「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

感染を制御しつつ、子ども達の学び・育ちの環境づくりをして行きましょう!病児保育も鋭意実施中。子ども達に健康への気づきを。

第146回芥川賞受賞作品 『共喰い』田中愼弥氏を読んで

2012-07-05 23:00:00 | 仲間・先生

 昭和63年の7月、17歳の誕生日を迎えた主人公の篠垣遠馬。ちょうど、その頃を思い返せば、私は、大学生であった。描かれている時代が重なり親近感を覚える。

 遠馬の住んでいる場所は、幅が10mほどの川があり、下水道の整備が完全でないため汚水がそのまま川へ流れ込み、川からにおいが来る。その川のにおいを嗅ぐと帰ってきたという気になる。嬉しいのでも苦しいのでもない、川を川だと改めて思うことも、橋を橋だと思うこともないのと同じ、いつもの感覚を抱いて生きてきた。17歳の誕生日に、いつもの感じだな、と思ったのははじめてという経験をする。

 遠馬が経験したその夏は、とても大きな出来事であった。

 セックスの時に女性をなぐる父親、その習性から逃げるように離婚した母親、その母親が、嵐の日に氾濫しかかった川べりで父親を刺し殺す。

 きっかけは、遠馬の恋人会田千種を、社の中で強姦したことを聞きつけたことであった。父親の暴挙は、再婚した妻が、出て行ったことを知ったことが原因していた。

 田中慎弥氏は、『共喰い』の中で、17歳という若者に遠馬は父を失い、母は拘置所に入り、恋人は父親に乱暴されるという未成年にしては過酷な三つの悲劇を同時に経験させたのである。私は、三つのことを感じる。

 まずは、遠馬という若者の自我の弱さである。

 もし、遠馬が夏祭りのその日、嵐であったけど、千種と再開の約束をしたその約束通り、待ち合わせの社に行っていれば、すべての悲劇が起こらなかったのではないかとたいへん歯がゆい思いをもつ。

 大事な恋人のことを思うのであれば、若者らしく積極的に会い、セックスの時に生じたわだかまり、すなわち、父から遺伝したセックスの最中の乱暴な振る舞いを解消する努力をし、二人の時間を積極的に作る努力をしてほしかった。

 千種のほうから切り出してくれた夏祭りの約束を、嵐ごときの理由で反故にするのは、本当に千種を大切なひとと本心では思っていないのではないかと思いたくなる。

 ことが終わってしまった後ではあるが、社で千種と再会し、悲劇の夜を母親の家で一緒に過ごした二人は、父の死とともに生まれ変わった人生を送ることを祈る。
 

 二つ目は、女性の強さである。

 セックスのときに暴力を振るう男とそれでも一緒に生活し子を身ごもった父の再婚の相手琴子は、結局は、決意し、父のもとを去る。母は、父と別れ、右腕の手首の先がないという障害を持ちながら魚屋を営む。父の非常な行いを許さずに嵐の日、刺し殺す。父がこれ以上悲劇を生むことを、身をもって制したのであろう。逮捕されたとき、鳥居を潜らずによけて通った。
 父の振る舞いは一種のドメスティックバイオレンスであった。女性は、弱者に立たされるが、自分たちでその難局を切り抜けていった。

 どうしようもない人は、どうしようもない人のままであり、自分のその後の人生をかけてまで、無くす努力をすべきであったのか、冷静にみれば、判断が分かれるところではある。強姦という罪を犯したものとして、司法に裁いてもらいさえすればよくて、なにも、自らの手をかけてまで、すべきことであったのかどうかは、不明である。母はそれを選択した。その選択を、遠馬は、拘置所での母の生理用品の心配をする暇があるのであったら、十分に認識をし直し、父のような暴力を振るうひとにならぬように心してほしい。
 

 最後の三つ目は、子ども達が宿す希望である。

 物語の中で、唯一、明るく立派な人間像として描かれていたのは、子どもたちである。

 子どもたちは、大人から祭りの踊りの指導を受ける。小学生の子ども達は年の離れた高校生の遠馬を知っており、親しいやりとりがなされている。

 すなわち、子どもたちが、遠馬と千種の出会いの場をセットする。千種の不幸を、遠馬に知らせる。母親が逮捕されたときの遠馬も知らない状況をきちんと遠馬に伝える。

 自分が子どもの頃は、近所の中学生、高校生と遊ぶことはあった。昭和63年にそのような地域がある想定で描かれている。

 地域の中で、子どもが育てられることは、ひとつの理想である。親、先生という縦の関係性だけでなく、年の離れた兄、姉との斜めの関係性から、いろいろなことを子ども達は学ぶのである。模範とはならなかったが、遠馬と千種の男女の恋もそのひとつであった。

 残念ながら、今は、斜めの関係性ができる地域は日本に存在するのであろうか。

 果たして、この地域に行政が、介入できることは、下水工事であった。都市化が進み、川の臭いが消え、そして、残念ながら、子ども達と大人が親密な交流を持つことができる地域が消えていくのであろう。


 以上、三点、女性像、若者像そして地域の中の子どもたちについて感じた。
 どんな時代になったとしても強く生きる女性の姿はある。その一方、遠馬を通して描かれた若者像は、一抹の不安を抱くのであるが、大切なひとを守る思いだけでも自我を強く持って生きていってほしい。そして、物語で描かれた地域の中で子ども達の育つ場は再生しなくてはならないと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする