5月3日、各紙の社説。
憲法と実社会の矛盾がどこにあると各紙が分析しているかの目線で見てみます。
顕著に出ている部分を、まずは、以下に抜粋します。その後、全文。
読んでいて、“憲法学的”には誤りのことを指摘されている新聞社もございますが、敢えて書いているのかもしれません。
今、まさにすべきことは、何か。
それは、復興、災害への備え、社会保障の充実、衆院選一票の格差の是正(唯一、社説で読売新聞のみが取りあげておられたことは、高く評価させていただきます。)であろうと、各紙も指摘するし、私もそう考えます。
憲法改正の是非の論議は別においておくとしても、まずは、それらを第一に行っていくことを強く要望いたします。
さらにいうのであれば、それら必死に行う過程で、はじめて憲法改正の是非の論点が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
<朝日新聞>
将来世代どころか、いまの子どもたちの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)まで、知らず知らずのうちに奪ってはいないか。
<毎日新聞>
*決められない政治をどう改革するのか。このシリーズではすでに参院改革や政党改革こそ本丸だとしてこの国の統治の仕組みにメスを入れるよう提言した。9条論議を避けるわけではない。自衛隊の国際平和協力活動をもっと広く深く展開すべきだ、とする私たちの主張は9条と矛盾しない。9条に費やされた膨大な議論のエネルギーを別の新しく提起された課題にも振り向けるべきだ、と思うのだ。「3・11」体験にもこだわるべきだ。国の緊急事態対応が今の憲法で十分かどうか論憲すればいい。
*例えば、首相公選制であれば、唯一この制度を採用・廃止した経験のあるイスラエルを視察した時の詳細な記録が残っている。それを国民的論戦の素材として積極的に提供すべきではないか。
<東京新聞>
*生存を維持する手段-。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。
大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。
国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策…、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。
<読売新聞>
*日本は今、東日本大震災からの復興や原子力発電所事故の収束、経済・軍事で膨張する中国への対応など、内外に多くの懸案を抱えている。
*深刻なのは、「1票の格差」を巡る訴訟で、衆参両院に「違憲」「違憲状態」の司法判断が相次いでいる問題だ。選挙制度改正論議が一向に進展していない。
国会は、違憲状態を放置して憲法記念日を迎えたことを猛省すべきだ。立法府として無責任に過ぎる。特に解散・総選挙の可能性がとりざたされる衆院は、選挙制度の見直しが急務である。
<日経新聞>
*最大の工事が9条であるのは論をまたない。自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしよう、というのは有力な考え方だ。
<産経新聞>
*憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。
*このほか、現行憲法には非常時対処の規定が著しく不備であることや、日本の歴史や文化・伝統がみられないことなど、問題点は山積している。
*****朝日新聞******
憲法記念日に―われらの子孫のために
日本国憲法は、だれのためにあるのか。
答えは前文に記されている。「われらとわれらの子孫のために……、この憲法を確定する」と。
基本的人権は、だれに与えられるのか。
回答は11条に書いてある。「現在及び将来の国民に与へられる」と。
私たちは、これらの規定の意味を問い直す時を迎えている。
いま直面しているのは、将来の人々の暮らしや生き方をも拘束する重く厳しい選択ばかりだからだ。
原発事故はすでに、何十年も消えない傷痕を残している。地球温暖化や税財政問題でも、持続可能なモデルをつくれるかどうかの岐路に立つ。
ならば、いまの世代の利益ばかりを優先して考えるわけにはいくまい。いずれこの国で生きていく将来世代を含めて、「全国民」のために主権を行使していかねばならない。
施行から65年。人間でいえば高齢者の仲間入りをした憲法はいま、その覚悟を私たちに迫っているように読める。
■再分配で貧困が増す
現実の日本の姿はどうか。
将来世代どころか、いまの子どもたちの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)まで、知らず知らずのうちに奪ってはいないか。
子どもの貧困率は、経済協力開発機構(OECD)の平均を上回り、7人に1人が苦しい暮らしを強いられている。
主な理由は、ひとり親世帯の貧しさだ。2000年代半ばの各国の状況を比べると、日本ではその6割近くが貧困に陥り、30カ国の中で最も悪い。「1億総中流」とうたわれたのは、遠い昔のことのようだ。
原因は何か。OECDは次のような診断を下している。
第一に所得の少なさである。著しく賃金が低い非正規労働が急速に広がり、とりわけ母子家庭の母親の多くが低賃金を余儀なくされている。
第二に所得再分配のゆがみである。社会保障が年金や医療、介護など高齢者向けに偏り、子どもを持つ世代、特に貧困層への目配りが弱い。このため、いまの税や社会保険料の集め方、配り方では、子どもの貧困率がいっそう高まる現象が日本でのみ起きている。
正社員の夫の会社が、家族のぶんまで給料で面倒を見る。専業主婦かパートで働く妻が子育てを担う。それが、かつて「標準」とされた家庭像だった。
国が幅広く産業を支援し、高齢者に配慮すれば、多くの人が「中流」を実感できた。
だが、会社と家庭に頼る日本型福祉社会は壊れている。前提だった経済成長、会社倒産の少なさ、離婚の割合の低さなどが揺らいだからだ。
■雇用慣行も改めよう
社会の変容に伴い、会社や家庭が差し出す傘の中に入れない人たちが増えた。
たとえば、母子家庭の子どもがその典型だろう。
就職をめざす若者もそうだ。正社員の大人がみずからを守るために、新規採用を絞り込む。
これは傘の中の大人が、子どもたちを傘に入れまいとする姿ではないか。個々の大人に悪意はなくても、社会全体で子どもを虐げていないか。
私たちは、もっと多くの人々が入れる大きな傘を作り直さなければならない。
そのために、再分配の仕組みと雇用慣行を改めよう。
貧しくても教育をきちんと受けられるようにして、親の貧困が次世代に連鎖するのを防ぐ。同じ価値の労働なら賃金も同一にして、正社員と非正社員との待遇格差を縮める。こんな対応が欠かせない。
反発はあるだろう。実現するには他のだれか、たとえば子育てを終えた世代や正社員が、新たな負担を引き受けなければならないからだ。
■「利害対立」は本当か
しかし、ここであえて問う。
互いの利害は本当に対立しているのか。
子どもたちを傘の外に追い出した大人は、自分が年老いたとき、だれに傘を差し出してもらうのか。そこから考えよう。
年金の原資は、現役世代が支払う保険料と、消費税である。
企業が正社員を減らせば厚生年金の加入者が減る。低賃金の非正規の仕事で働く若者は消費を削らざるを得ない。
つまり採用削減は、正社員が将来受けとる年金の原資を減らしていく。いずれは、我が身の老後を危うくするのである。
若者が結婚し、子どもをもうけることが難しくなれば、さらに少子化が進む。消費も減り、市場が縮み、企業は苦しくなる。そんな負の連鎖に日本はすでに陥っている。
将来を担う世代を大切にすれば社会は栄え、虐げれば衰える。憲法記念日に、そんな当たり前のことを想像する力を、私たちは試されている。
*****毎日新聞*****
社説:論憲の深化 統治構造から切り込め
毎日新聞 2012年05月03日 02時30分
国の形を考える上で、憲法論議は避けて通れない。日本国憲法が施行され65年のきょう、その現状を整理し、あるべき姿を模索したい。
まずは、この12年間を振り返る。憲法に関する総合的、広範な議論をする憲法調査会が衆参両院に設置されたのが2000年1月だった。冷戦終結から10年。「議案提出権のない、純粋な調査のための」組織とはいえ、湾岸戦争や政治改革論議を経て、日本の政治は初めて国権の最高機関に本格的な憲法論議の場を持ったのだ。
政権交代がモード変更 調査会は5年間活動した。衆院だけで調査会が65回(参院72回)、小委員会が62回(同8回)、公聴会14回(同4回)、106人の参考人(同118人)から意見聴取、海外視察も5回(同4回)した。その成果は、05年4月に両院からそれぞれ最終報告書として公表され、多数意見として改正すべきいくつかの論点(参院の場合は共通認識)が示された。
ちょうど小泉純一郎政権の時だった。保守合同50年の年でもあり、自民党が結党の精神に立ち戻り新憲法草案を発表、その後06年発足の安倍晋三政権が「戦後レジームからの脱却」を旗印に改憲志向を鮮明にし、それに反発する動きと合わせ、憲法論戦はこの時期にピークを迎えた。背景にはアフガニスタン、イラクでの米国による戦争があり、同盟国としての協力と海外での武力行使を禁じた9条との間に緊張が走った。
しかし、安倍政権が1年で崩壊し、米の戦争が泥沼化していく過程で、論戦の熱は次第に冷めていった。07年8月には、憲法調査会を引き継ぐ委員会として「憲法改正原案、憲法改正の発議」にまで踏み込んで審議できる憲法審査会が両院に設置されたが、国民投票法の強行採決問題でこじれ事実上4年も休眠、両審査会の初審議は11年10月にまでずれ込んだ。この間、リーマン・ショック、政権交代があり、政治は現状対応に精いっぱいだった。
だが、皮肉なことにこの政権交代が新たな改憲モードを起動させた。党内抗争と政権担当能力の欠如を露呈させた与党・民主党と、政権政党としての矜持(きょうじ)を失い純粋野党化した自民党による「決められない政治」へのリアクションである。橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」が船中八策と称し、改憲が必要な首相公選制や国会の1院化を提唱した。さらには、自民党が講和60年に合わせて4月27日、新しい改憲草案を発表した。9条に「国防軍」を持つと明記し天皇を「日本国の元首」と規定、国旗・国歌への尊重義務を設けるなど、05年版より強い保守色を鮮明にした。野党転落後の同党の自分探しが読み取れる。
私たちは、即改憲でも永久護憲でもない「論憲」という立場を取ってきた。現憲法の精神とでも言うべき平和主義、国民主権、基本的人権という三つの原則は生かす。一方で、時代が提起した新しい課題を憲法の中でどう位置付けるか、積極的に論議しようというスタンスである。改憲か護憲か、を背負う政治勢力になることではない。メディアの役割は、国の基たる憲法のあり方について、論をあらゆる角度から多重に尽くし、その是非をただすことだ。
「坂の上の雲」競演も 橋下提案や自民案をより深い論憲につなげるきっかけにしたい。決められない政治をどう改革するのか。このシリーズではすでに参院改革や政党改革こそ本丸だとしてこの国の統治の仕組みにメスを入れるよう提言した。9条論議を避けるわけではない。自衛隊の国際平和協力活動をもっと広く深く展開すべきだ、とする私たちの主張は9条と矛盾しない。9条に費やされた膨大な議論のエネルギーを別の新しく提起された課題にも振り向けるべきだ、と思うのだ。「3・11」体験にもこだわるべきだ。国の緊急事態対応が今の憲法で十分かどうか論憲すればいい。
せっかく稼働し始めた両院の憲法審査会にも注文する。憲法調査会から続いたこの12年の議論の蓄積を生かしてほしい。例えば、首相公選制であれば、唯一この制度を採用・廃止した経験のあるイスラエルを視察した時の詳細な記録が残っている。それを国民的論戦の素材として積極的に提供すべきではないか。
国の形論議も同時に行ってほしい。明治維新の富国強兵・殖産興業路線。そして、敗戦後の軽武装経済重視路線。そこまでは明確な方向性があった。だが、冷戦崩壊あたりから次なる「坂の上の雲」が見えなくなってきた。折しも超高齢化、成長不全、エネルギー危機、安保環境の激変という戦後最大の転換期を迎えている。どんな国を目指すのかが国民の関心事になりつつある。これまでの論憲で欠落していた国会論戦と草の根議論の連携を深めたい。いずれ衆院総選挙がある。政党レベルで国の形を競演する好機だ。
論憲の後にくるものは、より広く深い論憲である。いずれ「改憲」や「創憲」が来ることは否定しない。だが、今は徹底した論憲こそ次の扉を開くことになる。
*****東京新聞****
憲法記念日に考える 人間らしく生きるには
2012年5月3日
大震災の復興も原発被害の救済も進まない。雇用環境が崩壊しては、若者たちの未来がない。人間らしく生きる-。その試練に立つ現状をかみしめる。
哲学書としては異例の売れ行きをみせている本がある。十九世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーが著した「幸福について」(新潮文庫)だ。
「幸福を得るために最も大事なのは、われわれ自身の内面のあり方」という、わかりやすいメッセージが、暗いニュース続きの日本人の心に染みているからだという。次のようにも記されている。
◆重たい政治の足取り
《幸福の基礎をなすものは、われわれの自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である》
生存を維持する手段-。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。
大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。
国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策…、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。
◆50%超が不安定雇用
若者の半数が不安定雇用-。こんなショッキングな数字が政府の「雇用戦略対話」で明らかになった。二〇一〇年春に大学や専門学校を卒業した学生八十五万人の「その後」を推計した結果だ。
三年以内に早期離職した者、無職者やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、四十万六千人にのぼった。大学院進学者などを除いた母数から計算すると、安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。予想以上に深刻なデータになっている。
学校はまるで“失業予備軍”を世の中に送り出しているようだ。就職しても非人間的な労働を強いられる窮状が、かいま見える。
労働力調査でも、完全失業者数は三百万人の大台に乗ったままだ。国民生活基礎調査では、一世帯あたりの平均所得は約五百五十万円だが、平均を下回る世帯数が60%を超える。深刻なのは、所得二百万円台という世帯が最も多いことだ。生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破した。
とくに内閣府調査で、「自殺したいと思ったことがある」と回答した二十代の若者が、28・4%にも達したのは驚きだ。「生存を維持する手段」が瀬戸際にある。もはや傍観していてはならない。
一九二九年の「暗黒の木曜日」から起きた世界大恐慌で、米国は何をしたか。三三年に大統領に就任したルーズベルトは、公共事業というよりも、実は大胆な失業救済策を打ち出した。フーバー前政権では「ゼロ」だった失業救済に、三四年会計年度から国の総支出の30%にもあたる巨額な費用を投じたのだ。
当時、ヨーロッパでも使われていなかった「社会保障」という言葉自体が、このとき法律名として生まれた。「揺りかごから墓場まで」という知られたフレーズも、ルーズベルトがよく口ずさんだ造語だという。
翻って現代ニッポンはどうか。社会保障と税の一体改革を進めるというが、本音は増税で、社会保障の夢は無策に近い。「若い世代にツケを回さないため」と口にする首相だが、今を生きる若者の苦境さえ救えないのに、未来の安心など誰が信用するというのか。ルーズベルトの社会保障とは、まるで姿も形も異なる。
◆現代人は“奴隷”か
十八世紀の思想家ルソーは「社会契約論」(岩波文庫)で、当時の英国人を評して、「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイ(奴隷)となり、無に帰してしまう」と痛烈に書いた。
二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう。
******読売新聞******
憲法記念日 改正論議で国家観が問われる(5月3日付・読売社説)
◆高まる緊急事態法制の必要性
日本は今、東日本大震災からの復興や原子力発電所事故の収束、経済・軍事で膨張する中国への対応など、内外に多くの懸案を抱えている。
国家のあり方が問われているからこそ、基本に戻りたい。与野党は憲法改正の論議を深め、あるべき国家像を追求すべきだ。
◆主権回復60年の節目に
サンフランシスコ講和条約の発効からちょうど60年を迎えた4月28日を前に、自民党は、第2次憲法改正草案を発表した。
谷垣総裁は「主権を回復した時に挑まねばならないことだった」と述べ、結党の原点である憲法改正の必要性を強調した。
憲法が、連合国軍総司令部(GHQ)の案を基に作成されたことは周知の事実である。自民党が2005年の草案を見直し、改めて国民的な憲法改正論議を提起したことは評価したい。
新草案は、東日本大震災の反省も踏まえて、緊急事態に対処するための条項を設けた。武力攻撃や内乱、大規模災害の際、首相は「緊急事態」を宣言できる。
それに基づき、地方自治体の首長に指示することなどを可能にした。
国民の生命と財産を守るためには、居住及び移転の自由、財産権など基本的人権を必要最小限の範囲で一時的に制限することにもなろう。それだけに、緊急事態条項への反対論はある。
しかし、何の規定もないまま、政府が緊急事態を理由に超法規的措置をとることの方がよほど危険だ。独仏などほとんどの国が憲法に緊急事態条項を明文化しているのは、そのためでもある。
緊急事態への備えを平時に整えておくことは、政府の責務だ。
首都機能が喪失しかねない「首都直下地震」や、東海、東南海、南海地震の連動する「南海トラフの巨大地震」など従来の被害想定が見直されている。原発を狙うテロの可能性も否定できない。
国家の機能が損なわれる事態に災害対策基本法など現行の法律だけでは、十分対処できまい。
衆院解散時、あるいは任期満了に近い時点での緊急事態対処も重要な論点になる。
憲法改正論議と同時に、政府は「緊急事態基本法」といった新たな立法も考慮すべきである。
◆自衛隊位置付け明確に
安全保障に関して新草案は9条の戦争放棄を堅持し、「自衛権の発動を妨げるものではない」との一文を加えた。自衛隊は「国防軍」として保持するとした。政府見解が禁じる集団的自衛権の行使を、可能にすることを明確にした。
政府は、国民と協力して領土を保全し、資源を確保しなければならない、との条項も設けた。
いずれも妥当な判断だ。
中国の海洋進出、北朝鮮の核開発など、日本の安全保障を巡る環境が厳しさを増す中、集団的自衛権の行使を可能にし、日米同盟を円滑に機能させる必要がある。
一方、自民党は、参院の権限が強すぎる現状の見直しに踏み込まなかった。これは疑問である。
衆参ねじれ国会では、野党が反対する法案は成立しない。参院の問責決議が閣僚の生殺与奪権を事実上握るという悪あしき慣習も国会を混乱させている。
みんなの党は衆参統合で一院制とする案を唱えている。超党派の議員連盟は一院制実現への憲法改正案をまとめた。国会の機能不全の要因に「強すぎる参院」があるとの認識からだろう。
だが、憲法改正で一院制を実現するのは、困難である。二院制は維持しつつ、衆参の役割分担を工夫することの方が現実的だ。
自民党やみんなの党、たちあがれ日本が、憲法に対する考え方を表明しているのに、政権党である民主党は、改正論議に及び腰だ。国家の基本に関する問題で「逃げ」の姿勢は許されない。
◆違憲状態解消が急務だ
国会では昨年秋、4年以上休眠状態にあった衆参両院の憲法審査会が、ようやく動き始めた。
憲法改正への主要な論点は、2000~05年の衆院憲法調査会で既に整理されている。スピード感を持って、具体的な改正論議に着手してもらいたい。
深刻なのは、「1票の格差」を巡る訴訟で、衆参両院に「違憲」「違憲状態」の司法判断が相次いでいる問題だ。選挙制度改正論議が一向に進展していない。
国会は、違憲状態を放置して憲法記念日を迎えたことを猛省すべきだ。立法府として無責任に過ぎる。特に解散・総選挙の可能性がとりざたされる衆院は、選挙制度の見直しが急務である。
(2012年5月3日02時31分 読売新聞)
*****日経新聞******
憲法改正の論議を前に進めよう
2012/5/3付
日本国憲法が施行されて3日で65年を迎えた。自民党が新たな憲法改正草案をまとめるなど改憲にむけた議論を巻きおこそうとしているものの、憲法改正を審議する国会の憲法審査会は本格的に動く気配を見せていない。
2011年3月の東日本大震災を経て、戦後日本が新たな段階に入った現在。国家の将来像をどう描くかも含め、憲法と真っ正面から向き合い、改憲論議を前に進めるときだ。
改正条項と緊急事態
改憲の手続きを定めた国民投票法は07年5月に成立し、3年後の10年5月に施行され、憲法審査会による憲法改正原案の発議が可能になった。11年10月、ようやく衆参両院で憲法審査会の初会合が開かれたが、その後、実質審議には、いたっていない。
国民投票法が制定されたとき、付則に追加された「3つの宿題」がこなされていないためだ。
宿題は(1)投票年齢を18歳にするのに伴い、公職選挙法などの現行20歳の対象年齢を引き下げる(2)公務員が憲法改正に関する意見の表明などを制限されないようにする(3)国民投票の対象を憲法改正以外にも拡大できるかどうかを検討する――の3点だ。
5年間も放っている政治の怠慢は批判されてしかるべきだ。「動かない政治」そのものである。
こうした改憲の取り付け道路の整備と併せて、憲法の館の工事に取りかかるための工程表と設計図の検討も進めていく必要がある。
工事は新築ではない。増改築である。現行憲法は、わずか9日間でGHQ(連合国軍総司令部)がまとめた案がもとになっているとしても、けっこう良くできているからだ。それは、大枠を維持しながら手直しする自民党の改憲草案が、はしなくも物語っている。
最大の工事が9条であるのは論をまたない。自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしよう、というのは有力な考え方だ。
しかし、いきなり9条問題を取りあげて、国論を二分した議論を繰りひろげるよりも、まずは工事しやすい箇所から憲法の館に手を加えるのが現実的な対応だろう。
2カ所ある。ひとつは96条の改正条項の改正である。発議には両議院のそれぞれ総議員の3分の2以上とあるのを、過半数に改めるものだ。改築である。自民党の保利耕輔・憲法改正推進本部長はこれがもっとも実際的だとみる。
もうひとつは、緊急事態への対応である。東日本大震災で明らかになった大規模災害時をはじめとして、武力攻撃やテロなどの際に首相への権限を集中するなどの規定を設けるものだ。増築である。自民党の草案にも盛り込まれた。
民主党の中野寛成・憲法調査会長は「緊急事態への対応や地方分権、環境権など与野党合意が可能なテーマから入っていくのがひとつの方法だ」という。
かしいでいる館をいかに補強するかの工事も忘れてはならない。「強すぎる参議院」の改修がそれだ。「決められない政治」の制度的な背景が、衆参ねじれのもと、「政局の府」となってしまった参院にあるからだ。
自民党の改憲草案では触れていないが、衆院で可決し参院で否決した法案を、衆院で再議決して成立させるためには3分の2以上の賛成が必要となっているのを過半数に改め、衆議院の優越をはっきりさせるのが一案だ。
「真に血みどろの苦心」
参院での首相への問責決議には、内閣の解散権で参院に対抗する規定の新設も考えていい。法的な拘束力のない問責決議が竹光であることを、衆院の信任決議をぶつけるなどして、現実の政治プロセスで明らかにしていくのが当面のやり方だろう。
国会に憲法調査会が設置され論議されるようになったのが00年1月。5年間の議論で、すでに論点は出尽くしている。要は、各党が本気でやるかどうかに尽きる。
いま一度、1946年の憲法制定のころを思いおこしてみよう。
「私は議会の速記録や当時の新聞紙も読み、苦難の条件の下で国民が如何に心血をそそいで考慮を尽したかを察して珍しく緊張した。民族発展の前途を考えて、国民は真に血みどろの苦心をした」
憲法担当相をつとめた金森徳次郎氏が当時をふりかえって書き残した言葉である。
大震災を経験しても「動かない政治」「決められない政治」がつづく。憲法改正は、この国の将来をどうしていくかの議論である。血みどろの苦心をした先人たちは、今の日本をどうみるだろうか。
******産経新聞******
憲法施行65年 自力で国の立て直し図れ 今のままでは尖閣守れない
2012.5.3 03:23
憲法改正の動きが広がりを見せつつある。自民党が憲法改正草案をまとめたのに加え、みんなの党やたちあがれ日本も改正の考え方や大綱案を発表した。
占領下で日本無力化を目的に米国から強制された格好の現行憲法では、もはや日本が立ちゆかなくなるとの危機感が共有されてきたためだ。
憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。
≪自衛権の制限は問題だ≫
本紙は新たな憲法が不可欠との認識に立ち、「国民の憲法」起草委員会を発足させ、来年5月までに新憲法の礎となる要綱を策定する作業を進めている。その要諦は、日本人自らの力で国家を機能させ、危難を克服できるように日本を根本的に立て直すことだ。
本紙とFNNの世論調査で、「憲法改正が必要」は58%に達した。国民も国家の不備を是正すべきだとしている。従来のような先送りは許されない。
国の守りが危殆(きたい)に瀕(ひん)していることを指摘したい。2日も中国の漁業監視船が尖閣諸島周辺の日本の接続水域を航行した。問題は、日本の領海を侵犯しても、現行法では海上保安庁が退去を求めることしかできないことだ。
仮に中国側が漁民を装った海上民兵を尖閣諸島に上陸させ、占拠しても、現行法の解釈では、自衛隊は領土が侵されたとして対処することはできない。代わりに警察が出動し、入管難民法違反などで摘発するしかないのだ。
これは政府が自衛権の発動に厳しい枠をはめているためだ。「わが国に対する急迫不正の侵害」など、自衛権発動には3要件がある。それも「他国」による「計画的、組織的」な「武力攻撃」に限定している。
漁民に偽装した海上民兵の行動はこれに当たらないという解釈だ。これが尖閣防衛を阻害しているとは何と奇妙なことか。
戦争放棄や戦力の不保持、交戦権の否定などをうたった9条の下で、政府は固有の権利である自衛権を極力、行使しないように躍起だったためである。
今日まで自衛隊に国際法上の軍隊としての機能と権限を与えていないことも、同じ文脈だ。
領空侵犯の恐れがある外国機に対する航空自衛隊の緊急発進(スクランブル)回数は、昨年度425回で過去20年で最も多かった。これは、空からの情報収集活動を活発化させている中国機への対処が、前年度より60回多い156回に急増したためだ。
空自は対領空侵犯措置として、外国機に対して無線での警告、警告射撃など段階を踏んで退去や強制着陸を命じる。だが、許されているのはそこまでだ。
≪審査会は改正の論議を≫
空自の措置は警察行動と位置付けられ領空を守る任務が与えられていない。相手はそうしたことを知悉(ちしつ)している。日本の不備は「力の空白」を生んでいるのだ。
世論調査で、7割の人が憲法に自衛隊の位置付けを明文化すべきだと答えたことは当然である。
注目したいのは、米国内でも日本の憲法改正や集団的自衛権の行使容認などが、日米同盟の強化に資するという見解が広がっていることだ。日本が国の守りを自力で行わなければ、日米共同防衛の実は上がらない。
尖閣への侵攻についても自衛隊がまず対処すべきだ。そうでなければ米軍が自衛隊とともに行動することにはならないだろう。
北朝鮮の弾道ミサイルから国民を守るため、沖縄本島や石垣島などにも自衛官や装備を展開した迎撃態勢について、一部に反対があった。国民の間にある「軍事アレルギー」の克服も課題だ。
このほか、現行憲法には非常時対処の規定が著しく不備であることや、日本の歴史や文化・伝統がみられないことなど、問題点は山積している。
昨年10月に始動した衆参両院の憲法審査会が、有識者の意見聴取や選挙年齢などの議論にとどまり、本格的な改正論議に入っていないのは残念だ。憲法改正への具体的な方針を決めていない民主党の消極姿勢が大きな原因だ。
これまでは「米国任せ」で安住していたことも否定できない。日本人が誇りを持てる国づくりをどう実現できるか。問われているのは日本国民自身である。
********
憲法と実社会の矛盾がどこにあると各紙が分析しているかの目線で見てみます。
顕著に出ている部分を、まずは、以下に抜粋します。その後、全文。
読んでいて、“憲法学的”には誤りのことを指摘されている新聞社もございますが、敢えて書いているのかもしれません。
今、まさにすべきことは、何か。
それは、復興、災害への備え、社会保障の充実、衆院選一票の格差の是正(唯一、社説で読売新聞のみが取りあげておられたことは、高く評価させていただきます。)であろうと、各紙も指摘するし、私もそう考えます。
憲法改正の是非の論議は別においておくとしても、まずは、それらを第一に行っていくことを強く要望いたします。
さらにいうのであれば、それら必死に行う過程で、はじめて憲法改正の是非の論点が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
<朝日新聞>
将来世代どころか、いまの子どもたちの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)まで、知らず知らずのうちに奪ってはいないか。
<毎日新聞>
*決められない政治をどう改革するのか。このシリーズではすでに参院改革や政党改革こそ本丸だとしてこの国の統治の仕組みにメスを入れるよう提言した。9条論議を避けるわけではない。自衛隊の国際平和協力活動をもっと広く深く展開すべきだ、とする私たちの主張は9条と矛盾しない。9条に費やされた膨大な議論のエネルギーを別の新しく提起された課題にも振り向けるべきだ、と思うのだ。「3・11」体験にもこだわるべきだ。国の緊急事態対応が今の憲法で十分かどうか論憲すればいい。
*例えば、首相公選制であれば、唯一この制度を採用・廃止した経験のあるイスラエルを視察した時の詳細な記録が残っている。それを国民的論戦の素材として積極的に提供すべきではないか。
<東京新聞>
*生存を維持する手段-。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。
大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。
国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策…、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。
<読売新聞>
*日本は今、東日本大震災からの復興や原子力発電所事故の収束、経済・軍事で膨張する中国への対応など、内外に多くの懸案を抱えている。
*深刻なのは、「1票の格差」を巡る訴訟で、衆参両院に「違憲」「違憲状態」の司法判断が相次いでいる問題だ。選挙制度改正論議が一向に進展していない。
国会は、違憲状態を放置して憲法記念日を迎えたことを猛省すべきだ。立法府として無責任に過ぎる。特に解散・総選挙の可能性がとりざたされる衆院は、選挙制度の見直しが急務である。
<日経新聞>
*最大の工事が9条であるのは論をまたない。自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしよう、というのは有力な考え方だ。
<産経新聞>
*憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。
*このほか、現行憲法には非常時対処の規定が著しく不備であることや、日本の歴史や文化・伝統がみられないことなど、問題点は山積している。
*****朝日新聞******
憲法記念日に―われらの子孫のために
日本国憲法は、だれのためにあるのか。
答えは前文に記されている。「われらとわれらの子孫のために……、この憲法を確定する」と。
基本的人権は、だれに与えられるのか。
回答は11条に書いてある。「現在及び将来の国民に与へられる」と。
私たちは、これらの規定の意味を問い直す時を迎えている。
いま直面しているのは、将来の人々の暮らしや生き方をも拘束する重く厳しい選択ばかりだからだ。
原発事故はすでに、何十年も消えない傷痕を残している。地球温暖化や税財政問題でも、持続可能なモデルをつくれるかどうかの岐路に立つ。
ならば、いまの世代の利益ばかりを優先して考えるわけにはいくまい。いずれこの国で生きていく将来世代を含めて、「全国民」のために主権を行使していかねばならない。
施行から65年。人間でいえば高齢者の仲間入りをした憲法はいま、その覚悟を私たちに迫っているように読める。
■再分配で貧困が増す
現実の日本の姿はどうか。
将来世代どころか、いまの子どもたちの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)まで、知らず知らずのうちに奪ってはいないか。
子どもの貧困率は、経済協力開発機構(OECD)の平均を上回り、7人に1人が苦しい暮らしを強いられている。
主な理由は、ひとり親世帯の貧しさだ。2000年代半ばの各国の状況を比べると、日本ではその6割近くが貧困に陥り、30カ国の中で最も悪い。「1億総中流」とうたわれたのは、遠い昔のことのようだ。
原因は何か。OECDは次のような診断を下している。
第一に所得の少なさである。著しく賃金が低い非正規労働が急速に広がり、とりわけ母子家庭の母親の多くが低賃金を余儀なくされている。
第二に所得再分配のゆがみである。社会保障が年金や医療、介護など高齢者向けに偏り、子どもを持つ世代、特に貧困層への目配りが弱い。このため、いまの税や社会保険料の集め方、配り方では、子どもの貧困率がいっそう高まる現象が日本でのみ起きている。
正社員の夫の会社が、家族のぶんまで給料で面倒を見る。専業主婦かパートで働く妻が子育てを担う。それが、かつて「標準」とされた家庭像だった。
国が幅広く産業を支援し、高齢者に配慮すれば、多くの人が「中流」を実感できた。
だが、会社と家庭に頼る日本型福祉社会は壊れている。前提だった経済成長、会社倒産の少なさ、離婚の割合の低さなどが揺らいだからだ。
■雇用慣行も改めよう
社会の変容に伴い、会社や家庭が差し出す傘の中に入れない人たちが増えた。
たとえば、母子家庭の子どもがその典型だろう。
就職をめざす若者もそうだ。正社員の大人がみずからを守るために、新規採用を絞り込む。
これは傘の中の大人が、子どもたちを傘に入れまいとする姿ではないか。個々の大人に悪意はなくても、社会全体で子どもを虐げていないか。
私たちは、もっと多くの人々が入れる大きな傘を作り直さなければならない。
そのために、再分配の仕組みと雇用慣行を改めよう。
貧しくても教育をきちんと受けられるようにして、親の貧困が次世代に連鎖するのを防ぐ。同じ価値の労働なら賃金も同一にして、正社員と非正社員との待遇格差を縮める。こんな対応が欠かせない。
反発はあるだろう。実現するには他のだれか、たとえば子育てを終えた世代や正社員が、新たな負担を引き受けなければならないからだ。
■「利害対立」は本当か
しかし、ここであえて問う。
互いの利害は本当に対立しているのか。
子どもたちを傘の外に追い出した大人は、自分が年老いたとき、だれに傘を差し出してもらうのか。そこから考えよう。
年金の原資は、現役世代が支払う保険料と、消費税である。
企業が正社員を減らせば厚生年金の加入者が減る。低賃金の非正規の仕事で働く若者は消費を削らざるを得ない。
つまり採用削減は、正社員が将来受けとる年金の原資を減らしていく。いずれは、我が身の老後を危うくするのである。
若者が結婚し、子どもをもうけることが難しくなれば、さらに少子化が進む。消費も減り、市場が縮み、企業は苦しくなる。そんな負の連鎖に日本はすでに陥っている。
将来を担う世代を大切にすれば社会は栄え、虐げれば衰える。憲法記念日に、そんな当たり前のことを想像する力を、私たちは試されている。
*****毎日新聞*****
社説:論憲の深化 統治構造から切り込め
毎日新聞 2012年05月03日 02時30分
国の形を考える上で、憲法論議は避けて通れない。日本国憲法が施行され65年のきょう、その現状を整理し、あるべき姿を模索したい。
まずは、この12年間を振り返る。憲法に関する総合的、広範な議論をする憲法調査会が衆参両院に設置されたのが2000年1月だった。冷戦終結から10年。「議案提出権のない、純粋な調査のための」組織とはいえ、湾岸戦争や政治改革論議を経て、日本の政治は初めて国権の最高機関に本格的な憲法論議の場を持ったのだ。
政権交代がモード変更 調査会は5年間活動した。衆院だけで調査会が65回(参院72回)、小委員会が62回(同8回)、公聴会14回(同4回)、106人の参考人(同118人)から意見聴取、海外視察も5回(同4回)した。その成果は、05年4月に両院からそれぞれ最終報告書として公表され、多数意見として改正すべきいくつかの論点(参院の場合は共通認識)が示された。
ちょうど小泉純一郎政権の時だった。保守合同50年の年でもあり、自民党が結党の精神に立ち戻り新憲法草案を発表、その後06年発足の安倍晋三政権が「戦後レジームからの脱却」を旗印に改憲志向を鮮明にし、それに反発する動きと合わせ、憲法論戦はこの時期にピークを迎えた。背景にはアフガニスタン、イラクでの米国による戦争があり、同盟国としての協力と海外での武力行使を禁じた9条との間に緊張が走った。
しかし、安倍政権が1年で崩壊し、米の戦争が泥沼化していく過程で、論戦の熱は次第に冷めていった。07年8月には、憲法調査会を引き継ぐ委員会として「憲法改正原案、憲法改正の発議」にまで踏み込んで審議できる憲法審査会が両院に設置されたが、国民投票法の強行採決問題でこじれ事実上4年も休眠、両審査会の初審議は11年10月にまでずれ込んだ。この間、リーマン・ショック、政権交代があり、政治は現状対応に精いっぱいだった。
だが、皮肉なことにこの政権交代が新たな改憲モードを起動させた。党内抗争と政権担当能力の欠如を露呈させた与党・民主党と、政権政党としての矜持(きょうじ)を失い純粋野党化した自民党による「決められない政治」へのリアクションである。橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」が船中八策と称し、改憲が必要な首相公選制や国会の1院化を提唱した。さらには、自民党が講和60年に合わせて4月27日、新しい改憲草案を発表した。9条に「国防軍」を持つと明記し天皇を「日本国の元首」と規定、国旗・国歌への尊重義務を設けるなど、05年版より強い保守色を鮮明にした。野党転落後の同党の自分探しが読み取れる。
私たちは、即改憲でも永久護憲でもない「論憲」という立場を取ってきた。現憲法の精神とでも言うべき平和主義、国民主権、基本的人権という三つの原則は生かす。一方で、時代が提起した新しい課題を憲法の中でどう位置付けるか、積極的に論議しようというスタンスである。改憲か護憲か、を背負う政治勢力になることではない。メディアの役割は、国の基たる憲法のあり方について、論をあらゆる角度から多重に尽くし、その是非をただすことだ。
「坂の上の雲」競演も 橋下提案や自民案をより深い論憲につなげるきっかけにしたい。決められない政治をどう改革するのか。このシリーズではすでに参院改革や政党改革こそ本丸だとしてこの国の統治の仕組みにメスを入れるよう提言した。9条論議を避けるわけではない。自衛隊の国際平和協力活動をもっと広く深く展開すべきだ、とする私たちの主張は9条と矛盾しない。9条に費やされた膨大な議論のエネルギーを別の新しく提起された課題にも振り向けるべきだ、と思うのだ。「3・11」体験にもこだわるべきだ。国の緊急事態対応が今の憲法で十分かどうか論憲すればいい。
せっかく稼働し始めた両院の憲法審査会にも注文する。憲法調査会から続いたこの12年の議論の蓄積を生かしてほしい。例えば、首相公選制であれば、唯一この制度を採用・廃止した経験のあるイスラエルを視察した時の詳細な記録が残っている。それを国民的論戦の素材として積極的に提供すべきではないか。
国の形論議も同時に行ってほしい。明治維新の富国強兵・殖産興業路線。そして、敗戦後の軽武装経済重視路線。そこまでは明確な方向性があった。だが、冷戦崩壊あたりから次なる「坂の上の雲」が見えなくなってきた。折しも超高齢化、成長不全、エネルギー危機、安保環境の激変という戦後最大の転換期を迎えている。どんな国を目指すのかが国民の関心事になりつつある。これまでの論憲で欠落していた国会論戦と草の根議論の連携を深めたい。いずれ衆院総選挙がある。政党レベルで国の形を競演する好機だ。
論憲の後にくるものは、より広く深い論憲である。いずれ「改憲」や「創憲」が来ることは否定しない。だが、今は徹底した論憲こそ次の扉を開くことになる。
*****東京新聞****
憲法記念日に考える 人間らしく生きるには
2012年5月3日
大震災の復興も原発被害の救済も進まない。雇用環境が崩壊しては、若者たちの未来がない。人間らしく生きる-。その試練に立つ現状をかみしめる。
哲学書としては異例の売れ行きをみせている本がある。十九世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーが著した「幸福について」(新潮文庫)だ。
「幸福を得るために最も大事なのは、われわれ自身の内面のあり方」という、わかりやすいメッセージが、暗いニュース続きの日本人の心に染みているからだという。次のようにも記されている。
◆重たい政治の足取り
《幸福の基礎をなすものは、われわれの自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である》
生存を維持する手段-。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。
大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。
国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策…、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。
◆50%超が不安定雇用
若者の半数が不安定雇用-。こんなショッキングな数字が政府の「雇用戦略対話」で明らかになった。二〇一〇年春に大学や専門学校を卒業した学生八十五万人の「その後」を推計した結果だ。
三年以内に早期離職した者、無職者やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、四十万六千人にのぼった。大学院進学者などを除いた母数から計算すると、安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。予想以上に深刻なデータになっている。
学校はまるで“失業予備軍”を世の中に送り出しているようだ。就職しても非人間的な労働を強いられる窮状が、かいま見える。
労働力調査でも、完全失業者数は三百万人の大台に乗ったままだ。国民生活基礎調査では、一世帯あたりの平均所得は約五百五十万円だが、平均を下回る世帯数が60%を超える。深刻なのは、所得二百万円台という世帯が最も多いことだ。生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破した。
とくに内閣府調査で、「自殺したいと思ったことがある」と回答した二十代の若者が、28・4%にも達したのは驚きだ。「生存を維持する手段」が瀬戸際にある。もはや傍観していてはならない。
一九二九年の「暗黒の木曜日」から起きた世界大恐慌で、米国は何をしたか。三三年に大統領に就任したルーズベルトは、公共事業というよりも、実は大胆な失業救済策を打ち出した。フーバー前政権では「ゼロ」だった失業救済に、三四年会計年度から国の総支出の30%にもあたる巨額な費用を投じたのだ。
当時、ヨーロッパでも使われていなかった「社会保障」という言葉自体が、このとき法律名として生まれた。「揺りかごから墓場まで」という知られたフレーズも、ルーズベルトがよく口ずさんだ造語だという。
翻って現代ニッポンはどうか。社会保障と税の一体改革を進めるというが、本音は増税で、社会保障の夢は無策に近い。「若い世代にツケを回さないため」と口にする首相だが、今を生きる若者の苦境さえ救えないのに、未来の安心など誰が信用するというのか。ルーズベルトの社会保障とは、まるで姿も形も異なる。
◆現代人は“奴隷”か
十八世紀の思想家ルソーは「社会契約論」(岩波文庫)で、当時の英国人を評して、「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイ(奴隷)となり、無に帰してしまう」と痛烈に書いた。
二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう。
******読売新聞******
憲法記念日 改正論議で国家観が問われる(5月3日付・読売社説)
◆高まる緊急事態法制の必要性
日本は今、東日本大震災からの復興や原子力発電所事故の収束、経済・軍事で膨張する中国への対応など、内外に多くの懸案を抱えている。
国家のあり方が問われているからこそ、基本に戻りたい。与野党は憲法改正の論議を深め、あるべき国家像を追求すべきだ。
◆主権回復60年の節目に
サンフランシスコ講和条約の発効からちょうど60年を迎えた4月28日を前に、自民党は、第2次憲法改正草案を発表した。
谷垣総裁は「主権を回復した時に挑まねばならないことだった」と述べ、結党の原点である憲法改正の必要性を強調した。
憲法が、連合国軍総司令部(GHQ)の案を基に作成されたことは周知の事実である。自民党が2005年の草案を見直し、改めて国民的な憲法改正論議を提起したことは評価したい。
新草案は、東日本大震災の反省も踏まえて、緊急事態に対処するための条項を設けた。武力攻撃や内乱、大規模災害の際、首相は「緊急事態」を宣言できる。
それに基づき、地方自治体の首長に指示することなどを可能にした。
国民の生命と財産を守るためには、居住及び移転の自由、財産権など基本的人権を必要最小限の範囲で一時的に制限することにもなろう。それだけに、緊急事態条項への反対論はある。
しかし、何の規定もないまま、政府が緊急事態を理由に超法規的措置をとることの方がよほど危険だ。独仏などほとんどの国が憲法に緊急事態条項を明文化しているのは、そのためでもある。
緊急事態への備えを平時に整えておくことは、政府の責務だ。
首都機能が喪失しかねない「首都直下地震」や、東海、東南海、南海地震の連動する「南海トラフの巨大地震」など従来の被害想定が見直されている。原発を狙うテロの可能性も否定できない。
国家の機能が損なわれる事態に災害対策基本法など現行の法律だけでは、十分対処できまい。
衆院解散時、あるいは任期満了に近い時点での緊急事態対処も重要な論点になる。
憲法改正論議と同時に、政府は「緊急事態基本法」といった新たな立法も考慮すべきである。
◆自衛隊位置付け明確に
安全保障に関して新草案は9条の戦争放棄を堅持し、「自衛権の発動を妨げるものではない」との一文を加えた。自衛隊は「国防軍」として保持するとした。政府見解が禁じる集団的自衛権の行使を、可能にすることを明確にした。
政府は、国民と協力して領土を保全し、資源を確保しなければならない、との条項も設けた。
いずれも妥当な判断だ。
中国の海洋進出、北朝鮮の核開発など、日本の安全保障を巡る環境が厳しさを増す中、集団的自衛権の行使を可能にし、日米同盟を円滑に機能させる必要がある。
一方、自民党は、参院の権限が強すぎる現状の見直しに踏み込まなかった。これは疑問である。
衆参ねじれ国会では、野党が反対する法案は成立しない。参院の問責決議が閣僚の生殺与奪権を事実上握るという悪あしき慣習も国会を混乱させている。
みんなの党は衆参統合で一院制とする案を唱えている。超党派の議員連盟は一院制実現への憲法改正案をまとめた。国会の機能不全の要因に「強すぎる参院」があるとの認識からだろう。
だが、憲法改正で一院制を実現するのは、困難である。二院制は維持しつつ、衆参の役割分担を工夫することの方が現実的だ。
自民党やみんなの党、たちあがれ日本が、憲法に対する考え方を表明しているのに、政権党である民主党は、改正論議に及び腰だ。国家の基本に関する問題で「逃げ」の姿勢は許されない。
◆違憲状態解消が急務だ
国会では昨年秋、4年以上休眠状態にあった衆参両院の憲法審査会が、ようやく動き始めた。
憲法改正への主要な論点は、2000~05年の衆院憲法調査会で既に整理されている。スピード感を持って、具体的な改正論議に着手してもらいたい。
深刻なのは、「1票の格差」を巡る訴訟で、衆参両院に「違憲」「違憲状態」の司法判断が相次いでいる問題だ。選挙制度改正論議が一向に進展していない。
国会は、違憲状態を放置して憲法記念日を迎えたことを猛省すべきだ。立法府として無責任に過ぎる。特に解散・総選挙の可能性がとりざたされる衆院は、選挙制度の見直しが急務である。
(2012年5月3日02時31分 読売新聞)
*****日経新聞******
憲法改正の論議を前に進めよう
2012/5/3付
日本国憲法が施行されて3日で65年を迎えた。自民党が新たな憲法改正草案をまとめるなど改憲にむけた議論を巻きおこそうとしているものの、憲法改正を審議する国会の憲法審査会は本格的に動く気配を見せていない。
2011年3月の東日本大震災を経て、戦後日本が新たな段階に入った現在。国家の将来像をどう描くかも含め、憲法と真っ正面から向き合い、改憲論議を前に進めるときだ。
改正条項と緊急事態
改憲の手続きを定めた国民投票法は07年5月に成立し、3年後の10年5月に施行され、憲法審査会による憲法改正原案の発議が可能になった。11年10月、ようやく衆参両院で憲法審査会の初会合が開かれたが、その後、実質審議には、いたっていない。
国民投票法が制定されたとき、付則に追加された「3つの宿題」がこなされていないためだ。
宿題は(1)投票年齢を18歳にするのに伴い、公職選挙法などの現行20歳の対象年齢を引き下げる(2)公務員が憲法改正に関する意見の表明などを制限されないようにする(3)国民投票の対象を憲法改正以外にも拡大できるかどうかを検討する――の3点だ。
5年間も放っている政治の怠慢は批判されてしかるべきだ。「動かない政治」そのものである。
こうした改憲の取り付け道路の整備と併せて、憲法の館の工事に取りかかるための工程表と設計図の検討も進めていく必要がある。
工事は新築ではない。増改築である。現行憲法は、わずか9日間でGHQ(連合国軍総司令部)がまとめた案がもとになっているとしても、けっこう良くできているからだ。それは、大枠を維持しながら手直しする自民党の改憲草案が、はしなくも物語っている。
最大の工事が9条であるのは論をまたない。自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしよう、というのは有力な考え方だ。
しかし、いきなり9条問題を取りあげて、国論を二分した議論を繰りひろげるよりも、まずは工事しやすい箇所から憲法の館に手を加えるのが現実的な対応だろう。
2カ所ある。ひとつは96条の改正条項の改正である。発議には両議院のそれぞれ総議員の3分の2以上とあるのを、過半数に改めるものだ。改築である。自民党の保利耕輔・憲法改正推進本部長はこれがもっとも実際的だとみる。
もうひとつは、緊急事態への対応である。東日本大震災で明らかになった大規模災害時をはじめとして、武力攻撃やテロなどの際に首相への権限を集中するなどの規定を設けるものだ。増築である。自民党の草案にも盛り込まれた。
民主党の中野寛成・憲法調査会長は「緊急事態への対応や地方分権、環境権など与野党合意が可能なテーマから入っていくのがひとつの方法だ」という。
かしいでいる館をいかに補強するかの工事も忘れてはならない。「強すぎる参議院」の改修がそれだ。「決められない政治」の制度的な背景が、衆参ねじれのもと、「政局の府」となってしまった参院にあるからだ。
自民党の改憲草案では触れていないが、衆院で可決し参院で否決した法案を、衆院で再議決して成立させるためには3分の2以上の賛成が必要となっているのを過半数に改め、衆議院の優越をはっきりさせるのが一案だ。
「真に血みどろの苦心」
参院での首相への問責決議には、内閣の解散権で参院に対抗する規定の新設も考えていい。法的な拘束力のない問責決議が竹光であることを、衆院の信任決議をぶつけるなどして、現実の政治プロセスで明らかにしていくのが当面のやり方だろう。
国会に憲法調査会が設置され論議されるようになったのが00年1月。5年間の議論で、すでに論点は出尽くしている。要は、各党が本気でやるかどうかに尽きる。
いま一度、1946年の憲法制定のころを思いおこしてみよう。
「私は議会の速記録や当時の新聞紙も読み、苦難の条件の下で国民が如何に心血をそそいで考慮を尽したかを察して珍しく緊張した。民族発展の前途を考えて、国民は真に血みどろの苦心をした」
憲法担当相をつとめた金森徳次郎氏が当時をふりかえって書き残した言葉である。
大震災を経験しても「動かない政治」「決められない政治」がつづく。憲法改正は、この国の将来をどうしていくかの議論である。血みどろの苦心をした先人たちは、今の日本をどうみるだろうか。
******産経新聞******
憲法施行65年 自力で国の立て直し図れ 今のままでは尖閣守れない
2012.5.3 03:23
憲法改正の動きが広がりを見せつつある。自民党が憲法改正草案をまとめたのに加え、みんなの党やたちあがれ日本も改正の考え方や大綱案を発表した。
占領下で日本無力化を目的に米国から強制された格好の現行憲法では、もはや日本が立ちゆかなくなるとの危機感が共有されてきたためだ。
憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。
≪自衛権の制限は問題だ≫
本紙は新たな憲法が不可欠との認識に立ち、「国民の憲法」起草委員会を発足させ、来年5月までに新憲法の礎となる要綱を策定する作業を進めている。その要諦は、日本人自らの力で国家を機能させ、危難を克服できるように日本を根本的に立て直すことだ。
本紙とFNNの世論調査で、「憲法改正が必要」は58%に達した。国民も国家の不備を是正すべきだとしている。従来のような先送りは許されない。
国の守りが危殆(きたい)に瀕(ひん)していることを指摘したい。2日も中国の漁業監視船が尖閣諸島周辺の日本の接続水域を航行した。問題は、日本の領海を侵犯しても、現行法では海上保安庁が退去を求めることしかできないことだ。
仮に中国側が漁民を装った海上民兵を尖閣諸島に上陸させ、占拠しても、現行法の解釈では、自衛隊は領土が侵されたとして対処することはできない。代わりに警察が出動し、入管難民法違反などで摘発するしかないのだ。
これは政府が自衛権の発動に厳しい枠をはめているためだ。「わが国に対する急迫不正の侵害」など、自衛権発動には3要件がある。それも「他国」による「計画的、組織的」な「武力攻撃」に限定している。
漁民に偽装した海上民兵の行動はこれに当たらないという解釈だ。これが尖閣防衛を阻害しているとは何と奇妙なことか。
戦争放棄や戦力の不保持、交戦権の否定などをうたった9条の下で、政府は固有の権利である自衛権を極力、行使しないように躍起だったためである。
今日まで自衛隊に国際法上の軍隊としての機能と権限を与えていないことも、同じ文脈だ。
領空侵犯の恐れがある外国機に対する航空自衛隊の緊急発進(スクランブル)回数は、昨年度425回で過去20年で最も多かった。これは、空からの情報収集活動を活発化させている中国機への対処が、前年度より60回多い156回に急増したためだ。
空自は対領空侵犯措置として、外国機に対して無線での警告、警告射撃など段階を踏んで退去や強制着陸を命じる。だが、許されているのはそこまでだ。
≪審査会は改正の論議を≫
空自の措置は警察行動と位置付けられ領空を守る任務が与えられていない。相手はそうしたことを知悉(ちしつ)している。日本の不備は「力の空白」を生んでいるのだ。
世論調査で、7割の人が憲法に自衛隊の位置付けを明文化すべきだと答えたことは当然である。
注目したいのは、米国内でも日本の憲法改正や集団的自衛権の行使容認などが、日米同盟の強化に資するという見解が広がっていることだ。日本が国の守りを自力で行わなければ、日米共同防衛の実は上がらない。
尖閣への侵攻についても自衛隊がまず対処すべきだ。そうでなければ米軍が自衛隊とともに行動することにはならないだろう。
北朝鮮の弾道ミサイルから国民を守るため、沖縄本島や石垣島などにも自衛官や装備を展開した迎撃態勢について、一部に反対があった。国民の間にある「軍事アレルギー」の克服も課題だ。
このほか、現行憲法には非常時対処の規定が著しく不備であることや、日本の歴史や文化・伝統がみられないことなど、問題点は山積している。
昨年10月に始動した衆参両院の憲法審査会が、有識者の意見聴取や選挙年齢などの議論にとどまり、本格的な改正論議に入っていないのは残念だ。憲法改正への具体的な方針を決めていない民主党の消極姿勢が大きな原因だ。
これまでは「米国任せ」で安住していたことも否定できない。日本人が誇りを持てる国づくりをどう実現できるか。問われているのは日本国民自身である。
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