かえってきた帽子
最初に「パシフィコ横浜で幸せな夜」と言う「「吉田拓郎コンサート2019-LIVE 73 years-」の記事を、多くの皆様に読んでいただき本当にありがとうございます。幸せな夜は......
上の囲みは昨年の7月7日に投稿したものです。と言いましても、内容は七夕などには関係もなく、昨年の吉田拓郎さんのライブに行った日の前後の日記です。拓郎氏のライブの記事はこの記事の前にあります。(パシフィコ横浜で幸せな夜)
それを読み返すと、当たり前ですが昨年はまったく今年と違う生活。そして自分自身が、とってもパワフルな人に感じてしまいます。この上の記事の中に
>ちょっとのお仕事と家事と、サークルのあれやこれやだけだったら、たぶん私は
「ああ、最近暇だなあ。」って言うような気がします。
と、書いてありました。
今まさに、その「ちょっとのお仕事と家事と、サークル活動をほんのちょっと」と言う生活ではありませんか。
ところが、あんまり「ひっま~ !!」と言う感じもしないものですよね。
遣らねばならない時間が減っても、やりたい事が出来る時間が増えるだけですから。
またどこにも出掛けなくても、家で遣る事はたくさんあるからです。
そんな訳で自粛生活もそれなりに楽しく過ごしてきた方だと思うのですが、それでもずっと我慢してきたことは、横浜の実家に帰る事と姉妹たちと会う事だったのです。2月の15日16日に泊まりで実家に行き、そこで姉妹たちに会って、それっきりです。4月に本当は自由が丘で会う事になっていました。でも3月の終わりにオリンピックの延期が決まって、その後にコロナに関しての小池さんの会見がありましたが、やっと本当の事が語られ始めたと言う印象を受けました。
それで4月にみんなで会うのは延期したのでした。
5月のGWがあった事も幸いしたのでしょう。感染者の数が徐々に減っていき、緊急非常宣言が解除された後、私たちはまた会う約束をし直しました。
その時、私は読み誤ってしまったなと今になって思います。解除されても、少し様子を見た方が良いからと7月の19日に決めてしまったのでした。様子を見つつと言うのは、間違えてはいなかったと思います。でももっともっと早い時に実行してしまえば良かったのですよね。2波が来るのは、もっと先の秋の終わりだと思っていたのです。
日にちを決めた後になって、毎日東京での感染者の数が増えていき、夕方になってその数を聞くと、私は本当に憂鬱になりました。
ー でも、通勤で東京に行ってる人たちもいるわけだし・・・・・。
などと思ったりもしましたが、とうとう再び3桁の数になってしまいました。
それで私は決意し、姉に相談しました。
確かに東京の人口分の100で、大丈夫よと思えば思えるかもしれません。
だけど「私は大丈夫よ。」と言う確約など何もない事なのです。また私たちがコロナに関わったら、絶対に軽症で済むわけがないと思うのです。
それから「夜の街」と言う言葉で攻撃されていますが、怖いのは、そこに行く事ではなくて、そこで再び感染数を増やしていってしまった方々の意識の低さではないでしょうか。病気になってしまった人を攻撃しないと言うのはルールだと思います。だけど「なぜ」「どうして」そうなったかを見極めていく事は大事な別の問題だと思います。
またそれは、「夜の街」と言うところに所属していても、ちゃんと知恵を絞ってやられているお店などを守る事だと思います。
それにまた、あまりの「夜の街攻撃」も、考えなければならない視点がぼやけるのではと思いました。本当に怖いのは、意識の薄い方々の昼間の行動でしょう。自覚症状のない陽性の方が、遅く起きてその辺のコンビニやレストランなどをウロウロする・・・・
感染ルートが分からない人がいるのは、こんな所にもあるのでは?
結局、7月に姉妹で自由が丘で会うのは延期になりました。
一つ下の妹のスノウさんが地元の人なので、お店に予約をしていてくれたのでキャンセルの手続きもしてくれました。
このお店にしたって、およそ1万円ちょっとにはなっただろう売り上げが消えたわけですよね。
ところで私たち四人は、毎週ラインでテレビ電話で集会を開いているんです。でも最近は数分で音声が聴き取れなくなるので、最初の顔合わせをした後、音声だけに切り替えて四人でおしゃべりするのです。
やはりその時は、その事が話題になりました。
スノウさんが、
「お姉ちゃんから電話が来た時に、仕方がないなと思ったけれど、ああ、やっぱりダメだったかと思ったら、私、涙が出ちゃったんだ。」と少し笑いながら言いました。
スノウさんは病気。
「これが最後の焼き肉やさんかしら。」などといつも言います。たぶんそう思って、今を生きようとしているのだと思います。
それから最後に、姉の20年の長きに渡っての闘病をねぎらって、改めて皆で拍手をしました。
姉が「泣いちゃう・・・。」と言いました。
私も思わずもらい泣きです。
だけど私は言いました。
「私、今ももらい泣きしちゃった。だけどさっき、スノウさんが泣いたと言った時も、やっぱり私涙が出たよ。」
姉妹たちも、実は皆同じでした。音声だけの電話だったから、やはり伝えないと分からない事もあると思ったから、私は言いました。それはまた言わずにはいられなかったかもしれません。
毎週、電話で話しているのだから良いのではと言う問題ではないのですよね。
病気で今を必死で生きている人の、ささやかな楽しみを奪うなんて~~~ !!!
なんて言うかジワジワと怒りのようなものが込み上げてきたのです。
そして「頼むよ、君たち !」と誰に向かうでもなく、心の中で言ってしまいました。
しかし私たちは単に嘆く人たちではないので、ちょっと自由が丘企画は保留ですが次の約束をしあいました。
次は実家にて、夏の終わりの暑気払いと言うところでしょうか。
でもその前に、私は一度横浜には行こうと思っています。
いろいろ考えながら・・・・。
これを書き始めたのは、昨日の7日の日でした。
今年の七夕の願いは、「コロナ終息、我らを自由に解き放ちたまえ」そして、「天よ、静まりたまえ」でした。
今のところそれしかないです。
イヤさらに考えると、GO TO キャンペーンをやらなくて良いから、もう一回10万円が振り込まれますようにとか、努力しなくても痩せますようにとか、後は今度宝くじを買おうと思うので、その時は・・・・・・・・・って、あー、だからさらに考えるのは止めなさいって、私 !!!