準決勝の第1局・中井天河-石橋女流王位戦は午後1時から、第2局の船戸女流二段-大庭女流初段戦は1時30分からの開始である。今回は、いや今回も船戸女流二段の応援なので、もしこの2局の開始時間が入れ替わっていたら、私は指導対局を受けていなかっただろう。
観戦席の廊下から見ると、上座は向かって右手。だから席次は中井・石橋、船戸・大庭、となる。観戦者は10名足らず。奥の中井-石橋戦に若干観戦者が多かったこともあって、私は大庭女流初段の横顔がうかがえる位置にすわった。同時にこれが、船戸女流二段を観賞…いや応援できるベストの場所でもあった。この角度から見ても、もちろん船戸女流二段は美しい。それはそうと、今回の対局者4人は、そろって黒系の服を着ている。なんだかお通夜の席みたいである。
将棋は中盤にさしかかっており、船戸女流二段が▲3三歩と叩く。以下気持ち良く攻めているようだが、大庭女流初段も独特の受けで、容易に崩れない。とくに△2三金や△1二香などは、アマも見習いたい辛抱だ。
やがて船戸女流二段の攻めが息切れ気味になってきた。横の中井-石橋戦は、終盤戦たけなわである。しかし中井天河の表情が険しい。いままで見たことのない顔である。それでいながら、凄絶な美しさを醸し出している。
中井天河が所用で金曜サロンに寄るときは、いつも優しい笑顔である。それももちろん魅力的だが、中井天河に限らず、女流棋士は対局中の真剣な表情がいちばん美しいと、いつも思う。
船戸-大庭戦は、船戸女流二段の攻めが一息つき、大庭女流初段の待望の反撃が始まった。船戸女流二段の顔色が少し変わったような気がした。
中井天河が、少しかすれた声で「負けました…」と告げる。
勝者はタイトルホルダーだから番狂わせとは言わないが、このふたりの対戦では、中井天河のほうが相性がいい。だからこの結果はやや意外だった。なるほど、あの凄絶な美は、敗勢の局面から逆転の秘技を絞り出しているときの表情だったのだ。中井天河はいつも勝っているので、いままで目にする機会がなかったわけだ。
船戸女流二段の形勢はいよいよ悪い。大庭女流初段が低姿勢で受け続けた辛抱が実り、頃はよしと反撃に転じてからは、先手先手と着実な攻めが入り、気がつけば勝勢になっている。まさに「大庭ワールド」の真骨頂である。
大庭女流初段、王手と中空に銀を打つ。しかしそれを取れずに逃げるようでは船戸女流二段、もういけない。私なら投げているところである。
しかし船戸女流二段は勝負を捨てず王を逃げ、自陣に駒を埋めて粘る。
船戸女流二段の素晴らしいところは、非勢になっても決して勝負を諦めないことだ。逆転の筋を模索し、駒音高く打ちつける。視線は敵陣を睨み、瞳はかすかにうるんでいる。頬はほんのりと紅潮し、どこか憂いを帯びた表情になる。この瞬間の表情が、私はいちばん好きだ。これとまったく同じ貌を、私は昨年12月の、フランボワーズカップで見た。
この気迫に押されたか、大庭女流初段に、緩手が出る。しかしまだ大優勢だ。大庭女流初段の追及にいよいよ船戸王落城かに見えたが、船戸女流二段は端に王を寄り、からくも徳俵でこらえる。背後から迫る秒読みの声。大庭女流初段に、またも緩手が出た。隙をついて反撃する船戸女流二段。こちらの胃が痛くなってくる。
自王が受けなしになり、船戸女流二段は、大庭玉をいよいよ詰ましにいく。詰むや詰まざるや。しかし最後は鮮やかな詰みとなり、船戸女流二段に凱歌が上がったのだった。大庭女流初段が投了した刹那、対局室の緊張した空気が、一瞬弛緩したような気がした。
それにしても船戸女流二段の、勝利への執念は素晴らしい。こんな勝ち方を間近で見せられては、私ならずともファンになってしまうのではなかろうか。
船戸女流二段が
「皆さま、観戦ありがとうございました」
と、こちらへ頭を下げ対局室をあとにし、激戦の準決勝2局が終わった。
決勝戦は午後3時から。その空き時間を利用して、金曜サロンの会員から頼まれた、本日の解説者である戸辺誠五段著の「なんでも三間飛車」を、控室に求めに行く。
すると中井天河が控室から出てきた。開口一番、
「もォー、負けちゃったわよォー!!」
と、笑顔で叫ぶ。
聞けば、石橋女流王位が冒頭の挨拶で
「きょうは私のゴキゲン中飛車の師匠である戸辺五段が解説でいらしてるので、先手なら5六歩、後手なら5四歩と指します」
と宣言したので、それを信用して▲7六歩△5四歩に、相振り飛車を目指して▲7八飛と振ったところ、石橋さんに居飛車にされてアテが外れた、というのだ。どうりで中井王が右側にいたわけだ。
石橋女流王位のコメントはもちろん私も聞いていたが、なかなか解釈が微妙なところで、私は1回戦のみゴキゲン中飛車で行くと思った。
そこで先ほどから話の輪に合流していた石橋女流王位本人に聞いてみると、「確かに初手は▲5六歩か△5四歩で行く、とは言ったけど、ゴキゲン中飛車で行く、とは言ってません(笑)」と言う。これはもっともな言い分である。
要は、自分の都合のいいほうに解釈した中井天河が悪い、ということだ。
しかしファンは、中井天河の珍しい振り飛車を見られて、満足したのではなかろうか。
また中井天河も、公認棋戦での敗戦は昨年末のフランボワーズカップ以来。勝率9割以上という鬼のような成績なのだから、たまには負けても、バチは当たらないであろう。
とりあえず石橋女流王位にも「がんばってください」と激励し、いよいよ決勝戦の時間となった。
まず大ホールの解説場で、石橋女流王位、船戸女流二段による決意表明。そして私は、ふたりが対局室に入ったころを見計らって、再び廊下へ入った。しかしその直後、これが重大な手順前後だったと悟り、私は愕然とした。
(つづく)
観戦席の廊下から見ると、上座は向かって右手。だから席次は中井・石橋、船戸・大庭、となる。観戦者は10名足らず。奥の中井-石橋戦に若干観戦者が多かったこともあって、私は大庭女流初段の横顔がうかがえる位置にすわった。同時にこれが、船戸女流二段を観賞…いや応援できるベストの場所でもあった。この角度から見ても、もちろん船戸女流二段は美しい。それはそうと、今回の対局者4人は、そろって黒系の服を着ている。なんだかお通夜の席みたいである。
将棋は中盤にさしかかっており、船戸女流二段が▲3三歩と叩く。以下気持ち良く攻めているようだが、大庭女流初段も独特の受けで、容易に崩れない。とくに△2三金や△1二香などは、アマも見習いたい辛抱だ。
やがて船戸女流二段の攻めが息切れ気味になってきた。横の中井-石橋戦は、終盤戦たけなわである。しかし中井天河の表情が険しい。いままで見たことのない顔である。それでいながら、凄絶な美しさを醸し出している。
中井天河が所用で金曜サロンに寄るときは、いつも優しい笑顔である。それももちろん魅力的だが、中井天河に限らず、女流棋士は対局中の真剣な表情がいちばん美しいと、いつも思う。
船戸-大庭戦は、船戸女流二段の攻めが一息つき、大庭女流初段の待望の反撃が始まった。船戸女流二段の顔色が少し変わったような気がした。
中井天河が、少しかすれた声で「負けました…」と告げる。
勝者はタイトルホルダーだから番狂わせとは言わないが、このふたりの対戦では、中井天河のほうが相性がいい。だからこの結果はやや意外だった。なるほど、あの凄絶な美は、敗勢の局面から逆転の秘技を絞り出しているときの表情だったのだ。中井天河はいつも勝っているので、いままで目にする機会がなかったわけだ。
船戸女流二段の形勢はいよいよ悪い。大庭女流初段が低姿勢で受け続けた辛抱が実り、頃はよしと反撃に転じてからは、先手先手と着実な攻めが入り、気がつけば勝勢になっている。まさに「大庭ワールド」の真骨頂である。
大庭女流初段、王手と中空に銀を打つ。しかしそれを取れずに逃げるようでは船戸女流二段、もういけない。私なら投げているところである。
しかし船戸女流二段は勝負を捨てず王を逃げ、自陣に駒を埋めて粘る。
船戸女流二段の素晴らしいところは、非勢になっても決して勝負を諦めないことだ。逆転の筋を模索し、駒音高く打ちつける。視線は敵陣を睨み、瞳はかすかにうるんでいる。頬はほんのりと紅潮し、どこか憂いを帯びた表情になる。この瞬間の表情が、私はいちばん好きだ。これとまったく同じ貌を、私は昨年12月の、フランボワーズカップで見た。
この気迫に押されたか、大庭女流初段に、緩手が出る。しかしまだ大優勢だ。大庭女流初段の追及にいよいよ船戸王落城かに見えたが、船戸女流二段は端に王を寄り、からくも徳俵でこらえる。背後から迫る秒読みの声。大庭女流初段に、またも緩手が出た。隙をついて反撃する船戸女流二段。こちらの胃が痛くなってくる。
自王が受けなしになり、船戸女流二段は、大庭玉をいよいよ詰ましにいく。詰むや詰まざるや。しかし最後は鮮やかな詰みとなり、船戸女流二段に凱歌が上がったのだった。大庭女流初段が投了した刹那、対局室の緊張した空気が、一瞬弛緩したような気がした。
それにしても船戸女流二段の、勝利への執念は素晴らしい。こんな勝ち方を間近で見せられては、私ならずともファンになってしまうのではなかろうか。
船戸女流二段が
「皆さま、観戦ありがとうございました」
と、こちらへ頭を下げ対局室をあとにし、激戦の準決勝2局が終わった。
決勝戦は午後3時から。その空き時間を利用して、金曜サロンの会員から頼まれた、本日の解説者である戸辺誠五段著の「なんでも三間飛車」を、控室に求めに行く。
すると中井天河が控室から出てきた。開口一番、
「もォー、負けちゃったわよォー!!」
と、笑顔で叫ぶ。
聞けば、石橋女流王位が冒頭の挨拶で
「きょうは私のゴキゲン中飛車の師匠である戸辺五段が解説でいらしてるので、先手なら5六歩、後手なら5四歩と指します」
と宣言したので、それを信用して▲7六歩△5四歩に、相振り飛車を目指して▲7八飛と振ったところ、石橋さんに居飛車にされてアテが外れた、というのだ。どうりで中井王が右側にいたわけだ。
石橋女流王位のコメントはもちろん私も聞いていたが、なかなか解釈が微妙なところで、私は1回戦のみゴキゲン中飛車で行くと思った。
そこで先ほどから話の輪に合流していた石橋女流王位本人に聞いてみると、「確かに初手は▲5六歩か△5四歩で行く、とは言ったけど、ゴキゲン中飛車で行く、とは言ってません(笑)」と言う。これはもっともな言い分である。
要は、自分の都合のいいほうに解釈した中井天河が悪い、ということだ。
しかしファンは、中井天河の珍しい振り飛車を見られて、満足したのではなかろうか。
また中井天河も、公認棋戦での敗戦は昨年末のフランボワーズカップ以来。勝率9割以上という鬼のような成績なのだから、たまには負けても、バチは当たらないであろう。
とりあえず石橋女流王位にも「がんばってください」と激励し、いよいよ決勝戦の時間となった。
まず大ホールの解説場で、石橋女流王位、船戸女流二段による決意表明。そして私は、ふたりが対局室に入ったころを見計らって、再び廊下へ入った。しかしその直後、これが重大な手順前後だったと悟り、私は愕然とした。
(つづく)