、その範囲と内容を段階的に行う必要があるのでは?ということなのだ。
あくまでも「不要・不急の行動の自粛」は続くのだと思う。
であれば、「解除」という言葉ではなく「段階的行動制限の解除」等の具体的な表現と「解除の基準」を明快に示す(1週間の感染者の発生がいない、2週間の死亡者が確認されない等)必要があるのではないだろうか?


民主主義における政治は、国民との信頼から成り立つのでは?

2020-05-12 21:39:55 | 徒然

毎日新聞のWEBサイトをチェックしたら、トップニュースが「検察定年延長」についての記事だった。
毎日新聞:検察定年延長「議事録なし」 解釈変更打ち合わせ 法務省「決裁は口頭、文書なし」

このような記事をスクープというのかもしれないが、その反面「調査報道」ともいえる内容でもある。
問題点を洗い出し、その内容について確認をする、という作業は地道な仕事だからだ。
と同時に、やはりこのような報道はとても重要だ、と感じたのだ。

何故なら、安倍政権になってから、安倍さん自身に不都合なことが起きるたびに「公文書の廃棄」等が行われ、行われるだけではなく「保管年数」もいつの間にか短縮されてしまったからだ。
そしてこのような報道があるたびに、国民には「安倍政権」に対して「信頼が持てない」という状況になってしまった。

ビジネスの世界では、「生活者と企業との信頼関係」はとても重要なこととして教えられる。
「信頼関係」があるからこそ、企業のブランドイメージが良くなり、イメージが良くなるからこそ、社会とのより強い信頼関係ができるからだ。
その点では「より良い信頼関係」こそが、企業におけるブランド力を高める唯一の方法、と言っても良いかもしれない。
それは「政治と国民」という関係においても、同じなのではないだろうか?

戦後から今までの「政治と国民」という関係は、考えの違いはあってもそれなりの「信頼関係」があったように思う。
だからこそ、その時々の内閣に不満があり、全てを信頼していなくても、経済政策や社会保障政策など、一部でも「納得」できればそれなりの「信頼関係」を保つことができていた、と思うのだ。

しかし、再登板してからの安倍さんを見ていると、自ら国民の信頼を裏切るような行為を、度々しているように思えてしまうのだ。
その最たるものが「モリカケ問題」であり、「桜を見る会」なのだと思う。

安倍さん自身と奥様に疑惑がかかっても、言い逃れだけではなく「公文書の破棄」や「改ざん」等を平気で行ってしまっているからだ。
ご自身が直接手を下していないにしても、安倍さんに忖度した官僚が行っていたとすれば、安倍さんはその官僚を更迭する等しなくてはならないはずなのに、むしろ昇進させるようなことを行っている。
確かに安倍さんは「忖度」という言葉が、流行した時に「私に忖度していただきたい」という、趣旨の発言をしている。
この言葉を聞いた、保身第一の官僚はその言葉通り「忖度」した、ということになるだろう。

そう考えると、安倍さんの頭の中には「国民との信頼関係」という考えが無い、ということなのかもしれない。
「信頼関係を築こう」ということすら、考えていないようにも思える。
これまで安倍内閣は、「お友達内閣」等と揶揄されてきたが、「お友達内閣」でも「政治と国民の信頼関係」をつくる姿勢があれば、問題視されることは無かったはずだ。
それが問題視され続けてきた、ということが今のような状況を生み出しているように思えてならない。

「政治と国民との関係」という、政治家であれば当たり前に考えることができないとすれば、戦後一番残念な内閣と言われても仕方ないのかもしれない。




「三権分立」と「民主主義」、安倍さんは理解しているのだろうか?

2020-05-11 17:00:18 | 徒然

週末ネットで話題になった「#検察庁法改正案に抗議します」。
いわゆる芸能人と呼ばれる方々が、次々と#をつけてtweetしたことで、話題になった。
「なんとなくtweetしたのでは?」とか「こんなtweetして欲しくない」、「芸能人は黙っていた方が良い」という、好意的とは言えないtweetも数々あったようだ。

まずこの「検察庁法改正案」という問題を理解しなくては、「#」の意味が分からなくなってしまう。
と同時に、この法改正案を出したのが「立法府」ではなく、「行政府」である政府が決めたものである、という点も理解知る必要があるのではないだろうか?
何故なら、日本の民主主義の根幹である「三権分立」の考えが、壊されたということになるからだ。
ご存じの通り、日本は「三権分立」といって「司法・立法・行政」と、それぞれ独立した権限を持ち、互いにその活動をチェックしあう関係になっている。
この部分が崩れてしまうと「三権分立」の意味が無くなり、「独裁政治」へと発展していくからだ。
実は以前から、安倍さんはこの「三権分立」を理解しているのか?疑問な発言をされていたこともあった。
東洋経済:「日本の民主主義」が世界で評価されない理由

東洋経済の記事にあるように、以前安倍さんは「行政府の長」ではなく「立法府の長である」という趣旨の発言をしている。
確かに、安倍さんは「国会議員」なので「国民から選ばれ、国会で様々な法案をつくることができる立場にある」と、言えますが、安倍さん自身は「首相」という内閣の長なので、法案を提出したりできる立場ではない。
そのような立場でありながら、法案を提出しまともな議論もないまま法改正案を通してしまったのが、今回の「検察庁法改正案」だったのだ。

しかも、問題となった検察の仕事の中には「政治家の責任を追及する」等も含まれている。
過去の例を挙げると「ロッキード事件」や「リクルート事件」等、大物政治家が関わったとされる事件を指揮していたのが検察だった。
この検事長の定年を政治家が勝手に延長する、という法案を通してしてしまえば、検察の独立性が無くなり政治家に忖度するようになってしまう。

まして今回、定年延長予定の黒川検事長という人物が、安倍さんと近しい関係にある、と言われているという。
PRESIDENTon-line:定年延長の渦中「安倍政権ベッタリ」の黒川弘務検事長は何者なのか?

本来であれば、行政の長である安倍さんとは距離を置くような関係(他者から変な勘繰りを受けないような関係)でなくては、検察という独立性は保てない。
その独立性があるからこそ「三権分立」という民主主義の基礎が守られるのだ。
しかも、安倍さん自身は「検察庁法改正」をとても急いでいる。
毎日新聞:首相、検察庁法改正は「今国会で」官房長官、抗議の意見は「承知」

「ロッキード事件」では、総理経験者であった田中角栄が逮捕されるという、前代未聞の事件へと発展した(その後、様々な思惑があり、田中角栄氏は嵌められたのでは?という指摘までされるようになった)。
今まさに、安倍さんは「モリカケ・桜」等、様々な疑惑となりそうな問題を指摘されている。
一連の安倍さんの行動が、自己保身の為の法改正案なのでは?と、指摘され・抗議の要因となっていると、考えるのが自然だろう。

だからこそ安倍さんは「民主主義の基本・三権分立」を理解しているのだろうか?と、疑問に感じるのだ。



感染は怖い、だが過剰な予防策はいかがなもの?

2020-05-10 19:27:53 | ライフスタイル

先日知人が、「手作り布マスクを買う人の気が知れない」という、趣旨の話をしていた。
のんきに「何故?」と尋ねると、「他の人が作って、ウイルスなどが付着しているかもしれないのに、殺菌もしていないんだったら、怖くて使えない」という答えだった。
「あんまり気にならないけど?」と答えると、不思議な顔をされた。
私が「気にならない」と言ったのは、使う前に洗濯をすれば問題が無いと思ったからなのだが、どうやら世間的には、違うようだ。

とにかく今は「物に触らないようにしたい」という、人が増えている。
先日は「爪楊枝」の端材で作った「エレベーターの階を押す棒」なるものも登場した、とニュースにあった。
菊水産業HP:つまようじ屋の非接触棒 爆誕生!
他にも、「レバーもボタンも触りたくない人向けグッズ」等もあるようだ。
朝日新聞:レバーもボタンも「?」を操作 触りたくない人の新商品

他にも、宅配業者が配達に行った際「除菌スプレー」をかけたり、「命の最後の砦」として孤軍奮闘している医療従事者とその家族に対して、心無い言葉を投げかけたりするのも「新型コロナウイルス」に対する過剰反応であり、「新型コロナウイルス」予防策を、十分理解していない為の行動だろう。

そう考えると、このような行動をとる人たちは、自分以外の他人は「汚れている存在」と、見ているということになる。
だが、残念ながら社会生活をしていると、人の体には様々な菌やウイルスが付着するものだ。
逆に言えば、そのような様々な菌やウイルスがいるからこそ、私たちの生活が成り立っている、という部分もある。
菌やウイルスは人に害を及ぼすものばかりではなく、メリットがあるモノもある。
お酒をつくる「酵母菌」や納豆をつくる「納豆菌」等は、私たちの食生活を豊かにしてくれる大切なモノだ。
それだけではなく、異常なほど菌やウイルスを排除することで人の免疫というか抵抗力は、どうなってしまうのだろう?と、考えてしまうのだ。
何故なら「ワクチン」等は、微弱化したウイルスを接種することで、体に抗体をつくるという、人の防御作用を利用したものだからだ(そのため「ワクチン悪説」というものが、全世界にある)。

今の「新型コロナウイルス」の感染拡大の状況を見ていて感じることの一つに、「東日本大震災」で起きた「東京電力福島第一原子力発電所事故」による「放射線恐怖」と同じなのでは?という気もしている。
この時も「放射能疎開」のような言葉まで使われ、関東から関西や九州に疎開をした人達が、数多くいた。
確かに当時は放射線量も高い地域があったが、人そのものもまた自ら放射線を発している。
放射線が「0」という場所などは無く、指定された避難地域以外では日常生活を営むには、影響がなかったはずだ。

「新型コロナウイルス」に対する感染を防ぐ第一歩は、外出から戻ったら「丁寧な手洗い・うがい」だろう。
できれば、帰宅直後の洗顔(シャワーや入浴なども)なども効果的かもしれない。
「マスク」にしても、医療用マスクは別にして一般に使うマスク(布マスクを含む)は、感染防止ではなく「他の人にうつさないように」というのが目的だ。

「新型コロナウイルス」に対して、恐怖心を抱くあまり過剰な行動をすることは、得策ではない。
基本的な「予防策」をキチンと行うこと、「3密」と言われる環境を避けること、などを徹底するほうがはるかに効果的なのではないだろうか?



「数字のマジック」に騙されてはいないか?-新型コロナウイルス関連のデーター

2020-05-08 19:14:08 | アラカルト

新聞をひらくと「新型コロナウイルス」の感染者数などを、見ることができる。
新聞だけではなくYahoo!のトピックスやテレビのニュースなどでも「新たに判明した感染者数は、○○人であった」という、数字を見たり聞いたりしているはずだ。

「新たな感染者数」の数字としては、正しい数字だと思う。
だが、感染者数だけの数字では「新型コロナウイルス」における日本全体の感染状況を見ることは、できないと思う。
何故なら、「検査件数」が分からないからだ。

検査件数が100件だとすると、感染者数は100人を超えることは無い。
当然、死亡者数にしても、累積感染者数を超えることは無い。
ところが、感染者として数えられていなかった方たちが、「原因不明」の突然死として扱われてきたケースが、発覚している。
この方たちは、感染者数として数えられていないので、数字上は「いなかった人」のような扱いになってしまう。
ということは、検査件数が増えない限り「本当に日本で感染している人」の人数は、把握できないということになる。

この「検査の数字の少なさ」については、当初から疑問視されてきた。
「意図的に、検査数を少なくしているのでは?」という指摘だ。
そして今、海外ではこの「日本の数字」に対して、疑問と批判が起き始めている。
Huffpost:日本政府のコロナ対応、海外から批判続出 このままの検査数で「終結は困難」

安倍さんは以前「2万人/日の検査を実施できるようにする」と、言っていたと思うのだが現実には2万人どころか、大阪などではPCR検査待ちが最長10日になっているという。
時事通信:PCR検査、大阪で最長10日待ち 医師「保健所受け付けず」ー民間委託拡充急ぐ

以前拙ブログでも指摘させていただいたはずだが、保健所そのものはこのような検査施設ではない。
既に保健所での検査はパンクしており、そのために「PCR検査を受けられずにいる感染者がいる」と考えると、本当の「感染者数」と各自治体から発表される「感染者数」とでは、全く違う人数になっている、ということになる。
実態と大きくかけ離れた数字で「日本は感染拡大を押さえている」と考えるのは、まず間違いだ。
しかもその「間違った数字」を、正式な感染者数として政府が発表するのは、ますます情報操作のようなことになってしまう。
もちろん、感染者数や死亡者数は確実な「数字」だと思う。
だが上述したように「検査を受けていない感染者」の把握をせずという状態では、「感染者数/検査件数」というデータの根拠にならない「数字のマジック」といわれても仕方のない状況だと思う。

「新型コロナウイルス」に限らず「感染症」は、実態把握が最優先されるべきものだ。
見かけの「良い数字」では、「終息」どころか適切な「対応策」すらできない、ということになる。
それが、海外から批判を受けている理由でもあるのだ。
既に「保健所」での検査はパンクしている。
とすれば、民間の検査施設の協力を得なくては、安倍さんが言っていた2万件/日などという数字は、達成できない。
そのコトが分からずに、「(とりあえず)2万件/日」と安倍さんが言ってしまったのだとすると、「数字の持つ意味」が、分かっていない、ということになるだろう。


「コロナ後」のことを考えてみたい

2020-05-07 19:45:37 | アラカルト

「新型コロナウイルス」に対する国の対応が遅れた、ということを先日の専門者会議の副座長を務めている尾身さんが、図らずも告白をした、という気がした記者会見だった。
確かに当初は「帰国者」のみ対象にPCR検査を行うという、ツモリだったのだろう。
それが瞬く間に、クラスターと呼ばれる発生源が分かる集団の追跡だけでは追いつかず、今では「クラスター」そのものが不明という感染者のほうが増えてしまった、という状況にある。

「クラスター」と呼ばれる発生源集団を見つけ出し、その集団を隔離するということは、初期の初期であれば可能だったかもしれない。
だがその準備すらまともにできていなかったのでは?と今更ながらしている。
とにかく、対策が後手後手に回った結果、今のような状況を生み出してしまっている、といっても過言ではないと思う。
安倍さんに至っては、何も言うことは無い。
とにかくやることなすこと、的外れで「国民の心に響くことば」の一つも聞くことが無かった、ような気がしている。
「アベノマスク」は先週時点で4%しか配布されていない、ということだったが残り96%が、国民一人ひとりに届く日は一体いつのことになるのやら?
届いた頃には、不織布のマスクもドラッグストアーなどに並び、奪い合うように買うことも無くなっているかもしれない。

何より判明したことは、「国と国民の距離が遠い」という点だ。
遠いだけではない、安倍さんの発言も西村担当大臣の発言内容を聞いても「地方自治体に責任は丸投げするから、よろしくね~」という印象しか残らなかった。
ところが大阪の吉村知事のように、独自の判断基準を示すと、とたんに国から反発が出てしまう。
このような「政治劇」を毎日のように生活者は、見せられている。

今のような状況から「新型コロナ後」を考えると、生活者は「国に対して期待も関心も持たなくなる」のでは?という気がしてしまう。
反対に、「自分たちの街のリーダー」として信頼を集めることができる首長さんたちが、出てくる可能性が高い。
このような信頼ができる首長さんがいる自治体へと人が移ることも、出てくるかもしれない。
それは「自治体と生活者の信頼関係」というだけではなく、リモートワークやテレワークなどによって、「満員電車に揺られながら仕事に行く必要はある?」と疑問に感じた人が、信頼できる首長さんのいる自治体に移るかもしれない、ということだ。

それだけではなくリモートワークやテレワークによって、自宅でPCなどを使うことが増えたため、都市部では通信速度が極端に悪くなり、仕事の効率が上がらなかった、という方もいらっしゃったのではないだろうか?
元々人口が少なく高齢者世帯が多い地方では、通信速度がそれほど悪くなるということは無い。
実際、実家がある鳥取県・米子市に帰省し、PCをネット接続すると、名古屋にいるときよりも快適なことが多い。

確かに「求人」という点で考えれば、地方と都市部とでは差があり過ぎる。
求人だけではなく、最低賃金においても200円/時間くらいの差がある。
地方の最低賃金を引き上げられるように、都市部の生産機能を持たないリモートワークやテレワークが可能な職種に関して、積極的に地方Uターン、Iターンを行う、ということも起きてくるかもしれない。

いずれにしても、今回の「新型コロナウイルス」によって、政府の体たらくな指導力とリーダーシップを発揮する地方自治体の首長。
政府をあてにせず、市民が積極的に動くことで共助の精神があちらこちらで自然発生的に起きているなど、「新型コロナ後」の社会の芽が、出始めているような気がする。



国から「新しい生活様式」等、押し付けられたくない!

2020-05-05 19:34:22 | 徒然

昨日、安倍首相の記者会見で「新型コロナウイルス」について、「新しい生活様式」などという「生活様式」の提案が、専門家会議の座長からあったようだ。
「ようだ」としたのは、実際の記者会見を見ていないからで、新聞などのメディアから得た情報だからだ。

新聞などに掲載された記事を読んでも、「これまで国民に要請してきた内容と、どう違うのだろう?」という位の内容という印象を持っている。
NHK特設サイト:専門家会議「新しい生活様式」の実践例

実は、昨日の朝からネットニュースなどでは、この「新しい生活様式」についての発表がある、という内容の記事が随分あったような気がする。
そしてこの「新しい生活様式」という言葉を見るたびに、違和感とここち悪さを感じていたのだ。
「国から『新しい生活様式』などという提案など、されたくない!」という、気持ちが強かったからだ。
そしてその気持ちは、もっと強くなっている。
理由は「これまで、散々言われてきたことを理解していれば『新型コロナウイルス』感染の終息宣言が、出されるまで覚悟している」という、気持ちがあったからだ。

確かに、「緊急事態宣言」発令後「不要不急の外出」とは思えない行動を起こす人達が、後を絶たないという事実はある。
沖縄や北海道に限らず、観光地と呼ばれる地域を持つ首長さんたちは「こないで欲しい!」というお願いを再三してきているにもかかわらず、観光に出かける人達がいるのも事実だ。
それぞれの人たちの言い分はあるにしても、「感染拡大防止」という観点で考えれば、「自分は大丈夫」等とのんきなことを言っている場合ではない。
そのような人たちは、「思考の視野が狭い為」何を言っても、理解できないのだろう。
「思考の視野が狭い」というのは、学力的な問題ではなく思考力の問題なので、「社会的地位」とは関係が無い。

そして決定的にそれを感じたのが、今朝のFM番組を聞いていた時だった。
ラジオパーソナリティーの方が「新しい生活様式の内容が分かって、安心をした。この生活する基準のようなモノが分かった」という趣旨の話をされたからだ。
上述した通り、「新しい生活様式」そのものは、これまで再三言われてきた内容とほとんど変わりはない。
とすれば、これまで言われてきた「注意事項」を照らし合わせながら、「自分の暮らしを創っていく」ということを考えればいいだけのことだ。

「自粛行動」の内容と趣旨を理解せず、自分勝手な行動をするその人達に合わせて、「国が新しい生活様式」などというモノを、押し付けられるのも違うのではないだろうか?
このような国からの「生活様式」の押し付けは、守らない人がいることでどんどん厳しくなり、「(自粛生活の中から見つけられる)自由な生活」をも、奪っていくような怖さも感じたのだ。
それはとりもなおさず、日本が第二次世界大戦へと突き進んでいった頃や、ヒットラー率いるナチスの思想に侵されていったヨーロッパのような「全体主義」の始まりのような気がしてしまうのだ。

せっかく「考える」という時間がたっぷりあるのだ。
様々な本を読み、自分自身の思考力を深める時間とすれば、国が提案する「新しい生活様式」などに振り回されることなく、生活を楽しむことができるのではないだろうか?
むしろ、全国各地で起きている「布マスクで地域活性化」の動きや、様々な人たちが「エッセンシャルウォーカー」と呼ばれる、この危機的社会状況の中で仕事を続けている人たちへの感謝やエールを送る動きなどは、「今だから見つけられた新しい価値観」を創り出しているように感じている。
そのような「新しい価値観」が、「新型コロナウイルス後」の社会の中心的思考になっていってほしい、と思っている。





「積極的自粛生活」のススメ

2020-05-03 20:28:10 | ライフスタイル

今年のGWは、企業や業種によっては4月20日過ぎくらいから始まった方も、いらっしゃるかもしれない。
例年であれば、今日あたりからが本格的なGWとなり、夕方のニュースでは新幹線の乗車率が100%を超えている、とか高速道路の渋滞が○○㎞だったはずだ。
それが、新幹線の一部では乗車率0%という車両もある、というニュースが話題になっている。
ラジオなどを聞いていても、「新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、県外へのお出かけはお止めください」という、アナウンスを度々聞くようになった。

人の移動が、新型コロナウイルスの感染拡大の最要因なのだから、当然といえば当然だ。
そしてこのようなニュースを聞くたびに「どこかへ出かけられないストレス」を、感じられる方も多いのでは?と、想像をしている。

だが、以前拙ブログでも指摘させていただいた通り、50年ほど前までは長期の休みに家族そろっての遠出、そのものができないのが、当たり前だった。
東名高速道路は開通していない、東海道新幹線も開通した直後だった頃は、自家用車そのものを所有している家庭も少なく、公共交通機関での移動の中心である新幹線に乗車することそのものが、憧れだったという時代が50年余り前にはあったのだ。

「遠出をしたりレジャーに出かける」ことが難しい今、様々な「暮らしの楽しみ方」を見つけようとしている人たちが、徐々に出てきているような気がするのだ。
その一つが「手作りマスク」だ。
学校の家庭科以来ミシンを使った、という方もいらっしゃるだろうし、ミシンが無いので手縫いで作っている、という方もいるだろう。
今では「手作り布製マスク」は、チョッとしてファッションアイティムとなっているかもしれない。
その切っ掛けをつくったのは、東京都知事の小池さんであったり沖縄県知事のデニーさんだろう。
小池さんはご近所の方がつくられた物だと言っているが、可愛らしいプリントのマスクだ。
一方沖縄県知事のデニーさんのマスクは、奥様が作られているようだが、使われているプリント柄が沖縄の「紅型」等で、マスクから「地域の産業をアピールする」ということなっている。

デニーさんにならへ!というわけでもないだろうが、最近では地域の繊維産業のアピールも兼ねるような首長さんの地元の織物やプリントされた柄のマスクをつけられる方も随分増えてきている。
昨日は、無地のマスクに県のゆるキャラ「むすび丸」を手描きした宮城県の村井知事が、話題になっていた。
With news:宮城県知事の「むすび丸マスク」無地から進化した理由

「たかがマスク、されどマスク」という状況になっているのが、今のマスク事情ということになるのかもしれない。
他にも、自宅でテントを張って「自宅キャンプ」をする、という家庭もあるようだ。
この「自宅キャンプ」のアイディアは、テレビドラマの「ひとりキャンプで食って寝る」の第5話に、登場している。
ストーリーは、「台風接近でキャンプに出掛けるのを諦めた」という設定だったのだが、この「自宅キャンプ」が案外、子どもたちに人気(というか、ウケている?)らしい。
いつもの自宅がキャンプ場に代わる、というほどの劇的変化ではないが、家の中でテントを張るだけでも「自粛生活」から一時期的に「お出かけ気分」に浸れる、ということらしい。

「手作りマスク」に励むのも良し、時折「自宅キャンプ」でアウトドア気分を味わうのも良し、「自粛生活」を癒鬱なモノにしないためには、その時を楽しむ想像力が一番重要だという気がしている。
これからのAI到来の社会で一番必要で、不可欠となるのは「想像力」だろう。
そう考えれば「コロナ自粛」を「積極的楽しむ自粛生活とは?」と考え・想像力をつけることが、「新型コロナ後の社会力」を身に着けるチャンスかもしれない。


「メーデー」開催100年に思う

2020-05-01 16:46:01 | アラカルト

今日5月1日は、「八十八夜」。
お茶どころ静岡県下などでは、街中で「新茶の試飲会」等がふるまわれる。
子どもの頃、浜松で過ごしたことがある私にとっては、この時期は「新茶」と「浜松まつり」で、市内が一番活気づく頃という思い出がある。
今年は「新型コロナウイルス」の感染拡大により、このようなイベントは、全国各地で中止になったことだろう。
そして、「メーデー」も中止になったようだ。
今朝のFM番組を聞いていたら、そのようなニュースがあった。

今時「メーデー」といわれたところで、「メーデーって何?」と思う若い方いるだろう。
まして非正規で働く人たちが増えたことで、「労働組合」そのものが、かつてのような役割を果たせなくなってきている。
ご存じの通り、企業にある「労働組合」の組合員は正規社員を対象として、組織つくられているからだ。
ただ今年で「メーデー」という「労働者の祭典」が100年という、節目の年だったようだ。
その節目の年の「メーデー」は、「新型コロナウイルス」の感染拡大防止を理由に、集会ではなく「オンライン」での開催となったという。
時事通信:異例のオンライン開催 100年目の連合メーデー -新型コロナ影響で・東京

今朝のFM番組で話題にしていた理由は、「オンラインでメーデーを実施する」という点だった。
確かに「3密」を避けるという意味を考えると、「メーデー」のイベントは正に「3密」状態のイベントだ。
時には、家族連れで参加という方もいらっしゃったりするので、その感染リスクはとても高い。
「オンライン」という方法も、これからは必要かもしれない。

そしてFM番組で指摘していたのは「オンライン」という今という時代を象徴するような、「メーデー」の在り方だけではなく、「メーデー」そのものがどうなっていくのか?という点の指摘もあった。
その指摘を聞きながら「産業構造の変化と労働組合」という視点で、これからの「働く人の権利」を考える必要があるのでは?という気がしたのだ。

100年前「労働組合」ができるようになったころの日本は、労働力が第一次産業から第二次産業へと転換していく頃だった。
その当時、「第二次産業=製造業で働く」ということは、「第一次産業=農林水産業」とは違い、長時間の労働時間の拘束や危険を伴う労働ということが多かった。
今のような「労働基準」等も守られることなく、低賃金で働かされるという場合が多かった。
そのような過酷な労働環境を改善し、労働者の働く権利を守ろう!というのが「労働組合」結成の切っ掛けだった(と、高校生の頃習った記憶がある)。

しかし今のように、産業構成が第二次産業から第三次産業が中心となり、その第三次産業の中でも「インターネット」や「IT」といった職務内容が多くなってくると、100年前の「労働組合」の考えでは、今の「労働者の働く環境や権利」を守ることが難しくなっているはずだ。
確かに「働く環境や権利」という言葉は、変わらないはずだが、その「仕事内容」がこの100年で大きく変り、100年前に無かった仕事が、今や主流となっている。
そう考えると、「メーデー」が「労働者の祭典」であり続ける為には、「今」という時代に即した考えが必要なのだ、という気がする。

とはいうものの「ブラック企業」という言葉が、まかり通るような状況は100年前と、あまり変わっていないのかもしれない…。