京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

思い出の器

2025年03月03日 | 日々の暮らしの中で
 「折に触れての幸せはおもいだすことばのあること」

と西野文代さんの著書にあった。

娘家族が5年間ほど大阪に住まいを移していたとき。
長女の孫娘が小学校卒業を控えて、家族でやって来た。雛膳づくりに一緒に包丁を持っていたとき、突然、娘の悲鳴にも似た声が上がった。
「あぁ―、ルーカスあぶない! こわれるよ!」
1歳3ヵ月になる第3子が仕丁の人形を払いのけ、赤い毛氈が敷かれた壇上に上がろうとしたのだ。

「あー、あー」としきりに指を指す。
女雛を見ていたのかしら。きれいだよね。
橘の花の黄色い花芯が落ちていた。

ひなあられのつまみ食いはよくあることでも、この雛段に上るという発想はなかったので、
夫と二人の眠りかけたような平素とうって変わった、こらえても笑いがこぼれるひとときを過ごさせてもらっていた。


何かに触れて、普段は眠っている思い出が器のなかから顔をだす。
「人間とは思い出の器」とは福島泰樹さんの言葉だが、古いものの上に新しいものが積み重なっても、けっして器が満杯になることはない。
意識的に忘れ去ったり、こぼし棄てたり、あたためつづけたり、出したりしまったり様々あれど、人は記憶で出来ていると納得する。

折に触れて思いだすことがある、できることは、幸せなのだ。

「あー、あー」とおしゃべりしていた子も3年生になってひと月余りがすぎた。
コメント (1)
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