21日の木曜日、東京都美術展にて開催されている「田中一村展」に行ってまいりました。
雨の日の午後からでしたので、スイスイと入れて中も比較的空いていたと思いました。
10月16日に、同じ東京都美術館で行われていた「全陶展」を訪れた時、その「一村展」の当日券を買い求める人と入場する人とで長蛇の列が出来ていましたから。
私的にはこの「田中一村」は、世の中にはまだまだ知らない素晴らしい人がいて、新しい出会いがあって幸せな事だなと言う感じです。
下の方に彼の概略を載せておきましたが、本当に彼は「神童」と言う言葉が似つかわしい天才だったのですね。
6歳7歳9歳12歳と幼き頃からの、少年一村の絵が展示されていて、心の底から感心してしまいました。
そこで如何にも私的な感想ですが、「ああ、この子のお母さんは、この子に大きな期待を抱いただろうにな。」と思えたのです。
期待して当然です。美術学校(現:東京藝大)に入るまでも青年一村の南画は、本当にどれも素晴らしかったです。
だけど一村に期待し、そして誇りに思っていたであろう母は、彼が学校をわずか2か月で退学したのち、亡くなってしまうのです。一村にとって父も弟たちも・・・・。
彼にとって恵まれた画家生活とは言えなかったかもしれません。
それでも彼は描き続けていったのですね。
画家にとって評価されようがしまいが、描き続けることが、それが仕事なのだと言えるのかも知れません。それって様々な芸術にも言えることじゃないですか。
画家にとっての満足とは、売れるとか評価されるよりも、会心の1枚1枚を完成させていくことなんだと感じました。
通常の大きさの版の絵葉書を数枚買ってきましたが、こちらは本当の絵画の部分的切り取りのもの。
気が向いたら、後で追加で載せておきます。
「気が向いたら」って、やる気あるのかと叱られそうですね(;^_^A
彼の描く白黒の世界、また色付いた世界、どちらも本当に素敵なんですよ。
HPの作品紹介のページにも数点載っているので、そちらで確認してみてくださいね。
→【公式】田中一村展 奄美の光 魂の絵画 Tanaka Isson: Light and Soul|2024年9月19日(木)〜12月1日(日)|東京都美術館
この日、たまたま帰りのバスで義姉と出会いました。
一村展に行った帰りだと言うと、彼女も彼の絵画が大好きで、その絵画展には既に行っていて見終わるのに3時間かかったと言いました。
確かに作品の数はたくさんあったのです。
だけどさらに彼女は言いました。
彼が凄く好きだったから、奄美には4回行ったの、と。
それで私は又思いました。
私が新しい素晴らしい人に出会えて幸せと、自分の無知を知る時、世の人にとっては知っていて当たり前のことがたくさんあり、その中の一部の人は更にその上を行くのだと。
【田中一村について】公式HPより
(たなか・いっそん/明治41年[1908]-昭和52年[1977])
《栃木町(現・栃木市)に生まれる。本名は孝。大正3年(1914)、東京に転居。翌年、彫刻師の父から米邨(べいそん)の画号を与えられる。幼年期から卓越した画才を示し、神童と称される。南画を得意とした。大正15年(1926)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも、2ヶ月で退学。「家事都合」とされるが詳細は不明(同級生には後の日本画壇を代表する東山魁夷や橋本明治らがいた)。その後、3人の弟と両親を立て続けに亡くす。昭和13 年(1938)、姉、妹、祖母と千葉に転居。農業をしながら制作に従事。昭和22年(1947)、柳一村と画号を改め、《白い花》が青龍展に入選。翌年、田中一村の名で同展に入選するも、自信作が落選したため辞退。その後、日展、院展と相次いで落選。わずかな支援者を頼りの制作が続くが、昭和33年(1958)、50歳にして単身奄美大島へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては、奄美の自然を主題とした絵に専念する日々を送る。昭和52年(1977)、夕食の支度中、心不全により亡くなった。享年69歳。
昭和54年(1979)、有志により奄美で遺作展が開催され、異例の3千人もの動員を記録。昭和59年(1984)、NHK「日曜美術館」の特集放映で全国的に注目を集め、その後も展覧会の開催や評伝刊行など、顕彰の動きは止まず、平成13年(2001)、奄美に田中一村記念美術館が設立された。》
この日の5時45分頃。外はもう真っ暗。