富とは、1776年当時の重商主義者が追求していた金銀財宝ではなくて労働生産物である。その富、国民一人当たりの必需品と利便品の供給が豊富かどうかは、二つの異なる要因すなわち、第一に労働の生産性、第二に役に立つ生産的な労働に従事する人の数とそうでない人の数の比率によって規定される。特に、労働の生産性に大きく左右される。
その労働生産性の向上は、分業の結果なされうる。分業が確立すると、人々は生産物を交換せざるを得ないが、物々交換は困難であるので、通貨が必要になる。
生産に資本が使用されるようになり、また土地がすべて私有財産になると、自分の資本を投じる企業家に利益を与え、地主に地代を支払わなければならなくなる。商品の価格は賃金、地代、利益の三部分から構成されることになる。この価格は、自然価格と呼ばれる長期的な均衡価格が決定されていく。
生産的労働は、資本、すなわち、利潤の獲得を目的として蓄積された資財によって養われ、その成果が実現されるまでに時間がかかる労働である。一方非生産的労働とは、召使の労務のように、地代や利潤などの収入により養われ、利潤を生まず、瞬間的に消滅してしまう。非生産的労働も有用であるが、経済発展のためには、生産的労働への資本の投下が必要である。
資本投下の自然な順序は、農業、工業、国内商業、国際貿易という順序が考えられる。しかし実際のヨーロッパの近代諸国家では、この順序は多くの点で、まったく転倒している。
政治経済学は、二つの目的を持っている。第一は、国民に収入と生活必需品を豊富に提供すること、国民が自らの力で、収入と生活必需品を豊富に確保できるようにすることである。この方法には、二つの考え方があり、商業中心の考え方(重商主義)と、農業中心の考え方である。特に重商主義においては、消費者の利益はまったく無視され、生産者の利益には非常に慎重な注意が払われることになってしまう。
政治経済学の第二の目的は、国が公共サービスを提供するのに必要な歳入を確保できるようにすることである。
では、国の義務としてどのような公共サービスがあるか。
国家の第一の義務は、他国の暴力と侵略から自国を守ることである。この義務を果たすには軍事力が不可欠である。製造業の発達した社会である現在、軍事力を平時に準備し、戦時に行使するための経費は、狩猟社会、遊牧社会、農業社会とは異なり、国家が負担する。その要因は、製造業の発達と戦争技術の発達によっている。軍務を他の職業から分離して独立した職業にし、常備軍をもつことができるのは、国の英知である。近代の軍隊で、特に火器が発明された後、必要なものはなにか?兵士の体力や敏捷さ、武器の扱い方に優れていることよりは、規律、秩序、命令にただちに従う姿勢である。国家は、その常備軍を持つ場合、主権者が軍の総司令官であることが、大変重要になってくる。さもないと、将軍が政治体制を崩壊させたり、議会を解散させる危険をはらむからである。
第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守ること、つまり厳正な司法制度の確立である。
第三の義務は、公共機関や公共施設のうち、社会全体にとって極めて大きな利点があるが、その利益では経費を回収できず、したがって個人や少数の個人の集団が建設し維持するとは期待できないものをつくり維持することである。主に、社会の商業活動を促進するためのもの、すなわち道路・橋・運河・港などの建設と維持や貿易などの促進であり、もうひとつは、国民の教育、すなわち青少年教育と生涯教育を振興することである。
教育によって、国は少なからぬ利益を得られる。無知な民族では、狂信や迷信によって社会が大混乱に陥ることがあるが、教育が進めば、これらに惑わされにくくなる。それに、教育を受けた知的な人は、無知で愚かな人より、かならず礼儀正しく、秩序を守る。自分はまともな人間だし、目上の人がまともな人間として対応してくれるはずだと考えており、そのため、目上の人間に敬意を示す傾向が強い。反対派や扇動者が政府の政策に反対した時、その裏にどのような利害が絡んでいるのかを考えようとするし、それを見抜く能力も高いので、理不尽な反対や、ためにする反対に踊らされにくい。自由な国では、政府の行動について国民がどこまで好意的な判断を下すのかで、政府の安定性がかなり左右されるので、国民が早まった判断や気まぐれな判断を下す傾向をもたないことは、政府にとってきわめて重要なはずである。
これらの経費は、第一に、国民の収入とは無関係に主権者か国が保有する財源、すなわち資本か土地から、第二に、国民の収入から引き出された財政収入によって、第三に、財政収入の一部を担保にして資金を借りるようにした債務から賄いうる。
政府は、特に教育と福祉に重点を置きながら、市場を通じては供給することはできない公共財の供給にのみ専念する安価な政府を目指すべきであると、私は考える。
その労働生産性の向上は、分業の結果なされうる。分業が確立すると、人々は生産物を交換せざるを得ないが、物々交換は困難であるので、通貨が必要になる。
生産に資本が使用されるようになり、また土地がすべて私有財産になると、自分の資本を投じる企業家に利益を与え、地主に地代を支払わなければならなくなる。商品の価格は賃金、地代、利益の三部分から構成されることになる。この価格は、自然価格と呼ばれる長期的な均衡価格が決定されていく。
生産的労働は、資本、すなわち、利潤の獲得を目的として蓄積された資財によって養われ、その成果が実現されるまでに時間がかかる労働である。一方非生産的労働とは、召使の労務のように、地代や利潤などの収入により養われ、利潤を生まず、瞬間的に消滅してしまう。非生産的労働も有用であるが、経済発展のためには、生産的労働への資本の投下が必要である。
資本投下の自然な順序は、農業、工業、国内商業、国際貿易という順序が考えられる。しかし実際のヨーロッパの近代諸国家では、この順序は多くの点で、まったく転倒している。
政治経済学は、二つの目的を持っている。第一は、国民に収入と生活必需品を豊富に提供すること、国民が自らの力で、収入と生活必需品を豊富に確保できるようにすることである。この方法には、二つの考え方があり、商業中心の考え方(重商主義)と、農業中心の考え方である。特に重商主義においては、消費者の利益はまったく無視され、生産者の利益には非常に慎重な注意が払われることになってしまう。
政治経済学の第二の目的は、国が公共サービスを提供するのに必要な歳入を確保できるようにすることである。
では、国の義務としてどのような公共サービスがあるか。
国家の第一の義務は、他国の暴力と侵略から自国を守ることである。この義務を果たすには軍事力が不可欠である。製造業の発達した社会である現在、軍事力を平時に準備し、戦時に行使するための経費は、狩猟社会、遊牧社会、農業社会とは異なり、国家が負担する。その要因は、製造業の発達と戦争技術の発達によっている。軍務を他の職業から分離して独立した職業にし、常備軍をもつことができるのは、国の英知である。近代の軍隊で、特に火器が発明された後、必要なものはなにか?兵士の体力や敏捷さ、武器の扱い方に優れていることよりは、規律、秩序、命令にただちに従う姿勢である。国家は、その常備軍を持つ場合、主権者が軍の総司令官であることが、大変重要になってくる。さもないと、将軍が政治体制を崩壊させたり、議会を解散させる危険をはらむからである。
第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から、社会のすべての構成員を可能な限り守ること、つまり厳正な司法制度の確立である。
第三の義務は、公共機関や公共施設のうち、社会全体にとって極めて大きな利点があるが、その利益では経費を回収できず、したがって個人や少数の個人の集団が建設し維持するとは期待できないものをつくり維持することである。主に、社会の商業活動を促進するためのもの、すなわち道路・橋・運河・港などの建設と維持や貿易などの促進であり、もうひとつは、国民の教育、すなわち青少年教育と生涯教育を振興することである。
教育によって、国は少なからぬ利益を得られる。無知な民族では、狂信や迷信によって社会が大混乱に陥ることがあるが、教育が進めば、これらに惑わされにくくなる。それに、教育を受けた知的な人は、無知で愚かな人より、かならず礼儀正しく、秩序を守る。自分はまともな人間だし、目上の人がまともな人間として対応してくれるはずだと考えており、そのため、目上の人間に敬意を示す傾向が強い。反対派や扇動者が政府の政策に反対した時、その裏にどのような利害が絡んでいるのかを考えようとするし、それを見抜く能力も高いので、理不尽な反対や、ためにする反対に踊らされにくい。自由な国では、政府の行動について国民がどこまで好意的な判断を下すのかで、政府の安定性がかなり左右されるので、国民が早まった判断や気まぐれな判断を下す傾向をもたないことは、政府にとってきわめて重要なはずである。
これらの経費は、第一に、国民の収入とは無関係に主権者か国が保有する財源、すなわち資本か土地から、第二に、国民の収入から引き出された財政収入によって、第三に、財政収入の一部を担保にして資金を借りるようにした債務から賄いうる。
政府は、特に教育と福祉に重点を置きながら、市場を通じては供給することはできない公共財の供給にのみ専念する安価な政府を目指すべきであると、私は考える。