滋賀県甲賀市には「甲賀三霊山」と呼ばれる修験の山伏の修行場、あるいは甲賀忍者の修練場とされる3つの霊山があるといいます。
三霊山は「飯道山」「岩尾山」「庚申山」のことを示し、いずれの山も巨岩信仰や自然石信仰・山岳信仰のメッカとされてきた山になるようです。
甲賀三霊山の一つ岩尾山の麓には「清凉山 明王寺」という天台宗の寺院があり、五大明王を祀っているといいます。
甲南町の低山を背負うように建つこの寺院には、整備された池泉回遊式庭園もあって非常に心落ち着く寺院だと感じられます。
明王寺は伝教大師が比叡山諸堂を建立する際に当地に用材を求めた折に、杣人(きこりの意)の間に悪病が流行したという。
伝教大師が『五大明王を安置すべし』との霊夢を見て、五大明王を安置したところ病は平癒したといい、一宇の寺を建立して祈願道場としたのが始まりと伝わります。
境内の左側には奉納された地蔵石仏が並び、墓石や五輪塔を供養するため積み上げている場所がある。
そこを冥途とするならば、つながるように造園された池泉回遊式庭園は極楽へと向かう道筋なのか。
池は参道の横で本堂のある上へと向かい、参道を挟んで池は終わりとなる。
山の方からは季節柄ウグイスの囀りが聞こえ、日差しも暖かったため妙に和んでしまい、腰かけてボーとしたくなる気持ちが沸き起こってくる。
池の畔には十三重の石塔が立ち、本堂への案内をしてくれるようでもある。
やや細身の十三重塔であり、本堂の前に建つ十三重塔もスリムな塔であった。
落ち着いたところで本堂へと向かいますが、池に掛かる橋の右手には満開の白梅がいい香りを漂わせている。
花の季節や紅葉の季節の境内には美しい光景が広がることでしょう。
本堂は古刹というまでの古さは感じないものの、山中の古寺の良さを感じることができ、人の姿は全くない。
堂宇の左右でつっかえ棒が支えているが、強風対策あるいは例年なら雪の多そうな地域ゆえなのかもしれない。
まず拝所でお参りをすると正面にはしめ縄が掛けられてあり、稲には米がついている。
“伝教大師が五大明王を刻み疫病を抑えた処、その年の五穀が豊作となった”という寺院の縁起に由来しているのだろう。
外陣に入ると護摩行の儀式に焚かれる護摩木の奉納場所がある。
護摩供は毎月28日に行われるといい、決められた日には山祈祷大般若護摩供や盂蘭盆会施餓鬼供の儀式が行われるようです。
内陣との境に設けられた龍の欄間は細工が細かく力感があります。
内陣の須弥壇の中央には「不動明王坐像」を中心として「降三世明王」「 軍荼利明王」「 大威徳明王」「 金剛夜叉明王」の五大明王が祀られている。
須弥壇の左側には「不動明王立像」、右側には「十一面観音菩薩立像?」が祀られた見応えのある仏像が並びます。
外陣からしか拝観できないため細部を見ることが出来ず、後方に祀られている明王の姿ははっきりとはしないが、不動明王は実にいい表情をされています。
意外に感じたのは向かって右側に祀られた「徳川四代将軍の位牌(家康・家忠・家光・家綱)」です。
一般的に甲賀流忍者は六角氏→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と仕える相手を変えていったといいますが、江戸時代には伊賀忍者が優遇されて甲賀忍者は窮していたとされています。
そういった状況の中で「徳川四代将軍の位牌」を祀り続けているのは少し不思議にも感じます。
危険な城攻めの前線などに投入されたり諜報活動をして影の貢献をした忍者は秀吉に改易されたり、江戸時代に冷遇されたりされながらも、波乱の世をしたたかに生きていたのでしょう。
拝観順位が後先になってしまいましたが、見晴らしの良い高台にある鐘楼堂へ行く。
梵鐘には“鋳匠 黄地佐平謹鋳”“謹鋳 昭和四十年”の銘があり、現在も伝統的な技法を守って鋳造する技術が伝えられているといいます。
本堂と同様に鐘楼堂にもしめ縄が掛けられ、ふくよかに実った稲穂が祀られている。
本堂の横の小山のようになっている場所には「浅間菩薩」と呼ばれる石仏が祀られている。
詳しいことは分からないが、浅間菩薩というからには浅間(せんげん)信仰や富士信仰から来ているのかと想像する。
甲賀市を流れて野洲川へと合流する杣川流域には“富士浅間(ふじせんげん)信仰”が盛んだった地とされており、現在も“浅間祭り”という神仏が習合したような祭典が行われているといいます。
富士浅間信仰には山岳信仰や修験道の要素があるとされていますから、修験道の盛んだった甲賀の地に、浅間菩薩が祀られているのも何となく納得のいく話に思えます。
また同じ小山の上には「山の神」と名付けられている磐座がありました。
山の神は巨石という大きさではありませんが、磐座とされているのか、山に見立てられているのか。
後方には御神木がありますので祈願所になっているのかもしれません。
よく整備された池泉回遊式庭園を見ていると穏やかで落ち着きのある寺院の佇まいにすっかり和んでしまいました。
とはいえ修験道と天台宗および神道との習合などの歴史があったであろう寺院であり、“甲賀と富士浅間信仰”の一端を見ることが出来たことに興味を感じます。
(2020年3月初旬 拝観)
三霊山は「飯道山」「岩尾山」「庚申山」のことを示し、いずれの山も巨岩信仰や自然石信仰・山岳信仰のメッカとされてきた山になるようです。
甲賀三霊山の一つ岩尾山の麓には「清凉山 明王寺」という天台宗の寺院があり、五大明王を祀っているといいます。
甲南町の低山を背負うように建つこの寺院には、整備された池泉回遊式庭園もあって非常に心落ち着く寺院だと感じられます。
明王寺は伝教大師が比叡山諸堂を建立する際に当地に用材を求めた折に、杣人(きこりの意)の間に悪病が流行したという。
伝教大師が『五大明王を安置すべし』との霊夢を見て、五大明王を安置したところ病は平癒したといい、一宇の寺を建立して祈願道場としたのが始まりと伝わります。
境内の左側には奉納された地蔵石仏が並び、墓石や五輪塔を供養するため積み上げている場所がある。
そこを冥途とするならば、つながるように造園された池泉回遊式庭園は極楽へと向かう道筋なのか。
池は参道の横で本堂のある上へと向かい、参道を挟んで池は終わりとなる。
山の方からは季節柄ウグイスの囀りが聞こえ、日差しも暖かったため妙に和んでしまい、腰かけてボーとしたくなる気持ちが沸き起こってくる。
池の畔には十三重の石塔が立ち、本堂への案内をしてくれるようでもある。
やや細身の十三重塔であり、本堂の前に建つ十三重塔もスリムな塔であった。
落ち着いたところで本堂へと向かいますが、池に掛かる橋の右手には満開の白梅がいい香りを漂わせている。
花の季節や紅葉の季節の境内には美しい光景が広がることでしょう。
本堂は古刹というまでの古さは感じないものの、山中の古寺の良さを感じることができ、人の姿は全くない。
堂宇の左右でつっかえ棒が支えているが、強風対策あるいは例年なら雪の多そうな地域ゆえなのかもしれない。
まず拝所でお参りをすると正面にはしめ縄が掛けられてあり、稲には米がついている。
“伝教大師が五大明王を刻み疫病を抑えた処、その年の五穀が豊作となった”という寺院の縁起に由来しているのだろう。
外陣に入ると護摩行の儀式に焚かれる護摩木の奉納場所がある。
護摩供は毎月28日に行われるといい、決められた日には山祈祷大般若護摩供や盂蘭盆会施餓鬼供の儀式が行われるようです。
内陣との境に設けられた龍の欄間は細工が細かく力感があります。
内陣の須弥壇の中央には「不動明王坐像」を中心として「降三世明王」「 軍荼利明王」「 大威徳明王」「 金剛夜叉明王」の五大明王が祀られている。
須弥壇の左側には「不動明王立像」、右側には「十一面観音菩薩立像?」が祀られた見応えのある仏像が並びます。
外陣からしか拝観できないため細部を見ることが出来ず、後方に祀られている明王の姿ははっきりとはしないが、不動明王は実にいい表情をされています。
意外に感じたのは向かって右側に祀られた「徳川四代将軍の位牌(家康・家忠・家光・家綱)」です。
一般的に甲賀流忍者は六角氏→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と仕える相手を変えていったといいますが、江戸時代には伊賀忍者が優遇されて甲賀忍者は窮していたとされています。
そういった状況の中で「徳川四代将軍の位牌」を祀り続けているのは少し不思議にも感じます。
危険な城攻めの前線などに投入されたり諜報活動をして影の貢献をした忍者は秀吉に改易されたり、江戸時代に冷遇されたりされながらも、波乱の世をしたたかに生きていたのでしょう。
拝観順位が後先になってしまいましたが、見晴らしの良い高台にある鐘楼堂へ行く。
梵鐘には“鋳匠 黄地佐平謹鋳”“謹鋳 昭和四十年”の銘があり、現在も伝統的な技法を守って鋳造する技術が伝えられているといいます。
本堂と同様に鐘楼堂にもしめ縄が掛けられ、ふくよかに実った稲穂が祀られている。
本堂の横の小山のようになっている場所には「浅間菩薩」と呼ばれる石仏が祀られている。
詳しいことは分からないが、浅間菩薩というからには浅間(せんげん)信仰や富士信仰から来ているのかと想像する。
甲賀市を流れて野洲川へと合流する杣川流域には“富士浅間(ふじせんげん)信仰”が盛んだった地とされており、現在も“浅間祭り”という神仏が習合したような祭典が行われているといいます。
富士浅間信仰には山岳信仰や修験道の要素があるとされていますから、修験道の盛んだった甲賀の地に、浅間菩薩が祀られているのも何となく納得のいく話に思えます。
また同じ小山の上には「山の神」と名付けられている磐座がありました。
山の神は巨石という大きさではありませんが、磐座とされているのか、山に見立てられているのか。
後方には御神木がありますので祈願所になっているのかもしれません。
よく整備された池泉回遊式庭園を見ていると穏やかで落ち着きのある寺院の佇まいにすっかり和んでしまいました。
とはいえ修験道と天台宗および神道との習合などの歴史があったであろう寺院であり、“甲賀と富士浅間信仰”の一端を見ることが出来たことに興味を感じます。
(2020年3月初旬 拝観)
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