一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

温故知新

2011-11-25 00:41:51 | 将棋雑考
きのう24日(木)は、散歩先のTSUTAYAへ「PJ(ピーチジョン)」を買いに行った。このブログの読者なら、私が女性下着カタログ誌「PJ」の愛読者ということはご存じであろう。「PJ」は一流モデルの下着姿が満載で、それでいながら価格が250円という、貧乏人には涙が出るような雑誌である。
カムフラージュのため、いつもはこれと一緒にコミックや雑誌を買うのだが、今回はめぼしいものがない。「将棋世界」12月号が置いてあったが、3日発売のものを24日に買う気はしない。同誌を買わなくなって3ヶ月近く。その生活にも慣れてきたのに、いまさら「将棋世界」がある生活に戻りたくない。
「旅と鉄道」の復刊第2号が陳列されていた。特集は「青春18きっぷの旅」。いまさら「青春18きっぷ」もないものだが、ほかに買いたいものもなく、仕方がないので、これを「PJ」のお供にした。
しかし、「PJ」を単体で買う度胸がいまだにないとは、情けない。こんなことだから、いつまで経ってもAyakoさんをデートに誘えないのだ。まずは「PJ」だけを買えるようになること。ここをクリアしたら、Ayakoさんへのデートのお誘いである。

20日(日)は、女流最強戦1回戦・中井広恵女流六段VS渡辺弥生女流1級戦があった。同棋戦は中井女流六段の3連覇中。当然今回も出場の権利があり、中井女流六段も、気持ちよく出場できたようである。
同棋戦は全局リアルタイムでネット中継されるので、経過を見る。と、52手目渡辺女流1級が△9七とと角取りに寄ったところだった。
一目後手有利。どうしてこんな展開になったのかと最初から再生すると、後手渡辺女流1級が、「横歩取り△4五角戦法」を採用していた。
これは懐かしい戦法が出現したものである。谷川浩司九段が若手時代に連採していたもので、当時は△4五角以下の新手が日々現れていた。
それがこんにち全く見られなくなったのは、微差ながら先手有利という結論が出たからだろう。微差とはいえ後手不利の変化が出ているのに、それに飛びこむプロはいないからだ。
ただし…である。ここでいう「プロ」とは男性棋士のことであって、それが女流棋士の場合だと、ちょっと事情が変わってくる。
私は、この程度の有利不利で勝敗まで決まってしまうほど、将棋は単純ではないと思っている。先手よしの局面まで持っていくのにさまざまなハードルがあるし、先手よしの見解からでも、難しい変化はある。よって、誤解を恐れずに書けば、女流棋士同士の対局なら、後手が勝つ可能性も十分あると、私はかねてから考えていた。
ましてや本局は早指し戦である。先手が短時間で、正着を続けられるとは思えない。
そこで思い出すのが、先月のLPSA芝浦サロンで、中井女流六段が解説した中井女流六段-石高澄恵女流二段の倉敷藤花戦である。
そのときも石高女流二段が原始棒銀に出て、そこそこいい勝負になっていた。これも、正しく指せば受ける側が優勢になるのだろが、一手の緩手で形勢がひっくり返る、という緊張感があったことは否めない。
脱線ついでに書けば、初手から▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩に、先手が▲2四歩と突く手がある。定跡では先手不利だが、これを的確に咎められるアマチュアがどれだけいるだろうか。
「5手目▲2四歩」は、かつて谷川九段がどこかで研究発表していたが、後手が最善手を指しても、「けっこういい勝負になる」という結論だった。
話を戻すが、だから今回、渡辺女流1級が後手番対策として「横歩取り△4五角戦法」を採用したのは、まことに利に適っていると思った。
私はネット中継に貼りついているほど粘り強くないので、ほかに浮気をしていたが、しばらく経って中継を見ると、中井玉はなんと入玉していた。これは…どういう追い方をすれば、入玉されるのか。渡辺女流1級、ヘタをやったようだ。
最後は中井女流六段が、渡辺玉を即詰みに討ち取った。嗚呼、渡辺弥生。殊勲の星を取り逃した。
戦前の勝敗予想は、10人が10人、「中井ノリ」だったと思う。実際そのとおりになったわけだが、中井女流六段、途中は生きた心地がしなかったろう。その意味では、渡辺女流1級の作戦は図に当たったといえる。
現代の将棋界は情報戦の一面があると思う。しかし、そこに落とし穴はないか。これにて有利、の側が手順だけ鵜飲みにして研究を怠っていると、いざその将棋を指されたときに、しっぺ返しを喰う危険も孕んでいると思う。
「横歩取り△4五角」「原始棒銀」「横歩取り△8五飛に角を換わって▲9六角」「5手目▲2四歩」……。
これらはすべて、どちらも「指せる」。事実「△4五角」や「▲9六角」は私の得意戦法で、勝ったことも何回かある。
「温故知新」。結論が出た戦法や変化でも、まだまだ勝利に結びつく鉱脈はあるのだ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真部一男九段との思い出

2011-11-24 00:04:17 | 将棋ペンクラブ
日付変わってきょう11月24日は、真部一男先生の命日である。2日前にも書いたが、私に将棋の師匠があるとすれば、それは真部先生である。植山悦行七段ではない。真部先生には、高校時代に文化祭にお越しいただき、指導対局を受けていた。それで勝手に、私の師匠とさせていただいている。譬えがわるくて恐縮だが、まあ、パブロフの犬みたいなものである。
ちなみにココロの兄弟子は植山七段、女性のココロの師匠は藤田麻衣子さん、姉弟子は松尾香織女流初段、となっている。
真部先生は2007年に亡くなられたが、先生はその前年に「升田将棋の世界」で、「将棋ペンクラブ大賞」を受賞された。だが私が同賞の贈呈式に出席し始めたのは、2008年から。師匠の晴れの席にも、私は「四ッ谷が嫌い」という理由で、出席しなかったのだ。まったく、バカな弟子だった。
そんな私は「将棋ペン倶楽部」2008年春号に、真部先生の追悼文を寄せた。きょうはこれを掲載し、あらためて真部先生を忍ぼうと思う。


「真部一男九段との思い出」

その写真に写っている学ラン姿の私はさすがに若い。近くには女子将棋部員もいて、女子高生に免疫のない私は緊張の極みというところなのだが、そんな私は澄ました顔をしている。
そして最前列中央には……
      ×   ×
真部一男先生に初めてお会いしたのは今から27年前の昭和56年11月、私が高校1年生の時で、わが高校の文化祭においてだった。当時我が将棋部は、文化祭のときにプロ棋士をお呼びしており、真部先生が指導に来てくださっていた。
それまで私がプロ棋士を拝見したことといえば、東京・将棋会館で何名かの棋士を遠くから目にした程度。それがいきなり人気棋士との指導対局というのだから、まさに夢心地であった。
午後になり、真部先生がゆったりと入室された。雑誌やテレビで拝見していたとおり、端正な顔立ちと涼しげな眼は、さすがに「棋界のプリンス」と称されるだけのことはあると思った。
真部先生と部員が挨拶を交わし、いよいよ指導対局の時間となった。1年生の私は末席に座り、真部先生がいらっしゃるのを静かに待つ。
ようやく私の前に先生がいらっしゃり、「お願いします」と一礼して対局開始。先生が左手で銀を持ち、華麗な手つきで、カチッと△6二銀と指した。一連の所作を拝見し、先生が歌舞伎役者のように見えた。
プロ棋士のオーラを間近で感じた私は、上手なら誰でも指すこの手を見て、その緊張が最高潮に達してしまった。
▲7六歩△5四歩。しかし思考停止に陥った私は、ここで早くも「敗着」を指してしまう。
▲5六歩――。
その瞬間、私は心の中で「あっ」と叫んだ。初心者講座になるが、ここは定跡では▲4六歩と教えており、それ以外の指し手は下手が芳しくない。
本譜は△5三銀に▲4六歩と慌て気味に指したが、証文を出し遅れた。当然△4四歩とガッチリ受けられ、下手の▲4五歩を防がれてしまった。これはすでに下手が難局である。
こうして、かねてから楽しみにしていた真部先生との初対局は、開始からわずか7手で、事実上終わってしまったのだった。
翌57年は、わが校の近くにある女子高校将棋部との交流を、真部先生がセッティングしてくださったのが印象に残っている。例年は記念写真の類は撮らないのだが、この年ばかりは先生を囲んで、記念写真を撮った。
肝心の指導対局は、たしか飛車香落ちで対局をお願いしたはずなのだが、全く記憶にない。よほど女子部員のほうに気を取られていたのだろう。いや後述する3年生時の将棋と混同しているのかもしれないが、ここでは先に進むことにする。
その翌年の58年は、真部先生の人生でも、思い出深い年だったと思われる。
2月、先生はテレビの「早指し将棋選手権戦」で決勝に進出された。しかしその相手は大豪・米長邦雄棋王。当時の決勝戦は3番勝負で、いかな真部先生といえども、棋王相手に3番指して2勝は難しいと私は見ていた。
しかしそれは杞憂だった。真部先生は後手番の第1局に快勝すると、勢いに乗って続く第2局も制し、見事棋戦初優勝を遂げられたのだった。
湯川博士著「振り飛車党列伝」(毎日コミュニケーションズ刊)によれば、真部先生の成績が良かったのは、「昭和50年から63年ぐらいまで」だったという。これを「全盛期」という言葉に置き換えれば、昭和57~58年はまさにその真只中。文化祭で真部先生の華麗な将棋を目にしていながら、先生の敗退を危惧するとは、我ながら浅薄だったと言うよりない。
私は真部先生に祝福のハガキを出した。文面はありきたりのものだったが、宛名は寄席文字風の凝った書体にした。するとその数日後、先生から思いもよらず返事が来たのでびっくりした。
流麗な文字で返礼がしたためてあり大いに感激したのだが、よく考えてみれば、稽古先の生徒からハガキが来れば、返事を出さないわけにはいくまい。私は却って先生に余計な気を遣わせてしまったと後悔した。
4月、私は最上級生になり、ついに最後の文化祭がきた。当然真部先生とも、これが最後の対局となる。
先生には飛車を落としていただくつもりだった。しかし定跡どおりに指しても私が負かされるに違いない。
私は秘策を練った。ちょうど前年の「将棋マガジン」9月号~12月号で「若手四段対若手四段の駒落ち戦」という集中連載があり、11月号の飛車落ち編では、上手の室岡克彦四段に対して下手の加瀬純一四段が、▲9五歩からの端攻めで上手を圧倒していた。私はこの将棋を参考に、対局を進めることにした。
指導日の当日、昼過ぎに真部先生が来校され、最後の指導対局が始まった。
私は早々と▲7五歩と位を取り▲7六銀型を作る。さらに何食わぬ顔で2歩を手持ちにし、端攻めの準備を整えた。頃はよし。私は自信を持って▲9五歩と指した。
その瞬間、真部先生が「ウッ」と声にならない声を上げたような気がした。恐らくご自身の読みにない手だったのだろう。
私は連打の歩で香をつり上げ、▲9四銀と香を取る。私の読みではこの数手後に飛車が8六へ回り、上手もそれを防ぐ術はなく、飛車成りが実現して下手必勝、というものだった。
その後も局面は読み筋どおり進み、いよいよ私は▲8六飛と回る。
ところが先生は、いつもより高い音で、平然と△8四香と打ってきた。
△8四香!? なぜ香がある!? 私は心の中で叫んだ。
私はまた重大な誤りを犯していた。実はその直前に手順前後があり、得した香を上手に渡してしまっていたのだ。
半ば呆然としたまま私が手を止めてしまったので、先生が「応手をよく考えなさい」とばかり、隣の将棋へ移ってゆく。
たちまち私の頭の中に渦巻く後悔の念。密かに温めていた構想が、たった1回の手順前後で瓦解してしまったのだ。私は落胆を抑え切れなかった。
いやこれがもし3面指し程度だったら、落胆しているヒマはなかったかもしれない。しかし対局者は10人近くおり、意外と長い考慮時間があったのが、私の中で微妙な影響をおよぼすことになった。
一言で言えば、冷静になってしまったのだ。しかしそれは、無に返って次の手を考える、という意味ではなかった。むろんこれが先生と最後の対局だから、もっと指し続けたい。しかしこの局面は下手優勢の局面から、もうヨリが戻っている。以下のジリ貧負けは時間の問題で、このまま未練がましく指し手を続けることは、私には堪え難かったのだ。
せめて最後の将棋ぐらい、綺麗な投了図を残したい……私は心の整理をつけた。
真部先生が戻ってくる。私は背筋を伸ばし、「負けました」と一礼した。
この「応手」には、さすがの真部先生も意表を突かれたようだった。すぐに感想戦が始まった。
「ウン…うまく指されたけどね…ここでこう指せば飛車が成れたよね」
「そうです! それ読んでたんですが、つい手順前後してしまって…」
「そうだったね。でも投了の局面からでも、こう指せばまだ君のほうが優勢じゃないかな?」
先生が艶のあるバスで私を持ち上げてくださる。しかし私も譲らず、自説を述べる。
「でも△3二玉と上がられると上手の玉が捕まらないですし…」
最後はどちらが上手だか分からないようなセリフを残して、真部先生との3年間の指導対局は、これで終わった。
全対局が終了後、真部先生に御礼を述べるべく、部員が整列する。と、先生が私を指し、「彼は何という名前かな?」と、誰にともなく問うた。
私は名字を名乗る。当然みんなは真部先生の次の句を待ったが、先生は「ウン…」とつぶやき、微笑まれるだけだった。それにつられて、教室内に微苦笑が起こった。
あの時先生は何をおっしゃりたかったのだろう。端攻めの構想を改めて褒めたかった、とは思えない。対局者の好手を公の場でいちいち褒めていたらキリがない。では私のあまりにも早い投了に、「こういう対局では終盤まで指し手を進めるべきだよ」と嗜めたかったのだろうか。いや逆に、私の早い投了の中に、先生ご自身が持つ将棋観や投了の美学を見出したのだろうか。
ともあれひとつの小さな謎が残ったまま私と真部先生との3年間は幕を閉じ、同時にこの日が、先生との最後の対面となった。
この3年後、私がバイトをしていた会社に、真部先生と小学生の時同窓だったというパートの奥様がいた。しかしその事実を知ったのは、私がバイトを辞めた後のこと。もし事前に知っていたら、先生のいろいろなエピソードが聞けたのにと、残念に思ったものだった。
いっぽう真部先生は昭和63年、ついに一流棋士の証明となるA級八段に昇進される。
時に先生36歳。「棋界のプリンス」と称されてから15年近くが経っていた。長かった足踏みに、嬉しい反面、複雑な思いもあったに違いない。
そして平成に入ってからは、「将棋世界」に連載された「将棋論考」が、同誌での白眉となった。
棋士の有名無名を問わず、将棋界を代表する名局から知られざる熱局までを取り上げ、簡にして要を得た解説を付す。さらにその冒頭に記されるエッセイがまた、抜群に面白かった。
登場棋士への畏敬の念が篭った名文や、棋界への提言など読み応え十分だったが、ご自身の何気ないエピソードに抱腹絶倒の逸話が多く、好きだった。
それはバナナに滑って転んだ、という類の直截的な表現ではなく、なんでもないAという事象とBという事象を組み合わせて笑いを誘うという手法で、またそれを「棋界のプリンス」が記しているというギャップが、その面白さを増幅させていた。
私は高校時の指導対局に続き、今度は先生の格調高い文章で勉強させていただくことになった。
その後私は「将棋ペン倶楽部」に何本か投稿したが、真部先生にとって最終号となってしまった「会報48号」に、先生のことを記した拙稿が掲載されたのも、何かのお導きだったのかと思う。
会員である先生は目を通されたはずだが、私の棋力ならぬ文章力は、どう評価されていたのだろう。
さらに言えば25年前、文化祭での指導対局の後、先生が私に名前を訊かれた真意は何だったのか?
「それを数十年後に教えてください」
真部一男九段を偲ぶ会で、先生の遺影を前にそう問いかけて合掌すると、涙があふれてきて、止まらなかった。
      ×   ×
……そして最前列中央には、真部先生がさわやかな表情で鎮座されている。このころは心身ともに健康、公私も充実し、わが世の春を謳歌していたと思われる。
真部先生の澄んだ瞳はらんらんと輝き、そこにはA級八段に昇進し、やがてタイトルを獲得せん、という力が篭っていた。
(了)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十三たび大野教室に行く(後編)・応援の力

2011-11-23 00:04:33 | 大野教室
きょうの生徒は大人7人、子供2人。そして大野八一雄七段の弟子2人だった。日曜日は土曜日と比べて人が少ないが、それでも11人いれば多いほうである。
3局目、ここで大野七段に教えていただく。出だしは指し掛けの将棋とまったく同じになった。私は矢倉を目指すが、囲いを先にしてしまったため立ち遅れ、飛車先の歩を切ることができなかった。将棋はわずかな手順前後が致命傷になる。それは序盤でも同じである。
大野七段の金が4五に出てきたので、私は▲4六銀とぶつける。駒を交換すれば下手がいいとしたものだが、思ったほどよくならない。
△2五桂と跳ねてきたので、△3七桂成▲同桂△3六歩を防ぐべく▲2七金と打ったのだが、これはよくなかった。
大野七段、△4七歩成。▲同飛の一手に△3八銀。典型的な両取りで、バカバカしくなって投了も考えたが、私は▲4五飛と金と指し違え、▲2四歩と突きだす。しかし飛車桂交換の駒損は変わらず、大野七段に△2八飛と下ろされては、投了目前となった。
△8六飛▲8七歩△7六飛(と銀を取る)▲同金△6七銀。自陣はほとんど詰めろだが、これはかなり雑な寄せだった。
私は敵銀を取り、▲4四飛。これに大野七段は△2五王と逃げられると思っていたらしいが、それは▲3四銀△2六王▲2五金で詰んでしまう。△2七成銀と△2八飛が、上手の入玉ルートを塞いでいる。
実戦はここで大野七段の投了となった。以下△3三王▲3四銀△3二王なら詰まないが、そこで▲7七金引と駒の入手を図られていけない。
しかし、どうしてこうも下手が悪くなったのか。感想戦では、銀をぶつけた▲4六銀が疑問手とされた。前述のとおり、駒が交換できれば下手が成功だが、本局は上手の厚みが消えないので、よくないという。
正着は4筋にはさわらないことで、例外ながらこんなケースもあるらしい。▲4六銀はベストの時期に指すことにし、(後にも指したが)▲7五歩~▲7六銀と、こちらで手を作るべきだったという。
本局、大野七段が勝手に転んだ将棋で、大野七段からの勝利は、こんなのばっかり。勝たせていただいても、全然うれしくなかった。
4局目はFuj氏と。Fuj氏は棋士との指導対局や生徒との星を克明につけていて、私とは5勝4敗だという。Fuj氏とは、私が中盤まで優勢で進めながら、終盤でひっくり返されるケースが多い。Fuj氏は、死んだフリをして飛び蹴りを狙っているようなところがあり、油断のならない将棋だ。
しかしこうはっきりと勝敗を知らされると、私もこれ以上負けるわけにはいかない。本局は節目の10局目、私も気合を入れて臨んだ。
将棋は相矢倉。私は3五の歩交換から▲3六銀と立ち、十分の形勢。以下、激しい攻め合いになった。
2四で銀交換をし、▲2五歩。Fuj氏は△8六歩。これに私が▲同歩と取ったのが第一のつまづきだった。以下△8七歩▲同金△3九角▲3八飛△6六角成とされ、いくばくもなく負けた。
▲8六同歩では強く▲2四歩と取りこむところ。これに△8七歩成▲同金△8六歩なら、▲2三銀で先手勝ち。△8七歩に▲同金も悪手で、ここは▲同玉だった。最後の悪手が▲3八飛で、ここは▲2九飛と引き、2筋に利かせておくところ。以下△6六角成なら▲同金△同飛▲7七銀と受けて、先手もまだ戦えた。
▲8七同金の局面で、私の残り時間は、まだ7、8分はあった。どうしてここで腰を落として読まないのか、軽率な自分に腹が立つ。かくして記念の10局目を白星で飾れず、また星の差が開いてしまった。
将棋対局はここまで。食事会は、大野門下の奨励会員2人も同行し、7人の参加となった。
近くの中華料理屋へ入る。どうでもいいが、席の配置を記しておこう。

    Kun O M

 W Fuj 大野 一公
       壁

私のテーブルに、奨励会員が座った。これはなかなかできない経験である。
料理が運ばれてくると、O3級が箸を持って合掌する。いい心がけである。
M6級は大食漢。バクバク食う。彼は明日(14日)行われるマイナビ女子オープン・中井広恵女流六段と清水市代女流六段の記録係を務めるという。おカネをもらってふたりの将棋を観戦できるとは羨ましい。
もっとも彼は、そこまでの感慨はないようだ。私から見たら対局のふたりは魅力的な女性だが、彼から見たら、ただのオバチャンである。
そんなM6級を見ていて、アッと思った。彼、今年のマイナビ女子オープンで記録係をしていなかったか。たしか彼は将棋をあまり見ておらず、対局者が指したのに気づかないときがあった。それを私は、「彼は奨励会を退会するか、名人になるかのどちらかだろう」と書いた記憶がある。
それはともかく、私が彼らと食事を摂ったことを自慢できるかどうかは、彼らの今後の活躍にかかっている。ふたりには是非とも、四段になってもらいたい。
食事も終わり、奨励会のふたりとはここでお別れ。Kun氏もここで退席。残った私たち4人は、近くの「ガスト」へ向かった。
ガストは現在キャンペーン中で、パスタセットとデザートセットが激安で提供されていた。両方頼んでも651円にしかならない。
私たち4人は、それをオーダーする。さっき食事を摂ったのに、これではまた太ってしまう。まあ、ダイエットは、明日から始めればいいのだ。
いい大人が4人でデザートを摂りながら雑談とは気持ち悪い光景だが、それに抗うことはできない。
Fuj氏は相変わらず、120%将棋の話題である。話の途中で「中川流矢倉ですか」とかマニアックなことを言われたが、W氏と私は何のことだか分からない。Fuj氏、将棋の知識は豊富だが、それを万人が知っていると曲解しているところがある。「将棋の話=おもしろい」というわけではない。私たちはプロ棋界の裏情報には詳しいが、将棋の最新戦法には疎いことを知ってほしい。
大野七段が竜王戦で5組に昇級した話になる。昇級の一局となった加藤一二三九段戦は大苦戦だったが、辛抱が実って逆転勝ちとなった。私たちはその快挙を自分のことのように喜び、祝勝会の予定も組んだ。
大野七段、対局中はもちろん将棋の手を考えているが、時おり、生徒の応援が脳裏に浮かぶこともあるという。
本局も、局面は苦しいから、投了してしまえばラクになった。しかし生徒の応援を考えると投げられず、もう一手頑張ろう、という気になったのだという。
「だから皆さんの応援はとても励みになったし、感謝しています」
というようなことを大野七段は言った。
もったいない言葉である。私たちも大野七段の活躍には元気をもらったし、こちらこそ御礼を言いたい気分だ。
店を出て、大野七段が
「今回が5回目の昇級のチャンスだったからなあ。指してるときは気にしなかったけど、これを落としてたら、さすがに私もガックリきてましたよ」
と、かみしめるようにつぶやいた。
大野七段も、人知れずプレッシャーを感じていたのだろう。大野七段、竜王戦の昇級、本当におめでとうございます。来期の竜王戦も、期待しています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十三たび大野教室に行く(前編)・オー、サンキュー!

2011-11-22 00:10:08 | 大野教室
深キョンのほっぺたをクニュッとやってみたい。

13日(日)は、川口市にある「大野教室」に行ってきた。同教室は日本将棋連盟の大野八一雄七段が主宰する将棋教室で、その親切かつアツい指導には定評がある。その賜物か、最近は生徒数も飛躍的に伸びているようだ。
大野教室は午後1時からだが、きょうは2時半ごろに入った。もっとも、このくらいの時間が私にはちょうどいい。LPSA駒込金曜サロンのころも、私は金曜日が休みだったが、開講時間の午後2時に入ったことは一度もない。いつも3時すぎだった。
さて、早速大野七段との指導対局に入ったが、奨励会のO(オー)3級が来たので、大野七段の指示により、まずO3級に教えていただくことになった。
将棋に関心のない人ならば、肩書きに「級」とつくだけで弱い、と感じる人もいるだろうがそれは間違いで、「奨励会の級位者」はタダモノではない。研究会でなら四段以上の棋士に何番も入れてしまうし、奨励会を退会してからアマタイトルを獲った例も少なくない。現在進行中の女流王座戦五番勝負では、奨励会1級の加藤桃子さんが、清水市代女流六段を相手に、カド番に追いこんでいる。そのくらい、奨励会級位者は強いのだ。
当然私との将棋も、O3級に駒を落としていただくつもりだったが、O3級がハッキリしない。それで私が強引に先手番を取った。持ち時間は「30分・30秒」。
私の居飛車明示にO3級は藤井システムの出だし。△9四歩に私は端を受けなかったが、O3級が端を突き越さなかったので、私は▲9六歩。「時間差の端受け」が私流である。
振り飛車に対して居飛車の作戦はいろいろある。穴熊、急戦、左美濃、玉頭位取り…。しかしどれを指しても潰されそうで、つい時間を使ってしまった。
結局私は玉頭位取りを選ぶ。O3級は△4五歩~△3五歩~△4四飛。
このまま△3四飛と寄られては面白くないので、私は▲6五歩と突っ張った。△3四飛▲3三角成△同桂▲2二角。この角が活躍するかどうかがカギだ。
2六の地点で飛車交換になり、△2八飛▲3一飛と打ちあったあと、△4一金に▲同飛成と切って▲3九金。O3級は△5八飛成と金を取ったが、ここは△2七飛打とされるほうがイヤだった。ただ本譜も▲3九金が遊び駒になる可能性があるので、こう指したいところではある。
O3級は△7六金と▲6六銀取りに打つ。ここ、△4四角と銀取りに引く手が見えるが、強く▲5五銀と出る手があり、指し切れなかったようだ。しかし本譜は▲3三馬と桂を取りながら▲6六銀にヒモをつけることができ、ここで初めて、指し易くなったと思った。
O3級は△9五歩▲同歩△同香と端攻めに出る。さすがにあっちこっちと手を作ってくるものだ。▲9八歩△同香成▲同香△9七歩▲9二飛△9八歩成▲同飛成。この局面、O3級は、端に飛車を打たせて後手よし、と考えていたらしい。しかし私は私で、端の脅威が消えたので、先手十分と考えていた。
O3級、△4六歩。私は▲6八桂と打ち、目障りな△7六金を追い払う。しかし△4七歩成に▲7六桂は早まったかもしれない。ここは落ち着いて▲4七同銀だったか。しかしそれだと△6七飛という妙な手がある。以下▲5八銀には△6六飛成▲同馬△同金で一枚損してしまう。とはいえこの進行もあったかもしれず、ここは微妙なところだった。
ここからは一進一退の攻防が続く。いつもならノータイムでエイヤッと行っちゃうところを、待て待て、と相手の手を消し辛抱する。それが3回ぐらいあったろうか。時間も小刻みに使い、ここはと思うところは長考した。まったく冷静で、このときの私は、いつもと別人だった。
私は▲7二桂成と銀を取る。これは、あの▲6八に打った桂が6四~7二と跳んだもの。これは大きい活用だった。
O3級、△8二王と上がる。序盤で△7一王としてから、100手以上ぶりに王が動いた。私は香を取りつつ▲6一金と迫る。
ここでO3級が、負けました、と投了した。
「うん」
と私。
どちらも秒読みになっていた。熱闘の余韻か、すぐには笑みが出なかった。大変なことをしちゃったんだな、と我に返ったのは、その2~3分後だった。何しろ現役の奨励会員、しかも「3級」に勝ってしまったのである。プロ棋士の指導対局ならいざ知らず、奨励会員はどんなときも本気度100%である。その勝負に勝てたのだから、これは本当にうれしかったし、信じられなかった。
本局、奨励会員相手だから負けるのは承知の上。でも恥ずかしくない将棋を指そうと、謙虚に盤に向かったのがよかったと思う。また上にも書いたが、苦しい局面でも暴発せず、じっと堪えたのもよかった。相手に手を渡すような冴えない手だったが、存外最善手だったかもしれない。
いつもとは違う手が指せたということは、相手が強敵だったから。力のこもった、いい勝負だったと思う。私の力を実力以上に引き出してくれたO3級には、改めて感謝の言葉を述べたい。
ところで▲2二角は、さまざまなルートを通って、終局時には「7六馬」になっていた。
2局目はまたも奨励会員で、M6級と。この将棋に勝ったら、私が大野門下に入り、奨励会の受験?が現実味を帯びてくるところだった。
M6級とは振り駒。私が先番になり、▲7六歩△3四歩▲2六歩△8四歩。ここでふつうなら横歩取りの将棋になるのだろうが、どの変化も勉強されているような気がして、私は▲6六歩とひるむ。なんだ、これではFuj氏と同じではないか!
将棋は矢倉模様になったが、早囲いを目指したところ、M6級に急戦で来られて参った。こちらは二段玉なので、当たりがキツイのだ。
恐らく、早囲いには急戦、が玄人間の常識なのだろう。それを知らない私は、やはり素人なのだった。
本局、というわけで序盤から作戦負け。中盤、こちらがおもしろくなったか、と思った局面もあったのだが、M6級の△3三桂が好手。左桂を跳ねる手は、まったく見えなかった。
M6級、さらに△4五桂の▲3七角取り。▲2六角と逃げたいが、△5五銀▲同歩△同角が▲2八飛と▲9九香の両取りだ。これが分かっていても受けづらく、さりとてそれに代わる手もない。
これ以上指しても、M6級の指し手がしなるだけ。この場面をたまたまW氏らが見ていたのがシャクだったが、ここで私は投了した。残念だったが、極めて順当な結果であった。
大野門下に入ることはできなかったが、そもそも私の心の師匠は、真部一男である。これでよかったのだ。
(つづく)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三たび大野カウンセリング教室に行く・昔の私

2011-11-21 00:06:05 | プライベート
12日(土)は、川口市にある「大野カウンセリング教室」に行ってきた。同教室は、大野八一雄先生が主宰する食事会。この席で悩める患者を正しい道に導くもので、信奉者も多い。
夕方お邪魔をすると、将棋の勉強に来ていた生徒と出くわした。同教室は、将棋教室も開講しているのである。本日の生徒は、大人8人、子供7人とのこと。これまでの最高は14人だったので、新記録である。
その生徒であるHanaちゃんが私に、
「たしか、大沢さんだよね」
と言う。
「グッ…大沢だよ。ちゃんと覚えてよぅ」
彼女にいつも言っているセリフを逆に言われ、面喰らった。
きょうの私は将棋を指さないので、カウンセリング教室への同席者をひたすら待つ。
ドイツ在住のドイツ人学者、F氏がいる。久しぶりの来日である。彼の棋力は相当なもので、町道場の二、三段では彼に勝てない。前回来日したときは私とも戦ったのだが、吹っ飛ばされた。
Hon氏がいた。
「おおHonちゃーん、語り合おうよ!」
私は表の喫煙所に誘う。彼は将棋を指しに来たのだが、私はそんなことはおかまいなしなのである。
30分ほど談笑して、教室に戻る。Fuj氏が大野先生に、先日行われた将棋対局の解説を求めた。大野先生はこの将棋に勝って、竜王戦という棋戦で、昇級を果たしたのだ。私もその解説を拝聴したが、大野先生、これは相当ひどい将棋だった。しかしそこを逆転勝ちできたりするから、将棋は面白くも難しいのだ。
食事会の参加は8人。大野先生、植山悦行氏、His氏、W氏、F氏、Fuj氏、Sai氏、私である。食事は駅ビルにあるうなぎ専門店で。私たち3人は「レディースセット」なるものを頼んだ。男でも頼めるらしい。
それはいいのだが、ちょっとうなぎが小さかった。
食事が済むと、駅前の喫茶店に入る。その道すがら、大野先生に
「うなぎ屋では静かだったけど、体調でも悪かったの?」
と心配されてしまった。いつもウルサイ私の場合、たまに静かにしていると、体調を悪くされてしまうことがある。さすがにカウンセリング教室の先生らしい配慮だったが、私だって、静かな時はあるのだ。
参加者は、His氏が帰り、7人になった。
飲み物が運ばれてきてしばらく経ったころ、W氏とFuj氏が激論を戦わせはじめた。1990年代に放映された深夜番組「ミントタイム」の司会者が、山本博美だったか山本理沙だったかで、双方の主張が平行線になったのだ。
じゃあオレがスマホで調べるよ、と調べたら、両者とも司会をやっていた。つまりW氏もFuj氏も正解だったわけだ。バカバカしい。と言うより、呆れるオチである。このふたりのアイドルオタクぶりは凄まじい。私はちょっと、ついていけない。
私のブログの話になる。F氏が初耳みたいなことを言うので質したら、
「ジョリューキシふぁんらんきんぐノヤツデスカ?」
と言って豪快に笑った。なんだ、知ってるんじゃないか。でも第5回のランキングで、大幅な変動があったことは知るまい。しかし大野先生が私のブログ名をあらためて教えるので、こちらも参った。こんなブログを読んでも、時間の無駄になるだけだ。
Fuj氏が「将棋ペン倶楽部」2007年秋号を出す。先月の社団戦に参戦したとき、将棋ペンクラブもブースを出していて、バックナンバーを廉価で販売していた。そこに2007年秋号が1冊だけ残っていたのだという。
この号には拙稿「文化祭1982」が載っている。将棋ペン倶楽部には拙稿が17、8回掲載されたが、これが私のいちばん好きな作品である。タイトルに「1982」とあるから甘酸っぱい青春時代の回想だが、先日紹介した「運命の端歩」がグレーだとすると、「文化祭1982」はオレンジ色、という感じがする。私はハッピーエンドになっていないのに、なぜか空気が、色鮮やかなのだ。
最後の1行ですべてが分かる、という構成も好きだ。昔はホントに、いいエッセイを書いていた。
その「文化祭1982」を回し読みする。W氏が、
「変わってねえなあ」
と苦笑する。
「あっ、そうか! そうだね。ハハ」
――文化祭の交流の一環で、近くの女子高の将棋部が、我が高校に遊びに来る。そこの部長が廊下の窓辺でひとり佇んでいるのだが、私は声を掛けられず、その場を離れてしまう。
いまも昔も、女性に声を掛けられない。誘えない。すなわち変わってない、ということだ。
ただ私が、高校の時から女性とフランクに話せていたら、私はとうに結婚し、いまとはまったく違う人生を歩んでいただろう。つまり、この席でその話も出なかったことになる。
植山氏も読んでいる。植山氏、中に登場するのに、読むのは意外にも初めてらしい。そのうち、クックッ…と、苦笑し始めた。
「大沢さん、なんですかこれは」
「何がというと…?」
「私のこと、『さえない風貌』って表現が、2回も出てるじゃないですか。しかも『特筆すべき棋歴はなかったが、私生活では大ホームランをかっ飛ばした』ってなんですかこれ!」
「……」
植山先生が、女性将棋団体が主宰する将棋教室の手合い係を担当し、私が親しくさせていただくのは、この同人誌が発行された半年後。まさかその時は、植山先生とこんな関係になるとは思いもしなかったから、私も書きたいことを書いている。私も苦笑しながら、失礼しました、と謝るしかなかった。
閉店の11時過ぎまで談笑し、散会。この喫茶店での2時間はあっと言う間だった。
横浜方面行きの客は、F氏、Fuj氏、私。Fuj氏が下車し、F氏とふたりになった。F氏の来日は2月以来で、今年はまだ2度目とのこと。
悩み全開の私にくらべ、F氏はいつも朗らかで、見ていて気持ちがいい。私がたまにジョークを飛ばすと豪快に笑ってくれ、それで私も気分が晴れる。
ただし今回の電車の中ではF氏の笑い声が車両中に響き渡り、私がちょっぴり、恥ずかしくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする