31日(日)は、第3回・日レスインビテーションカップの公開対局を観に、中野サンプラザへ出向いた。だけど雑感の記述は明日にする。自分のブログだから、いつ書いてもいいんだもんね。いやそもそも、なんでわざわざ断らなければならないのだ…。
29日のLPSA金曜サロン、昼は神田真由美女流二段、夕方は船戸陽子女流二段の担当だった。
神田女流二段は北九州市の出身だが、ご尊父の光男氏は将棋のアマ強豪で、かつて東京で自宅教室を開かれていた。この教室が実は私の最寄り駅にあり、1回だけお邪魔したことがある。そのときは(もちろん)真由美女流二段にお会いできず、LPSAが設立されるまで時を待たねばならなかったが、とにかく神田女流二段は、私にとって身近な存在であった。
神田女流二段は、藤森奈津子女流三段と似たタイプといえようか。ただウン十年前当時は「アイドル棋士」の代名詞が藤森女流三段だったため、神田女流二段の存在が、やや陰に隠れてしまった感は否めない。
その神田女流二段とは3月6日以来の指導対局。駒を並べながら、「(私と指すのは)久しぶりですね」と言われる。こうした一言が嬉しい。ただ、私が陽の高いうちからサロンに来ている理由を、こちらが「仕事がないんですー」と泣きを入れているのに、「(要するに)仕事をテキパキと済ませて、時間を作って来てるんですね」と解してくれたのは、複雑な心境だった。
3ヶ月ぶりの対局(サイン勝負)は、私の▲7六歩に神田女流二段は△3四歩。以下▲2六歩に△8四歩となり、予想もしない相掛かりとなった。神田女流二段は居飛車対振り飛車の対抗形が得意と認識していたが、相居飛車も指すオールラウンドプレーヤーだった。
その将棋は序盤で馬を作られ苦戦を意識したが、角切りから飛車を打っての勝負手が功奏して、なんとか勝たせていただくことができた。
神田女流二段は、残念ながら3月に現役を引退されたが、ファンクラブ「Minerva」の担当は継続されている。これからもファンのために、普及や指導に力を発揮してください。
そして夕方からは船戸二段の登場である。
船戸女流二段についてはあらためて説明するまでもない。女流棋士とソムリエール、それにファッションモデル(非公認)をこなす、世界で唯一の女性である。ちなみに私はこの比率を、「4:3:3」と見ている。
この日の服装は、小さな花がいくつもあしらわれた、緑を基調としたワンピースだった。ただ、今回のファッションはどうだったか。デザインがちょっとゴテゴテしすぎの感もあった。
船戸女流二段は美人なのだから、服装はスッキリしたものでいいと思う。
たとえば男物のワイシャツに黒のパンツを着ても、彼女は背が高いから、それだけで絵になるのだ。その意味で5月8日のいでたちは、とても好感がもてた。
それが嘘でない証拠に、私はその日、本人に直接
「いやあ、今日は船戸先生があまりにも美しいんで、クラクラきました」
と、マジメに告げている。
ところでこの日の将棋は、23日の将棋ペンクラブ交流会で石橋幸緒女流王位との将棋を参考にし、3手目に角交換をして、4筋を攻めていく構想を立てた。ところが将棋というものは、相手が変われば指しても変わる。こちらが腰掛け銀にするいとまもなく、居王のまま棒銀で来られ、一方的に攻められる展開になってしまった。なんだか、全然話が違う。
だがこちらも中盤で持ち直し、ここで▲8八の壁銀を立て直して落ち着けば、これからの形勢だった。ところが私は「一公さんらしからぬ(短兵急な)手」(植山悦行七段)を指してしまい、以下ヨリを戻す手もあったのだが、結果的に完敗となってしまった。
それにしても、先々週の松尾香織女流初段との将棋といい、このごろの私は、将棋に魂がこもっていない。たとえば船戸女流二段に将棋を教えていただいて丸1年になるが、以前だったら「船戸先生との将棋だから、大切に大切に指そう」と1手1手にしっかり読みを入れていた。
ところが最近ではこうした手がない。読みの裏付けがないまま、思いついた手をパッパッパッと指している。船戸女流二段に将棋を教えていただきたくても、それが叶わないファンは全国にいっぱいいるのに、その機会を得ている私がこんないい加減な手を指していてはいけない。性根を入れ替えて、精進しなければならない。
ところで船戸女流二段も、「(藤田麻衣子女流1級にくらべて)私は一公さんに随分負けている」とこぼしていたが、そんなことはない。何度必敗の将棋を緩めていただいたことか。船戸女流二段の指導法は定評がある。いまのスタンスを続けていただければと思う。
それに私がいつも言っていることだが、指導対局の勝敗なんて、指導する側から見れば関係ないことだろう。
また指導される側も、勝つに越したことはないが、それよりも嬉しいのは、指導してくれた女流棋士が、公式戦で勝ってくれることなのだ。
あ、もっとも藤田女流1級の場合は違う。藤田女流1級の公式戦勝利よりも、自分が指導対局で勝てたときのほうが、私の喜びは上になる気がする。
29日のLPSA金曜サロン、昼は神田真由美女流二段、夕方は船戸陽子女流二段の担当だった。
神田女流二段は北九州市の出身だが、ご尊父の光男氏は将棋のアマ強豪で、かつて東京で自宅教室を開かれていた。この教室が実は私の最寄り駅にあり、1回だけお邪魔したことがある。そのときは(もちろん)真由美女流二段にお会いできず、LPSAが設立されるまで時を待たねばならなかったが、とにかく神田女流二段は、私にとって身近な存在であった。
神田女流二段は、藤森奈津子女流三段と似たタイプといえようか。ただウン十年前当時は「アイドル棋士」の代名詞が藤森女流三段だったため、神田女流二段の存在が、やや陰に隠れてしまった感は否めない。
その神田女流二段とは3月6日以来の指導対局。駒を並べながら、「(私と指すのは)久しぶりですね」と言われる。こうした一言が嬉しい。ただ、私が陽の高いうちからサロンに来ている理由を、こちらが「仕事がないんですー」と泣きを入れているのに、「(要するに)仕事をテキパキと済ませて、時間を作って来てるんですね」と解してくれたのは、複雑な心境だった。
3ヶ月ぶりの対局(サイン勝負)は、私の▲7六歩に神田女流二段は△3四歩。以下▲2六歩に△8四歩となり、予想もしない相掛かりとなった。神田女流二段は居飛車対振り飛車の対抗形が得意と認識していたが、相居飛車も指すオールラウンドプレーヤーだった。
その将棋は序盤で馬を作られ苦戦を意識したが、角切りから飛車を打っての勝負手が功奏して、なんとか勝たせていただくことができた。
神田女流二段は、残念ながら3月に現役を引退されたが、ファンクラブ「Minerva」の担当は継続されている。これからもファンのために、普及や指導に力を発揮してください。
そして夕方からは船戸二段の登場である。
船戸女流二段についてはあらためて説明するまでもない。女流棋士とソムリエール、それにファッションモデル(非公認)をこなす、世界で唯一の女性である。ちなみに私はこの比率を、「4:3:3」と見ている。
この日の服装は、小さな花がいくつもあしらわれた、緑を基調としたワンピースだった。ただ、今回のファッションはどうだったか。デザインがちょっとゴテゴテしすぎの感もあった。
船戸女流二段は美人なのだから、服装はスッキリしたものでいいと思う。
たとえば男物のワイシャツに黒のパンツを着ても、彼女は背が高いから、それだけで絵になるのだ。その意味で5月8日のいでたちは、とても好感がもてた。
それが嘘でない証拠に、私はその日、本人に直接
「いやあ、今日は船戸先生があまりにも美しいんで、クラクラきました」
と、マジメに告げている。
ところでこの日の将棋は、23日の将棋ペンクラブ交流会で石橋幸緒女流王位との将棋を参考にし、3手目に角交換をして、4筋を攻めていく構想を立てた。ところが将棋というものは、相手が変われば指しても変わる。こちらが腰掛け銀にするいとまもなく、居王のまま棒銀で来られ、一方的に攻められる展開になってしまった。なんだか、全然話が違う。
だがこちらも中盤で持ち直し、ここで▲8八の壁銀を立て直して落ち着けば、これからの形勢だった。ところが私は「一公さんらしからぬ(短兵急な)手」(植山悦行七段)を指してしまい、以下ヨリを戻す手もあったのだが、結果的に完敗となってしまった。
それにしても、先々週の松尾香織女流初段との将棋といい、このごろの私は、将棋に魂がこもっていない。たとえば船戸女流二段に将棋を教えていただいて丸1年になるが、以前だったら「船戸先生との将棋だから、大切に大切に指そう」と1手1手にしっかり読みを入れていた。
ところが最近ではこうした手がない。読みの裏付けがないまま、思いついた手をパッパッパッと指している。船戸女流二段に将棋を教えていただきたくても、それが叶わないファンは全国にいっぱいいるのに、その機会を得ている私がこんないい加減な手を指していてはいけない。性根を入れ替えて、精進しなければならない。
ところで船戸女流二段も、「(藤田麻衣子女流1級にくらべて)私は一公さんに随分負けている」とこぼしていたが、そんなことはない。何度必敗の将棋を緩めていただいたことか。船戸女流二段の指導法は定評がある。いまのスタンスを続けていただければと思う。
それに私がいつも言っていることだが、指導対局の勝敗なんて、指導する側から見れば関係ないことだろう。
また指導される側も、勝つに越したことはないが、それよりも嬉しいのは、指導してくれた女流棋士が、公式戦で勝ってくれることなのだ。
あ、もっとも藤田女流1級の場合は違う。藤田女流1級の公式戦勝利よりも、自分が指導対局で勝てたときのほうが、私の喜びは上になる気がする。