森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

自由が丘に行きました。その5

2020-01-08 00:13:48 | 家族スナップ

はっきり言って「その5」があるとは思いませんでした。「自由が丘」と言うところには、妹が病気になる前にも3度くらいは遊びに行ったように思います。雑貨のお店も多くて、結構楽しい街です。

この記事は、「お出掛け日記」ではありません。だけど次にこの街を訪れる時は、そんな感じになるのかと思っていたのです。

現に「自由が丘に行きました。その4」では、ほぼ「お出掛け日記」のような感じで楽しかった姉妹集会の事を書いたのです。

後は妹の体力回復と髪が伸びるのを待つばかりと思っていました。

 

だから、12月のline集会の時に、お正月の役割分担などを決めた時に、彼女が提案した手毬寿司の、作る係りの人たちを束ねると言う重大な役割が振られたのでした。

「頭が痛くって、3時に病院に予約を入れたから。」とその時、妹は言っていたのですが、お正月の事でも張り切っていたので、風邪でも引いたのかと思っていました。

それは12月13日の午後2時の話です。皆予定が詰まっているとの事で、最近盛り上がる事の多いline集会を30分で終えて解散したのでした。

私はその後はバイトの日だったので、バタバタと夕食を作って出掛け、帰った早々、吉田拓郎氏のラジオなどを聴いていたのです。その翌日は朝からまた別のお仕事なので早く寝なくちゃと言いながら、いつも通りの深夜になっていました。その時、充電させるために、バッグの中からスマホを取り出すと、そこにはトンデモない姉妹たちの会話が並んでいたのです。

それは彼女が病院に行く時、あまりの頭痛に吐いたとか、病院で診察を受けたら大きい病院に行くための紹介状を貰ったとかいうもの。

もちろん深夜だったので返事も出来ず、朝一番に、そのラインにコメント参加したものの、とにかく月曜日に大きな病院に行くまでは何もわからず、重い気持ちが波のように押し寄せてはきましたが、分かるまではジタバタせずに過ごす事にしました。

それで土曜日はバイトに行ったり、銀行回りなどをし、日曜日は習い事のイベントがあったので、それに参加。月曜日は、友人たちとランチの約束がしてあったので行きました。

土曜日も日曜日も、いつになく活発にlineでの会話がありました。私のイベントの報告などを聞いて貰ったり、一番下の妹の近況なども含めてでしたが、その時なんとなく彼女の打ち間違いが多いのが気になっていました。

それが時々、「どういう意味なんだろう。」と言うものが、紛れるようになってきたのです。

「あれっ、スマホが、なんか変。」と彼女は言いました。

今思うと、打ったものを読み直した時に、そのわけの分からない文を見て、妹はどんな気持ちになっていたのかと思うと、なんとなく切ないです。

月曜日は友人とのランチ。そのテーブルの上に出していたスマホが啼きました。

「このまま入院になりました。脳腫瘍でした。」

とそこにはこう書いてありました。

 

ちょっと予測はしていました。

だけどその文字は、やはり大きなショックでした。

珈琲のお替りをしに席を立ちましたが、そこは普通のドリンクバーとは違って、誰もいないひっそりとしたところにあったのです。思わず私は耐えきれず、しくしくと泣きました。

「酷すぎる・・・・・。」

肺の検査の結果を聞きに、姉と一緒に自由が丘に妹を訪ねて行ったのは、2019年の1月だったのですよ。「自由が丘に行きました。

もうすぐゴールかと思ったのに振り出しに戻された双六のようだと思いました。

「明日行く !!」と返信すると、そこに姉も一番下の妹も「私も!!」と並びました。

姉は本当は娘の子供たちを預かっているので、ひとりで夕方から向かうしかないと思っていた所、義兄が代わりに面倒を見るから一緒に行っておいでと言ってくれたのでした。

私も翌日のバイトのお休みを取るのに、ちょっとバタバタしました。もちろん気持ち良くお休みを頂く事は出来たのですが。

そして三人で軽いランチを頂いてから、病院に向かいました。

車いすに乗った妹は、すこぶる元気で明るく振る舞っていました。

あまりにも明るいので、私は逆に胸が痛くなりました。

いつか笑い話にする時の為にと、四人で写真を撮りました。

 

妹は月曜日に入院し、17日の火曜日に私たちのお見舞い、そして水曜日には諸々の検査をして、木曜日にはすぐに手術が決まりました。

驚いたことに翌日金曜日の夕方には、集中治療室を出て一般病棟に移ったのでした。

そしてその日にラインで報告が来ました。

思わず姉が「本人?」と聞いたくらいです。

 

きっとみんなの「元気玉」が効いたのかも知れません。

それは何かと言えば、私たちとそれぞれの子供たちで、主に旅行時に使うグループラインをしているのですが、水曜日と木曜日の朝、そこにみんなで応援エールを入れました。姉が「元気玉を送るよ。」と言う言葉を使い、私は思わず、その分かりやすさに頷きました。

私たちは、見せた側と見た側とで、皆「ドラゴンボール」世代なのです。みんなのエネルギーを少しずつ分けて、ヒーローの闘いを助けるのが「元気玉」です。

その時のみんなの言葉は、きっと元気玉になって妹の生命力の一部になったと、私は信じます。

 

お正月、流石に妹は来ることは出来ず、その家族も妹に付き添ってやって来ませんでした。

ならばこちらから行くと、1月3日の日にまたも自由が丘に行きました。

それは次の記事に続きます。

 

 

お土産に持って行ったプリン。

 

 

 

 

 

 

 


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「おばか選手権」で優勝した者は ?!

2020-01-05 03:00:45 | 家族スナップ

今の時代、悲しい事にと言うか情けない事に、馬と鹿がつるんで走り回っていると言う事もたくさんあるかと思いますが、これは我が家の小さな世界のお話です。

※    ※

夜、運転係だったルート君が、なんだか今日は直線を曲線にして走ったような一日だったとぼやきました。まあ、彼はこのような言い方はしませんが、そのような内容のボヤキでした。

「まあねえ。だけど考えてみると、そのような事は私の中では日常で・・・・・。」

 

※    ※

 

1月1日は、例年通り家を午前7時に出て横浜の実家に向かいました。

その前に、やはり横浜にて一人暮らしをしているラッタさんを迎えに行きました。

前日、彼に時間等の確認のメールを送った時に、いつになくご機嫌な軽い感じで「了解」という返事が来ました。その時、砂糖とか生協のお気に入りのポテチは要るかと聞くと、砂糖は一年分くらいあると言うので、箱買いしたポテチだけ持って行ってあげる事にしました。

昨晩ホイホイと返事が来たので油断したわけですが、着くと言う5分前に電話を入れると、なんとその電話で飛び起きた模様。

掛けておいた目覚ましでは起きられなかったのです。

彼は必ず朝シャワーの人。

私たちはその間に彼の部屋にワイワイと押しかけて、トイレなどに行き、そして急いで身支度をした彼と一緒に、新年の朝とは程遠いメニューの朝食を頂きに、デニーズに行ったのです。

 

そこでの男たちの会話は(特に夫殿の)、会社の馬と鹿はどうのとか、政治の馬と鹿はどうのとか、とにかくヤな感じ。

で、言いました。

「正月早々、おばかな人たちの話ばっかり聞きたくないわ。もっと楽しい話にしない?」

その時、ふと頭の中で今日の実家にての楽しくなるに違いないイベントの事が思い浮かんだのです。

我が家では一族でビンゴをするのですが、ほぼ同額の景品は持ちよりなので、ゲームをしながらのプレゼント交換のようなものなのです。参加資格はその「景品持ち寄り」なんです。

「あっ!!!」

ビンゴの事を思い浮べたので、思い出しました。

「ラッタさん、ビンゴの景品を持ってきた?」

「あー、忘れた。取りに戻らなくちゃ。」

ウンザリ顔のルート君。さっきの馬と鹿の話題が我が家レベルに降りてきてしまった夫。

 

まあ、それはともかく。

 

とりあえず、当初の予定敢行です。朝食を頂いたら、これまた例年通りの父のお墓参りに行きました。

ところがお墓に着いてみると、今度はバッグを先程のデニーズに忘れてきてしまった事が分かったラッタさん !!

皆お口あーんぐりですよ。

「取りに戻るのは良いけれど、だったら今度は運転してよ。」などとルート君がラッタ君に言うので、思わず

「絶対にヤッダ― !! 私。今日のこの人に命なんか預けられないわよ。」と押しとどめてしまいました。

朝の5時まで起きていたというラッタさんは、まだちゃんと目が覚めていなかった模様です。(単なるアホか。)

 

更にところが !!

お墓でラッタさんが車を降りると、彼の座席の横辺りに置いたと思い込んでいた、お年玉を入れておいた袋がありません。彼がバッグを忘れたと言ったので、私も座席に目が行き、その事に気が付いたのです。

家を出る時にはビンゴと3人分のビンゴの景品とすき焼き用のお鍋(大人数なのでいつもひとつは持参します。)など大荷物です。そこに箱買いしたポテチ、用意したお年玉。

ラッタさんの家でポテチは降ろすので、その箱を別の袋に入れて座席に置いておいたのです。その時にお金をお鍋と置いておくのもどうかと車の後ろに置いてある大荷物から抜いておいたのでした。

そのお年玉が無いのです。

いや、無いわけがないので、自分のバッグの中、もう一度大荷物の中と確認しましたがなかったのです。

お墓参りが終わり、またもデニーズによって彼の忘れ物を取りに行き、またも彼の家に忘れ物を取りに行きました。

ラッタさんの家で、トイレに行った時に廊下にでも落としたのかしら・・・・・。

夫殿が、

「この親にしてこの子有りだな。」などと言うので

「ええ、そうよ。この子は私の子供に間違いはないわ。だけどあなたの子かどうかは分からない事よね。」と癪に障ったので、正月早々ブラックな事を言う私。

部屋に帰ったラッタさんが、車で待つ私に電話をくれました。

「あったよ~。」と。

「えっ、どこに ? 廊下とか?」

「あるとしたら、ここしかないなと思った所にあった。」

「えええ ? どこ、それって。」と聞くと、

「ポテトチップスが入っていた袋の中さ。」

あああ、そうか~。私のやりそうなことだわ。

 

だけど、と、言う事は ?

ラッタさんがビンゴの景品を忘れなくても、いや忘れたからここにあると気が付いたわけで、(バッグも忘れたから、お年玉の入っている袋が無い事に気が付いたわけだし・・・)

「うん、なるほど~。ここに戻るのは運命だったのね。」

「だろ。」とラッタさん。

「こらっ」とルート君。

と言うわけで一件落着したのですが、夫殿のしつこいバカバカ攻撃が始まりそうな予感がしました。

事実

「まったく君たちは・・・・」となってきたので、

いや、事実、本当に脳内に馬と鹿を飼っている私なのですが、煩いのは鬱陶しいので

「昔からね、『馬鹿って言うやつがバカ』って言うでしょう。」

「何、その小学生みたいなセリフは。」

「だからね、馬鹿って言った回数を考えたら、あなたが一番よ。『おばか選手権』優勝~ !!! で、以上終了~!!!」

と言うわけで、夫殿が優勝したのでした。

 

※     ※

姉の手伝いをしながら、ふとルート君に

「今朝はここに至るまでにいろいろあって、疲れたね。」と話しかけていると、姉がさわやかな笑顔で

「どうしたの ?」と聞いてきました。

口を半分開けて、話そうとしましたが、思わず

「話し出すと、これ長いから。」

 

(結局のところ、やっぱ、私か。)←心の声

2020年の元旦からこれでは、私は今年ちゃんと生きていけるのだろうかと不安にもなりますが、まあ、一応頑張ろう・・・・。

 

 

 

 

 

 


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自由が丘に行きました。その4

2019-09-20 01:12:56 | 家族スナップ

・「自由が丘に行きました。その3」の続きです。

肺がんの手術が終わって、その時に検査の時には分からなかった小さな癌もあった事から、抗がん剤の治療を受けた妹でしたが、その辛い治療もすべて終わり、後は定期的に検査に行くだけになりました。

まだ体力もないので、みんなでまた自由が丘に会いに行く事にしました。

前回、抗がん剤治療が始まる前に、しばらく会えなくなるかもしれないからと自由が丘に行った時は、何か用が出来て姉は欠席だったのです。それで今回は、前に行った時にお茶などを頂いたピーターラビットのカフェにランチに行きました。

すべてすべてが可愛いカフェです。

 

ここを予約してくれたのは地元民の妹だったのですが、「テラス席にした。」と妹が言ったら、姉はちょっと不安そうな顔をしました。雨になったらどうしようかと思ったのです。もちろん大丈夫な作りです。でも本当のテラス席だったら、困りますよね。

「大雨になったら、傘を差しながら食事をするのよ。『肩が濡れるから、もっと傘の中に寄りなさいよ。』なんて言いながら、珈琲を飲むの。だけど傘を伝わって雨水が珈琲の中に落ちちゃって『なんだかこの珈琲、飲んでも飲んでも減らない無限珈琲だわ。』なんて言っちゃったりして。」なんて、たわけたことを言いながら笑いあったのでした。

(たわけたことを言うのはお任せください。味が変わるだろとか、ホットコーヒーがすぐにアイスになっちゃうだろと言うツッコミは無しと言う事で。(^_^;))

 

ところがこの日は大雨。お店に着くまではセーフで、着いた途端にザーザー降りです。

だけどお店の中は、こんな感じ。 ↓

 

しかも奇跡のガラ空き。

 

無限珈琲にならなくて良かったです(笑)

妹たちが頼んだものは、もっとインスタ映えするものだったのですが、とりあえず自分の注文したものだけをアップしておきますね。

 

 

 

 

 

妹は乳癌の定期検診で肺がんが分かり、初期で見つかったのに、開けてみたら大きくなっていたのです。手術日も早く設定してくれましたが、更にキャンセルが出て、また3週間ほど早く手術も出来たのです。

「そうじゃなかったら、私、結構危なかったと思う。」と妹は言いました。

「私の守護霊、強くて。私、乳癌も肺がんも交わして生き抜いて来たわ。」と妹は自慢げに言いました。

 

『生き抜いた。』と言う言葉に深く頷いていたので、うっかり言い忘れたけれど、

あなたを守っているのは、守護霊なんて霊ではなくて母の強い祈りだと私は思うなって、私は言いたかったな。

 

姉が孫の世話と言うお仕事をしているので、早めに解散です。

短い時間でしたが、とっても楽しい姉妹集会でした。

 

 

 

 


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トドのつまりはマグロ

2019-05-11 00:25:21 | 家族スナップ

この季節は、「ひたち海浜公園」とか「あしかがフラワーパーク」なんかが気になる所。

毎年、訪れてはみたいけれど、そうもいかないでしょう。 だから「足利」の代わりに、近所の藤の花なんかを見て満足します。 まあね、いろいろ思う事はあるかもしれないけれど、藤の花は藤。 これだって、なかなか可愛いじゃないの。

 

 

ところで、下の囲みは昨年の5月8日に投稿したもので、家族スナップです。

 
荒野で野たれ死ぬ

のんびりと毎日を幸せに暮らしていたら、いつの間にか周りの知人たちは、皆「おばあちゃん」と言う名前になっていました。人間と言うものは贅沢なもので常に「人並み」と言うものを追い求め......
 

 

ラッタさんが帰った後、私はふと思いました。

人並みなんかじゃなくて良いなって。彼らが死ぬまで幸せならそれで良いんだって。

ない物ねだりってしない方です。そりゃ、孫と言うものを見たら、可愛いと思うと思います。でも見ていないので、まったく欲しいと思った事が無いのも本音なのです。別によそ様のお孫ちゃんを見ても、日本の宝だから大事だと思うけれど、悪いけれど、特別に可愛い子っていないし・・・・・・・オイオイ(^_^;)

良い子はいっぱいいるけれどね^^

まあ、この話を続けると結構踏み込んだ心境暴露になるので、もう止めますが、いや、今は止めますがと言うのが正しい所かもしれません。私、最近この件で世間様に言いたいテーマが少々ありますよ。

 

とにかく世間様の件は置いておくとすると、とりあえず彼らは彼らの幸せを求めて、そして私は自分の人生を生きると言うのが、一言で言う所の今の結論でしょうか。

 

ところで最近、なんか調子が悪くて、連休の最後からちょっと働いてはダラダラとし、またちょっと動いてはクタクタしていました。

どっかまた悪くなっているのかしらと不安になりました。

 

でも私、ふとある事に気が付いたのです。

お仕事ピークは2月で終わり、サークルなどの一応の事務的なあれやこれやも終わり、ラッタさんもしばらく来ないので、お片付けも急を要することもなく・・・・・・・

あれっ ?

もしかしたら、私、今、暇 ?

えっ ?

暇 ?

 

そうか。暇だから調子が悪かったのか。そんな訳もないけれど、なんかそんな気がしたのでした。

 

そして金曜日の今日は姉妹でline集会をするのが常なんです。

その事を私が言うと、妹が

「花ちゃんはマグロのようだから。」と言いました。

一瞬、私は

「花ちゃんはトドだから。」と言われたような気がしました。言われても仕方がないような体型なので、それがマグロと言われても意味的にはトドと同じ意味なのかと思ってしまいました。マグロ体形で体が重くてドテッ !! ってか?

でもそれは一瞬で、本当の意味がすぐに分かったのです。

ところが姉ともう一人の妹は、なんか私が一瞬思ってしまった意味で受け止めているような気がしたので、私は言いました。

「泳ぎ続けないと死んじゃうマグロのようだって言ったのよ。」って。

 

お掃除やお片づけだって、映画や旅行に行くのだって、仕事すら、みんな死んでいくまでの暇つぶしって本当よね。

だけどね、本当に「暇~!!」って言うのは苦手なのかもしれません。暇に付け込んで体の不調がやって来てしまうのですものね。

付け込まれないように、とりあえず掃除の続きから始めています ♪

 

ついでながら 2017年に訪れた「あしかがフラワーパーク」の記事は→うす紅色の藤の花(あしかがフラワーパーク写真日記2)

 


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黙々とやり遂げた人

2019-04-17 22:55:43 | 家族スナップ

母は、ちょうど昭和が平成になった頃、自治会館の管理を地域のボランティアとして始めました。

確かに年度の終わりには、もうすぐお別れになる諭吉殿を三枚ほどは頂いていたかも知れませんが、母は365日、ほぼ休みなくその場所を管理していたので、地域ボランティア、例えば自治会役員の謝礼のようなものだと思います。

そのお仕事を30年やり遂げました。

管理というのは、その場所の貸し借りの申し込みを受け、鍵の管理をすると言うのは通常の事でしたが、毎朝、鍵と窓を開けて風を通し、かび易いその場所を守りました。

そこは中途半端に広い公園の一角に建っていたので、油断すると不行き届き者たちのたまり場にもなりかねない場所でしたので、しっかりと戸締りをし、それでも朝、真夜中に明かりに群がる虫のようにその玄関の所で集まっていた人たちのまき散らしたゴミなども片づけていました。

日帰りでどこかに出掛けても、自治会館の戸締りの時間を気にする母を、時には私はあまり良く思えない時も、実はあったのです。

遣りすぎてしまえば、次の人が困るに違いないからです。

だけど次の人など現れることもなく、母はまるでその場所の主のように貢献していました。

 

そして30年も経てば、50代で中年だった母も80代となり、立派な老人です。

こんな風にトンカラトンカラと朝に窓を開け夕に窓を閉める生活を規則正しくやって来てしまうと、それを止めた時に母はどうなってしまうのだろうかと、私たちの中に新たなる懸念が生まれてきたのでした。

だけど3月31日をもって、そのお仕事から解放された母はどうも清々しているようです。

それでもその前を通り過ぎる時には、真夜中の良からぬ頭だけガキンチョで図体だけ大きい人たちのトッ散らかしたゴミなどは気に掛けているようです。ごみが散乱して片付いていなければ、その場所は荒れる事が必定だからです。

普通の当たり前の風景の中に、当たり前では済まない人々の努力がある事を私は忘れてはいけないと、私はこの母(または父)から学んだように思うのです。

 

そして母は、自治会の総会で30年間のお仕事に対して感謝状を頂きました。

同じくその総会の場所にいた姉が言うには、その時の母の挨拶も立派だったそうです。

写真などが夕方、ラインで姉から送られてきました。

 

それに対しての妹からのコメントに、私は心を打ちました。

「本当に30年間お疲れ様でした🥳お母さんの挨拶は、恒例お正月の挨拶でも分かるように、何時も素敵で、素晴らしい挨拶だから今日も、さぞかし感動するスピーチだったと思います。本当に長い間お疲れ様でした。後は、ゆっくり遊んで暮らそう✌️

明日から会館間違って行かないように、管理していてね。😉習慣は意外と怖い…"」

 

はっきり言って、私は身内馬鹿です。

いえ、これは我が一族の特徴です。

身内同士で褒め合っていると言う幸せな一族なのですが、それでもやはり私は母や姉妹を誇りに思っているのです。

 

 ※        ※

画像は今日、一緒にお出掛けしたお友達の親戚の家に咲き乱れていたチューリップ。

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丘と谷と中華しかない

2019-04-11 21:17:23 | 家族スナップ

《トップ画像は実家にあったチューリップです。》

昨日はルート君が免許書き換えとかで久しぶりの平日休みでした。

それで二人で本当にこれもお久しぶりにランチに行きました。

比較的近い所にあるピザとパスタのお店です。

 こんな前菜が付くので結構お腹がいっぱいになります。

そしていつもここでは肝心のピザの写真を撮り忘れてしまいます。

二枚のピザをシェアして、

 食後にドルチェと珈琲を頂いたらお腹も一杯になりました。

 

震えるほど寒い雨の日だったので、この後少々買い物つきあってもらい帰宅しました。

 

このように食べたものなどを記録していると、こりゃ絶対に痩せるわけがないなとは思うのですが、続く時には続くのです。

 

 

先日横浜に帰ったのは7日で、だいたい横浜に帰った日の夜は、ラッタさんと会う事にしています。

7日の日の昼は中華街に行って、中華を食べたわけですが、その日の夜はなんと横浜東口アソビルの崎陽軒の「シウマイBAR(バル)」に行ったのです。

昼間のお食事の画像は→母の過去を辿るミニ旅

そして夜は

昼間も焼シュウマイを食べたと言うのに・・・・・。

 

「以前にもこんな事があったな。」と私は言いました。

以前と言うのは昨年の11月の事で、父の誕生日近くにいつも墓参りに行っている我が一族。

生前父が、墓参りに来るときはついでにみんなで遊んで帰ると良いよと言っていましたが、その言いつけだけは守っている私たちでした。

 お馴染みの街中温泉に行って、

お昼はこんなものを頂いたのですが、お昼も参戦していたラッタさんは途中で前日の寝不足がたたり、お昼目タイムになりデザートも食べず、夕方にはすっかり腹減らしになっていました。

因みにこの日のお風呂では、ボジョレ―ヌーヴォー解禁にちなんでワイン風呂があり、皆でそのお風呂を楽しみました。ワインの継ぎ足しが、凄く面白かったのですよ。みんなの手の中にワインを注ぐのです。ほとんどがお風呂の中に零れてしまうのですが、手の中に残ったワインを頂きそして顔などにもピシャピシャして楽しむのです。

一緒に行った叔母とか姉などは「いいよいいよ」と尻込みしてしまったのですが、意外な事に母などは積極的に楽しんでいたのが、なぜか嬉しかったです。

「やるじゃん、お母さん。」ってな感じでしょうか。

 

そしていったん解散した後、再び横浜駅で待ち合わせをした私とラッタさんは

 こんなメニューをシェアして頂きました。主に腹減らしのラッタさんメインだったと思いますが、なかなか庶民的な感じの味のお店だったと思います。

店名を載せないと、あまり情報にはなりませんね。

ええと、たぶん「龍王」だと思います。(なんかここにまた行きたくなりました。安いしね。)

 

ところが翌日、母がお昼に連れて行ってくれたのはやはり中華のお店。

私は母が、いつも

「私はたくさん食べられないから、ちょっとでいいの。」と言う言葉が気に入りません。

母はそれでいつもこのお店で「お子様ランチ」を食べるようになっていたのです。それはどんな味なのかなと、前に私も食べてみました。子供用なので塩分控えめなのは良いのですが、半ラーメンにポテト。それでは大人のお食事には栄養的に不足ですよね。

それで姉と母と私でシェアしたのがこれです。

 

実はこれに餃子もついていたのです。

なんか取り分け易いと言う理由で、このメニューになってしまったのですが、

私は心の中で・・・・・

「何か、何かが間違えているような気がする。」と呟いていました。

別に横浜中のお店のチャーハンや焼きそばを極めたいわけでもあるまいしね (^_^;)

 

母は「私はちょっとで良い」と言いながら、少しずつ分けると、ちゃんと全部食べられるから多くはダメと思い込んでいるのかも知れないなと思っています。

 

老いた人には、栄養は取っていただかなくてはなりませんよね。(私はまだ控えめにしなくては・・・・ふぅ)

 

それはともかく、話を元に戻して7日の夜のラッタさんとの会話の続き・・・。

「なぜいつもいつもこういうような事が起きるんだ。」と私が言うと、

「仕方がないよ。横浜には丘と谷と中華しかないんだから。」とラッタさんが笑いながら言ったのでした。

「海もあるじゃない。」と私が言うと、

「海が見えるのは一部だけで、殆どどこに行っても見えないし、美しい風景を普通に暮らしている横浜で見たことが無いな。」とまた言いました。もちろんそんなにマジメに言っているのではなく、私の中華続きの食事をちゃかして言っているにすぎないので、嘆いているわけではありません。

だけど「中学の時、ずっと海を見ていたよ。」と言って、私は考えてしまいました。

以前、家の近くの坂をずっと歩いて上がって行った時、どんどん道幅が狭くなり、行ってみたかった尾道体験はここでも出来るなと思った私でしたが、確かにそこを登り切っても、海など見えないのが横浜と言う所です。

見えるのは、向こうのお山の上にある団地群です。

 

ああ、なるほど~とその時私は思ったのですが、

でもね、ラッタさん。

普通の暮らしの中の美しい風景は、やっぱりどこに行ってもあるよ。

 

11月の横浜の帷子川の風景です。

 

ところで翌日の8日のお昼の話ですが、母が連れて行ってくれるのはいつもの中華屋さん。

御馳走してくれるのに、何も文句などありません。ところが母が言いました。

「もうすぐ年金が入るから、気持ちが大きくなってるのよ。もっと良いところでご馳走してあげる。」

本音を言うと、「助かったな。」と思いました。中華三連は、やっぱりなって誰だって思うでしょ。

で、

 

 秋葉原駅のはなもも。

 家の近くの駅の風景。

だけど季節は次の新緑の季節に向かっていますね。

 

だから寒さよ、飛んで行け~~!!

 

 

 

 

 


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母の過去を辿るミニ旅

2019-04-10 09:36:46 | 家族スナップ

4月7日(日)に、母の母校を母と姉とで訪ねてきました!!

本当にはるか遠い昔に、母が通っていた女学校は横浜の山手にあったのです。そう書くと、さる有名な小説のモデルになり全国的に有名なあの女子高を思い浮かべられる方もいらっしゃると思うのですが、そこではありません。

と言ってもな、今の「若い人」はあまり知らないだろうなと思うけれど。

またトップ画像も、母の学校とは違います。

「元町公園」内にある「ベーリック・ホール」のジオラマです。

 

2014年の記事「甲斐の旅《その3》」の冒頭、

>『「変わってしまった。」「変わってしまった」と甲府の街を訪れて、事あるごとに母が言いました。

だんだん私はイライラしてきて、

「むしろ変わらないほうが可笑しいってもんでしょ。なんにも変わらないで昔のままだったら、気持ちが悪いわよ。」と言い放つ・・・

娘というものは、親の、特に母親の老いには鈍感でいたいものなのです。

だけど老いた母にとっても娘はいつまでも子供で、そのように冷たい言葉をうっかり吐いてしまっても子供の戯言にしか感じずに動じないのでした。

 自分の思い出を形成する街は、既に記憶の中にしかないのです。』と書きました。

 

この「甲斐の旅」と言うのは、生前父が最後に叶えられなかった、「もう一度母の(つまり私の祖母)墓参りに行く」と言うものを、皆で代わりに叶えに行くと言うのが目的の旅でした。それともう一つ、皆で父の過去に会いに行くと言うものも含まれていました。父の育った甲府の街を歩き、そして父の母校を訪ねてみる―、そんな旅。

 

その時、私は思ったのかも知れません。なぜ父が生きている間に、同じような事をしなかったのだろうかと。

 

今、私の母は寝込んでもいないし認知症になってしまったわけではないのです。だけど昨年から、坂道を転がり落ちるような急激な老いを感じさせるようになりました。加えて、今年の3月をもって30年以上も続けてきた自治会館の管理の仕事も止めたのです。あまりにも習慣化していたお仕事でしたので、そのぽっかりと空いた部分を埋めるためにも、今度は母の母校を訪れてみる事にしたのです。

 

だけど母の言う言葉は同じ。

「変わってしまった。」!

そして「がっかりした。」だったのです。

 

変わってしまった今を見せつける事は、むしろ残酷な事だったのでしょうか。

 

だけど良かれと思ってしたことを「がっかりした。」と言われては、私にとってもがっかりな事でした。

2014年から5年は経っていて、流石に私も「言い放つ」なんてこともなく、一晩経って、私は母に諭すようにゆっくりと言いました。

「確かにお母さんの出た学校は、そのままの形ではそこにはなかったかもしれないけれど、更地になってしまっていたわけでもないし、マンションが建っていたわけでもないでしょう。ものすごくバージョンアップして他に転移したのよ。そしてそこはまた、ちゃんと違う名前でも学び舎になっているのよ。凄い事じゃないの。
 過去の場所を訪ねても、同じように木造の建物なんか建っているわけもない事で、大事な事は、かつてその空間に私はいたと感じる事なのよ。感じたでしょう、昨日。良かったじゃないの。凄い事よね。楽しかったよね。」

なんだか最後は洗脳 ?

だけど母は言いました。

「確かにそうよね。立派になって残っているのよね。考えてみると凄い事だわ。」

そしてまた「花ちゃんは楽しかった ?」と言うので、

「えっ? もちろん楽しかったよ。」と答えると、

「じゃあ、良かった。」と母は言ったのでした。

 

・・・・・・なんだかなあ。

「母の過去を旅する」企画は、実は第二弾があって、母の疎開した地を訪れると言うものがあるのですが、頓挫しそうです。

母に楽しい、嬉しいと言っていただかなくては意味が無いからです。

 

だけど7日のミニ旅は、けっこう面白かったと思うのだけどなあ。

 

11時に横浜駅で待ち合わせをした私たちは、最初に中華街で腹ごしらえをしました。

ここからはお気楽な写真日記です。

 

 

 

交番のデザインも楽しい中華街。

 

 

 今回の目的地。母の母校だったところです。

 

そのお向かいの教会。今は母は仏教徒だけれど、若い時には憧れてちょっと通ったみたいです。

 

 そして、横浜で一番有名な(たぶん)フェリス女学院。

 

山手の風景です。

 

この後の計画では、「山手十番館」でお茶を頂いて、港に戻りシーバスで横浜駅に戻ると言うものだったのですが、なんと「山手十番館」は貸し切りでアウトでした。

その日は外人墓地が特別公開中。私はそんな特別公開の時に中に入った事があるのですが、姉は未体験。入ってみたいと思ったようなのですが、霊感体質の母から拒否されてアウト。(理由が我が家らしいでしょ・(笑))

「港の見える丘公園」を目指して歩いていた時に、ちょうどバスが来たので、計画はすべてチャラにして、そのバスに乗って桜木町経由で横浜駅に戻り、そこで元町喜久屋のケーキを買って帰りました。

 

だけど1か所はしっかり見たので、私的には満足できました。

上のは姉が買った絵葉書です。

「ベーリック・ホール」は確か、初めて入ったところだと思います。横浜には入れる洋館が「山手資料館」を含めて10はあるかと思います。どこに入ったかどうかは、もう頭の中がごちゃごちゃ。とにかくブログをやっていない時に行ったのだと思います。(やっぱりブログって便利です。)

 

洋館巡りもイイナぁ~♪

そしてやっぱり最後は「花より団子タイム」。実家にて。

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自由が丘に行きました。その3

2019-03-26 23:02:25 | 家族スナップ

・「自由が丘に行きました。」「自由が丘に行きました。その2」の記事は、お出掛け日記のように見えても、実はそうではなかったのです。でも「その3」に来て、「お出掛け日記」に近づいてきました。ちょっとだけそれが嬉しい私です。

トップの画像は、食事の後でみんなで行ったピーターラビットのカフェです。

すぐ下の妹が案内してくれました。

さすがに地元民。素敵な所を紹介してくれてありがとうという気持ちになりました。

 

  

先日肺がんの手術を無事終わらせることが出来たその地元民の妹ですが、やはりその後の抗がん剤治療は免れることは出来ないようです。

肺がんは手術で取り切ることが出来たら、その後の抗がん剤治療はしなくても良い癌なのだと、事前説明で聞きました。ところが妹は、その手術の時、同じ肺の中ではありましたが、事前の検査では分からなかった小さい癌もあって、それも綺麗にしてくださったそうです。

それを聞いて、もしかしたらその後の治療は免れないかも知れないとは思っていました。

妹の乳癌での抗がん剤治療中は、本当に大変だったのです。もちろん私はまったく大変ではありません。その苦しみも私のものではありません。我が事のように語ることは許されないと思えるほど、彼女の場合は辛そうだったのです。いいえ、「辛そう」ではありません。辛かったのです!

傍にいるだけで、心が真っ暗になるほどに。

またそれをやるのかと思うと、明るく振る舞う妹が不憫でなりません。

と言っても私はあまりそれが態度に出る人ではないのですが。

 

だけど

「治療が始まったら、本当に大変になってしまうから、その前にみんなで自由が丘でお食事会をしない?」と提案をしました。

そう言うわけで、3月20日にまた再び、自由が丘に行ったのでした。

本当は、母も姉も来る予定でした。母が来れば、お会計は母持ち。

「お母さんが行くと言う事はそう言う事でしょ。」と母は言ってくれたのです。

だけど急きょ、母は来られなくなりました。

それで川越の記事を書いた時に、安上がりにしといて良かったと書き込んだのでした。

 

 この日に地元民の妹に連れて行ってもらったお店は

 中華のお店で、かなりの人気店でした。

お食事。

 

 

 

 

 ちょっとリッチなランチでした。

そしておしゃべりも楽しい時間でした。

「じゃあね。」と別れて、私と一番下の妹は駅の改札前で時刻表示の案内を見上げていましたら、いきなり別れたばかりの妹が「わっ!!」と抱き着いてきました。

「わーっ、吃驚した。もう行っちゃったと思ってたよ。」と言いながら、私たちはその妹に見送られながら駅の中に入って行ったのでした。

 

「楽しかったから、お別れが寂しかったのかしら。」と私は思いました。

 

いつかみんな笑い話になればいい。

笑い話になりますようにー。

 

  

 待ち合わせの時間より早く着いたので、家族のお土産に「あげまんじゅう」を買いました。

 気になっていた古本屋さんにも寄りました。

 


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自由が丘に行きました。その2

2019-02-11 02:13:32 | 家族スナップ

前回の関連記事は→自由が丘に行きました。

※      ※

入院中の妹のお見舞いに、一番下の妹と共にお見舞いに行ってきました。

医師の予定がぎゅうぎゅう詰まっていて、そこになんとか2月の末に手術の予定を入れてもらったのですが、キャンセルが出て3週間も早く2月5日に無事に手術を受ける事が出来ました。

その日は、なかなか彼女の娘ちゃんから連絡が来ないので、思わず「肺がんの手術時間はどのくらい」などと検索してしまった私。ひとりひとり違うのだから、あまり意味のない検索だったと思います。

でもだいたい3時間から5時間の間みたいです。妹の場合は4時間半かかったみたいです。その日は本当に心配して電話を持っていましたが、連絡が来てホッとしました。

 

そして今日、妹はすこぶる元気で安心しました。

女三人寄れば、女子会よろしくキャピキャピと笑いあってきたのでした。

(他者の視点ではどう見えるかは謎。)

 

お土産に持って行ったシュークリームです。大きいでしょう。

妹が手術の傷跡を見せてくれましたが、思っていたより大きかったです。妹はその大きさにショックを受けたようですが、なんたって私、ポジティブ姉ちゃんなので、それを見て開口一番に

「良かったじゃない。小さく切ってチマチマ覗かれるより、がばっと開いて、隅々まで見て頂いて、

『よし !! もう悪いところ無し !!』って言ってくれた方が安心じゃない。」と言ってしまいました。

すると妹は、

「そうよね。それでね、他にも小さな癌が見つかって、それも綺麗にしておきましたって言われたのよ。」と言ったのでした。

 

そうだったのか。それは良かったナと私は思いました。

 

お見舞いに行って「楽しかった」と言うのは変ですが、姉妹三人で楽しい時間を持てたのは本当の事でした。(姉は都合があって、前日に来ていましたから)

 

私はすっかり安心したので、せっかく自由が丘に来たのだから、帰りにどこかでお茶など飲んで帰りたいと思いました。

本当は病院に行く前に頂いたランチと

 

、先ほどのシュークリームでお腹は一杯だったのですが。

 

だけどふらふら歩いて見つけた場所はー。

 

お店の名前に惹かれて入ってしまいました。

珈琲も美味しくて、雰囲気もばっちり。

 

 駅前。

 

そう言えば、日曜日と祭日は駅前が歩行者天国になるため、バス停が移動になります。前日に行った姉が時刻表を写メで撮って送ってくれていたので、その時間にバス停に行けばいいやと思っていたのですが、たまたま早めについて、その事実を初めて知り焦りました。

その時妹は飲み物を買いにドラッグストアに行っていたので、私がしっかり移動場所の地図を見なくちゃと、そこに書かれているビルなどを焦りながら確認していると、自由が丘案内ボランティアの若い女性がササッとやって来て

「お困りの事がありますか。」と言うので

「はい。日曜日のバス乗り場を教えて下さい。」と、私は言いました。

 

その話を妹たちに話している私・・・・・・。

で、

「『ああ、はい、わかりました。どうもありがとう。』と言って、スタスタと違う方向に歩きだす私。だってね、妹ちゃんを迎えに行かなければならないからね。だけどそれをお姉さんは知らないわけだから、きっと後ろで『違うわよ、おばさん !!どこに行くちゅーねん !!』って、」

「えっ、言われたの?」

「いや、言われないよ。きっと見ていなかったかも。でも見ていたら『はい、わかりました。』って違う方向に行く人に、叫びたくなる衝動は生まれたよね。」

 

今回は私のせいではないけれど、本当に危ない毎日ですわよ。

まあ、とりあえずセーフだったので良しとしましょう。

 

早く良くなりますように♡

 

 

 

 

 

コメント (2)
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私のお母さんはこんな人

2019-02-01 01:20:58 | 家族スナップ

 

1月27日、28日は実家に帰っていました。

最近では母の家に行くと、お昼も近くにある美味しい中華屋さん(母の奢り)で食べてから家に帰って来ることが多いのです。でも前日も母にはたくさんお金を使わせている事が多いので、今回は私が作る事にしました。

「鶏肉と玉ねぎと卵があったらいいのだけど。」と私は言いました。

「ああ、それなら家にあるよ。」と母は言いました。

だけどそれからそのたった三つの材料を、何回も聞いて来る母。

「もう、なかったら、朝、買いに行くから気にしないで !」と、言っても、

結局5回ぐらい「鶏肉卵玉ねぎ」と呪文のように言いました。

 

こんな風に書くと、私の母は結構もう危ないのではないかしらと思われるかもしれません。

一応、まだ大丈夫みたいです。

この一応と言うのは、世間的な見解で言えば、このくらいの繰り返しは何でもなく、病気的な認知症レベルではないと言う事です。

歳を取ると、若い時からの癖のようなものが、さらに強く出る事があるじゃないですか。

言うなれば、母が何回も聞いてきたのは、それのような気がするのです。

母は若い時から、人に何か頼んでも、人の都合などお構いなしで、すぐにやらないと気が済まないようで、私が自分の用を終えて、さあ、さっき頼まれたことをやろうかなと思うと、とっくに終わっていたなんて不愉快な事がたびたびありました。つまり「待てない」のです。

ちょっとしたことでも、それが終わるまでミッションのように気にかかる。そんな感じ。

どうもあると思っていた鶏肉がなかったみたいで、何回も確認に来たみたいなのです。そして

「これでも良いのかしら。」と持ってきたのは、鶏のささみでした。

「別になんだって良いのよ。って言うか、これはチルドに入っていたのよね。」とちょっと過ぎている消費期限をの方が気になり、指を折った私でした。

まあ平気だなと言う結論になり、母と私は違った意味でお互いにホッとしたのです。

 

だけど翌日、母の用意した量の多い朝食を食べた後、母はすぐにお昼のご飯のためのお米を洗いました。

それを見て、「あああ」と私は嘆きたくなりました。

 

そんなに張り切ってお米を洗うなんて止めてもらいたいと思ったからです。

だって、皆様は私が何を作ろうと思っていたのか、察しがついているのではないかしら。

なんたって「鶏肉、玉ねぎ、卵」ですよ。もうあれしかないじゃないですか。

張り切られると、どんなご馳走を作るんだって後ろめたい気持ちになるじゃないですか。

 

なんだかんだと言ってお昼・・・・・。

食事を作ると言っても、それしか作らないのであっという間です。

途中でふと

「あっ、シイタケとかあったら良いかな。それ有るかしら?」とうっかり聞いてしまいましたが

「ええっ ! そんな急に言われてもあるわけがないでしょ。」とたじろぐので、

「あっ、今のは忘れて。思いついただけだから。」と、発言自体をなかったことに。

そりゃそうですよね。突然対応は嫌なお年頃だと思いますよ。

 

そして使ったボールなどを片付けていたら、何かの話の流れで傍に立っていた母が、

「私はお料理は昔から苦手で・・・。」と言ったので、

 

「知ってる !! 凄く知ってます !」と即答する私。

で、二人で顔を見合わせて笑ってしまいました。

(でもね、私は母の作ったおはぎとか、お汁粉とかお赤飯とか混ぜご飯とか、いろいろと好きなものがたくさんあったのよね。)

見た目は、さほどと言う感じですが、ささみのお肉で作った親子丼は、美味しいのですね~。私、ちょっと学びました。

 

「さあ、お昼も頂いたし帰ります。」と言うと、母は

「座ってばかりいても仕方がないから、送りがてら歩いて来よう。」と言い駅まで送ってくれたのです。

駅に近づく頃、母はちょっとした自慢話をしました。それを聞いて私は

「お母さん、あのね。もうお母さんは十分にそれを許される歳になってしまったのだから、何も問題はないけれどね、そのお話、昨日から今までで、私、三回は聞いたよ。」と、容赦のない事を言いました。

えっ?

酷い娘だって?

いえいえ、そんな事はないですよ。

「えっ、そうだったの。」と母。そして二人でカンラカラカラと笑いあったのでした。

 

不精をしてエレベーターで二階の改札に向かう私。

扉が閉まる時に

「じゃあ、またね。」と言い、そして「バイバイ」と又言いました。母は黙って手を振っていました。

扉が閉まると、いつもなら反対側に出口が変わるので、体の向きも変えてしまうのですが、なぜかその時はずっと同じ方向を向いていました。

そしてその時、中から外がずっと見えるエレベーターだと言う事に初めて気が付いたのです。

母は立ち去らず、ずっと同じ場所に立っていました。あがって行く私をまだ見送ってくれているのかと、また小さく手を振る私。

でも母は、上など見上げていませんでした。

閉じたエレベーターの扉をじっと見つめていたのです。

娘が去ったその扉を。

 

※       ※

いつか何気ないこんな日の事を、私は思い出すのかも知れません。

 

※       ※

私の誕生日は、母の出産記念日。

お母さん、私を産んでくれてありがとう。

私は産まれて生きて、そして幸せです。

 

コメント (4)
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