京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

人をそしらず自慢せず… ちょっと孫話

2025年02月18日 | HALL家の話
        
1/31学校帰りに親友のJ君と魚釣り。クリークで釣り上げました(左) 
一昨日、釣竿を買ってもらったのだとか(右)
昨日は帰宅後に家から近い場所で、大きな魚を釣り上げました。このサイズの違いは竿のせい?


釣ったのは孫のタイラーですが、この魚の名はテイラー(Tailor)と呼ばれ、オーストラリアやニュージーランドではよく知られているようですが日本ではあまり見かけない魚だそうです。

友人やその家族に連れられ、魚釣りの楽しさを覚えはじめたのか。
“肩たたき 激励し合える人がある おお我こそ この世の幸運児~!!”
などと孫Tなら口にしそう…、だけどちょっと古めかしいや。



過日ゴールドコーストで開催された試合で、偶然にも主催者側のカメラマンがこのわずかな瞬間を追ってくれていたようです。

   

シュートを決めたのはチームメイトです。この孫Lのパスを受けて、みごとゴ~~~~ル。
所属するクラブのページにもアップロードされて、親はにっこにこ。応援団もにこにこ。
巧みなボールコントロール。“”華麗なるゴールアシスト”、なんて言って賞賛。もちろん私がです。


なんと言っても、パンパースでお尻を膨らませていた頃からボールを追い、その相手をしたのが私ですからね。

人をそしらず自慢せず…。って自慢してるじゃないの。いえー、自慢じゃないのよ。
思うに、彼らの生き生きした姿が嬉しいのだな。笑ふてくらそ ふふふふふ。
Tylerの、Lukasの、味のある一言が聞きたいなあ。


   そしる風ほめる風をもそのままに 柳になりて南無阿弥陀仏  
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅が、満開ですよ / 梅の蕾

2025年02月16日 | こんな本も読んでみた

「私の家の庭に植えられている梅が、満開ですよ」

諦めていた診療所の医師・堂前が戻って来た。
歓声をあげたいような村長・村瀬の心の内は、夫人から分けてもらった梅の木が今満開を迎えているという歓びの声掛けとなって表われ、しみじみとするラストだった。
この梅の木は、三陸海岸に近い漁村の診療所に家族で赴任してきた堂前医師の妻が宅配便で苗木を取り寄せ、多くの村の人たちに贈ったものだった。
子どもは学校に馴染み、夫人は村人たちと山野を歩き回り、生活にも十分満足して暮らしていた。けれど夫人は白血病だった。

葬儀は湘南にある妻の実家で営まれた。
葬儀には岩手ナンバーのマイクロバス6台に分乗した200人を超える村人たちが駆けつけた。夜を徹してやって来たのだ。
わずか2年の日々に築かれた縁の深さに、思わず熱い気持ちがこみあげる感動の場面だった。


ブログを通じご紹介いただいた「梅の蕾」は、『遠い幻影』(吉村昭)に収められた12の短編の一つだった。
さほど多くは読んでいないが、そのなかでも短編集は初めてだった。

一篇一篇違うテーマで様々な人生を見せながら、それでいて描かれた世界は人間への慈しみが通底している。
短編だからこそだろう、どの作品もラストの切り上げ方がなんとも巧みだ。いいなあ!と思えて余韻に浸る。氏の優しさに触れるせいでもあろう。
文章も滑らかで、どことなく品?があるのをここであらためて感じていた。

表題作の「遠い幻影」では、印象深い記述に多く触れた。
「死はいつ訪れるかわからないが、漠とした記憶を記憶のままにしておきたくない気持ちがある。この世に生きていた間の事柄は、出来得るかぎりはっきりとさせ、死を迎えたい」


母親の壮絶な死を題材にした著者の私小説「夜の道」が収録されていると知って、同時に買い求めておいた『見えない橋』。今夜はこれを…。

「私の家の庭に植えられている梅が、満開ですよ」
早くこう言いたいものだが老木の蕾はまだまだ小さくてかたい。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3人6つの手をかざして

2025年02月14日 | 日々の暮らしの中で
何か寄り合うことがあれば炭をおこして二人に一つの火鉢を用意したものだったが、出番はぐっと減った昨今。
二人の間の火鉢自体が熱を放ち、手をかざし合いながら暖をとる光景もまた部屋を暖めるぬくもりがある。


薬缶がシュンシュン音を立てる大火鉢のぐるりで、3人6つの手をかざしおしゃべりにいとまがない。

もっとも、二人はそれぞれに一方通行で、気のすむまで自分のことをしゃべり続けるから話は膨らまない。いるんだよなあ、こういう人。わかっているので必然、一歩下がって聞いている。まあ、ようけようけ喋って気を晴らす。噛み合わない話も、そのこと自体をおかしく聞かせてもらうのだ。
ただ…。

昔から少しも変わらないまま歳だけは80歳になられた感じのTちゃん。
「keiさん、おとうちゃんがな死にそうなんよ」と言いだす。
自分の連れ合いを他人に「おとうちゃん」というのも若いときからだ。けど、今はそんなことより「死にそう」だというTさんの様態が気になる。

入院しているのだが、昨日も今日もTちゃんは孫のピンクの傘を杖代わりにして、どこへ行くのか家のぐるりを歩いている。
「わたしは今年なんと80になるんやわ、keiさん」 会うたびに口にするTちゃん。

どうやらさほど“おとうちゃん”に緊急性はなさそうなのかな。話し半分に聞いてはいるものの、ぞんざいに聞き流せないことだってある。
ぼーっとしていて疲れたような、なんとなく安らいだような…。気を遣うことの要らない心やすさがあるせいかもしれない。

五目豆を炊いた。うまく煮立てて食す楽しみ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたのものになりますように / 12の贈り物

2025年02月12日 | 日々の暮らしの中で

明日はお客さんごとがあるからと思い、境内の落ち葉を熊手でジャリジャリ、ジャリジャリ、敷き詰めた小砂利を撫でるようにしてかき集めた。小一時間もするころ、左側の背脇から腰に重だる~い疲れを感じて、はいそこまで。
雨もしょぼしょぼしてきた。今夜は本格的な雨になるとかだ。意外と寒い。

今日は初めてカワセミを見た記念日。
賀茂川べりを歩いていて、気づけば葉を落とした小さな木に止まっているではないの。カメラを!と取り出す前に飛び去ってしまった。
塑像のようにじっとたたずんでいるのはこれ。






あなたが生まれた日、
あなたがはじめて小さな息をした瞬間、
世界中がよろこびでいっぱいにみたされました。


絵本の表紙を開いて、もう1枚開くと扉があります。そこから中に入りますと、最初の1文にこうあります。
この1文を読んで、あなたはこの本を読んでみようと思いますか?


ではもう少し。あと2文でこのページは終わります

あなたの誕生をいわって、生きとし生けるすべてのものが、
あなたに12の贈り物をさずけました。
あなたがその贈り物を必要とする日のために。


ご存じの方もいらっしゃるでしょう。
12の贈り物って? そのうちの一つは…。ページをめくってみます。

1番目の贈り物は

あなたには、けっしてかれることのない力の泉があります。
つかれはてこれ以上一歩も前に進めないと思ったときも、
あきらめないでください。


(……後略)
漢字にはすべてルビがふってあります。
『12の贈り物 The Twelve Gifts of Birth』 シャーリーン・コスタンゾ作



『ある日、小林書店で。』由美子さんは親しくなった保険代理店の女性にこの本を薦めてみました。何か響くものがあったのか、彼女は会社の社長にも薦め、…
といったエピソードが語られていたのです。

私はしばらく前に、童話を書く友人から紹介され購入していたのです。以来、孫娘が20歳になったら、あるいは社会人となるときのプレゼントにしたいなと思い続けているのです。
一度だけ、お孫さんが生まれる友人に手渡したことがあります。彼女は娘さんに手渡しました。
人から人へと読み継がれてきた一冊のようです。



「すべてを生かし、生かされ、よろこび、感謝する人生が
 あなたのものになりますように。」
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豆粒みたいな本屋でも

2025年02月10日 | こんな本も読んでみた
風は冷たいが、久しぶりの青空が嬉しい。


若い人が読んでいて、「よかった!」と言った。どうよかったのかな。読んでみることにした『あの日、小林書店で。』。

主人公は、出版社と書店の間をつなぐ「出版取次会社」の新人営業ウーマン・大森里香。
東京生まれの東京育ちが大阪支社に配属が決まり、戸惑う日々に小林書店の由美子さんと出会うことで成長していく物語といえようか。小説とノンフィクション(由美子さんのエピソード)を融合させた作品になっている。

店の前を誰も歩いてないような場所でも、商売は立地だけではないと思って頑張ってきた由美子さん。しかし、そうでないとわかっても移転するわけにはいかない。店の大きさ、売り上げの実績などで入荷する本や冊数には差別があり、個人商店の経営は難しい。
小さな町の本屋を続けるために、どうやって本を売るか、どう伝えたら欲しいと思ってもらえるか。お客さんの顔を思い浮かべながら行動してきた由美子さんの様々な挑戦は里香の心に届き、支えとなっていく。


本をほとんど読んでこなかった里香は、由美子さんに薦められて『百年文庫』(ポプラ社 全100巻)を読み始めていた。
読んだ本が圧倒的に少ない。そういう自分みたいな人には、誰が薦めてくれたらその本を読みたいと思うだろう。
お客さんからお客さんに薦めてもらう。お客さん100人に選者になってもらって、それぞれに1冊の推薦文を書いてもらおう。
里香が初めて立てた企画「百人文庫」は、書店でのフェアとして採用された。
どうやって100人を確保するか。店の売り上げにもつなげたい。準備は進んでいく。

私にはどちらの体験もないが、楽しそうなフェアがかつて実際にあったのを知った。
ほんのまくらフェア」が紀伊国屋書店で、「帯Ⅰグランプリ」がさわや書店フェザン店で開催されている。
本の中身を隠したカバーに「書き出し=まくら」の一文を載せて、それだけを手掛かりに本を選んでもらう。同様に中身を隠し、本のタイトルもだが、帯のキャッチコピーだけを頼りに選んでもらう、という試みだった。

文庫本に挟まれていた栞には、こんな言葉が書かれていた。
「なすべきことをなす
 という勇気と、人の声に私心なく
 耳を傾けるという謙虚さがあったならば、
 知恵はこんこんとわき出て
 くるのである。」            (松下幸之助『大切なこと』)

自分は何を大切にして生きているのか。
泣いて笑ってを積み重ねる日々にも、考え続けて取り組めばきっと道は開けるだろうし、自分ならではの価値あるものを生み出していける。そんなことを考えさせてくれた一冊だった。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年寄りの合い言葉は

2025年02月07日 | 日々の暮らしの中で
昨日あたりから冷え込みの厳しさをしんしんと体感。今夕から舞い出した雪がうっすらと積もり始めています。

昨年が少し遅かったという声があがって、今年は明日8日に尼講さんたちの新年会を予定したのでしたが、この寒さ。延期したいと申し入れがあって…。
「わかりました」と応じただけですが、本来予定していた別の集いを一週間ずらしているので、ちょっと複雑。
そうは言っても、お汁を炊くための下準備から始まって場所づくり諸々、考えるだけで震え上がる寒さですから、やっぱり延期でよかったのかも。やはり昨年並みに月末辺りが良いのです。


義母だったら…。「そやなあ、寒い中でせんならんこともない」と、こんなところだろう。
永代経や報恩講などでは、お参りの方々と一緒に義母も私も法話を聞いて過ごしてきた。
お話が終わると、皆さん口々に「よいお話やったなあ」と言った。ああ言った、こうも言ったと振り返る。そこにはいつも半身を揺らすほどに大きくうなずきながら、何度も「ほんまやなあ、ほんまやなあ」と相槌を打つ義母の姿があった。
言葉少なにいて、互いの心を近づけ合うものが生み出されていた。

こんなことを思い返したのは、村田喜代子さんの『飛族』の中にあった「年寄りの合い言葉」として描かれた箇所に誘われたのだ。

五島列島のどこかの島らしい養生島に、3人の女年寄りが住んでいた。そのうちナオさん97歳が亡くなって、イオさん92歳とソメ子さん88歳の二人だけになった。イオさんの娘が母親を本土に連れて行きたい思いで島を訪ねている・・・。


近くの貝殻島で年寄り一人が亡くなったとき、いつまでもしきりに鳴くカラスに「なにがせつのうてそんなに鳴くか」と問いかけたというソメ子さんの話を受けてイオさんが言う。
「おお、思い出したぞ。そうかもしれん、そうかもしれん。わしも…」に、

〈年寄りの話のやりとりは食い違うことがない。およそ彼女らの言い分に争いはなくて、双方の話は相合して溶け合い一つの話としてつながる〉とし、
〈年寄りの合い言葉はいつも「おお、そうじゃ、そうじゃ」か、または「そうかもしれん、そうかもしれん」というものだ〉とあったのだ。

こんなとき、「そやけどな」と一言添えるのは案外男年寄りが多いのかしら?? それは偏見かしら。
もっとも、話がかみ合っていないのにほころびは縫い合わされて、わかり合っている場面もあるのだから面白い。

「寒いから延期にしましょう」 「そやな、おおきに」電話連絡は間違いなく届いたのでした。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口下手で排他的で寂しがり屋で

2025年02月05日 | 日々の暮らしの中で

今朝なんのひょうしにだったか「2月5日」という日付けを目にして、今日が西村賢太さんの祥月命日であったことに気づきました。
氏の芥川受賞作品『苦役列車』を読んだとき、その内容はともかく「この文体好きだ」と感じた思いは、後に読んだ『誰もいない文学館』でも同じように感じたものです。

肉声を聞いてこなかった私は、時折人生に、文学をのなかで語る氏の言葉に耳を傾けることがあり、こちらのNHK ETV特集「魂を継ぐもの〜破滅の無頼派・西村賢太〜」からも、氏の心象に想像を巡らせていたのです。

決して熱心なファンではないし、読んだ作品は2作のみ。それでも何か引かれてきた。どうしてこう引かれるのか。稀有な方だ。
ことばの使い方、作家としての姿勢、文学観、他人との関わり方…、にこだわりの強さを感じ、ときにはその言葉の激しさ、汚さには偏見さえ感じたが、同時に同じ思いをそこに見いだす自分がいたりもする。


1月上旬に三条駅ビル内のブックオフで目にして即買いした『雨滴は続く』。
2016年から「文學界」に連載してきたものが、連載最終回の執筆途中に著者が急逝、未完の遺作となった。2022年2月5日、54歳で亡くなり、3回忌を前に早くも文庫化されている。

【2004年の暮れ、北町貫多は同人雑誌「煉炭」に発表した小説が〈同人雑誌優秀作〉に選出され、純文学雑誌「文豪界」に転載された。これは誰からも
認められることがなかった37年の貫多の人生において、味わったことのない昂揚だった。
次いで、購談社の編集者から30枚の小説を依頼される。貫多にとって純文学雑誌に小説を発表することは、29歳のときから私淑してきた不遇の私小説作家・藤澤清造の“歿後弟子”たる資格を得るために必要なことであった。
しかし、年が明けても小説に手を付ける気にはなれなかった。貫多に沸き起こった、恋人を得たいとの欲求が、それどころではない気持ちにさせるのだ。
1月29日、恒例の「清造忌」を挙行すべく能登を訪れた貫多は、取材に来た若い新聞記者・葛山久子の、余りにも好みの容姿に一目ぼれをしてしまう。・・・】
小説は、貫多の作品が芥川賞候補になるところで終わっている(らしい)。

巻末にヒロイン葛山久子さんによる特別原稿が収められている。
葛山さんが書かれていた。
「・・・取材のお礼として、後日いただいたお手紙が、あまりにも繊細で、きれいな文体だったため、『この文章にもっと触れたい』と思い、お返事を書きました。それから細々と続けた文通は、もう17年になります」
「自分に自信のないところ、それを必死に隠そうとしているところ、口下手なところ、排他的なくせに寂しがり屋なところは、私ととても良く似ているような気がします。出会うべくして出会ったような気もします」

投げ出そうかという気持ちも半分生じかけていたが、読み切ろうと改めて思った。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉祥の花

2025年02月04日 | 日々の暮らしの中で
立春を迎えた新しき春の日に手を伸ばしたのは、澤田ふじ子さんの『花暦 花にかかわる十二の短編』だった。
冒頭の「寒椿」のヒロインは、大垣藩の家中では微禄に属する武家の娘で24歳のふき。
17歳のときに母を亡くし、天守閣修理工事中に怪我を負った父の世話をしながら幼い弟を母親代わりに育てていた。

ふきは賃縫いに精を出し、呉服商からは上物をまかせられるほどの信頼を得るまでになった。
母からの秘伝の草木染めで染めあげた、深い青磁色の布を男物の胴裏に用いることがあった。そしてその染め色に心ひかれる女性がいた。

ふきは、圓通寺の道端で落ち椿を拾い集めた。
律宗の寺院では仏前供花に椿の花を用いていて、長寿、結縁をあらわす吉祥の花として喜ばれている。


「これ彦十郎、椿の木をゆすり、もっと花を落としなされ…」
ふきの人生にも花どきが訪れるだろうと余韻もあたたかい。しっとりとしたふじ子ワールドから好きな1編を読み返したのだった。

ふきは、婚期を逃すも自分の今後に深い覚悟をつけた。
それは、私に残された短いような長い時間を何を支えに、どう生きようとしているのかを問いかけても来る。

  寒椿力を入れて赤を咲く 
花粉の運び役が少ない寒中、鳥を甘いみつで誘う。そのためにも、遠くからでも目立つ赤い花を咲かせる。ー自らを知る者の強さ。
と子規の句に添え、コラムが綴られていたことがあった。


♪ “愛が一つ芽生えそうな・・・”、 椿の花 ぽとりぽとり。

雪でも呼ぶのかな、風が窓ガラスをたたく音がする。
陽気に温かさを増すころが待ち遠しいと身を縮めている。
                            ー椿の写真は過去のもの
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぎょうさんの齢いただく

2025年02月02日 | こんなところ訪ねて
【「鬼の目にも涙や流す節分の 窓の柊に行きあたりつつ」
浅井了意の「出来斎京土産(できさいきょうみやげ)」が狂歌に詠んだ五条天神社の節分祭。
平安遷都に際し大和から勧請した古社。五条大路にあり、五条天神宮とも称した。

祭神少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の祖神。近世、節分に朮(おけら)を受け家でくすべ悪鬼を払う習いがあった。日本最古という宝船図の授与は今も有名で、神朮(しんじゅつ)の風習を訪ね求める参詣者もある。】


と記された坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』に導かれ、初めて五条天神社を訪ねてみた。
烏丸四条から西へ、西洞院通を南に松原通まで下がると右手に鳥居が目に入る。




近隣の氏子さん?か、顔見知りらしい人が多かった。


宝船と聞いてうかぶ七福神のイメージとは大きく異なって、船には一束の稲穂が乗っているだけ。
日本最古という宝船図には関心もあったが、こうして見本が貼り出されていて、それをこともあろうか?写真に収めてすます。
そんな人間でも、この一年の息災の祈りは医薬の祖神にとどくものかしら…。


※「出来斎京土産」というのはネットで検索してみたところ、出来斎という主人公が洛中洛外の名所を遍歴して狂歌を詠む趣向の名所案内記と説明されたものがあった。作者の浅井了意は、江戸前期の仮名草紙作者で、浄土真宗の僧となったという。


  
  ぎょうさんの齢いただく年の豆  桂信子

ああ、豆ばらに…。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親バカばんざ~い

2025年02月01日 | HALL家の話
つい先日1月28日から新年度を迎えた孫T&L。兄のTは8年生(中2)、Lは小学校3年生です。それとともに、クラブでのスポーツも始まりました。


一昨日、母親からこの写真が送られてきたあと間もなくすると、父親からも同じ写真が送られてきました。その心中を思いながら、親バカばんざ~い。

ちょっと“入団会見”ふう?…。
ブリスベン市のアカデミーのサッカークラブに属している孫のLulasです。昨年度末、このクラブで1年間無料で指導を受けられる(別枠での)チャンスを得るためのトライアルがなされました。
Lは前もってオファーをいただいていたのですが、合格者向けに初めてのプレゼンテーションがあったのだとか。
そして入会のサインをするのに、今年度はこの晴れがましいようなセッティング付き。

両脇に、アカデミーのオーナーとコーチ。このコーチへの信頼が厚いようです。
マスコミの関係者がいるわけではありませんが、カメラマンは大勢いるのです。娘もその一人です。心憎い場面設定です。
そうしたことがとても上手い指導者たち。この国での教育場面で気づかされることの一つに、一人ひとりを引き立てる子供への賛辞の多さがあります。
父親もI'm proud of you.なんて言いながら息子を抱きしめているのかもしれない。

そして、親バカばんざ~い!の話。
江戸時代、京都二条の高倉に住んでいた町人・脇坂義堂が家庭教育書『撫育草』を記した。それを小児科医の故松田道雄さんが、『おやじ対こども』と題して読み解いた。
その文中に〈親バカというのは子供の将来についての徹底した楽観論で、…親バカ精神は教育の基本だ〉といった記述があるというのです。

いつだったか一度書いた覚えがありますので、またまた親バカばんざ~~~いです。
じじバカも、ばばバカもばんざ~いです。
褒めて褒めて育てるのがいい。父親のコーチングも子供たちはちゃんと受け止めてそれぞれのスポーツで練習に励んでいる。素直な心にもばんざ~い、を。


   

兄はといえば、金曜日学校帰りに親友のJ君と魚釣り。
小さなバッタすらキャーキャー言っていた子が手づかみにしています。J君のお父さんに連れられた何度かの釣り体験が彼を育てたのです、きっと。
やっぱりばんざ~いです。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角隠し

2025年01月30日 | 日々の暮らしの中で
真宗門徒の女性がお寺参りのときに用いたかぶりものが、「婚礼のときに花嫁がかぶる頭飾り」に変化していったという「角隠し」。あえて角を隠すことで、「私にも怒ると角を向け、人を傷つけることがある」ということを告白しているのです。


【「念仏には無義をもって義とす」(歎異抄)
親鸞聖人は「義」を「はからい」と訓読しています。「はからい」とは、自分の勝手な解釈で思い計ることです。義に正しさをもってくると「正義」になります。相手の人生を外から観察し分析してもわかるものではありません。
他人が食べている食事を覗いて「そんなもの食べて美味しいか?」と言っているみたいなものです。
個人の心の状態は自分の思い計らいでは理解できないのです。…… ……

親鸞聖人の教えを受けた蓮如上人は「独覚心」の怖さを悲しみました。自分が過去の経験から覚ることができたことを、相手に押し付けることはできない。時には「正しさ」を伝えることも大事でしょう。しかし、正しさは必ずしも人間を活かすとは言えないのです。

親鸞聖人は「正しさを伝える前にお念仏申しましょう」とお教えくださいました。合掌することで心が柔軟になり、相手の心に寄り添うことしかできないのです。…… 】



真宗大谷派僧侶・川村妙慶さんが地元紙に寄せられたコラムの中の一編。繰り返し読み返していた。人に角を向けてはいけない。いけない!
『人生の収穫』といっても小さな幸を拾い集めてきたほどの微々たるものだが、曽野さんの言葉を心に宿せていたようだ。
ー 自分の内心がどのようであっても、平静と礼儀を失わないように取り繕え! 心からでなくても、理性だけでもいいから愛を実行せよ…。

ものの考え方が大きく違っているとしても、ちゃんと自分の世界を持っている人がいる。わからなくても、表層の下に隠されたものにひそかに耳を澄ませてみるのもよいのではないか。
大切なものは目に見えないんだよ。


私にも角があります。


今日は午後1時の約束をした来客を待って、待って待って待って。
これだってかなりの説経ものだけど…。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名を求めず、利を求めず、万民のために

2025年01月28日 | 映画・観劇
天保8年(1837)― 福井藩領内でも天然痘が流行していた。
天然痘は治療法がなく、死病として恐れられていた。
そこに幕府が出した治療法は、「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にして服用すべし。その糞は、白、黒、茶の体毛を持った牛のものが適している」と記したもの。
それで治ったという者など一人もいなかった。

江戸に出て漢方を学んだ町医者・笠原良策。
ある日、大竹了玄という金沢の医者と出会い蘭方を知ることになる。
そして京都の東洞院蛸薬師下ルに、蘭方医の大家・日野鼑哉(ていさい)を訪ね入門した。

種痘という予防法が異国から伝わったことを知り、疱瘡にかかった牛(牛痘)の苗を身体に植え付け、出た膿(うみ)をまた次の子に接種するといったリレー式で患者を減らしていこうとする。が、庶民の恐怖心は安全性への理解を妨げ、藩医や漢方医の妨害もあるなど接種はなかなか広まらない。

今の暦で1850年1月。良策は京都から福井へ、滋賀県長浜市と福井県の県境にある栃ノ木峠を越えて天然痘のワクチンを届けようとした。豪雪地である。
吉村昭さんの『雪の花』に詳しい。


原作を基に映画化された「雪の花 ともにありて」を観てきた。
友人は見終わるや、「思っていたのとちごうて感動の映画に仕上がっていた」と口にした。

「名を求めず、利を求めず。万民のために命を運ぶ」
命を賭して天然痘と戦った一町医者の姿に、映画はきれいに収まっていたとはいっても、やはり感動する。

かつて宮本輝氏の『命の器』を読んだとき、「どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ」という言葉に出会った。
〈人間という核を成すものを共有している人としか結びついていかない。…「出会い」が、一人の人間の転機となり得ることがそれを示す。偶然ではないのだ〉とあった。

感動はこの言葉を思い起こすものだった。志を抱き、多くの苦難を乗り越える過程、過程に良き師がいて、友がいて、理解者がいた、良策の生涯に感動していたのかも。原作を読み、映画の中ででも…。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

話して聞いて、分け持って

2025年01月26日 | 日々の暮らしの中で
スヌーピーで有名なアメリカの漫画『ピーナッツ』を訳されている谷川俊太郎さん。
あの中には「ショー・アンド・テル」という時間がよく出てくるんですと、語っていた。

「子どもたちが何でも好きなものを一つ持ってきて、それについてみんなの前でお話をするという時間です。」


孫娘はオーストラリアでプレップ(入学前)に通うときから、この時間を体験している。

彼らの家に滞在していた2011年10月。まっ白な犬のぬいぐるみを両の掌に乗せて、愛おし気に見つめてから通学のリュックにしまうのを偶然に見かけ、母親に訊ねたことがあった。
何か話したいことがあったのだろうと、そっけない返事。その時に「Show and Tell」を知ったのだった。


6つ違いの弟が生まれるのを前にして、枕元に縫いぐるみを並べ始めた。赤ちゃんを寝かしつける練習をすると言って、毎晩かわりばんこに抱っこして寝ていたらしい。その一つの白い犬。
飛び入りOKとか、気づけば何かしらを持って登校していた。話したあとで質問を受け、それに答える。そんな時間は小学校に入学すると「Show and Share」と変わって、3年生まで続くようだった。


「日本人が一般的にいって話し下手なのは、小学校のころから人にどうやって自分の考えていること、感じていることを、正確に、簡潔に伝えるかという訓練をしていないからじゃないかと思うことがあるんです」
と谷川さんの言葉は続いている(『声の力』収 -「語る技術」とした小文内で)。

先日、不登校の子どもたちのカウンセラーとして長く現役でいる知人のもとで集う機会があって、同席することになった。
TellからShareへ。話す力、聞く力。そんなことへの思いを、私も言葉にしてみたけれど…。
昔むかし、学級担任で過ごしていた時代の失敗も含めた体験のあれこれも自ずと思い出された。

身の回りの小さなことをすくい上げ、言葉を紡ぐ。互いを知る、他人を知ることは、自らの成長につながる。
そんな大真面目が、少しずつ人の心に沁むといいなと期待する。

〈「われ」の視点を強調し過ぎは下品だ〉
紙上で目に留まった言葉だけど、近代短歌以前の和文脈でのことだけだろうか。

それにしても「聞く力」って要るなあとつくづく…。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥、虫、木々、草や花、風、雨、光…に言葉がある

2025年01月23日 | 日々の暮らしの中で
夜中に目が覚め、眠れずにいるとどうしてもあれこれの考えごとが始まる。それなら本の続きを読んでいた方がずいがまし。その間は余計なことを考えずに済むからだが、睡眠時間が削られる。これが良くないことはわかっている。
ではどうする? と思いつつやっぱり本を開く。

先日建仁寺に行った帰り、京阪三条駅ビルにあるブックオフに立ち寄ったところ、『あん』(ドリアン助川)が書架に並んでいた。
かつてブログを通じて教えていただいた作品だった。出会いがなく読まずにきていたが、今になって縁がまわってきた。きっと〈読みどき〉というものがあるのだ。
昨年末にはハンセン病を患った塔和子さんの歌や詩に触れる機会を得たこともあり、登場人物の吉井徳江と重ね合わせてしまいがちな部分もあった。


塀の中で数年を過ごしたあと、どら焼き店々長として休みなく働く千太郎。求人広告を見て、手の不自由な70代半ばの女性が応じてくる。彼女もまた隔離された生活を余儀なくされてきた人だった。
徳江が作る絶品のあん。「お互いがお互いを想いあい慈しみあう」交流が深く心に染みた。

ハンセン病の療養所「天生園に遊びに来る鳥たち、虫、木々。草や花。風、雨、光。お月様。すべてに言葉があると私は信じています。それを聞いているだけで、一日はもう目一杯です」と徳江さん。
「聞きなさい」「耳を澄ませなさい」「想像してごらん」はトクちゃんの口癖だったと園での親友が言った。
それは - 現実だけ見ていると死にたくなる。囲いを越えるためには囲いを越えた心で生きていくしかない - 生きるすべだった。徳江さんの言葉の奥に潜む思いを千太郎も私も知る。

今年もオニグルミの冬芽を見に出た。徳江さんを思いだし、背筋が伸びるようだった。
 〈真直ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり〉  金箱戈止夫


 
歩けば汗ばむほどのお散歩日和に。       
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漫画だけど

2025年01月22日 | 日々の暮らしの中で

〈ゲットした本を、部屋中にそびえたつ「積読タワー」の頂上に積〉む。それは〈膨大な未読の本〉の重なりなのだ。
新着本が読まれるのはかなり先になる。せっかく迎え入れたのに、積み上げとたんしばしの別れがやってくる。
わびしい、のか…、ちょっとこっけい…。

著者を、大石トロンボさんを知らない。
まあ私が知らなくたって驚くことでもない。漫画を読んだのは『オフサイド』最後に全くない。もう何十年前になるの? 書店で立ち読みして面白かったので、当時サッカーをしていた息子にと数冊買って帰ったのが始まりで、全巻読み続けたことがあった。それっきりだ。

どんな話かと検索してみると…。


孤高の古本戦士・真吾は、今日も新古書店「ブックエフ」の均一棚で目当ての本を探す。 長年探した本を100円棚で見つけて喜び、新古書店で仕入れた本を転売し利幅で儲ける「せどり」と攻防し、数分の間に目をつけていた本が買われて絶望し……新古書店でのライトな古本探しの楽しさと可笑しさを描く「古本あるある」バトル漫画、いよいよ開幕!! 著者の古本探しの日々を綴ったエッセイや、夏葉社・島田潤一郎さんの特別寄稿「友人のような本」も掲載。

「せどり屋」という言葉を知ったのは三浦しをんさんの『月魚』でだった。2023年の誕生日を迎える数日前、夏の宵に読み終えた。

【古本屋で十把一絡げで売っている本の中から、少しでも価値のありそうなものを買い、その分野を専門で扱う別の古本屋に売り飛ばす。また、廃棄場に忍び込み、まだ店頭に並べられるような本を掘り起こして、何食わぬ顔をして古本屋に売りに行く。その微々たる上がりで生活する。
クズ本の山から辛うじて息をしている本を抜き出す。
ゴミを漁り、後ろ暗い経路で手に入れた本を売る輩、と業界でいい顔はされなかった。】

『新古書ファイター真吾』の試し読みをしてみた。
(マンガだ!)わかってることなのに漫画だなあ…という思い。発売日を見ると2023年5月9日とある。ブックオフにあるかしら、アマゾンになるかな?? 
漫画って図書館にある?ないと思うのだ。

私にも積読本はあるが大した嵩ではない。
ただ一向に出番がやってこない本はあるのよね…。それなのに、欲しくなる本は出てきてしまう。『新古書ファイター真吾』にちょっぴり気持ちが動く。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする