3月31日真夜中に書いた記事「さよならだけが人生サ」の続きです。
「さよならだけが人生だ」と言う言葉は、元々は「唐詩選」の中にある詩で「勧酒」の訳なのですが、井伏鱒二の名訳です。
「さよならだけ」の「だけ」が時にはネガティブなイメージを与えたり、その言葉だけが独り歩きをして様々なシーンで遣われることがあると思います。でも、その原文は・・・
ちなみに「唐詩選」などは主に高校の頃、またはもっと専門的には大学などで学んだりするものですから、「お勉強」と言う感じになってしまいますが、漢詩って結構良いですよ~。
で、原文でしたね。
于武陵(作「勧酒」
勸君金屈巵
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離
君に勧む金屈巵(きんくっし)
満酌辞するを須いず
花発いて(ひらいて)風雨多し
人生別離足る
その意味は (このページを参考にさせていただきました。□)
君に黄金のさかずきを勧める。
なみなみと注いだこの酒を断ってはいけないよ。
花が咲けば 雨が降ったり風が吹いたりするものだ 。
人生に別離はつきものだ
おこがましくもkiriy式内容理解
「まあ君、飲みたまえよ。
野暮なことは言いっこなしだよ。
どんな邪魔が入って『次』がいつあるかなんて分からないことだよ。
今、この瞬間がすべて。なんたって人生に別れはつきものなんだから。」
「今このひと時」の出会いと別れがダイナミックに伝わってきませんか。
で、井伏鱒二の名訳。(講談社文芸文庫『厄除け詩集』)
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
こうして読むとぜんぜんネガティブじゃないですよね。いろいろな想いをひっくるめて短い言葉で言い表すことが出来るのは、俳句の国、日本ゆえのなせる業かもしれませんね。さよならを繰り返すけれど、その別れの数だけ出会いがあるわけだし。
というわけで、お勉強タイムは終わりです。で、コレがいつもの長い前置きだったというわけです・・・・。
この季節は、いつも別れがつきものです。受験も終わり去っていく子供の、その最後の別れの時も、私は「じゃあ、またね。」って言うのです。このことは昨年も書きました。その記事は→★です
その時の、つまり昨年高校に入学して我が家から巣立っていった少年に、浅草の帰りにばったり駅で会いました。私は彼にお祝いの図書カードを買って、渡す機会を失ってしまっていたことを思い出しました。駅で長々立ち話もなんですので、メルアドを変えるのが趣味の彼に、一度空メールを送ってと言いましたら、ちょっと困った顔をしました。
「私のアドレス、削除したのね。」と言うと、へへへと笑う彼。
それはそうですよ。別にかまわないんです。だって私は彼にとって過去の住人なんですから。それで送ってあげることにして、別れました。ふと別れ際に、普通は立場上聞くべき事を思い出し
「部活ばっかりじゃなく勉強も頑張れよ。」と声をかけました。
「チョウ余裕っすよ。赤点あっけど。」
思わずこけそうになりましたが、なんだか彼は益々カッコ良くなっていました。大人に近づいていると言う感じです。
おとといも一人の少年が去っていきました。でも彼はまだ卒業ではなくて学年が変わる節目で去っていくのです。優秀なのでもっと高みを目指して欲しいから、私も勧めたのです。出来ればこの地域で一番の公立高校ぐらいは目指して欲しいと思っています。
玄関でいつものように、私は言います。
「じゃあ、またね。」
他の子供にとっては、三日後の「また」。でも彼にとっては、「いつかまた会う時まで」の「また」。
「あっりがとうございましたー!!」と彼らは賑やかに去っていきます。
彼は、ドアのところでもう一度、
「今までありがとうございました。」と言いなおしました。そこには7年間の重みがありました。その時明るい他の少年達の間にいたせいか、ひとりだけ去っていく少年の寂しさがふっと伝わってきたのです。
それでも私はいつものようにスマイルマークのような顔をして微笑んでいました。だけどジーンと目頭が熱くなりました。
ドアがバタンと閉まって、彼らの姿が視界から消えた瞬間、私は踝を返して、ふっとこの言葉を呟いていました。
「さよならだけが人生サ。」
さよなら さよなら
私は今日までのあなたに別れを告げます。
じゃあ、またね。
いつの日か、またあなたに出会う日も来るでしょう。
その時私は、明日からの私の知らないあなたと出会います。
春はまた来るけれど、同じ春ではないのですよね。