京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「とわの庭」

2024年06月06日 | こんな本も読んでみた
とわは目の見えない女の子、そんな前知識だけで読み始めた『とわの庭』でした。
全てが過去形で語られることに、不穏な展開を予感しつつ…。


目が見えないとわのために、母が作ってくれた“とわの庭”。予想がつきます。香り、匂いです。
ジンチョウゲが春の到来を告げ、モクレン、カラタネオガタマ、タイサンボクと夏に移行していく。数えきれない四季の移り変わりを経て、とわは自らの意思で外への扉を開けた。
髪は膝の後ろまで伸びていた。


目が見えないぶん、鋭敏なもろもろの感覚。
とわは美術館のカフェの雰囲気が好き。
【天井が高く、開放的。人々が話す声のざわめきも、オーケストラの演奏のように心地よく響く】
人にもあるそれぞれの匂い。それを【人の存在は花束のようなもの】と表現する。
一人の人の匂いにも、いくつもの匂いが紛れていて、それが一つに合わさって、その人独自の花束を作っている、と。


変えられない過去の足あと。わが身の不幸を嘆いてまわっていては、せっかく扉を開けた人生がつまらないもので終わる。
今の足あとは拙劣であっても、出会いや体験を繋ぎ合わせることで世界を広げるとわ。

これは、互いに響き合い、通い合って生きることに深い喜びを感じる身に、とわさんもお育てていただいてゆくのですな。如来は限りない大悲をもって迷えるものを哀れみたもう。
などとは、ちょっと飛躍し過ぎ?


ほんの少し心をひらけばいいのに、いつの間にか心に育った偏見や思考停止が、さまざまに境界線を引いてしまうことって誰しもあるのではないだろうか。
隣は何をする人ぞ。ご近所さんへの無関心。それでいいのだろうか。
人の痛みや苦しみに無関心ではいられない、慈愛の心。
忘れちゃいませんかと胸に問い直したい。



※読後私感(追記 6/9)
 帯にある「生きているってすごいことなんだねぇ」ということばに、確かに、と思う。
 ただ、不満に思うのは、とわと言う人間像の厚みのなさ。
 もっともまだ30歳になったあたりのとわ。人なかに出てわずか10年余だけれど、その10年の「切り拓く新たな人生」にしても事は都合よく進み、物語に深みが感じられない。
 ここまで順調に来た、逆境を乗り越えてよかったね、の物語なのだろうか。
 
著者が描くとわの感覚の豊かさ、白杖と盲導犬と歩く場合の違いなど、読んで知ることから「よかったね」を一歩進んで、他者への思いやりを育むこともできる。知ることが始まりの一歩なのだと、かつて嫌と言うほど耳にした言葉が思い出された。 
                ・・・ことなど、やっぱり書き残しておきたい  


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この世を喜ぶ術

2024年05月28日 | こんな本も読んでみた
画鬼とも呼ばれ、茶会を催す髑髏、妖しいほどに美しい地獄太夫、美女の前にやに下がる閻魔さま、麒麟、白澤(はくたく)、土蜘蛛、狐火などと奇矯かつ独創的な画風で人の目を喜ばせた絵師・川鍋暁斎。
錦絵を得意とする歌川国芳を最初の師とし、その後写生を重んじる狩野家で修業を積んだ。
その娘として生まれ、明治大正を生き抜いたとよ(曉翆)の葛藤の生涯が年代記ふうに描かれていた。

並の人間は、暁斎の絵の一端を真似るのが精いっぱい。父に少しでも近づこうと足掻き続けた異母兄の周三郎(画号・曉雲)とて越えることはできぬまま死んでいった。とよ(曉翆)も遠く及ばない引け目を抱え込む。師であり父親への、さらには兄妹間の、反目、「憎悪と愛着」。

有名無名を問わず〈いくつものの星が、あるいは志半ばに、あるいは自らの生涯を生き尽くして落ちていった。それぞれの星は消えたとて、彼らの生きた事実は空の高みに輝き続けている。〉けれど、眩しかった輝きを指し示す案内人がいなければ、やがてすべては忘れ去られる。
その役を務めたとよさん。父について語ること、それは亡き星々への敬愛であり鎮魂でもあるだろう。


読みかけだった『星落ちて、なお』を読み終えた。評伝のような小説だった。少々説明的だったかな。地味だなって感じたけれど、おかげで私はここに知ることを楽しめ、足元を照らしてもらえた。

作中に登場した横山大観、菱田春草、下村観山の名。これら聞き知った名前が26日付の朝刊に「菱田春草と画壇の挑戦者たち」となって反映された。
春草生誕150年展は美術館「えき」KYOTOで7/7まで開催とある。
無事に右目の手術を終えられたら機を見て足を運んでみよう。
また、美人画に関しても「君があまりにも綺麗すぎて」展が開催中(~7/1)。
もひとつ付け加えれば、「墨にも五彩あり」、堂本印象の墨の世界の展覧会にも魅力を感じている(堂本印象美術館 6/5~9/8)。

自分のため、人のため、「この世をよろこぶ術をたった一つでも知っていれば、どんな苦しみも哀しみも帳消しにできる。生きるってのはきっと、そんなものなんじゃないでしょうか」

わずかに道を照らす灯があれば、これからの日々にもためらわずにいられる気がしたとよさんだったけど、灯りはいっぱいあった方が周囲はよく見えるし、けつまずかなくていいわね。
と、欲深いことを気にしいしい思う。


カタバミの葉っぱを少しちぎって古い10円玉をこするとピッカピカになるという。葉から出る液のなかのシュウ酸という成分の働きで錆が落ちるからなのだそうな。
何ごとも真新しくすればいいものでもないけれど、無事に明るさを取り戻せることを思って清兵衛さんの言葉を反芻している。
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三様の絵巻

2024年05月08日 | こんな本も読んでみた

狩野永徳と長谷川等伯二人の絵師にまつわる作品『等伯』『花鳥の夢』に次いで『闇の絵巻』(澤田ふじ子)を読むようになって、作品が世に出た年月にふと思いがいった。
『闇の絵巻』が1936年、『花鳥の夢』と『等伯』の連載が始まった時期は前後するが、連載終了は2012年の8月と5月でそれほどの違いはない。
ただ澤田作品から実に26年余を経ての2作品の登場になる。


同じ時代を生きた二人の絵師の半生が、三者視点は異なるが三様のロマン、物語で構築された。

画風も違えば地位も名誉も異なる。
【絵師は求道者や。この世の名利に目がくらんだらあかん】(『等伯』-近衛前久のことば)
【「心だにまことの前にかなひなばいのらずとても神やまもらむ」】(『闇の絵巻』-さきの内大臣九条稙道)
我が道を行くのが肝要と励まされるが、今を時めく永徳と肩を並べたいと苛烈な競争心に燃える。そして焦り、嫉妬。


【画技がいくらすぐれていても、それを十分発揮するには実力者の引きが要った。権力者に寵愛されれば実力が十全に発揮できる。権門冨家へのつけとどけ、ご機嫌うかがい。】
一門の繫栄のための狩野派の政治力、処世の巧みさが描きだされた。
等伯殺害を企て、長男久蔵の命を奪う。これも組織の中で、一門のため…。

いつの世も、新しい力が興ろうとするときには必ず古いものの力がこぞってそれを誹謗する。新しい力を感じて不安に駆られるのだ。


一族の繁栄のために、権力者の意向にそうような大画ばかりを描かねばならなかった永徳。
5年余の歳月をかけて永徳とその一門が安土城で描き上げた数千枚にも及ぶ障屏絵(へだてえ)は、灰燼に帰してしまう。
この安土城での日々にはさまざまに筆が費やされ、興味深かった。
あらかた失われた永徳の絵に比べ、等伯の絵は多く残っており、美術史は永徳より等伯の作品に重きを置いている、と書き添えてあった。


人はそれぞれに重荷を背負い、心に闇を抱えながら、その先に光を求めて必死に生きている。
その人の生きる姿、何をなしたかが問われるのだろう。どんな地位や名誉を手に入れたかではなく。
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老い木に花を

2024年03月28日 | こんな本も読んでみた

世阿弥の生涯 ― といっても、足利義教によって佐渡へ遠流となって、赦免(帰洛の赦し)の報せが届くまで、8年余りの暮らしを題材にしている。

八十路に達しようという年齢になった。
佐渡で出会った縁は、思いもよらなかった恵まれた環境だった。6つ7つだった童のたつ丸をはじめとして、世阿弥を慕う人びとがいて、あたたかな心を結んできた。
そして能一筋、一途な人生を生きる佇まいは、老いても美しかった。

己れ(世阿弥)、亡くなった息子の元雅、武士を捨て出家した了隠、3人の視点から物語は語られ、世阿弥像が膨らむ。
72歳の身で「まったく咎なく、勘気を蒙って」遠流となった佐渡での暮らしだが、読み進めるにつれて幸福感をもたらすものだった。


配流先が伊豆でも隠岐でも土佐でも対馬でもなく、日蓮、順徳院、京極為兼、日野資朝といった先人が流された佐渡であったこと。
著者は、この地で亡くなり沈んだ霊の数々に手向ける花になろうとする世阿弥を描いた。とりわけ〈順徳院の悶死するほどの悲しみを謡にして弔い、せめてもの供養としたい〉と能「黒木」を描かせ、寺の法楽とした。

「世阿弥殿はよろずにおいての師、また良き翁であるゆえ、離れがたき想いは重ね重ね強」くなる。けれども、「世阿弥殿の帰洛をかなえてやるのが、我らが佐渡人のつとめ」
一方で世阿弥は、
「何から何までお世話になり申した佐渡のひと人への礼」として、「西行桜」演能を決める。

世阿弥の舞の所作や謡の箇所の描写は、簡潔に美しく、引き込まれた。
読後、著者藤沢氏は謡、仕舞を観世流の師に師事中であることを知る。なるほど!の描写だった。

「花なる美は、十方世界を変えましょう」
「佐渡の四季折々の美しい景色とともにあった童が、言葉を覚え、詞章を覚え、調べを覚えて、より法界の真如を探す時期に来ているのであろう。十方世界の美にもっとも近しいものは、たつ丸かも知れぬ」

能に詳しくなくても、暖かなものがこみ上げる作品だった。
心がぬくとうなった。


よい小説には幸福感があると、辻原登氏が言われていたのを思い出す。
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親子の関係

2024年02月25日 | こんな本も読んでみた

自分で自分の人生を選ぶことができない。
選択肢のない人生の辛さを知る父親二人は、子供には苦労させたくない、自由に生きてほしいと一方的に思いを架ける。
家族とはいっても、人はいろいろな価値観や感情で生きているのに。

子供の意思を奪うことになったり、双方が思いを言葉にしないために、情に薄く冷たい人間だと父への理解も進まず、親子関係はこじれてしまっている。
とは言っても、親が子を思う、それぞれの事実の中には普遍性があって、真実と思えるものがある。



家族の解体や再生への希望が表から裏から、丁寧にすくい上げられる。
人間同士の関係はほんと厄介だ。人間関係がなければ、なんの苦労もないのだろうが・・・。それじゃあ人生は空白だ、という思いに納得する。
人と人との関係も、南部鉄器のように多くの工程をたどり、繊細な、シンプルで強い模様がデザインされていけたらいい。

「辛い思いをしたあなただからこそ、誰かのためにできることがきっとある」
補導委託を受けたことで、人間関係が浮き彫りになって、糸がほぐれていくラストは心地よく、あたたかだった。

折に触れての岩木岩手山の描写。チャグチャグ馬コの行列に少年春斗が見せる笑顔。印象深いシーンだった。



固かった紫陽花の冬芽がほころび始めた。

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赤色浄土

2024年02月16日 | こんな本も読んでみた
赤地にこの「絵師金蔵赤色浄土」の文字。「赤色浄土」の文字は、かなりのインパクトをもって飛び込んできた。
棚から引き抜いて、この装幀に目を見張った。
なんの情報も持たない初めて読む作家だが、これは出会いだった。


【幕末の動乱は土佐国も大きなうねりで吞み込んだ。様々な思想と身分の差から生じる軋轢は、人々の命を奪っていった。金蔵はそんな時代に貧しい髪結いの家に生まれた。類まれなる絵の才能を認められ、江戸で狩野派に学び「林洞意美高」の名を授かり凱旋。国元絵師となる。
しかし、時代は金蔵を翻弄する。人々に「絵金」と親しまれながらも、冤罪による投獄、弟子の武市半平太の切腹、そして、土佐を襲う大地震…。
金蔵は絵師として人々の幸せをいかに描くかに懊悩する。やがて、絵金が辿り着いた平和を願う究極の表現とは…。】 (帯裏に)


「知で血を洗う出来事は、血をもって浄化するしかない。死んでいった者、今生きて不安を抱えている者たちの魂をおさめたい」

人間の喜怒哀楽の感情を文章によって丁寧に紡ぐ。その描写が人間を立ち上げるのだろう。
絵画では、苦悩、怒り、喜び、哀しみをどう描けば訴える力を持つか。金蔵の「仰天するような構図、強烈な色彩」は、すさまじさあふれるものだった。



江戸では、浮世絵師、川鍋暁斎が人気を得ていた。彼の名が2回ほど作品中に出てきた。暁斎の娘とよ(暁翠)を主人公にした『星落ちて、なお』(澤田瞳子)がある。ここへ流れようかと迷ったけれど、今日の書店行きには目的があった。

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春立つ日を前にして

2024年02月03日 | こんな本も読んでみた

梅は春一番に咲く花ですが、まだ春ではないのに「年の内の雲間」に「春待たでほほ笑む」白梅を今日、よそさんの玄関先にながめました。
「年のうち」というも「今宵ばかり」の今年。年が明ければ春です。(…と、冷泉貴美子さんの「四季の言の葉」を参考に)


母親の婚約者に家から閉め出されて、夜の公園で本を読んでいた8歳の律。姉の理佐は高校を卒業し短大に合格したのに、入学のための費用を婚約者のために母親は使ってしまっていた。理佐は妹を連れて独立を考えた。


蕎麦屋さんで働くことになり、そば粉を挽く水車小屋にはネネという名の鳥・ヨウムがいた。
「仕事をして、ネネの世話をして、周りの人や知り合った人々に親切にして」、二人は暮らしてきた。
姉は18歳から、28、38、48、58と齢を重ね、妹の律も8歳、18歳、38、…と齢を重ねていく。極めて長編の物語は新聞に連載されたものを加筆修正したとあった。

「自分は…これまで出会ったあらゆる人々の良心で出来上がっている」

「二人の生活が心配でたまらないけれど、なんとか暮らしを立ち行かせようとしているのを見て、自分がその手助けをできるんだと思った時に、私なんかの助けは誰もいらないだろうと思うことをやめたんですよ」
8歳だった律を受け持った藤沢先生は62歳になっていて、48の律に話した。

自分が生きることが他人が生きることと結び合っているから生きることが楽しくなる、と言われたのは、むのたけじさんだったと思う。
そうそう!と、〈パドマの誓い〉とされていた好きな言葉が浮かぶ。
   原石のごとく
   比べようのない輝きを有す あらゆるいのち。
   それらのいのちは相互に照らし合って 
   自己を知り、 
   より深い輝きを放つ。

『水車小屋のネネ』。さまざまな感情を体験させられて、何度も鼻の奥がじーんと詰まって、涙になるのだった。
人が人の〈善意〉という部分をわかり合っている。だから、あたたかくもしみじみとした読後感なのだろう。

冬の終りに、心温めた。
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能登の海は

2024年01月09日 | こんな本も読んでみた
「能登の海は目が覚めるほどの群青色で、底まで澄み渡っていた。この地に生まれた桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)もこの海を見ただろうか」

こう書き始まるのは2019年5月19日付の地元紙コラムで、
「今年生誕480年。石川県七尾市の武家に生まれ、染物屋の養子となった等伯は、後ろ盾もなく30代で京に上り、名門狩野永徳と肩を並べ渡り合った」と続く。
能登と京都の人々は琵琶湖の水運で今以上に緊密に行き交っていただろうとも書かれている。

古いスクラップをめくっていたのは、就寝前のわずかな時間に読み継いで、『花鳥の夢』(山本兼一)を読み終えたからだった。


安土桃山時代、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉など、時の権力者たちの要望に応えて多くの襖絵や障壁画を描いた永徳。長谷川等伯との出会い、確執。一門を率いる棟梁としての苦悩。乱世に翻弄されながらも天下一の絵師を志す生涯が描かれていた。
今一度ざっと全体を振り返るつもりでいる。

ライバル、『等伯』(安部龍太郎)を先に読んでいた。

そのせいか読後は、大徳寺三門の楼上の天井に描いた龍の絵のことなどが思い出され、公開されるんだったかな??などと思いがいったのだった。
スクラップには忘れていた古い記事が現れた。

書き出しの一文は、まさに現在の能登の姿が暗く覆い尽くしてしまう。
もうはるかに昔のこととなり海の青さも薄れているが、輪島を訪れ、七尾の温泉旅館に泊まったことがあって、なんとも切ない思いでコラムの書き出しを読み返す。
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親しみ

2023年12月15日 | こんな本も読んでみた
小学校5、6年次を担任していただいた先生に会いに出かけていった孫娘。彼女の卒業に続いて入学した弟のTylerも、2年間受け持っていただいたこともあり、さらには末のLukasと先生の最初の子供さんが同年という生まれになって、家族中で親しみを覚えるという出会いになった。
お土産と幾枚かの写真を袋に入れて、ちょっとおめかしの18歳。

個人別懇談の最中だったとか。
「えっ! えーーっ、ジェシイ? ジェシイ!?」先生のこの驚きようがいかにも嬉しかったのか、帰宅後何度か再現してみせる。
弟の話、自分の今後の進路など短い時間ではあったが言葉を交わし、12歳の夏祭りに出あって以来という再会を果たした。

そしてもう一つ。弟たちから預かった手紙やカード、写真を「おっちゃんち」に届ける。
おばちゃんに歓待され、「まあ上がってあがって」と。びっくりされたようで、孫娘を前にLukasと母親と、ラインでのオシャベリが始まったとか。

宝塚線を下りて、道順はすぐに思い出したという。歩いて、自転車で、よく利用した道はまだまだ記憶にあるようだ。


掃除だけは済ませて、帰ってくるまでの時間は完全休養にあてることにした。

  中古書店で偶然に見つけた『おひとりさま日和』。
6人の作家による短編集だが、最後の1作品を読み終えた。
年齢も育歴も職歴も現在の環境も様々な6人の女の生きる日々の陰影や明暗が6編の情緒となって味わえる。「つながり」の現れ方が6様で、興味深く読んだ。個々が人と、どこで、どんなふうにつながりを持つか。それは生き方となって、面白くもあった。


北村作品も、このところの就寝前の時間を利用して読み継いだ。シリーズはもう4までで打ち止めとする。
文章の静かな味わいを通じて作品世界に引き込まれていく。人間模様がなんとも言えぬ温かさ。文学部の女子大生の語り、噺家春桜亭円紫が探偵役で、謎が解かれていく。出会えてよかった作家、そして作品。
主人公が取り上げていた『奉教人の死』を再読してみたくなっている。

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思わず夢中になりました

2023年11月11日 | こんな本も読んでみた
「『等伯』を読んでごらんなさい」
この言葉は、2015年度の高野山夏季大学に参加した折の、帰りのバスで隣り合わせた方から頂いたものだった。

娘家族との同居をやめて介護施設に入居し、82歳になったと言われていた。
「毎年お山にお別れに来るのだけれど、帰るときは来年も来れそうな気になるんですよ」
「帰ったら次は出光美術館に行くことが今一番の楽しみ」、とされていた。そして、ここに来る前に『等伯』を読み終えてきたということだった。


東京駅に娘さんが出迎えてくれるとかで、新大阪駅で別れた。
思い出とともに、冒頭の言葉を心のどこかにとどめ置いたまま8年も経って、ようやく実現した。感想など言葉を交わすことができたらどんなに嬉しいことか。読み終えて、静かに充ちたものを感じている。


〈思わず夢中になりました〉
これまでの読書週間の標語のなかに、こんな一文があったのではなかったかな。

信春(等伯)は33歳で上洛した。能登七尾ではすでに絵仏師として一家をなしていたが、狩野永徳と肩を並べるような絵師になりたい思いをたぎらせていた。
11歳の時に染物屋の長谷川家に養子に出されたが、生まれた実家は畠山家に仕える筋だったので鍛えられ、腕もたった。
最大の美質は「愚直なまでの粘り強さ」で、「本質を見極めようとする生真面目さがあった」と描かれた。生来の負けん気と、絵師の性に駆り立てられ、そのために手痛い失敗もする。
「絵師は求道者や、この世の名利に目がくらんだらあかん」五摂家のトップ、近衛前久はこう諭していた。

有力な多くの理解者を得て結びつき、人が人を、縁が縁を呼んでいく。それがゆえに政争にも巻き込まれるのだが、長い流浪の日々に、本能寺の変が運命を変えた。

大徳寺三門に描いた壁画は称賛を浴びる。狩野派、永徳とのとの確執は深まるばかりで、26歳の息子・久蔵もそうした中で命を落とすことになった。
秀吉との勝負から生まれた「松林図」。ラストに向けて、特に下巻からはペースよく読み終えた。


時に注釈的な説明を加えながら、文章はわかりやすい、読みやすい。読み始めるうちに〈思わず夢中になりました〉。そして〈ちょっと夜ふかし〉も。

ただ、例えば澤田瞳子さんの『与楽の飯』で感じたような、大仏造立の労役にあたる役夫たちと一緒に怒り悲しみながら、彼らの息遣いまで聞くように心熱くして読むような感覚には至らなかった。
だが〈思わず夢中になりまし〉て、ストーリーを追ったのだった、

本法寺に参った等伯の墓には、二人の妻の名と息子の名が刻まれていた。
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100年水底に

2023年10月04日 | こんな本も読んでみた

「わし」は葛川(かつらがわ)村に生れて100年あまりになる山椒魚。
葛川坊村葛川谷(明王谷)の滝壺の底に棲み着いて、何十年かになる。

近江の国の明王谷は、比良山の豊かな水を集めた山深い山中にある。大小の滝がいくつもあって、比叡山や比良山を回峰してきた修験者が滝に打たれ、呪言を唱える。その声を、わしはじっと聞いている。

895年、ここで滝に打たれて修行していた相応という修行僧が不動明王を感得したという。
そして刻んだ不動明王像を祀って、息障明王院を建立した。

ある日、若い修験者が「もう神仏の感得はあきらめる」と背負っていた笈籠を岩に叩きつけた。その拍子に、籠の中にあった金色に輝く蔵王権現が飛び出し、滝壺の水底に沈んできた。
この物語は、蔵王権現と山椒魚との世間話が綴られていく。

山椒魚は思っている。「いくら修験者たちが歳月を重ねて呪練難行したとしたとて、誰もが悟りを得られ、仏を感得できるものでないことは、はっきりしている」。
蔵王権現も言う。「まことをいえば、悟りや感得ともうすものはないのじゃ」、と。

幾度も幾度も季節は巡るが、山椒魚はときどき谷を「よたよた」移動するだけで、「高い志など持った覚えもない」。滝壺の底にじっと潜んで「途方もなく退屈を感じ」ている。そして、いつまで生きるのだろうと「生きているのにもう飽きてきた」。

つまるところは、私も山椒魚みたいなものかな?


「比良の水底」(澤田ふじ子『閻魔王牒状 滝に関わる十二の短編』収)の存在を知って、以前から息障明王院を訪れてみたいという思いがあったので、この編だけだが読んでみることにした。
この短編の舞台を訊ねてみたい。小さな集落坊村の風景は“名画のごとし”とか。

同行者が欲しい。募ってみようか
一緒に行きたい人、この指と~まれ!
           
        (偶然9/26の朝、テレビで山椒魚の話題を)

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表と裏と、内

2023年10月02日 | こんな本も読んでみた
「小さな蕾のひとつひとつの、ほころぶということが、天地の祝福を受けている時刻のようにおもえる」
― 自分の色と形をそなえた蕾が、ある日ほころぶ。
大地が生み、太陽と雨が、あるいは雪や風が育て、まわりの種々さまざまな植生の中にあって、…。  

石牟礼道子さんの「一本の樹」(『花をたてまつる』収)という短い文章を読み返しながら、今日18歳の誕生日を迎えた孫娘Jessieをつかのま思い浮かべていた。




幅広く活躍される辻仁成氏だったので、あれこれの話題を耳にすることも多かった。それが、作品を読んでみようかと思う気持ちの邪魔をしていたようで、今ごろの遅まきながらの読者なのだが、浅からぬ作品群であることを感じている。

『白仏』は素晴らしい作品だと思った。『代筆屋』は格調高く、氏の抽斗の多さに感銘した。(何が良かったのかは置いたまま)「よかったね」と娘と言葉を交した。



『サヨナライツカ』に続けて『海峡の光』を読んだ。
「私」は函館少年刑務で看守として働いている。そこに少年時代に「私」を残忍な苛めの標的にした同級生・花井が入所してきた。18年の歳月が流れていた。
心地よい文章、言葉の力が、心理描写から緊迫を浮きあがらせ、ぐいぐい引き込まれて読んだ。

表紙絵が頭の隅っこに貼りついた。
人には、他者に見せている「表」の部分と、語らなければ他者にはわからない「裏」の影の部分とがある。普通、それはそれでそっと大事にしておいてよいものだろう。
そして、光が当たることで一瞬なりとも「内」があぶりだされたりして…。

仮出所を拒み、恩赦による出獄も拒む行動に出た花井だった。当然刑期は延長だ。彼の「闇」は語られない。
ラストシーンでは一人黙々とシャベルで土を掘り起こし、植物の種を蒔く姿を見せる。やせ細って、遠目ではまるで老人だった。
ちょっと彼の心理を聴いてみたい。

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火床

2023年09月22日 | こんな本も読んでみた
【筑豊炭田はほぼ1世紀に近い年月にわたって日本最大の火床として繁栄を誇ってきた。
我が国の資本主義化と軍国主義化を推し進める重工業の歯車が、この黒い熱エネルギーによって廻転した。三井・三菱をはじめ大小諸々の財閥が、この地底から富をすくい上げ今日の基礎を築き上げた。
(このあたりは、学校の授業で習った記憶がある)


そして、地下王国を支えてきたものは日本の資本主義化と軍国主義化のいけにえとなった民衆の、飢餓と絶望であった。
言語を絶する野蛮な搾取。奴隷的な労働の質。飢餓賃金、飢餓生活は、哀れな労働者たちの逃亡を防ぎ、使える限り奴隷としてつなぎとめておくための最も効果的な足枷でもあった。
抗夫たちの前に明日がない。それゆえ彼らは絶望も持たなければ希望も持たない。

自分が語らずにおれないのは、炭鉱の合理化問題や失業問題などではなく、虚しく朽ち果ててゆく抗夫たちの歯を喰いしばった沈黙、組織されずに倒れてゆく抗夫たちの握りしめた拳なのだ。】
…と、みずからも炭坑夫として筑豊に生きた上野英信は著書『追われゆく抗夫たち』で書いていた。


同時期に偶然に中古書店で見つけたのが、エッセイが収められた『上野英信集』だった。
ここで、漱石の『抗夫』を知った。


あまりの圧制。
読んでいて胸はふさがり、腹はふくるるばかり。さて、私はどう自分の人生の中で消化していけるだろう…。読んだこともいずれ忘れ去るのだろうか。
いくつかを選んで読んできたが、ここらで小休止と決めた。やたら気分は重く、疲れた。


 〈こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜〉  エアコン不要で、窓を開けている。
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最初は小さな芽ばえ

2023年08月20日 | こんな本も読んでみた
本日は完全休養日。
ちょっとおおげさな? ただ何も予定がなく、家で気ままに過ごせそうだった。
午前中から気温が上がって暑い。昼を半時ほど回ったころ、暗くなった空からドシャブリの雨となったが、再び晴れあがった。


上野英信という作家の存在を知ったのは『花をたてまつる』(石牟礼道子)が最初だった。
原稿用紙の使い方も十分に知らずにいた頃、すでに交友のあった氏によって『苦海浄土』は校正され、出版へと至ったことなども記されている。
平素その名を思いだすことはない、小さな出会いだった。

それが、今夏の古本まつりで購入した『豆腐屋の四季』文庫版にあったプロフィールで、大分県に生まれた著者の松下竜一は上野英信を知ったことから記録文学に目を見開いたという経緯を知ることとなった。
上野英信の名を改めて刻んだわけだが、まだ何かがもぞもぞ…。少し前、葉室麟氏の著書で『追われゆく抗夫たち』を著した上野英信とのことを読んでいたのだ。

22才の誕生日前日に、広島で被爆したという。1964年、親子3人で筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手に移り住んだ。子息の朱(あかし)氏は小学校2年生だった。
〈京大中退という学歴を隠して炭鉱労働者として働いた〉英信。

 

小さな好奇心は作品名をメモさせ、古書店を訪ねる楽しみに拡大した。出会ったのが『蕨の家 上野英信と晴子』だった。子息・朱氏の目から見た両親の後姿で、評伝ではないとある。
生涯ただ一つのエッセイ集『キジバトの記』の原稿を遺して亡くなったという晴子さんは、どんな方だったのだろう。
少しだけ読み進めた。

なにかに導かれるようにめぐり合わせていく運の良さ。
なんでも最初の芽生えは小さなものなのだ。でも、そこから始まる。


〈 桔梗や信こそ人の絆なれ 〉 野見山朱鳥
好きな花の筆頭格。仏に供え奉ろう。
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ほとけの手のままに

2023年08月13日 | こんな本も読んでみた

取り込もうとした干し物に、蝉が飛来していた。羽先が少し傷んでいる。放してやろうとつかんでも鳴かない。それがかえって少し寂しい気がした。
境内にある泰山木には毎年いくつもの抜け殻がしがみついている。虫取り網を持った子供たちの声がかわいかったものだが、何やらこの頃はとんと姿も見えない。
台風一過の折にはこの蝉たちはいかに。蟻たちのお掃除が始まるのだろう。



「管理責任などありませんよ。ただの寿命です」
「年をとって飲み込む力が落ちていた人が、物を詰まらせたんです。寿命以外の何物でもない」

限られた看護士の数に対して、田舎の小さな病院に入院する圧倒的な高齢者の人数。
高齢者医療の現実の中で、違和感や疑念、悩みを感じながら指導医のもとで研修医が成長していく姿が描かれていた。


娘に送ろうと中古本で購入しておいたので、せっかくだし送る前に読んでみることにした
(『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』夏川草介)。
看護士と若い研修医。通俗小説か? か~ぁるい安っぽいドラマのようで面白くもなんともなくゲンナリ!
…していたのだが、著者が医師でもあるという独自性がもたらす医療問題に触れ出してからは、文章がどうのではなく、語ろうとするものに固有性を感じ、一気に読み通した。

生を奪う死はまた生きる意味を与える、とどこかで目にしたが…。

  この手で 
  日々を 
  かきわけているようなれど 
  きづけば 
  仏の手のままに
     念仏詩人 榎本栄一

何一つ 自力なし。お盆にはこんなことも考えてみたい。

コメント (4)
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