森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「ライフ・イズ・ビューティフル」、それを思い出し彼女は涙した。

2020-04-27 02:14:46 | 同じ時代の船に乗る

岡江久美子さんは、元気印のような明るい人でしたね。とてもこのような厄災で死を迎えるなど想像が出来ないような方でした。それゆえ、スマホを開けた時に、そこに反映されていたニュースで彼女の訃報を知った時は、本当にショックでした。

「私の人生これからよ。」と言っていた人のこれからを奪ったコロナは、本当に恐ろしいと思いました。志村けんさんだって、これから映画の主演を務め、それから来週からの朝ドラ「エール」にも出ていらして、初老と言えども、まだまだ「これから」だったと思うのです。

確かに無念。

だけど今まで歩いてきた道で、彼らが残したものは多くの人の心の中にあると思います。

記憶の中に一輪の花のように刻まれたそれを大切にしたいと思うのです。

 

「天まで上がれ」と言う昼ドラで、13人もの子供のお母さんを演じた岡江さん。

子育て真っ最中の頃、このドラマは私たちの仲間うちでも人気がありました。でも私たちがじっと見ていたのは、そのストーリーにではなく、その食卓と家事のやり方、そしてお母さんの身なりだったのではないかと思います。だから物語は、せいぜい長女の結婚話くらいしか覚えていないのです。

ドラマでありながら、大家族の食卓には何が並んでいるのだろうかとか、子供たちが手伝ってくれるからと言っても洗濯機は何回回して何時くらいに終わるのだろうかとか。後は家計はどうなっているのだとか。そして私と友だちで一番話題になったのは、この大家族のお母さんが、いつだって身綺麗にしているということだったのです。

その時だって「ドラマだよ !!」と突っ込んではいましたよ。それでもどんなに家事や育児に追われていても、化粧するくらいの余裕を持とうと、このドラマには励まされていたような気がします。

この視点、岡江さんは知っていたかしら・・・・・・・。

 

そして彼女のお仕事の代表的な物と言ったら、やはり17年も続いた「はなまるマーケット」だったと思います。ここ数日始まった時と終わりの時の映像が、何回もテレビで流されましたね。でも私が思い出すのは、ちょっと違った場面です。

いつも自分の近況を言うコーナーがちょっとだけあったと思います。

その時岡江さんが

「昨日思い立って気になっていた映画を見に行ったんです。」

そしてちょっとだけ映画の内容に触れたかもしれません。

「これ、後からジワジワ来て、その後帰りに買い物して帰ったのだけれど、そのお買い物の時にもウルウルときちゃったんですよね。あっ、今思い出しても涙がでそう。」

もちろん言葉は正確ではありません。

ただその映画は、私もちょっと気になっていた映画でした。それを聞いて、行きたいなと言う想いが強まったのでしたが、なかなか行けず、結局はレンタルビデオで借りて観たのです。

その映画のタイトルが「ライフ・イズ・ビューティフル」。

 

この映画の初めの方で、あまりにも思っていたものと違う展開だったので、ちょっと驚きました。要するに日本人と外人さんとのユーモアの許容範囲が違うのではないかと、その違いによるものなのかと思います。なんで今、そこまでこの映画の事を書かなくてもと思うと思います。でもこの記事で、ふとこの映画を初めて見てみようと思われる方もいらっしゃるかと思うので、ちょっとだけ予防線を張りました。

驚かされるのは最初だけです。その後の展開には、印象深いシーンも多く、本当に心に残る名作だと思います。

下の方にネタバレを含むあらすじを貼っておきます。

私は今でも、この映画のあるシーンを思い出し、そのたびに涙がこぼれるのです。

「あっ、今思い出しても、ちょっとまずいかも。」と言って目頭に手を当てた彼女の脳裏には、

私が想うシーンと同じところが浮かんでいたかも知れません・・・・・。

 

そしてまた、この映画のタイトル「ライフ・イズ・ビューティフル」は、まさに彼女に相応しいものだったかもしれませんね。

 

※        ※        ※

 

《あらすじ》ネタバレしています。「映画.COM」さんより

1937年、イタリアはトスカーナ地方の小さな町アレッツォ。本屋を開く志を抱いてやってきたユダヤ系イタリア人のグイド(ロベルト・ベニーニ)は美しい小学校教師ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)と運命的な出会いをする。当座の生活のため叔父ジオ(ジュスティーノ・ドゥラーノ)の紹介でホテルのボーイになり、なぞなぞに取り憑かれたドイツ人医師レッシング(ホルスト・ブッフホルツ)らと交流したりしながら、ドーラの前に常に何度も思いもかけないやり方で登場。ドーラは町の役人と婚約していたが、抜群の機転とおかしさ一杯のグイドにたちまち心を奪われてしまった。ホテルで行われた婚約パーティで、グイドはドーラを大胆にも連れ去り、ふたりは晴れて結ばれた。息子ジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニ)にも恵まれ、幸せな日々だったが、時はムッソリーニによるファシズム政権下。ユダヤ人迫害の嵐は小さなこの町にも吹き荒れ、ある日、ドーラが自分の母親(マリザ・パレデス)を食事に呼ぶため外に出たすきに、グイドとジョズエは叔父ジオと共に強制収容所に連行された。ドーラも迷わず後を追い、自分から収容所行きの列車に乗り込んだ。さて、絶望と死の恐怖たちこめる収容所で、グイドは幼いジョズエをおびえさせまいと必死の嘘をつく。収容所生活はジョズエがお気に入りの戦車を得るためまでのゲームなのだと。とにかく生き抜いて“得点”を稼げば、戦車がもらえるのだとグイドはことあるごとに吹き込み続けた。強制労働の合間を縫って、女性の収容所に押し込められたドーラを励まそうと、放送室にしのびこんで妻に呼びかけたりと、グイドの涙ぐましい努力は続く。そんなある日、グイドは軍医として収容所にやってきたあのなぞなぞ好きの医師レッシングと偶然再会。レッシングから「重要な話がある」と耳打ちされたグイド。ドイツ軍の士官たちのパーティの給仕を命じられた彼は、監視の目を盗んでレッシングに話しかけるが、なんとレッシングは新たななぞなぞの答えをグイドに聞いただけだった。戦況は進み、収容所は撤退準備をはじめる。この機を逃さじとグイドはジョズエをひそかに隠して、ドーラを捜すうちに兵士につかまった。グイドはジョズエの隠れ場所を通るとき、おどけて行進ポーズをとる。それが彼の最後の姿だった。ドイツ兵が去った後、外へ出たジョズエは進駐してきたアメリカ軍の戦車を見て歓声をあげる。戦車に乗せられたジョズエは生きていたドーラを見つけ、母子は抱き合った。これが幼い息子を生きながらえさせようとした父親の命がけの嘘がもたらした奇跡の物語だ。

 

 

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なんだかとっても寂しい

2020-03-31 23:59:32 | 同じ時代の船に乗る

昨日、ひとつ前の記事の「麒麟がくる 第十回「ひとりぼっちの若君」第十一回「将軍の涙」」を書いていて、あと数行で終わる所で、姉から月曜定例の電話がかかってきました。

ひとしきり近況報告や国の対応の不満などなどを語り、1時間半もしゃべっていたので、電話を切って働く事にしました。

「じゃあね、私もこれからやる事があって。」「私も家事の残りをやるわ。」などと別れの挨拶をしながら、頭の中でスマホの充電は終わっているかなと、開いてみました。

そこに有ったニュースの言葉に、私は吃驚して、

「おねえちゃん、志村けんさんが亡くなった !!」と大きな声で言いました。

「えええ ?  うそ、そうなの !」

「もうショック !!!」

ほんのちょっと前の穏やかな別れの挨拶もぶっ飛んでしまいました。

それでも二人で驚きの声をあげた後、電話を切りました。

 

その後、私は書きかけのブログ記事を書きました。

その記事の終わりかまたは初めに、志村けんさんの事を書こうとしました。でもやはりドラマの感想に書きたくはなかったので、ツイッターで呟く事にしました。

なぜなら黙ってはいられないような気持ちになってしまったからです。

 

志村さんが転院したと聞いた時、本当はちょっと危ないのかなと思っていました。だけどいざその不安が的中してしまうと、私は自分がこんなにも動揺するとは思ってもいなかったのでした。

なんたって46年もの間、笑わせてもらったからだと思います。

そしてこれからも笑わせていただけるのかと思っていたからです。

 

だけど私、そのニュースを知った後、なんだかさらに怖くなってしまったのです。

この時の私の気持ちを本当にうまく語ってくれた方がいらっしゃいました。

『志村けんさん死去により今まで完全に他人事だったコロナウイルス感染を身近に感じる日本人が多くいるだろう。志村さんは生涯独身だったが、日本中が親戚みたいなもんだった。皆にとっての「昔からそばにいる最高に面白いおじさん」だった。お茶の間のスーパースターだった。なんだか喪失感がすごいよ』

https://twitter.com/NAMIHEY_ISONO/status/1244429054024900608?s=20

まさに。

夫が帰って来て言いました。

「なんだか本当に知っている人が亡くなったようで、動揺してる。」と。

 

皆同じような気持ちだったのですね。

 
転院したと聞いた時に、危ないのかなと思いながらも、それでもいつかコロナも落ち着いて、そして更に何年かたったら、この時の経験を笑いながら話してくださる日が来ると本当にそう信じていました。
だけど発病から12日間、入院から亡くなるまでの9日間、本当にあっと言う間だったのですね。
 
上のツイッターの波平botさんが言っているように
 
コロナウイルス感染を身近に感じる日本人が多くいるだろう
 
私もそのうちのひとりだったと思います。
 
仕事はしているので、ここまでは平気と踏んでいることがありました。だけど今危ないと叫ばれているのですから、不要不急の集会、つまりお店での奥様ランチなどは、今しばらくは延期にすることにしました。
 
そうは言っても、毎日人には合わなければならないことが一杯です。
だけど出来る限り、気を付けて行こうと思っています。
 
最後の最後まで、志村けんさんに救われているような気がします。
 
 
ありがとうございました。
今は苦しみから逃れて、安らかにお眠りください。
 
 
 
 

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「声をあげて泣いていた・・・。」

2019-11-10 02:25:38 | 同じ時代の船に乗る
 
10月の東京散歩は「おばあさんの原宿☆巣鴨」と
考えてみれば、「おばあさんの」と冠をつけるとは失礼なこった。前から興味あったけれど、なんだか行き辛い場所ではありましたよ。だけど行ってみれば、違和感ナシ。既にそんな年頃に私......
 

上の囲みは昨年の11月5日に投稿したものです。

巣鴨と言う地名を聞くと、私はあの人を思い出します。いつかその街が好きだと言っていたkさんに案内されて、賑やかにその街に行ってみたいと思っていました。思う事があってしばらくは会えないと思っていました。でもいつかまた何事もなく普通に会えると思っていました。「サイゼで集合ね。」と電話を掛けたら、普通にね。

でもそれはまだ先の時間にと思っていたのです。だから昨年の巣鴨には別の人たちと行きました。

だけどいつでも普通にあると思っていた「先の時間」と言うのは無くなってしまいました。

今年の11月5日にお友達と一緒に4人で彼女の御霊前にお花を供えてきました。

 

※          ※

 

先日、別の友人と会った時の会話ですが、

「だからそれがどうしたの ?」と言う話の内容でも、人はそこに意味とか意義とかを見つけ出してしまうものなのではないでしょうか。

ある人が、郵便料金が上がることを癪に思って、上がる前の最後の日に郵便が届くようにと、今まで手紙など出したことなどなく、それどころかずっと連絡もしてなかった弟に手紙を出したら、その手紙が届いた日にその弟さんの亡くなった連絡が来たという話。郵便料金の値上げの件はタダのきっかけで、本当は弟さんの事が気になっていたのではないでしょうか。

そういうのを「虫の知らせ」と言うのかも知れないねと、友人が言いました。

 

それならば、あれもそうかもしれないなと私は思いました。

先日、がん闘病中に脳こうそくを起こし、その後亡くなってしまった友人のKさん。その彼女と最後まで定期的に電話で連絡を取り合っていたSさん。

Kさんが亡くなったその日、もちろんSさんは、それを後にご家族から連絡が来るまで知る由もなかったのでしたが、その日に彼女は私にお茶でもしないかとメールをくれたのです。そのメールに私は夕方まで気が付けず、結局は翌日に会ったのでした。

こう書くと、何だか普通の奥様ランチのお誘いじゃんと思うかもしれませんが、私とSさんはこの数か月、いえ、もしかしたら年単位で会っていなくて、そして「今日、今から会おう」と言う仲でもなかったのです。やっぱり彼女は、その日は分けも分からず気持ちが落ち着かず、誰かと電話をしたり会いたかったのではないでしょうか。

 

※         ※

お花を供えに行ったその日、Kさんのお連れ合いからいろいろと話を聞いてきました。

ー最後まで決して弱音を吐かず愚痴も言わなかった。

 

そうだったんだ。凄いなと私は単純に思い胸を打ちました。すると後からMさんが

「私の知らない彼女の話を聞いているみたいだった。彼女がそんなに強い人だと思わなかった。」と言いました。

「そうなの ? 私はそう言う人だと思っていたよ。」と私は言いました。

 

Mさんに対して、ちょっと言葉が足りなかったかもしれません。今度会ったら、付け加えておこうと思います。

KさんはMさんの事が大好きで、だからいつも本当の弱い自分を見せていたのだと思います。そして愚痴などを聞くのも彼女の役目だったと思うよって。

そしてその顔は私には決して見せない顔だったのですよと。

 

また彼が語った別の話で、病気の告知を受けた時の彼女の一番最初の発言が

「仕事を止めなければなりませんか。」で驚いたというもの。

ああ、胸が痛いと私は感じました。それが彼女の一番の未練だったのだと思いました。

彼の話はいろいろと本当に心に残るものが多かったです。

短い時間で、夫婦で語った話や医師の叱咤や、最後に姉妹にかけた電話など・・・・・。

彼女の最後の日々が目に浮かんできました。

そして癌の治療でもうやることが無くなって治療終了が告げられた時、その時一緒に居たお嫁さんが後から言っていた事を彼は淡々と言いました。

「声をあげて泣いていたって言ってました。」と。

 

それを聞いた時、一瞬花びらがハラリと落ちるようなスピードで、治療終了を今日が明日になるように受け入れた愛子さんの姿や、詳しい話を聞かされず「花ちゃん、これはその死に至る病なんだろうか。」と聞いてきた父の姿が脳裏に浮かんで消え、私は唸るような声を出しそうになりました。

 

彼女の家を去った後、私たちはいつものサイゼで遅いランチを頂きました。

だけどちっとも人の話が耳に入って来ません。

「ゴメンね。私の意識はあの家のあの部屋にまだいるらしいの。それでね、今、私、頭の中で全部の会話をリピート中なんだ。」

あまりにもぼんやりとしてしまうのでそう言い訳すると、何を話したのか忘れてしまうとSさんは言いました。

「大丈夫。私が覚えているからね。」と、私は言いました。

 

※         ※

その翌日、ふとメールを開いて昨年の巣鴨の記事のお知らせを見て、

「ああ、きついなぁ」と思いました。私たちの仲間うちでは「巣鴨」と言う言葉はKさんに結びつくものだったから。

Kさんは愛子さんと同じ日に亡くなって、そして昨年の10月10日に愛子さんへのレクイエム記事である「rest in peace」書いたのだけれど、その同じ今年の10日にその死を知って、そして5日の日には「巣鴨」の記事・・・・。

いや、そこには何も意味などないのかも知れません。

だけど、「だからそれがどうしたの ?」と言う話の内容でも、人はそこに意味とか意義とかを見つけ出してしまうものなのではないでしょうか。

 

分かったよ、Kさん。

 

Mさんの紹介で、私はSさんを知りあなたを知った。

あなたは友達。だけどやっぱり友達の友達と言う距離感があったと思う。

ある時はその距離が近づいた時もあったけれど、やっぱりどうしても友達の友達という距離があったと思うの。

それでも悔いは残るよ。

「桜の花が今年も綺麗に咲いたね。」「今年の夏は殊の外暑いね。」とかメールを送れば良かったな。

まったく弱音もはかず愚痴も言わなかったあなたも素敵だけれど、声をあげて泣いて、脳梗塞の後遺症でまだちゃんと話せなくても、お姉ちゃんに電話をして、そしてその人に看取ってもらったあなたが大好きです。

これは絶対と言えるのだけれど、その最後の日々で、あなたは私の事を1秒だって思い出さなかったと思うよ。

そんなの当たり前だよね。それで良いんだ。

でも、

大丈夫。

私が覚えているからね。

 

 

 

 

 

 


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胸がキリリと鳴く

2019-10-11 01:22:51 | 同じ時代の船に乗る
 
rest in peace
ねえねえ、あの時さ、 「私たち、ここで降りるんじゃない?」って言ったのは、たしかあなたよね。 私たち、結構似た者同士よね。 落ち着いているように見えるけれど、 しっかりしているよ......
 

 

上の囲みは昨年の10月10日に投稿したものなんです。

愛子さんがいなくなってあっという間に一年が経ってしまいました。先日、1周忌と言う事で愛子さんの家に行ったのですが、そのお話はまたの時に聞いて下さいね。

今日の私は、いいえ、それは私だけじゃないはず。今週末の台風の事は、とっても心配ですよね~。いろいろと考えたり行動したりしなくちゃいけませんよね。

本当はそれで頭の中がいっぱいと、私は言いたいです。

 

だけど今日、お友達から電話がかかって来て、闘病中の友人が亡くなった事を知らせてくれたのでした。

この人の事は、「最近の備忘録」と言う記事の中で書かせていただきました。

その記事の中で「脳梗塞」と言う言葉が出てきますが、彼女はある場所の癌だったのです。詳しく書かないのは、今闘病中で頑張っていらっしゃる方が、万が一いらっしゃるといけないからで、彼女への配慮というわけでは無いです。

ただ言える !

煙草は本当に本当にダメですよ~、やっぱり。

逃れられない運命がやって来ますよ。

 

上にリンクさせた記事の中で

>『その闘病中(その時は発病前)の友人とお電話をくれた友人とは、喫煙の事で不愉快な気持ちになり、ずっと疎遠でいたのでした。二人の事は結構好きな人たちでしたが、煙草の煙でせき込む私には、ヘビースモーカーだった友人とも、その立場を庇う人とも会えなくなるのは仕方がない事だと思ったからです。

世の中には人の断捨離と言う言葉もあって、私はあまり好きな言葉ではなかったのでしたが、生きていく道では、そう言う事があっても仕方がない事なのかも知れないと思ったりもしたのでした。(なんたって健康被害が現実的だったもので)』

と、書かせていただきました。

本当は、これ、私にとっては簡単な事ではなかったのですよ。だって寂しいじゃないですか。せっかく仲良くなって、徐々に楽しくなっていったのに、あれやこれやと我慢を重ね、とうとう意志を持って決意せざるを得なかったのですから。

あの時、姉に

「こんなことしていたら、私には友達が誰も居なくなる。最後はたった一人で死んでいくんだ。」と嘆いて言ったことがあるのです。でも姉は

「やっぱり自分の体だよ。その人は仕方がないと思うよ。」と言ってくれました。

 

もう会わないと決めたあの日。

だけどいつかは会えると、心のどこかで想っていたと思うのです。

そしてとうとう会えないままお別れしてしまいました。

病気の事を知った後、2月にメールを一回送っただけ。すぐにお返事が来て、ちょっとだけホッとした私。またメールすると書いたのに、ちょっと間が空いただけで、怖くて送ることが出来なくなってしまいました。

去っていった人にはいつだって悔いは残る事になっているのでしょうか。

 

だけど楽しい想い出もたくさんあったよねー。

例えば2009年の「10月を振り返って」の中に・・・・

> ある日、私は寂しくて・・・
用がある電話も、ない電話もみんな留守電で、世界中の人は皆忙しくて私だけがたった一人ぼっち・・・。それなら良いや。私は一人で生きて行くと決意したらかかってきた電話。
「ごめん。今日ね、和食バイキングに行っていて、たまたま席を立った所だったってわけさ。今帰ってきたから、来ない?」
と言われてほいほい出かけて行ったわけさ。暗くなるまで、語り合っちゃって、友人が帰る時外まで送ってくれました。
「今日は熱く語り合っちゃったよね・・・。あら、でも何を話したか忘れちゃった?!」
私、コケました。でもそういえば何を話したかしら。まあ、いいか。もう寂しくなんかないし。

一緒に食べたケーキ。

(なんだかこんなのを見ていたら涙が出ました・・・・・。)

 

だけど同じ記事内に

>自分の町を知る楽しさ」の中でも書きましたが、陶板浴の帰りにも友人達とランチはしました。煙草をたしなむ友人達は、ララポの中でお食事するより、喫煙席があるところを選んで、駅近くのところでボリュームたっぷりのスパゲティランチを頂きました。・・・・、ああ、私はいつか副流煙でバタリといってしまいそうです。みんな禁煙しましょうよ、と言ってみたりもしますが、そんな気はさらさらないみたいです。その帰り、超綺麗な友人宅にお邪魔して、自分の家に帰ってがっかりしたって話しはしていなかったと思いますが、皆様もそういうことって、ありませんか?

 

その頃からキラキラ光るプラスとモクモクのマイナスが混在していたのですね。

 

たくさんランチしました。忘年会のリッチなランチも食べました。映画も一緒に見ました。他の友達は知らない事だけれど、二人だけで買い物にも行ったよね。

 

そして私はいつも思い出す彼女の言葉があるんです。

私「この前藤原竜也のお芝居に行ったんだ。」

彼女「じゃあ、それで一か月は楽しめるわね。」

私「・・・・・・・!!」

 

お仕事のピークの時代が過ぎて、次の時代をどう生きて行こうかと悩んでいた(今も悩んでいます)私に

彼女「そんなの簡単よ。毎日に楽しい事を見つけて生きて行けば良いのよ。そう言うのは得意なの。」

私(心の中で)「そんなので良いのだったら、私だって負けてないんだけれど。」

 

この二つの言葉は、時には反発、時には共鳴と思考の振り子を揺らしながら、今でも考えさせられる言葉です。

楽しい毎日楽しい人生でしたか ?

きっとあなたは美しい笑顔で、「はい」と答える事でしょう。

楽しい想い出や、大切な言葉をありがとう。

 

友達からの電話

「××さん、10月2日に亡くなって・・・・・・」

私「えっ!?  ちょっと待って! それ愛子さんの命日と一緒よ!」

 

えっ、どうしてって言われても、それに理由なんかあるわけがありませんよね。

だけど私の胸はキリリキリリと鳴いて、人生の秋とはこんなに寂しいものなのかと思い知らされたのでした。

 

 

 


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大好きだった高島忠夫さん、安らかに

2019-06-28 17:20:33 | 同じ時代の船に乗る
《高島忠夫さん 晩年は闘病の日々》

高島忠夫さんは、私の父とさほど年齢は変わらないはずです。
だけど子供の時から、彼の事が好きでした。

まだ小学校にも行ってなかった頃だったか、ひとりでテレビを見ていて、ある男の俳優さんが凄く素敵だと思ったのです。
小学校にも行っていなかったのに、なんと言うおませさんだったことか。

あの俳優さんは誰だったのだろうか、その頃の私には分かるはずもありません。だけどその後、高島忠夫さんを見て、きっとこの人だったに違いない。いいや、きっとこの人よ。この人でいいや。
なんと言うか、好きになった理由がそれかと言うぐらいいい加減なものだったのですが、それからずっと好きだったのです。

ふくよかで優しげな顔が上品に感じていたのかも知れません。

そしてやっぱり私が、まだ全然子供だった時に、彼の家族に恐ろしい事が起きました。可愛がっていたお手伝いの女性に、我が子を殺されてしまったと言う痛ましい事件でした。

子供心にも不思議な動機でした。
赤の他人の女の人が、本当の子供への愛情に嫉妬するなんて考えられない事だなと、(もちろんもっと簡単な言葉で)そのニュースを見ていて、なんて気の毒な高島さんと思っていました。
だから翌年に、また子供が出来たと知って嬉しく思ったのです。その子供は、高嶋政伸さん。

そうやって思うと、私は子供の時からこの家族を見守り続けてきたように思うのですよ。
だけど今は二人の子供たちも活躍しているし、晩年になっての鬱や糖尿、パーキンソン病などとの闘病の事には、あまり目を向けてなかったのでした。

長い闘いでしたね。

老衰で眠るように亡くなったと聞いて、心の底からお疲れさまでしたとお伝えしたいです。
いつも素敵な声で華やかな人だったと思います。

安からかにお眠りください。

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寂しいですね。

2019-03-30 02:11:19 | 同じ時代の船に乗る


遠い日の学生時代だったある日、英会話のクラスで好きな映画を勧めると言う授業がありました。
もしも私が指名されてしまったら、答えようと思っていた映画のタイトルは決めていました。ちょっとした受け狙いもあったのです。
だけどできれば指名されたくはなかったのです。なんたって、英語・英会話は苦手でしたから。しかしこの話の流れでも推測出来てしまうと思うのですが、指名されて、私が答えた映画タイトルは
「Yatuhakamura」だったのです。

クラスの人からは
「あっ、もう見たんだ。」「へえ」「その他ザワザワ」と言う、私の狙い通りの反応がありました。

その時「八つ墓村」は、話題の映画だったからです。

ちょっと気を良くして微笑む私に、アメリカ人の英会話教師は、馬鹿にしたように首をすくめ「面白かったの?」「本当に?」と言ったのでした(英語でね。)
そして信じられないと言う態度。

映画番宣の映像が老婆の
「タタリじゃー!!!」ですからね。

ランク下の映画に思えたのかも知れません。それにその頃はまだ、洋画は邦画に勝ると思い込みも蔓延していましたから。(でもちょっと製作日数とか制作費とかを思うと、一概には否定できない部分は確かにあるにはあるのですが)

でもこの瞬間、ますますこのクラスが嫌いになってしまったのは確かな事だったのです。理由はそれだけでゃなかったけれど、二年目には選択しなかったのは、先生が大好きというレベルではなかったからだと思います。
(で、今も英語が苦手だ(/_;))

面白かったですね、面白かったですよ、あの映画。

演技の引き出しをいくつも持っていたと言われていたショーケン。
それでも見たこともない萩原健一を見せつけられて息苦しかった「影武者」も、好きでした。

この人は破滅型の天才なのかなと思わせるように、何度も逮捕劇を繰り返してしまったけれど、それでも最後まで、役者と歌の道を貫いたのだなと思いました。

好きな作品がたくさんあります。

その理由は、ちょっと自身の内面に踏み込んだ部分があるので書けないのですが、大学の映画会で見た「化石の森」は、私の人生レベルで影響を受けた作品でした。(注:殺人の部分にでは決してありません)

映画と言うのは、思いがけない形で、様々な人に影響を与えるものだと思います。
きっと作品の数だけ、ショーケンも多くの人に何かを与え続けたと思います。

「いだてん」にも出演するのだとか。
悲しいけれど遺作になってしまいましたね。
68歳なんて、若すぎるのが悲しいです。


でも人の死と言うのは何歳だって、早すぎると感じますよね。
ショーケンの翌日に飛び込んできたのは白石冬美さんの訃報。

なんだか「平成の終わりに・・・」などと言うと、更に寂しさが増してしまいます。

みんなに楽しい時間を与えてくださったショーケンもチャコちゃんも、どうぞ安らかにお眠りください。


※ トップ画像は、ソメイヨシノよりも先駆けて咲いて、春を知らせる寒緋桜。既に葉桜になりつつありますね。




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きっと、忘れない。

2019-01-15 22:19:31 | 同じ時代の船に乗る

きっと、忘れない。

そして何気ない日常の中で、当たり前のように思いだして言うと思う。

「やだ~。まるでそれじゃ「家政婦は見た」みたいじゃない。」って。

例えばこんな場面で。

 

あっ、ゴメン。強制フラッシュになってた。これじゃ「家政婦は見た」じゃなくて、本当は宇宙人かって言う感じになっちゃうね。

あんずさん、本当は可愛いのよ。

あっ、違う違う。そんな話をしたいのではないのでした。

「家政婦は見た」はやっぱり傑作だったのですよね。だから「家政婦のミタ」とか「家政夫のミタゾノ」なんかも、元のドラマの知名度がメチャクチャ高いから、生まれてくることが出来た作品だと思うのです。

          ※              ※

私、お風呂に入ると長風呂で、なんだかずっと何かをぼんやりと考えています。お湯もすっかり冷めちゃって、水風呂みたいだなと思いながらも、ボーっと入ってます。

 

昨日、私が考えていた事はー。

 

死は逃れられないすべての生き物に課せられた約束。

だけど不思議だな。

そこにいた人が、死んだらもう居ない。

父と新しい会話をしたくても、もう出来ない。

「この前、紅葉の写真をたくさん撮ったから見て。」と言いたくても、

もう言えないし見てはもらえない。

居なくなってしまった友達とスーパーの駐車場でばったり偶然に会う事は、もう絶対にない。

ぽっかりとぽっかりと、その存在していた空間に穴が開くようだな。

 

         ※              ※

 

まだ20代のある日、レース編みに懲りだした私に友達がレース糸をたくさんくれました。その頃既に彼女のお母さんは鬼籍の人で、そのレース糸はその方の物だったのです。その時に、お母さんが編んだ大作のひざ掛けなどを見せて頂き、凄いと感銘を受けました。

で、私がしみじみと感じいって言った言葉。

「虎は死して皮を留め、人は死して作品を残す。」

 

元は「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」。

 

だけど多くの人はそんなには名を残す事も出来ないし、作品だって何も残せない人もいるでしょう。

だいたい何かを残したとしても、たいがいは時と共にゴミのように扱われるのも、残酷な事実だと思います。

たとえそうであっても、それでも人は想い出だけは誰かの胸に残せるのですよね。

その想い出が地上に留まる長さだけは、それぞれだけど。

 

私が昨日、思い描いていた人たちは、世界の片隅で生きている市井の人たち。

留まれる長さはたかが知れています。

だからせめて私は忘れない。

それだけが私に出来る事なんだなと私は思いました。

 

         ※                ※

 

市原悦子さんが亡くなって、一つの時代がどんどんと終わって行く、そんな気がしました。

70代半ばの知り合いが、昨年から急に増えました。そうなると82歳はまだまだ頑張れるお年頃だったと思えてしまうのです。

だけれど、彼女は名を残し作品を残し、そして彼女の作品が好きだった多くの人の心に想い出を残した幸いな人であったのではと思いました。

 

市原悦子さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

コメント (2)
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rest in peace

2018-10-10 07:17:38 | 同じ時代の船に乗る

ねえねえ、あの時さ、
「私たち、ここで降りるんじゃない?」って言ったのは、たしかあなたよね。

私たち、結構似た者同士よね。
落ち着いているように見えるけれど、
しっかりしているように見えるけれど、みんな私の仲間。
はっきり言って、そそかっしいのよね。
私たち、良いトリオだったと思わない?
だから笑いもいっぱいで、三人で沢山歩いたよね。

そうそう、だからあの時も、私たちは急いで飛び降りちゃったけれど、それは勘違いで、なんだかふぅふぅと遠回りしてたどり着いたんだよね。

「私たち、ここで降りるんじゃない ?」

「えっ !?」と言って、飛び降りちゃったけれど、そこは「佐野市駅」で、私たちは次の「佐野」で降りる事になっていたのよね。

扉が閉まって、電車が行っちゃって、そして見つけた駅のホームにあったデカデカと大きな看板。

「両毛線乗り換えは、佐野市駅ではありません。」みたいな?

次の電車は延々と来ないし。

三人でボーゼンとしたよね。

漫画、もしくはまるでコメディよね。

 

だけどちょっと映画のエピソードみたいじゃない ?

しかもあの時ね、だからその町で綺麗な牡丹の花を見つけたじゃない。
駅では、同じようなことしちゃってオロオロと迷っている外国の人を助けることができたじゃない。

さすが、私たちよね。

きっと、「ねばならない過ち」だったのよ。

 

そしてそれからあの時もとか、またあれもとか、面白い事ばかり思いだしてしまう私。

 

「私たち三人B型だから似た者同士で、だからうまい具合に支え合っていたのよね。」って、星子さんは言ってたね。

 

じゃあ、あなたが居なくなって、どうするのよ。

トライアングルの支え合いが出来なくなっちゃったじゃないの。

 

ううん。

だけど私たち、あなたの事を忘れないから。

ずっと覚えているから、だから今までと同じだね。

 

             

 

愛子さんが10月2日に突然亡くなった。

本当は、いつかはそんな日が来ると心のどこかでは私は思っていたと思う。だけど信じたくはなかったのだ。

いつもの私なら、しっかり受け止め悔いの残らないようにしようと思ったと思う。いや、本当はそう思わなかった自分をほんのちょっぴり悔いている。

だけど大人しくてなんだかのんびりしているような愛子さんには、違ったテンポが存在していた。

もしかしたら私が知っている知識はすべて意味のない事で、新たな奇跡が起きるのではないかと、私はそれを信じていたように思うのだ。

 

だからその連絡のメールが来た時には、「突然」のような気がしてならなかったのだった。

 

2017年の私のブログ記事は、お出掛け日記で一杯。そしてそこに登場していた愛子さんと星子さん。

名前こそはジャカスカとは登場はしていなかったけれど、半分以上のお出掛けはこのトリオで出かけたのだった。

私たち三人の2017年は輝いていたと思う。

私も星子さんも、そして愛子さんの一年も。

 

楽しい時間を、ありがとう。

 

                

10月3日。

マンションの園芸サークルの活動日。

サクサク進んで、さて今何時かなとスマホを取り出したら入っていた

「愛子さんが亡くなった。」と言う文字。

言葉を失いつつも、それでも私は微笑んで、

「じゃあ、皆さーん、終わりにしましょう~ !!」と言う私。

 

昼間は美容院に行き、カットとマニュキュア。待っている間にずっと愛子さんの事を考えていて、時々涙ぐむ。だけど思いだしていたのは、

「もう、まったく、笑っちゃうわ~。」ってなことばかり。

 

夕方から中学生の中間テストのためのお手伝い。

3時間以上の英語のお手伝いで、私の方が拷問よ~。

ゼィゼィ・・・・・・。

はぁ~。

タメイキ・・・・・・

イヤイヤ、これは疲れたから。

また、はぁ~。

いやいや、これは違うタメイキ。

もう朝からどれだけため息をついたことかしら。

 

「no longer は『これ以上~ない』『もはや~ない』。なかなか使えそうな言葉よね。

You are no longer a child.

I’m no longer young.  とかね。」

「ええと、次・・・・rest in peace…これの意味は。」

「安からにお眠りください、ですよね。」と少年。

「うん、そう。」

そして私は、またため息をついた。

少年はちょっと不思議そうな顔をして私を見た。

 

私はちょっと頷いて、もう一度復唱したのだった。

rest in peace って。

 

 

 

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9月16日の別れ

2018-09-18 08:43:36 | 同じ時代の船に乗る

その日は安室奈美恵さんの引退の日。

もうそれだけで芸能関係のニュースは一色に染まると思っていた日だったと思います。

だけど、そこに樹木希林さんの訃報が入りました。亡くなったのは前日の15日。

なんだか不思議な感じがしました。安室さんの引退も16日でしたが、最後のライブは15日だったから。

単なる偶然であっても、何でだかその偶然に何か意味があるのかと、それこそ意味もない事を想ってしまったりもしたのです。

 

樹木希林さんは、何気にシニアにアイドルで映画などの集客力があるのだと近頃しみじみと思っていました。もちろん世代関係なく人気はあったわけですが。

この「敬老の日」を含む三連休に亡くなったのも意味があったのか・・・・

まったく !?

そんなことを呟いているのを希林さんが聞いたら、何を言ってるのかと叱られそうですね^^

 

かなり前の事ですが、パン屋さんのイートインコーナーでちょっとだけ言葉を交わした人が、樹木希林さんの同級生で、毎年同窓会をやっているのだと教えてくれた事があるのです。その同窓会は、彼女を気持ち良くもてなす為のモノだと、そう語っていた人も楽しそうでした。

また会おうと連絡先を貰ったのに、とうとう連絡じまいになってしまいました。ちゃんとまた連絡していたら、希林さんの面白い話もたくさん聞けたかもしれませんね。

 

今年になって、樹木希林さんが出演している映画を二本みました。両方とも義母に誘われての事でした。義母は彼女のファンなのです。思わずメールを送ってしまいました。

「昨日の樹木希林さんの訃報には吃驚もしたし、ショックでしたね。彼女の生きる姿勢からは学ぶことがたくさんあったように思います。そんな彼女の素晴らしい映画を、今年、沢山、見る事が出来たのはお母さんのお蔭だと思います。ありがとうございました。  また、ご一緒させてくださいね。」

 

そう言えば、今年も「敬老の日」と言うものには、私はスルーです。

 

平成最後の夏の日々が、また終わっていきますね。

 

 

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悲しいです。

2018-08-28 02:39:30 | 同じ時代の船に乗る

さくらももこ様、どうぞ安らかにお眠りください。

夜、私は仕事の時間。その時のつかの間の休み時間にふと覗いたスマホのニュースに「号外」と打たれて、あなたが亡くなった事を知ったのでした。

ショックでした。だって若すぎます。

 

「ちびまる子ちゃん」。

そのアニメで楽しい家族の時間をたくさん持てました。

たくさんの人が同じ想いで、そして同じ悲しみを感じたと思います。

 

もうかなり昔ですが、住んでいるマンションのお友達が「もものかんづめ」という本を貸してくれました。

さくらももこさんのエッセイで、とても楽しい内容です。

読み終わって返すと言うと、「あげる」と言われたので、今も私の本箱にそれはあるのです。

 

可愛くて元気なまるちゃん。そんなちびまる子ちゃんには病気なんか寄せ付けないパワーみたいなものを感じていました。

だから余計にショックです。

乳がんでと言うのにも。

 

私にとっては、可愛い「ちびまる子ちゃん」と「もものかんづめ」の作者だったさくらももこさんですが、たくさんお仕事をされていたのですね。

53年と言う人生は、本当に短すぎます。

だけどその人生に残した仕事は、いつまでも輝き続けるのではないでしょうか。

 

※       ※       ※

昨日、私はお友達と二人でランチでした。

その時彼女は少し声を潜めて、別のお友達が癌だと私に告げたのです。

 

信じられないくらい今年の夏は暑いです。

それは昨日も同じ事。

だけどその時私は、人生の秋が忍び寄って来ている事を、感じざるを得ませんでした。

 

 

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