かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

古代九州探訪の旅その8 大宰府政庁跡

2012年08月01日 | Other Western Japan
今日は、横浜で花火大会。去年は、中止でさびしい感じだったが、今年は、例年通り開催。
帰宅の電車は、大混雑で、たいへんだった。花火見るのにも、体力がいる。
まだ、福島の状況を考えると、ちょっと複雑な気持ちにもなるんだけど。



話を、九州に戻す。
太宰府天満宮のあるところは、菅原道真が政治を司ったところではない。そこから、数km離れたところに、政庁跡があった。
建物は、何もなく、だだっ広い原っぱだ。家族連れが、遊びに来ている。
この地に、何も作られなかったのは、ここが政庁跡だと、1000年以上、語り継がれてきた証拠だろう。



礎石が残っていて、ここに大きな建物群があったことがわかる。
宮城県の多賀城を訪れた時を思い出したが、大宰府の方が、全然広い。
当然、こちらの重要性の方が高かった。



中央の建物跡から、入口方向を見たところ。大きな門、回廊、両脇の建物などがあったのだろう。道真さんは、どんな気持ちだったのだろうか。やはり、失意だったのか。中央を恨んでいたのか。



古い石碑が、3本並んでいる。



句碑と、環濠。

小野老(おののおゆ)
おをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
にほふがごとく 今さかりなり
(万葉集3-328)



隣に博物館があって、発掘物などが展示されている。
大宰府政庁の建物は、このように並んでいた。
入口の建物の方が立派に見える。ヤマト政権の国防最前線という位置づけだった。
鬼瓦も、凄い迫力だ。



この近辺の立体地図。解説してくれる(たぶん)ボランティアの方がいて、親切に説明してくれた。
福岡平野の真ん中近辺に宮があったが、白村江の戦いで、負けたヤマトが、防衛のため、大野城の奥の大宰府に宮を移し、山の合間に水城(みずき)を築き、守りを固めたのだ。
元祖国防。朝鮮の脅威が凄まじかったことがわかる。



博物館の地下にも、遺構があり、見れるようになっている。
大宰府の歴史に思いを馳せるのなら、絶好の場所。
コメント
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