7月8日wowowで観ました。
このお芝居は、2月10日から3月31日まで東京芸術劇場で公演されたものです。この公演日を見れば分かると思いますが、3.11の震災の時に公演されていたものなんですよね。
私の記憶違いでなければ、いち早く公演再開を果たしたお芝居だったと思います。あの震災後の自分の生活を思うと、再開を果たしても、どれだけの人が劇場に足を運べたのだろうかと疑問に思ってしまいます。が、それでも不安定な電車のダイヤを駆使して駆けつけた人たちの熱意と演劇への愛情によって、舞台は成り立っているのだとしみじみと思ってしまうのでした。しかも、なんと言う偶然か、この内容でお芝居を再開したのかと、ちょっと私は驚いてしまいました。
ネタバレしていますので、いつか違う機会に見ようと思っていらっしゃる方はお気をつけください。
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「地震」「押し流される村」「起きることが嘘か本当かよりも、起きてしまったらを考える事に意味があるんじゃないの。」・・・・・一体これはどうした事なのでしょうか。まるで3.11に起きる事を予知していたかのような、連想させる言葉のオンパレードではないですか。
放送後に野田秀樹さんのインタビューがありましたが、「震災後、台詞の意味が変わって聞こえてきた。言っている方も違った意味を持ってしまった。」と言っていましたが、それは本当でした。
メッセージ性の強い作品でしたが、それにさらに予想外の意味が加わって、複雑の二乗になってしまいました。
とにかく余震に怯えながらも、演劇を愛してやまなかった人たちが劇場に足を運んでみると、そこでも又地震が頻繁に起こり、ありえそうなデマか真実の叫びか分からない言葉に混迷させられると言う、思考の迷路が待っていたと思います。
その迷路に、最初に予定されていたメッセージには容易にはたどり着けなかっただろうなと、複雑な想いで真夜中にこの作品に向き合っていました。
そのように複雑に込み入ってしまうので、図らずも後から付け加わってしまった意味はちょっと棚の上にあげて、このお話の感想を考えてみたいと思います。
野田作品はこれで二本目なので言い切ることは出来ませんが、彼の作品は「舞台である」と言う利点を最大に生かした「謎」を構築し、最初に見せるだけ見せておいて、徐々にじわじわと真実が見え隠れし、最後にアッと言うどんでん返しが待っていると言う構図のような気がします。
ラストの少女の正体、男の正体が分かってくると、そうか、あれはそう言う意味だったのかと辻褄があってくるのでした。
何故、あの虚言癖のある少女は、南のりへいと名乗る火山観測所の新任の男に最初から攻撃的であったのか。
少女は何故、嘘をつき続けなければならなかったのか。
彼女が怯え続ける、自分自身を見張り続けるもうひとりの自分とは誰の事を指していたのか。
南と言う男は、本当は誰なのか。何故、本当の名前を失って「日本人」と言う名前になってしまったのか。
分かって見ると、胸を突き刺す台詞ばかりだったように思います。
「うそつきの狼少年は、不幸を言い続けなければならない。」
「この国は天皇の名前を語った詐欺の歴史で成り立っている。」
「見たこともあったこともない人のために、その人を助ける為に走り続けているんだ。だけど一番怖いのは、登ってくると信じている、その人が最初から登ってくると言うのも嘘で、姿も形もないことなんだ。」←もちろん不正確。
時代が交錯し、江戸時代に飛んだり現代に戻ったり、物語も不思議に編みこまれた紐のように進むのであれば、少女が本当は誰であったのかと言う事を書くのは野暮と言うものかもしれません。だけど、今ある場所から逃げ出して自分を捨てるのであれば、嘘はつき続けなければならないのだと思いました。
また、「日本人」と言う名前になってしまった男の正体を語ることも同様かもしれません。
だけど、本当の事を言う事が出来なくて、会った事もない人の為に命をかけて走り続けなくてはならなかった男たちは、いつしか名前を失って「日本人」と名前を変えてしまったのかもしれないと、少しだけ昔の日本にあった出来事を思って感銘を受けました。
火山観測所に赴任してくる謎の男に妻夫木聡。彼、良かったです。「感染列島」で冷め掛けていた妻夫木熱に再び火がつきました。
虚言癖のある女に蒼井優。彼女って、前から好きでしたが、さらに好きになりました。お芝居が上手な人はみんな好きです。(例外もありますが・・)
火山観測所の所長に渡辺いっけい。麓の旅館女将に高田聖子。
見応えがありました!
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wowow終了後の野田さんのインタビューで、再開したけれど、客席には来る事が出来ないお客さんの分の空席が目立ったそうです。そう言う経験も、この劇団ではあまりない経験だと思いますが、その経験が役者の方たちにも大きな力となって蓄積されると信じています。
私が一番強く感じたのは、「今の時代」だからこのお芝居は存在できるのだ、と言う事かもしれません。66年前だったら(お芝居の内容的にも成り立たないけれど)、野田さんの首と胴が離れるなんて危険だってありますよ。
そう思うと、「今の時代」に生きる意味と意義はあるのですよね。