森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

うちなる命の煌めき

2017-07-21 08:39:39 | 思いつくまま

歳が五つ、六つ、七つのそのあたりの私の心配事は、私は他のみんなと同じようにちゃんと死ねるのだろうかと言うものでした。

私は昔から信心深い子供でしたので、何かの折には神仏に手を合わせ、

「今は死にませんように。だけどずっと先になって、時が来たらちゃんと死ねますように。」と祈っていたのです。

 

なぜなら私自身、体の身の内から湧いてくる命の力を感じていて、その身体の内に漲るパワーは死は凄く遠いものに感じさせ、もしかしたら私は稀なる死なない人間だったらどうしようかと、幼い子供だった私は本当に恐怖を感じていたのでした。

 

蛇足ですが、ホラーなどの原点にある人の恐怖の感情は「死なない恐怖」なのだそうです。

人は不死に心のどこかで憧れているのかもしれませんが、だけどその反面、それに対して震えるほど恐れてもいるのですよね。ゆえにホラー作品には不死のモンスターが登場してくるのだと思います。

 

話を元に戻します。

 

身の内から湧いてくる命の力、つまり生命力に満ち満ちていてそれを感じる事が出来たのは本当に幼い子供の頃で、学校に行くようになったころから毎日の慣れない学校生活でそんな感性も消え果てしまったのかもしれません。

 

20歳の頃、ちょっと胃の病気になりました。

柱に寄りかかって立っていましたら、父が私を見て、心配して

「命が消え入るような顔をしている。しっかりしなさい。」と言いました。

病気になると、弱ってしまうものは肉体の部品だけではなくて生きる気力と言うか気持ちの部分までやられることもあるのですよね。

しっかりしろと言われても元が素直ではないので、すぐさましっかりしたかは記憶には有りませんが、気持ちの部分で負けていたことだけには気が付いたのだと思います。

 

その後も胃と腸は私の中のウィークポイントで、今ではあまり歓迎できない名前の病気持ちになってしまいました。

 

だけど体も辛くて気持ちも弱って寝込むとき、いつもあの

「どうしたの花ちゃん。まるで命が消えていってしまうような顔をしているよ。ちゃんと立ちなさい。しっかりしなさい。」と心配そうに言った父の言葉を思い出すのでした。

 

最近私は姑や母が、急に老いてきたなと感じていたのですが、それは私自身に対しても同じような事を感じていたのかもしれません。

幸いな事に人には命の残量は見えません。

だけど今の私には、あの子供の頃の、もしかしたら死ねないのではないかと思えるほどの命のパワーなど感じられるわけもありません。

それでも自分のうちなる部分に存在する命の力を信じて、しっかり生きて行こうと、そんなことを時々考えているのです。

 

そして今は死ねない恐怖はないけれど、如何に死んでいくのかの恐怖はあると思います。

しっかり生きて、いつか、今ではないいつか、出来る事ならばちゃんと死にたいと思っているのです。

 

だから私は今も祈るのです。

「今は死にませんように。だけどずっと先になって、時が来たらちゃんと死ねますように。」と。

 

 

 ※ 心の重荷が取れました。コメント欄をあけましたので、またよろしくお願いいたします。

 

 

コメント (6)
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