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政教分離原則「砂川市神社土地利用提供行為違憲訴訟」藤田宙靖裁判官補足意見 最高裁H22.1.20

2012-05-25 22:14:16 | シチズンシップ教育

 政教分離の有名な最高裁判例「砂川市神社土地利用提供行為違憲訴訟(空知太神社訴訟)」を見ておきます。

 そこでは、特に、藤田宙靖裁判官が、補足意見を述べておられ、どのようなことを補足されたのか特に見たいと思います。


*****最高裁ホームページより*****
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=38347&hanreiKbn=02

事件番号  平成19(行ツ)260
事件名  財産管理を怠る事実の違法確認請求事件
裁判年月日  平成22年01月20日
法廷名  最高裁判所大法廷
裁判種別  判決
結果  破棄差戻し
判例集等巻・号・頁  民集 第64巻1号1頁
原審裁判所名  札幌高等裁判所
原審事件番号  平成18(行コ)4
原審裁判年月日  平成19年06月26日
判示事項
1 市が連合町内会に対し市有地を無償で神社施設の敷地としての利用に供している行為が憲法89条,20条1項後段に違反するとされた事例
2 市が連合町内会に対し市有地を無償で神社施設の敷地としての利用に供している行為が憲法の定める政教分離原則に違反し,市長において同施設の撤去及び土地明渡しを請求しないことが違法に財産の管理を怠るものであるとして,市の住民が怠る事実の違法確認を求めている住民訴訟において,上記行為が違憲と判断される場合に,その違憲性を解消するための他の合理的で現実的な手段が存在するか否かについて審理判断せず,当事者に対し釈明権を行使しないまま,上記怠る事実を違法とした原審の判断に違法があるとされた事例





裁判官藤田宙靖の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に賛成するが,本件利用提供行為が政教分離原則に違反すると考えられることにつき,以下若干の補足をしておくこととしたい。

 1 国又は公共団体が宗教に関係する何らかの活動(不作為をも含む。)をする場合に,それが日本国憲法の定める政教分離原則に違反しないかどうかを判断するに際しての審査基準として,過去の当審判例が採用してきたのは,いわゆる目的効果基準であって,本件においてもこの事実を無視するわけには行かない。ただ,この基準の採用の是非及びその適用の仕方については,当審の従来の判例に反対する見解も学説中にはかなり根強く存在し,また,過去の当審判決においても一度ならず反対意見が述べられてきたところでもあるから,このことを踏まえた上で,現在の時点でこの問題をどう考えるかについては,改めて慎重な検討をしておかなければならない。
 この基準を採用することへの批判としては,周知のように,当審においてこの基準が最初に採用された「津地鎮祭訴訟判決」(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁)における5裁判官の反対意見と並び,「愛媛玉串料訴訟判決」(最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁)における高橋,尾崎両裁判官の意見がある。とりわけ,尾崎意見における指摘,すなわち,日本国憲法の政教分離規定の趣旨につき津地鎮祭訴訟判決において多数意見が出発点とした「憲法は,信教の自由を無条件に保障し,更にその保障を一層確実なものとするため,政教分離規定を設けたものであり,これを設けるに当たっては,国家と宗教との完全な分離を理想とし,国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものである」という考え方を前提とすれば,「国家と宗教との完全分離を原則とし,完全分離が不可能であり,かつ,分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って,例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきもの」と考えられる,という指摘については,私もまた,これが本来筋の通った理論的帰結であると考える。これに対して,これまでの当審判例の多数意見が採用してきた上記の目的効果基準によれば,憲法上の政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく,宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み,そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える場合に(初めて)これを許さないとするもの」であるということになるが(括弧内は藤田による補足),このように,いわば原則と例外を逆転させたかにも見える結論を導くについて,従来の多数意見は必ずしも充分な説明をしておらず,そこには論理の飛躍がある,という上記の尾崎意見の指摘には,首肯できるものがあるように思われる。
 ただ,目的効果基準の採用に対するこのような反対意見にあっても,国家と宗教の完全な分離に対する例外が許容されること自体が全く否定されるものではないのであり,また,これらの見解において例外が認められる「完全分離が不可能であり,かつ分離に固執すると不合理な結果を招く場合」に当たるか否かを検討するに際して,目的・効果についての考慮を全くせずして最終的判断を下せるともいい切れないように思われるのであって,問題は結局のところ,「そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」か否かの判断に際しての「国家の宗教的中立性」の評価に関する基本的姿勢ないし出発点の如何に懸ることになるともいうことができよう。このように考えるならば,仮に,理論的には上記意見に理由があると考えるとしても,本件において,敢えて目的効果基準の採用それ自体に対しこれを全面的に否定するまでの必要は無いものと考える。但し,ここにいう目的効果基準の具体的な内容あるいはその適用の在り方については,慎重な配慮が必要なのであって,当該事案の内容を十分比較検討することなく,過去における当審判例上の文言を金科玉条として引用し,機械的に結論を導くようなことをしてはならない。こういった見地から,本件において注意しなければならないのは,例えば以下のような点である。

 2 本件において合憲性が問われているのは,多数意見にも述べられているように,取り立てて宗教外の意義を持つものではない純粋の神道施設につき,地方公共団体が公有地を単純にその敷地として提供しているという事実である。私の見るところ,過去の当審判例上,目的効果基準が機能せしめられてきたのは,問題となる行為等においていわば「宗教性」と「世俗性」とが同居しておりその優劣が微妙であるときに,そのどちらを重視するかの決定に際してであって(例えば,津地鎮祭訴訟,箕面忠魂碑訴訟等は,少なくとも多数意見の判断によれば,正にこのようなケースであった。),明確に宗教性のみを持った行為につき,更に,それが如何なる目的をもって行われたかが問われる場面においてではなかったということができる(例えば,公的な立場で寺社に参拝あるいは寄進をしながら,それは,専ら国家公安・国民の安全を願う目的によるものであって,当該宗教を特に優遇しようという趣旨からではないから,憲法にいう「宗教的活動」ではない,というような弁明を行うことは,上記目的効果基準の下においても到底許されるものとはいえない。例えば愛媛玉串料訴訟判決は,このことを示すものであるともいえよう。)。
 本件の場合,原審判決及び多数意見が指摘するとおり,本件における神社施設は,これといった文化財や史跡等としての世俗的意義を有するものではなく,一義的に宗教施設(神道施設)であって,そこで行われる行事もまた宗教的な行事であることは明らかである(五穀豊穣等を祈るというのは,正に神事の目的それ自体であって,これをもって「世俗的目的」とすることは,すなわち「神道は宗教に非ず」というに等しい。)。従って,本件利用提供行為が専ら特定の純粋な宗教施設及び行事(要するに「神社」)を利する結果をもたらしていること自体は,これを否定することができないのであって,地鎮祭における起工式(津地鎮祭訴訟),忠魂碑の移設のための代替地貸与並びに慰霊祭への出席行為(箕面忠魂碑訴訟),さらには地蔵像の移設のための市有地提供行為等(大阪地蔵像訴訟)とは,状況が明らかに異なるといわなければならない(これらのケースにおいては,少なくとも多数説は,地鎮祭,忠魂碑,地蔵像等の純粋な宗教性を否定し,何らかの意味での世俗性を認めることから,それぞれ合憲判断をしたものである。)。その意味においては,本件における憲法問題は,本来,目的効果基準の適用の可否が問われる以前の問題であるというべきである。

 3 もっとも,原審認定事実等によれば,本件神社は,それ自体としては明らかに純粋な神道施設であると認められるものの,他方において,その外観,日々の宗教的活動の態様等からして,さほど宗教施設としての存在感の大きいものであるわけではなく,それゆえにこそ,市においてもまた,さして憲法上の疑義を抱くこともなく本件利用提供行為を続けてきたのであるし,また,被上告人らが問題提起をするまでは,他の市民の間において殊更にその違憲性が問題視されることも無かった,というのが実態であったようにもうかがわれる。従って,仮にこの点を重視するならば,少なくとも,本件利用提供行為が,直ちに他の宗教あるいはその信者らに対する圧迫ないし脅威となるとまではいえず(現に,例えば,本件氏子集団の役員らはいずれも仏教徒であることが認定されている。),これをもって敢えて憲法違反を問うまでのことはないのではないかという疑問も抱かれ得るところであろう。そして,全国において少なからず存在すると考えられる公有地上の神社施設につき,かなりの数のものは,正にこれと類似した状況にあるのではないか,とも推測されるのである。このように,本件における固有の問題は,一義的に特定の宗教のための施設であれば(すなわち問題とすべき「世俗性」が認められない以上)地域におけるその存在感がさして大きなものではない(あるいはむしろ希薄ですらある)ような場合であっても,そのような施設に対して行われる地方公共団体の土地利用提供行為をもって,当然に憲法89条違反といい得るか,という点にあるというべきであろう。
 ところで,上記のような状況は,その教義上排他性の比較的希薄な伝統的神道の特色及び宗教意識の比較的薄い国民性等によってもたらされている面が強いように思われるが,いうまでもなく,政教分離の問題は,対象となる宗教の教義の内容如何とは明確に区別されるべき問題であるし,また,ある宗教を信じあるいは受容している国民の数ないし割合が多いか否かが政教分離の問題と結び付けられるべきものではないことも,明らかであるといわなければならない。憲法89条が,過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み,個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に(制度として)保障したとされる趣旨及び経緯を考えるとき,同条の定める政教分離原則に違反するか否かの問題は,必ずしも,問題とされている行為によって個々人の信教の自由が現実に侵害されているか否かの事実によってのみ判断されるべきものではないのであって,多数意見が本件利用提供行為につき「一般人の目から見て,市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し,これを援助していると評価されてもやむを得ないものである」と述べるのは,このような意味において正当というべきである。
 4 なお,本件において違憲性が問われているのは,直接には,市が公有地上にある本件神社施設を撤去しないという不作為についてである(当初市が神社施設の存する本件土地を取得したこと自体が違憲であるというならば,その行為自体が無効であって,そもそも本件土地は公有地とは認められないということにもなりかねないが,被上告人(原告)らはこのような主張をするものではない。)。この場合,その不作為を直ちに解消することが期待し得ないような特別の事情(例えば,施設の撤去自体が他方で信教の自由に極めて重大な打撃を与える結果となることが見込まれるとか,敷地の民有化に向け可能な限りの努力をしてきたものの,歴史的経緯等種々の原因から未だ成功していない等々の事情が考えられようか。)がある場合に,現に公有地上に神社施設が存在するという事実が残っていること自体をもって直ちに違憲というべきか否かは,なお検討の余地がある問題であるといえなくはなかろう。しかし,本件において,上告人(被告)はこのような特別の事情の存在については一切主張・立証するところがなく,むしろ,そういった事情の存在の有無を問うまでもなく本件利用提供行為は合憲であるとの前提に立っていることは明らかであるから,この点については,原審の釈明義務違反を問うまでもなく,多数意見のように,本件利用提供行為が憲法89条に違反すると判断されるのもやむを得ないところといわなければならない。

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政教分離原則 憲法20条3項により禁止される国の宗教的活動とは。津地鎮祭事件最高裁判例S52.7.13

2012-05-25 15:55:59 | シチズンシップ教育

 政教分離規定は、「制度的保障の規定」であり、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を保障しようとしています。

 日本が、政教分離を打ち出したことには、過去において、信教の自由が保障されていなかったという歴史的経過があります。
 すなわち、大日本帝国憲法に一応は信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請されました。他方、一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられたこともありました。

 第二次世界大戦終了とともに、憲法は、国家と神道が密接に結び付くことで生じた種々の弊害をかんがみ、信仰の自由を無条件に保障するとし、さらに、その保障を一層確実にするために、政教分離規定を設けました。
 国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしました。

 それにより、実際に、完全な国家と宗教との分離が完全になされているかというと、実現不可能であり、一定の限界があります。

 なぜなら、宗教は、信仰という個人の内心的な事情としての側面を有するにとどまらず、同時にきわめて多方面に外部的な社会事象としての側面をともない、教育、福祉、文化、民族風習など広範な場面で社会生活と接触することになり、その当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは、教育、福祉、文化などに関する女性、援助等の諸施策を実施するにあたって、宗教との関わり合いを生じることを免れえなくなっているからです。
 完全に政教分離を貫こうとすれば、社会生活の各方面に不合理な事態を生じることも免れ得ないといえます。
 例えば、宗教系私立学校に対する公的助成、文化財である寺社などへの補助金支出、刑務所における教誨活動などが許されないことになります。

 よって、政教分離の原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するが、国家と宗教とのかかわりを全く許さないとするのではなく、宗教とのかかわりあいをもたらす行為の目的及び効果にかんがみそのかかわりあいが相当とされる限度を超えるものと認める場合に、許さないと解すべきであります。

 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動とは、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきとされています。

 典型的には、宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動。
 そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきものである限り、当然、これに含まれます。
 そして、この点から、宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、
 *当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、
 *その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうか
など、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、
 *当該行為の行われる場所、
 *当該行為に対する一般人の宗教的評価、
 *当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、
 *当該行為の一般人に与える効果、影響等、
諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければなりません。






******************************


憲法20条

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


********津地鎮祭事件最高裁判例S52.7.13 判決文 抜粋**********************

→日本で、政教分離原則が問題として本格的に争われた初めての訴訟として重要な判例

行政処分取消等請求事件

【事件番号】 最高裁判所大法廷判決/昭和46年(行ツ)第69号
【判決日付】 昭和52年7月13日




 (一) 憲法における政教分離原則
 憲法は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(二〇条一項前段)とし、また、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条二項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設ける一方、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(同条一項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(同条三項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、…………これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(八九条)として、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。

 一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。

 わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。
 元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。


 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない
 更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。
 右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。


 (二) 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動
 憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである
 その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない。

 なお、憲法二〇条二項の規定と同条三項の規定との関係を考えるのに、両者はともに広義の信教の自由に関する規定ではあるが、二項の規定は、何人も参加することを欲しない宗教上の行為等に参加を強制されることはないという、多数者によつても奪うことのできない狭義の信教の自由を直接保障する規定であるのに対し、三項の規定は、直接には、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障し、もつて間接的に信教の自由を保障しようとする規定であつて、前述のように、後者の保障にはおのずから限界があり、そして、その限界は、社会生活上における国家と宗教とのかかわり合いの問題である以上、それを考えるうえでは、当然に一般人の見解を考慮に入れなければならないものである。右のように、両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、二項の宗教上の行為等と三項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、二項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて三項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ三項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、二項に違反することとなるのはいうまでもない。
 それ故、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動について前記のように解したからといつて、直ちに、宗教的少数者の信教の自由を侵害するおそれが生ずることにはならないのである。

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憲法学課題:政教分離 地震被害で倒壊した神社再建のため町による再建資金貸出(審査基準有)は許されるか

2012-05-25 12:26:17 | シチズンシップ教育
 私が、最も楽しみにしている課目のひとつが憲法学です。

 その憲法学で、明日がタイムリミットの課題が出されました。
 まさに、ありうる話と思います。

 このようなケースを机上で考え、机上で考えることで終わらすことなく、得た知識は、実社会に生かしていきたいと思っています。

 と言いつつ、まずは、明日の課題もまたやらねば・・・

 


******課題*****


次の文を読んで問に答えなさい。(司法試験用の解答用紙4枚以内で書いてみて下さい。)

 北海道の離島にあるA町は、大規模な地震と津波の被害(以下「本件地震等による被害」という。)を受けて、多くの建物が倒壊した。

 A町は、北海道と国の支援を受けて、被災者(個人または法人)に対して、収入・被害程度等の一定の基準(以下「本件基準」)を満たす場合には、本人の申請を受けて審査し自宅・店舗等の営業施設の再建ための資金を被害額に応じて貸し出すことにした。

 A町にある神社Bは、長年にわたって町民に親しまれてきた神社であり、例大祭は多数の島民が参加する島内の一大行事であったところ、本件地震等による被害のために、完全に倒壊し、また、付属する他の設備も冠水し、祭礼等の神社として機能を営むことができない状態にあった。
 神社Bが属する神社本庁は、神社Bが被った本件地震等の被害に対して支援金を提供したが、神社再建には不十分であったので、神社Bの神主Cは、神社Bの再建のために、A町に対して神社Bは本件基準を満たす者であるとして、再建資金の貸し出しを申請した(以下「本件申請」という)。
 A町役場は、本件申請に対して、本件基準を当てはめたところ、同基準に適合することから、被害額に応じた再建資金を貸し出すことを決定した(以下「本件貸出」という)。

 これに対して、仏教系の新興宗教の信徒であり、島内に住むDは、本件貸出は、政教分離原則に違反する違法な支出であるとして、地方自治法に則り、町長に対して損害の補填を求めて住民訴訟を提起した。

問1 あなたがDの代理人の弁護士であるとすれば、あなたは、本件の住民訴訟において本件貸出に係る憲法上の主張をどのように行いますか。

問2 問1の憲法上の主張についての町側の反論を想定しつつ、あなた自身の見解を論じなさい。

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命は還らないが、損害賠償という命の値段。子どもの算定で養育費控除はしません。最高裁S53.10.20

2012-05-25 09:38:42 | シチズンシップ教育

 命の値段、ものすごく違和感のある話です。

 このような不幸なことが起きないように安全安心を確保していくことが、社会、子どもの周りにいる大人の役割・使命です。

 ただ、万が一、不幸にして、その不条理が起こってしまった場合、その問題を民法上解決するために、命に値段がつけられます。

 

 ここでは、命に値段がある現実は、いやなのですが、その現実から逃げるわけにはいきませんので、民法上の命の値段がつけられる現実を見ておきます。


 

 不法行為によって、生命が奪われた場合の損害賠償です。

 賠償額の算定は、財産的損害と精神的損害(慰謝料)からそれぞれ算出され、その合計額として算定されます。

 以下の表が、わかりやすく項目を整理されています。






 表の中で、 「逸失利益」という概念が用いられますが、原則以下の式で計算されていきます。

 

 逸失利益=就労可能年齢までの平均的な総収入ー(被害者の生活費+中間利息)

 
 逸失利益で生活費がひかれるという点が違和感があるかもしれません。
 その方がもし生きていれば、出て行ったであろう生活に関わる費用が控除されるのです。
 収入を得るために必要な支出ということです。(収入を失うことによる損失と支出を免れたことによる利益の間には直接の関係がある。)

 就労していない子ども(男児)の場合、逸失利益の計算では、原則、平均的な総収入といってもどのような職業についているかわからないため、平均賃金(男性)をもとにした将来の全収入(18~67歳程度)から生活費を控除するという考え方がとられます。
 (最判昭和39.6.24)

 女児の場合、かつては女性の平均賃金をもとにされていましたが、男女合わせた全労働者の平均賃金を用いるようになってきています。(それでもなお、ある意味、男女格差が出る形となっています。)
 (従来 最判昭和49.7.19 → 現在 最決平14.7.9 、東京高判 平成高判平13.8.20)


 子どもの場合も、成人と同じように生活費は控除されます。
 では、養育費まで控除されるのでしょうか。

 最高裁判例で、養育費は、控除されないことが判事されています。
 「交通事故により死亡した幼児の損害賠償債権を相続した者が一方で幼児の養育費の支出を必要としなくなつた場合においても、右養育費と幼児の将来得べかりし収入との間には前者を後者から損益相殺の法理又はその類推適用により控除すべき損失と利得との同質性がなく、したがつて、幼児の財産上の損害賠償額の算定にあたりその将来得べかりし収入額から養育費を控除すべきものではないと解するのが相当である(当裁判所昭和三六年(オ)第四一三号同三九年六月二四日第三小法廷判決・民集一八巻五号八七四頁参照)。」 
 (最判53.10.20、その引用元の最判39.6.24)
 養育費そのものは、親の生きがいの支出であるという風な見なし方です。
 亡くなった子どもの命は、還ってくることはないけれども、そういう状況の下、最高裁の思いやりともとれる判決がなされたのだと思います。
 
*****最高裁ホームページ*****


事件番号

 昭和50(オ)656



事件名

 損害賠償



裁判年月日

 昭和53年10月20日



法廷名

 最高裁判所第二小法廷



裁判種別

 判決



結果

 その他



判例集等巻・号・頁

 民集 第32巻7号1500頁




原審裁判所名

 福岡高等裁判所



原審事件番号

 昭和49(ネ)246



原審裁判年月日

 昭和50年03月27日




判示事項

 一 死亡した幼児の財産上の損害賠償額の算定と将来得べかりし収入額から養育費を控除することの可否

二 将来得べかりし利益を事故当時の現在価額に換算するための中間利息控除の方法とライプニツツ式計算法




裁判要旨

 一 交通事故により死亡した幼児の財産上の損害賠償額の算定については、幼児の損害賠償債権を相続した者が一方で幼児の養育費の支出を必要としなくなつた場合においても、将来得べかりし収入額から養育費を控除すべきではない。

二 ライプニツツ式計算法は、交通事故の被害者の将来得べかりし利益を事故当時の現在価額に換算するための中間利息控除の方法として不合理なものとはいえない。




参照法条

 自動車損害賠償保障法3条,民法709条

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319121435144330.pdf

判決文全文

  主   文

 一 上告人らの本訴請求中上告人らが被上告人ら各自に対し各金三八万七七九二円及びこれに対する昭和四六年七月三一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員の支払を求める請求を棄却した部分につき、原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。
 二 被上告人らは各自上告人らに対し各金三八万七七九二円及びこれに対する昭和四六年七月三一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
 三 上告人らのその余の上告を棄却する。
 四 訴訟の総費用はこれを二分し、その一を被上告人らの負担とし、その余を上告人らの負担とする。

       理   由

 上告代理人古屋倍雄の上告理由第一の一について
 交通事故により死亡した幼児の損害賠償債権を相続した者が一方で幼児の養育費の支出を必要としなくなつた場合においても、右養育費と幼児の将来得べかりし収入との間には前者を後者から損益相殺の法理又はその類推適用により控除すべき損失と利得との同質性がなく、したがつて、幼児の財産上の損害賠償額の算定にあたりその将来得べかりし収入額から養育費を控除すべきものではないと解するのが相当である(当裁判所昭和三六年(オ)第四一三号同三九年六月二四日第三小法廷判決・民集一八巻五号八七四頁参照)。
 したがつて、交通事故により死亡した亡A(当時満一〇歳)の両親である上告人らの被上告人らに対する損害賠償請求について、亡Aの財産上の損害額の算定にあたり、その将来得べかりし収入額から養育費に相当する七七万五五八四円を控除した原判決には、法令の解釈適用を誤つた違法があるといわなければならず、右の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。それゆえ、上告人らの本訴請求中上告人らが被上告人ら各自に対し右七七万五五八四円の二分一にあたる各三八万七七九二円及びこれに対する昭和四六年七月三一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員の支払を求める請求を棄却した部分につき、原判決を破棄し、第一審判決を取り消したうえ、上告人らの右請求を認容すべきである。
 同第一の二について
 原審が亡Aの将来得べかりし利益の喪失による損害賠償につき、本件事故発生時において一時にその支払を受けるものとし、年五分の中間利息を控除するために採用した所論ライプニツツ式計算法は、交通事故の被害者の将来得べかりし利益を事故当時の現在価額に換算するための中間利息控除の方法として不合理なものとはいえず、所論引用の判例(当裁判所昭和三四年(オ)第二一三号同三七年一二月一四日第二小法廷判決・民集一六巻一二号二三六八頁)は複式ホフマン式計算法によらなければならない旨を判示するものではないから、右判断と抵触するものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は、採用することができない。
 同第一の三及び第二について
 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はなく、所論引用の判例に抵触するものではない。所論違憲の主張は、ひつきよう、原審の事実の認定を非難するものにすぎず失当である。論旨は、採用することができない。
 よつて、民訴法四〇八条一号、三九六条、三八六条、三八四条、九六条、九二条、九三条に従い、裁判官大塚喜一郎、同吉田豊の各補足意見、裁判官本林讓の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
 裁判官大塚喜一郎の補足意見は、次のとおりである。
 上告理由第一の一について、私は、交通事故により死亡した幼児の損害賠償額の算定にあたりその将来得べかりし収入額から養育費を控除すべきではないとする多数意見に同調するものであるが、若干の意見を補足しておきたい。
 本林裁判官の反対意見は、養育費は幼児が稼働能力を取得するための必要経費であるから、幼児の将来の得べかりし収入額からこれを控除すべきであるとし、その前提として、失われた稼働能力そのものを積極損害として評価し損害額を算定するという考え方を採るものである。たしかに、現実所得のない被害者の損害額算定については、稼働能力喪失という考えは一応の説得力を持つており、反対意見引用の判例は、この考え方をうかがわせるものと解せられないではないが、なお検討すべき未解決の問題が残されている。すなわち、この考え方を進めていくと、有職者が死亡した場合又は労働能力の全部若しくは一部を喪失したが減収額の明らかな場合に稼働能力喪失説はどう妥当するか、もし、これらの場合については従来の所得喪失説により、現実所得のない被害者については稼働能力喪失説によるとするならば、両者の理論的整合性をどのように考えるか、さらに、稼働能力の評価が抽象的・観念的に流れるおそれはないかなど、その周辺の問題をも含めて、総合的に検討すべき問題が少なくないし、稼働能力喪失説自体必ずしもまだ十分に整理されたものとはいい難いから、これを立論の前提とすることは問題があるように思われる。
 以上の理由により多数意見引用の判例を変更するだけの決定的な理由は見出し難く、現段階においては、右判例の立場を維持すべきものと考える。
 裁判官吉田豊の補足意見は、次のとおりである。
 上告理由第一の一について、私は、本林裁判官の反対意見に対し一言したい。
 幼児の養育費(教育費、生活費等)は、一般に殆んどの場合、父母その他の扶養義務者が負担するものであり、逸失利益の取得者である幼児とはその主体を異にするから、その場合損益相殺の法理を適用する余地はないのである。幼児本人がその養育費を負担するのは、父母その他の扶養義務者がおらず、しかも幼児本人が資産を有するという極めて稀な場合であつて、反対意見がこのような稀有な事象を前提として立論するのは、妥当でない。
 反対意見は、幼児の養育費を幼児が稼働能力を取得するための必要経費として幼児の将来の得べかりし収入額から控除すべきであるというが、稼働能力喪失説に立つても、稼働能力の評価は、稼働能力を取得するための必要経費を要因としなければならないものではない。
 仮に稼働能力を取得するための必要経費を稼働能力評価の要因とする場合でも、交通事故により死亡した幼児本人の財産上の損害額を算定するについて、幼児の将来取得すべき収入の基本である稼働能力を取得するまでに要すべき養育費を幼児の右損害額から控除することを要すると解することは、幼児本人が養育費を負担するというきわめて稀な場合を想定し、その支出を免れたことを前提とすれば、必ずしも不合理ではない。しかし、幼児の養育費は、一般に殆んど父母その他の者が負担するのであり、その場合、死亡した幼児は稼働能力を取得するまでに父母その他の者から取得すべき養育費相当額を喪失したことになるから、むしろ喪失した養育費相当額も幼児の損害額として計上すべきものとさえ考えられる。そうすると、反対意見が、幼児の損害賠償債権を相続した者が幼児の死亡にともなつて養育費の支出を免れた場合であると否とにかかわらず、死亡した幼児本人の財産上の損害額を算定するについて養育費を控除すべきであるとするのは、理論が一貫しない。
 幼児の養育費は父母その他の者が負担するのが一般であるのに、なお幼児の養育費をその稼働能力を取得するための必要経費として、その稼働能力に基づく収入からこれを控除すべきものとすれば、成人が死亡した場合においても、その稼働能力を取得するために要した養育費は、これをその収入から控除すべきものとしなければならないのに、反対意見の趣旨はこれを否定する。したがつて、反対意見が幼児の死亡の場合にのみ養育費を控除することを要するとすることは、むしろ成人の死亡の場合との均衡を失することになるのではないかと思う。
 なお、幼児の交通事故による損害賠償額の算定として逸失利益から養育費を控除するという考え方は、加害者と被害者との損害負担の衡平を図るための便法にすぎない面のあることを否定しえないと思われるのであるが、保険制度の発達等社会経済の成長をみるにいたつた今日においては、幼児の養育費を控除することによつて損害賠償額の多額化を抑制することは、必ずしも右の衡平を得るゆえんではないといわなければならない。
 裁判官本林讓の反対意見は、次のとおりである。
 私は、上告理由第一の一について、多数意見とは異なり、交通事故により死亡した幼児の財産上の損害額を算定するにあたつては、養育費を控除すべきものであると考える。すなわち、幼児のように現実に所得がなく、不確定な要素の多い被害者については、失われた稼働能力そのものを積極損害として評価し、損害額を算定すべきであり(当裁判所昭和四四年(オ)第五九四号同四九年七月一九日第二小法廷判決・民集二八巻五号八七二頁はこの立場によるものと考える。)、幼児が稼働能力を取得するまでに要すべき生活費、普通教育を受けるための費用等の養育費についても、これを稼働期間中の生活費に準ずる必要経費として幼児の将来の得べかりし収入額から控除することを要すると解するのが相当である。けだし、幼児は、死亡当時においては稼働能力をもたない未完成の状態にあるにもかかわらず、既に稼働能力を有する成人が死亡した場合と同様に将来の得べかりし収入額から稼働期間中の生活費等の必要経費のみを控除した額をもつてその財産上の損害額とし、幼児が稼働能力を取得するためにはそれまでの間の養育費を必要とするはずであつたことをまつたく考慮しないのは、成人が死亡した場合との均衡を失することとなり、相当ではないからである。右に述べたところは、死亡した幼児の財産上の損害を算定するについての法理であつて、右損害賠償債権を相続した者が幼児の死亡にともなつて養育費の支出を免れた場合であると否とにかかわらずその適用をみるものであることはいうまでもない。
 なお、吉田裁判官の補足意見のうち、成人死亡の場合との不均衡を指摘される点につき一言する。養育費の控除は、幼児の将来うべかりし財産上の損害額を算定するためのものであるから、控除すべき養育費も事故後成人に達するまでの間のそれであり、事故前の養育費を含まない趣旨であることは当然である。したがつて、成人が死亡した場合には、養育費を控除する問題は起こる余地がないのである。
 以上の理由により養育費を控除すべきでないとする当裁判所の判例(昭和三六年(オ)第四一三号同三九年六月二四日第三小法廷判決・民集一八巻五号八七四頁)は変更すべきである。
 これと結論において同旨の見地に立つて、亡Aの財産上の損害額の算定にあたり、その将来の得べかりし収入額から養育費に相当する金額を控除すべきものとした原審の判断は正当として是認することができる。よつて、本件上告は棄却すべきものと考える。
    最高裁判所第二小法廷
        裁判長裁判官  大塚喜一郎
           裁判官  吉田 豊
           裁判官  本林 讓
           裁判官  栗本一夫

********************************************



事件番号

 昭和36(オ)413



事件名

 損害賠償等請求



裁判年月日

 昭和39年06月24日



法廷名

 最高裁判所第三小法廷



裁判種別

 判決



結果

 その他



判例集等巻・号・頁

 民集 第18巻5号874頁




原審裁判所名

 名古屋高等裁判所



原審事件番号





原審裁判年月日

 昭和36年01月30日




判示事項

 事故により死亡した幼児の得べかりし利益の算定は可能か。




裁判要旨

 事故により死亡した幼児の得べかりし利益を算定するに際しては、裁判所は、諸種の統計表その他の証拠資料に基づき、経験則と良識を活用して、できるかぎり客観性のある額を算定すべきであり、一概に算定不可能として得べかりし利益の喪失による損害賠償請求を否定することは許されない。




参照法条

 民法709条

判決文全文

主   文

 原判決中、得べかりし利益の損害賠償請求につき原審の認容した部分を破棄する。
 右破棄にかゝる部分について、本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。
 上告人らのその余の上告を棄却する。
 前項の部分に関する上告費用は上告人らの負担とする。

       理   由

 上告代理人三宅厚三の上告理由第一点について。
 (一) 上告人らは、論旨一、において、総論的に、本件のごとく被害者が満八才の少年の場合には、将来何年生存し、何時からどのような職業につき、どの位の収入を得、何才で妻を迎え、子供を何人もち、どのような生活を営むかは全然予想することができず、したがつて「将来得べかりし収入」も、「失うべかりし支出」も予想できないから、結局、「得べかりし利益」は算定不可能であると主張する。なるほど、不法行為により死亡した年少者につき、その者が将来得べかりし利益を喪失したことによる損害の額を算定することがきわめて困難であることは、これを認めなければならないが、算定困難の故をもつて、たやすくその賠償請求を否定し去ることは妥当なことではない。けだし、これを否定する場合における被害者側の救済は、主として、精神的損害の賠償請求、すなわち被害者本人の慰藉料(その相続性を肯定するとして)又は被害者の遺族の慰藉料(民法七一一条)の請求にこれを求めるほかはないこととなるが、慰藉料の額の算定については、諸般の事情がしんしゃくされるとはいえ、これらの精神的損害の賠償のうちに被害者本人の財産的損害の賠償の趣旨をも含ませること自体に無理があるばかりでなく、その額の算定は、結局において、裁判所の自由な裁量にこれを委ねるほかはないのであるから、その額が低きに過ぎて被害者測の救済に不十分となり、高きに失して不法行為者に酷となるおそれをはらんでいることは否定しえないところである。したがつて、年少者死亡の場合における右消極的損害の賠償請求については、一般の場合に比し不正確さが伴うにしても、裁判所は、被害者側が提出するあらゆる証拠資料に基づき、経験則とその良識を十分に活用して、できうるかぎり蓋然性のある額を算出するよう努め、ことに右蓋然性に疑がもたれるときは、被害者側にとつて控え目な算定方法(たとえば、収入額につき疑があるときはその額を少な目に、支出額につき疑があるときはその額を多めに計算し、また遠い将来の収支の額に懸念があるときは算出の基礎たる期間を短縮する等の方法)を採用することにすれば、慰藉料制度に依存する場合に比較してより客観性のある額を算出することができ、被害者側の救済に資する反面、不法行為者に過当な責任を負わせることともならず、損失の公平な分担を窮極の目的とする損害賠償制度の理念にも副うのではないかと考えられる。要するに、問題は、事案毎に、その具体的事情に即応して解決されるべきであり、所論のごとく算定不可能として一概にその請求を排斥し去るべきではない。
 (二) よつて、以上の観点に立ちながら、進んで、上告人らが、論旨二、以下において各論的に、原判決の算定方法の違法を主張する諸点につき判断することとする。
  (い) 上告人らは、まず、原審が、統計表に基づいて余命年数を求め、二〇才から五五才まで三五年間を稼働可能期間とし、国民の収入及び支出の平均又は標準を示すものとは認められない判示諸表によつて「得べかりし収入」と「失うべかりし支出」を想定して「得べかりし利益」を算出しているのは不合理であると主張する。
   (イ) 稼働可能期間について。
     しかしながら、原審は、本件被害者らは、本件事故当時満八才余の普通健康体を有する男子であること、判示統計表により同人らの通常の余命は五七年六月余であり、二〇才から少くとも五五才まで三五年間は稼働可能であることを認定しているのであり、右認定は、平均年令の一般的伸長、医学の進歩、衛生思想の普及という顕著な事実をも合せ考えれば、相当としてこれを肯認することができ、この点に所論のごとき不合理は認められない。
   (ロ) 収入額について。
     つぎに、原審は、本件被害者らは、右稼働可能期間中、毎年、判示証拠資料により認めうる昭和三三年四月から九月までの間のわが国における通常男子の一ヵ月の平均労働賃金二万六四八円、元年分にして二四万七七七六円の金額を下らない収入を得べきものと推認し、その年収額から後出の支出年額を控除した額を基準としてホフマン式計算方法による一時払いの損害額を算出しているのであるが、被害者らがいかなる職業につくか予測しえない本件のごとき場合においては、通常男子の平均労賃を算定の基準とすることは、将来の賃金ベースが現在より下らないということを前提にすれば、一応これを肯認しえないではないが、収入も一応安定した者につき、将来の昇給を度外視した控え目な計算方法を採用する場合とは異なり、本件のごとき年少者の場合においては、初任給は平均労賃よりも低い反面、次第に昇給するものであることを考えれば、三五年間を通じてその年収額を右平均労賃と同額とし、これを基準にホフマン式計算方法により一時払いの額を求めている原審の算出方法は、これを肯認するに足る別段の理由が明らかにされないかぎり、不合理というほかはないところ、原判決はこの点につきなんら説明するところがないので、少くとも右の点において原判決には理由不備の違法があるものといわなければならない。
   (ハ) 支出額について。
    (A) 原審は、本件被害者らの稼働可能期間中における毎年の生活費は、判示証拠資料により認めうる昭和三三年度における勤労者の平均世帯(世帯員数四・四六人)の実支出額一カ月三万六三八円、一人平均六八六九円、その元年分である八万二四二八円と同額と認めるのを相当としているところ、上告人らは、本件被害者らは何時結婚し、何人の子供をもち、いかなる生活を営むか不明であるばかりでなく、世帯主の生活費は他の世帯員のそれより多いことは経験則上顕著であるから、世帯の支出額を均分したものを世帯主と認められる被害者らの生活費とすることは不合理であると主張する。ところで、被害者らが独身で生活するという特別の事情が認められない本件のごとき場合においては、平均世帯を基準として被害者ら各自の生活費を算出すること自体は、一応これを肯認しえないではないが、原判決が、首肯するに足る理由をなんら示すことなく、右三五年間を通じて被害者らの生活費が昭和三三年度の前示生活費と同額であるとしていること、及び前示世帯の支出額を世帯員数で均分したものが被害者ら(男子であり、世帯主となるものと推認される)の生活費であるとしているのは、理由不備の違法があるものといわなければならない。
    (B) 上告人らは、さらに、論旨二の後段において、被害者らの収入からは、被害者本人の生活費のみならず、被害者らの負担すべき扶養家族の生活費をも控除すべきであると主張するが、収入から被害者本人の生活費を控除するのは、本人の生活費は、一応、収入を得るために必要な支出と認められるからであるが(収入を失うことによる損失と支出を免れたことによる利益の間には直接の関係がある)、扶養家族の生活費の支出と被害者本人の収入の間には右のごとき関係はなんら認められないのであるから、扶養家族の生活費の額は、収入額からこれを控除すべきではなく、この点に関する原判旨は、簡に失しているが、結論において正当であり、所論は採用し難い。
    (C) 上告人らは、また、論旨三において、被害者らの得べかりし収入額から、稼働可能期間経過後(五五才より後)に被害者らが支出すべかりし生活費を控除すべきであると主張するが、右支出も前記収入と前述のごとき直接の関係に立つものでないばかりでなく、五五才を超えても無収入であるとはかぎらず、また、第三者による扶養もありうることであるから、その間の生活費を前記収入から当然に控除しなければならない理由はない(二〇才までの期間における生活費についても同様であり、上告人らも右生活費を右の意味において控除すべしとは主張していない)。この点に関する原判旨もまた簡に失しているが、結局において正当であり、所論は採用しえない。
    (D) 上告人らは、さらに二〇才ないし五五才を基準として損害額を算定すれば、一才の幼児が死亡した場合と一八・九才の青年が死亡した場合とでは、その「得べかりし利益」は同額となり、二五・六才以上の成年が死亡した場合のそれは、一才の幼児が死亡した場合のそれより少額となつて不合理であると主張するが、所論は、ホフマン式計算方法を度外視し、かつ、稼働可能期間の長短を忘れた議論であり、採用のかぎりでない。
    (E) 上告人らは、また、論旨三において、本件損害賠償請求権を相続した被上告人らは、他面において、被害者らの死亡により、その扶養義務者として当然に支出すべかりし二〇才までの扶養費の支出を免れて利得をしているから、損益相殺の理により、賠償額から右扶養費の額を控除すべきであると主張するが、損益相殺により差引かれるべき利得は、被害者本人に生じたものでなければならないと解されるところ、本件賠償請求権は被害者ら本人について発生したものであり、所論のごとき利得は被害者本人に生じたものでないことが明らかであるから、本件賠償額からこれを控除すべきいわれはない。所論は、採用に価しない。
  (ろ) なお、上告人らは、論旨四において、原判決のホフマン式計算方法の適用の誤りを主張するが、不法行為による損害賠償の額は、不法行為時を基準として算定するのを本則とするのであるから、原審が、ホフマン式計算方法を適用するについて本件事故の時を基準とし、その時における一時払いの額を算出したのは正当である。所論は、ひつきよう、独自の見解の下に原判決を非難するものであり、採用のかぎりでない。
 (三) 以上、要するに、本訴請求中、得べかりし利益の喪失による損害の賠償を求める部分については、原判決に少くとも前示のごとき諸点につき理由不備の違法があることが明らかであり、所論は、結局において理由があるので、原判決は、右限度において破棄を免れない。
 同第二点について。
 上告人らは、原判決が損害額を算定するにつき、被上告人らの監督義務者としての過失をしんしやくしなかつたのは違法であると主張するが、原審認定の事実関係の下においては、被上告人らに監督上の過失が認められないとした原審の判断は、これを肯認しえないではない。所論は、ひつきよう、原審の認定しない事実に基づき又は独自の見解の下に、原判決を論難するに過ぎないものであり、採用し難い。
 よつて、民訴四〇七条、三九六条、三八四条、九五条、九三条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    横   田   正   俊
            裁判官    石   坂   修   一
            裁判官    五 鬼 上   堅   磐
            裁判官    柏   原   語   六
            裁判官    田   中   二   郎

 
 

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現代社会における過失犯処罰の重大性 システムエラーに対する刑事責任を誰が負うか。

2012-05-25 00:22:41 | シチズンシップ教育

1.過失犯を考える上での前提

 刑法では、基本的に故意がなければ、罰しないことになっています。(故意犯処罰の原則、刑法38条1項)

 ただし、「法律に特別の規定がある場合」に、過失でも犯罪として処罰される場合があります。(38条1項但書)

 過失という、「うっかり、不注意で」行ったことが、犯罪になります。

 例えば、生命、身体に関わる利益を侵害した場合などです。(209条、210条、211条)
 以下、条文をみればわかりますが、いずれも、「過失により」とか、「業務上必要な注意を怠り」とか、過失による罪も条文に「規定」されています。


*****刑法*****
(故意)
第三十八条  罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2  重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3  法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。

 第二十八章 過失傷害の罪

(過失傷害)
第二百九条  過失により人を傷害した者は、三十万円以下の罰金又は科料に処する。
2  前項の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
(過失致死)
第二百十条  過失により人を死亡させた者は、五十万円以下の罰金に処する。
(業務上過失致死傷等)
第二百十一条  業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。
2  自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。


2.過失とはなにか。

 注意義務違反をいいます。

 もう少し細かく分析すると、結果予見義務+結果回避義務=注意義務です。

 1)予見可能性のあることがらを、

 2)予見義務を怠り、

 3)回避ができたのに(回避可能性があったのに)

 4)結果回避義務を怠り、
 
 犯罪となる結果が生じることをいいます。


3.過失犯を分析する三つの視点(旧過失論、新過失論、新新過失論)

 過失犯を理解する場合、三つの視点があります。

 1)結果予見可能性、結果予見義務に重点をおく見方(旧過失論)
   あぶないなあと想像する、気づくことができ、危なそうなことをやった点で、予見義務違反となり、過失犯と見なされることになります。
   おわかりのように、過失犯処罰の範囲が大きくなることがわかります。

 2)結果回避可能性、結果回避義務に重点をおく見方(新過失論)
   この場合、対外的な部分である行為すなわち、回避という行為がなされるかどうかに着目します。
   危ないなと気づくべきところ気付き、その発生を予防するために努力すれば、過失は成立しないとします。
   過失犯処罰の範囲は、限定されることになります。

 3)結果回避義務に圧倒的な重点をおく見方(新新過失論、危惧感説、不安感説)
   悪い結果が生じうるという漠然とした危惧感、不安感を抱かれれば、それは、予見可能性が有りとなり、その危惧感、不安感を打ち消すのに十分な完璧な結果回避義務を要求する見方です。
   新過失論で限定されていた、過失犯処罰の範囲が大きくなります。
   かつて、唱えられていましたが、最近また見直されてきている説です。
   公害犯罪や、企業犯罪への対処として使われます。
   

4.予見可能性のとらえ方
(1)三つの見方の違いでどうとらえられているか。

 前述の三つの立場では、予見可能性の程度は、異なります。

 1)旧過失論では、具体的なことがらの予見可能性を当然の前提としています。

 2)新過失論では、具体的予見可能性を一応の前提として要求しています。

 3)新新過失論では、予見というより、その危惧感(不安感)があればよいとします。

(2)どの要素を予見するか

 行為があり、ある因果関係をたどり、結果が起こります。

 その結果と、因果関係の主に二点の予見可能性をみることになります。


5監督者の過失

 行為をした本人ではなく、その上位にあるひとにも過失の罪を着せる考え方があります。

 その場合、二つの監督過失があります。

 1)本来の監督過失
 上位者が、部下がきちんとやっているかを監督することで、それを怠った過失です。

 2)管理過失
 物的・人的な安全体制確立義務違反です。


6. 信頼の原則
 被害者側が、適切な行動をすることを前提に行動していればよく、それを信頼していたが、その信頼を裏切られた結果として、事故が起きた場合、過失責任が問われないとする原則。

 過失犯処罰の範囲を限定することになります。




7.実務での過失犯の正否の検討手順

1)事件の場面・状況の分析

2)どのような行為が求めれるか、注意義務の内容を設定

3)注意義務に違反する具体的な行為を分析

 例えでいえば、

1)場面。状況を分析

2)ハードルの高さを設定

3)なぜ、その高さで飛べなかったかを検証

 の順序で分析します。


8.過失犯をめぐる最近の話題
1)刑法分野で、重要判例が出されている部分です。

2)欠陥製品に対して刑事責任が課せられるようになってきています。
 医薬品、ガス製品、自動車など

3)企業、組織による過失犯 とくにシステムエラーに対する刑事責任が課せられるようになってきています。
 航空機事故、鉄道事故、医療事故など。新しくは原発事故も含まれるかもしれません。
 
 ただし、刑法では、法人を罰する規定はありません。
 そのため、5で述べた監督者の過失が重要で、法人のトップ、社長を過失で裁き、法人を裁くことに代えています。


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