上の画像は一昨日の月。
月がとっても綺麗でしたね。
地上では火曜日、水曜日と吹き荒れていた風も止んでいましたが、きっと天の上空では大気が安定せずに、雲がとどまることを許していなかったのかも知れません。澄み渡った空に輝いている月。心が洗われるようでした。
日付が変わってしまったので、既に昨日ですが、やはり月が綺麗だと多くの人が呟いていました。でも私は立ち上がって空を見ようとは思いませんでした。だって寒いんですもの。
だけど昨日はソメイヨシノの花も、ようやくその固かった蕾もゆるめ街をピンクに染め始めました。
こういう季節を人は春というのだと思います。
人は何故か春を待っている・・・。
不思議だなあと思います。
そんなに冬が嫌いだったのかと、自分に問うてみれば、冬の素晴らしいところがいろいろ思い浮かんできて、満更でもないような気もするのですよね。
確かに春は、街がキャンバスに描かれた絵のように華やかに彩られますが、冬枯れの木々の美しさにはまた格別のものがあるじゃないですか。
冬は寒いけれど、春だってまだまだ寒いじゃないですか。
決して丁度良い季節なんかじゃないのですよね。
北風は辛いけれど、春一番の辛さに比べたら大したこともありませんよ。
それでも人は春を待っているんですよね。
ワタクシ、先日、私にしては珍しくネガティブなことを考えてしまいました。
「明けない夜はない。」と言う言葉、なんか感動しますよね。
「冬来たりなば春遠からじ」もまた、心に響きます。
でも何で‥‥‥?
地球の自転の関係で、朝が来てそして夜が来ると言う現象を繰り返しているんでしょう。
そしてやはり地球の公転では春夏秋冬があるわけなのですよ。
自然の営みなんですよね。
なぜそれと人生のリズムみたいなものが、どうして同じだと言えるのでしょうか。
明けない夜はない、確かに。だけど終わりなき夜の世界を彷徨う人もいるんじゃないかしら。
春は必ずやって来るのだと思う。でも永久凍土のような人生を歩むことはないのかしら。
こういう例えって、実はいっぱいある。
例えば、「夜明け前の闇は実は一番深い」というのもそう。
確かに、夜明け前の暗さは本当に真っ暗。これは夜が明ける前に仕事なんかで出かけた経験のある人には実感できることだと思います。でも人はこの言葉を聞くと、本当の夜明け前の暗さを言っているのではなく、人生の、または社会が変わる前の不安定な世の中を指して言っているのだと感じるのです。
なぜ感じるのかといえば、それは人には感性というものがあるからなんですね。
言葉は先人たちからの贈り物だと思います。そして人は持てる感性で、自分を励まし、しっかり人生を歩ませようとする力を持っているのだと思います。
だけど厳しいようだけど、人生の夜は勝手には明けてくれないし、冬もぼんやりしていたらいつの間にか春になっていたと言う訳にはいかないんじゃないかと思うのです。
出来ればぼんやりしている間に、勝手に来て欲しいのだけれど・・・・・というのは本音。
本音はともかく、言葉というギフトを貰って、そこで満足してしまうことも多いかなと思います。やはりそこで立ち止まって考えていかなければならないのだと強く思ったのでした。
そうは言っても、知恵無き私はオロオロするばかりです。
そんな私には、
「優雅に湖に浮かんでいるように見える白鳥の、水面下ではその足は休むことなく水をかき続けている。」なんて言う言葉のギフトが届けられるのでした。
見あげれば、美しい月が。
静かに見える天空。だけど見える雲の更にその上では風が音を立てて通り過ぎて行っているのかも知れません。
大気の流れを止めることもなく。