第6図以下の指し手。▲7四と△同飛▲8五金△7一飛▲2六桂△5七歩▲同金△7六歩▲3四桂△7七銀▲6九玉△8一飛▲5四歩△8五飛▲6四角△4一玉(第7図)
羽生善治竜王は金を引かず、と金を引いた。私には思いつかない手だった。
富岡英作八段「▲7四とで▲7七金は後手を引きます。中盤戦以降は、先手を渡さない方がいいのです」
先手を取って飛車を追い、▲2六桂が「狙いの一手」。佐藤天彦名人は△5七歩と「手裏剣の手」を飛ばし、△7六歩と伸ばした。
解説ではここで▲7四歩を推奨する。もっとも以下、△7七銀▲同桂△同歩成▲同玉は、先手もあぶない形だという。
このあたりで、富岡八段がうっかり「羽生名人」と言ってしまう。佐藤ファンが聞いたらヘソを曲げそうで、富岡八段も失礼、と苦笑するばかり。
そういえば、1982年に中原誠名人が加藤一二三十段に名人位を奪取された当時、NHK杯の解説に大内延介八段が登場したのだが、「中原前名人」にも拘わらず、ふつうに「中原名人」と使っていたのを思い出す。
話を戻すが、ここでも羽生竜王は強気に、▲3四桂と銀を取った。△7七銀には▲6九玉と逃げ、一手勝っているという読みだ。
以下、お互い金銀を取り合い、▲6四角の王手に△4一玉まで。ここで先手の次の手が注目されたが…。
第7図以下の指し手。▲5九玉△6三金打▲5三銀(第8図)
このあたりはもう、夕食休憩以降の指し手になっている。私たちも大半は指し手を知らず、藤森奈津子女流四段の読み上げに注目する。
富岡八段「ふつうは▲5八玉だが」
だがそれだと、△8七飛成~△7八竜▲4七玉△3六金の詰み筋があるという。
藤森女流四段が指し手を告げる。「▲5九玉です」
富岡八段と藤森哲也五段が絶句する。
富岡八段「……。指されてみて、すごいいい手であることが分かりました」
藤森五段「なんでですか」
富岡八段「先入観で、玉は上に上がりたくなるものなんです。それを▲5九玉とズリ寄る」
玉はどこにも1マス動けるから▲5九玉も読みにないわけではない。しかし富岡八段の言うように、玉は上に上がりたくなるものなのだ。それを横に▲5九玉とは!
思えば、名人戦の第1局、第2局とも、羽生玉は巧妙に横にズリ寄っていた。将棋界では、玉捌きは木村一基九段のそれが絶品だが、羽生竜王の玉もどうしてどうして、味のある動きをする。
藤森五段「名人戦はそんな簡単に終わらないですね」
富岡八段「手の流れから、何手前からこの手を読んでいたのかと思うと、興味深いですね」
佐藤名人は自陣に金を入れ、羽生竜王は銀を打つ。ここで佐藤名人が考慮モードに入ったので、恒例の次の一手となった。
今回も当選者は3人だが、商品の扇子のひとつは、羽生竜王の「知足」である。
藤森五段「これ、何と読むんですかね」
富岡八段「扇子は逆から読むんですよね。知るを足る…。羽生竜王も揮毫が多すぎて、書く言葉がなくなってきているんじゃないでしょうか」
どうせ今回も解答用紙は多く配らないんだろうと思ったら、意外に多くの枚数を配っている。さんざん配ったあと、「解答用紙を欲しい方はどうぞ」と大きく手を振ってくれた。
これでは私ももらいに行かざるを得ない。
さて本局の第1候補は、素直に角を取る△6四金であろう。
だが私は少し捻って、根元の▲5四歩を取ってみたくなった。すなわち△5四金だ。私は自分の意志に従い、「△5四金」と書いて、スタッフに渡した。果たして次の一手は。
第8図以下の指し手。△6四金▲5二銀成△同玉▲5三金△6一玉▲7三銀△6八銀打▲4九玉(第9図)
指し手の発表である。「正解は、候補手の中にありました」と、藤森女流四段がもったいぶる。
「正解は△6四金です」
会場がドッと沸き、私はうなだれた。
今回正解者は多く、40人もいた。
すぐに抽選が行われ、当選者の3人が決まった。
△6四金のあとは、▲5二銀成△同玉▲5三金△6一玉▲7三銀…の進行が予想され、最後は▲9四歩と香を取る手が詰めろになったりする。「▲9四歩が利くと痛すぎます」と富岡八段。「お互い読み筋通りいって終わることは少ないのです」
といって△6一玉で△4一玉と逃げるのも、▲5二銀△3一玉▲4三銀成で先手が勝つという。よって、△6一玉と逃げるよりなさそうだ。
藤森五段がネット中継を見て、佐藤名人が体を揺らすことが少なくなってきている、と笑わせる。
また、佐藤名人は投了の際リップクリームを塗るそうで、それが画面に現れるかも、注目らしい。
なお△6四金で△5四金は、▲5二銀成△同玉に▲7三角成とボンヤリ成っておくのが好手で、次の▲7四馬が受けにくい。そう言われてみればそうで、なぜに私は「△5四金」を選択してしまったのか…。おのが読みの浅さに呆れるばかりだ。
藤森五段が、佐藤名人は身なりを整える仕種が増えてきた、と報告してくれる。これはいよいよ投了が近くなってきたか。
富岡八段「棋士は、投了する時はもう平静なんです。投了を自分に言い聞かせるまでがつらい」
かつて大内九段はこれを、「死刑宣告を言い渡すような気持ちだ」と表現した。
富岡八段は続ける。「それでもよく読んでいると、受けの手が見えることがあるんです。それは20回に1回か30回に1回だけれども、そうした読みの努力が、運を引き寄せるんです。同じ勝ち負けだけどそうじゃない。(数局単位での)流れっていうのがあるんです」
佐藤名人がなかなか指さないので、富岡八段の講和が続く。「それとこれが大事なんですけど、相手が強かろうが弱かろうが、自分で読むのが大事です」
第9図以下の指し手。△5一角▲7七桂△7三角▲8五桂△5七銀成▲8一飛(投了図)
まで、111手で羽生竜王の勝ち。
佐藤名人は予想どおり△5一角と引いた。ここは△5一角打として、△3三角を7七に利かしておく手もあったが、この直前に「△6八銀打▲4九玉」の交換を入れてしまったので、もう不可である。
羽生竜王は▲7七桂と取り、この時指が震えたという。
富岡八段「もう1,400勝も勝っているのに、いまだに震えるんですね。神聖なものなんじゃないですかね」
この桂は銀を取り、飛車を取り、角を取り、玉を召し捕る変化になる。藤森女流四段は「桂の四段跳びですねえ」と感激の面持ちで言う。
△5七銀成に大盤解説は▲7三桂不成だったが、羽生竜王は▲8一飛。ここで佐藤名人が投了し、会場に拍手が起こった。
富岡八段「本局は、佐藤名人の△9四歩が波乱を呼びました。
羽生竜王の、途中からの見切りがすごいよネ。▲5九玉で凌いでいるという読み。あの局面になれば、プロなら▲5九玉は分かります。それを数十手前から読むのは難しいことです。羽生竜王はいったい何手前から、▲5九玉を視野に入れていたのか…」
同業者が同業者に感嘆するシーンだ。そして私はそれを、何度か見てきた。
「それと、これは私だけが気付いていることかもしれないんですけど」と富岡八段が続ける。「相手が駒を打った時に、いつでも取れる状態にしておく。時間差で駒を取る。このテクニックが羽生竜王はとてもうまいです」
これは平たく言うと、質駒を作っておくということか。本局でいえば、△7七銀がそれにあたる。また投了図の▲8一飛でも、取れる角を残して、飛車を先着している。実はこの辺りに、羽生竜王の強さの秘密があるのかもしれない。
富岡八段の解説は物静かだったが、対局者の心理描写、対局の心得などなどなど、機智に富んでいておもしろかった。またのゲスト出演を楽しみにしたい。
新橋解説会は、第4局、第5局は休み。第6局があれば行うとのこと。その確率は羽生竜王の「○○」以外の星なので、75%だ。
そして解説会が行われたとしても、私が参加できる状態なら、それはそれで問題である。
さてどうなるか。