京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

桜のかさね

2021年03月24日 | 展覧会
細見美術館で開催中の特別展「日本の色ー吉岡幸雄の仕事と蒐集」へ足を運んだ。


染色史家・染色家として知られる吉岡氏は2019年に亡くなられた。氏に関連して掲載される記事を読むことで、源氏物語など王朝文学に登場する色をよみがえらせようとされていたことに私自身の関心はあった。かといって染色にこれという知識があるわけではない。
「源氏物語を原文で読み、色の記述箇所にはおびただしい数の付箋を貼り、自分の考えを書き込んでいた」と、この展覧会を監修された河上茂樹氏との対談(新聞掲載)の中で三女の吉岡更紗さんが振り返っておられた。
日本の伝統の色、かさねの色目はいつも歳時記を通じて目にしていたが、やはり写真より一見したい。きれいだなあで終わりそうだけど、「王朝文学の色」という言葉が誘ってくれている。

「平安時代は衣服の色の重なり『襲(かさね)の色目』に美を見出し、『桜の襲』のように植物名がよく使われた。情緒的な美を衣服に反映させて楽しんだのです」「当時、中国では織りが中心でしたが、日本は自然を手本にしたやさしい色の組み合わせを楽しんだ。…十二単は重そうに見えますが、平安朝の絹は薄くて軽く、重ねると色が透けて美しく見えたのです。例えば濃い紅に白を重ねて桜に見せるような。(幸雄さんは)その透明感ある色彩感覚を再現しようとしたのだと思います」(河上)

この「桜のかさね」の色合い。何とも言えない上品さで、柔らかな優しさだ。
二十歳の光源氏は、紫宸殿で催された桜の宴でこの桜のかさねを身につけ、詩を作り、舞を舞い、賞賛を得た。ちょっと有頂天に? 興奮冷めやらずでつい後宮あたりをそぞろ歩くが、藤壺との逢瀬はかなわなかった。その帰り、朧月夜と出逢う…。そんなことが「花宴」の巻に描かれていく。

紅花、山梔子、蓼藍(たであい)、黄檗(きはだ)、紫草(紫根)、刈安、矢車(やしゃ)、蘇芳(すおう)、日本茜、檳榔樹(びんろうじゅ)、胡桃、安石榴(ざくろ)が染料として展示されていた。

若者の姿が多く、袴姿もちらほらの岡崎界隈。左手に京都市勧業館を見て、琵琶湖疎水べりの桜も美しい。

平安神宮の大鳥居前に架かる慶流橋が赤く見える。



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小春日和に

2019年11月09日 | 展覧会

立冬を迎えたが、快晴の青空が広がっている。連れを得て、実は3度目となる「佐竹本三十六歌仙絵」展へ出かけた。
いつも何かしらちょっと間に合わず、どうして一度で済まないのかと思うことはたびたびだ。
今回、中務、伊勢、斎宮女御の歌仙絵は出品されていない。原本である絵巻2巻を模写した中で斎宮女御の姿は見ていたが、会場に置かれていた冊子をのぞいてみることもなく、展示物をくまなく見ていこうと欲をかき過ぎてきた。
自身の目で観る機会は「次」が無いかもしれないなら、カタログ写真ででも一見しておきたいと思ってのことだった。積もれば大枚だ…。
なんとなんと、中務の像は長野県諏訪市のサンリツ服部美術館で公開されるのだそうな。しかもこの時期かぶさるように…、なんてことよ。

帰りに南向かいの三十三間堂に立ち寄った。
1973年に始まって45年に及んだ千手観音立像1001体すべての修理、保存整理が終わったと報じられて以後、訪れたことがなかった。毎年20体ずつ、埃の除去や表面の金箔の補修を行ってきたという。2013年度からは40体に増やして補修されていたという。みなお揃いで圧巻だ。1.6mの高台が据えられていて、上がって後方までお姿拝見。「厳かな輝き」には少し期待を膨らませ過ぎた。

入口に十月桜だったか。紅葉がきれいでした。                  (写真は鴨川べりの桜の紅葉)
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絵巻切断

2019年11月06日 | 展覧会

歌仙の肖像画を「歌仙絵」といい、社殿でよく見かける絵馬が思い浮かぶ。また、百人一首のよみ札にある人物絵は、身近で広く名歌とともに親しまれているものだろう。

「佐竹本三十六歌仙絵」は13世紀ごろ成立したとみられ、江戸後期に秋田県の藩主・佐竹家に渡ったために「佐竹本」と呼ばれ、現存する最古のものだという。一旦は実業家の手に渡るが、ふたたび売りに出されることになった。だが、あまりに高額で買い手がつかなかった。そこで、海外流出を懸念した経済界の重鎮・益田鈍翁が発起人となり、絵巻を一歌仙ごとに切断し共同購入することを決めた(大正8年)。だれがどの絵かは、くじ引きで決められた。(鈍翁は最も高額で斎宮女御を手に入れたとか)

散りじりになった歌仙絵。中にはその後も転売されたり譲渡、寄贈の流転もあったようだが、鎌倉時代の絵師によって描かれた絵に大正時代の茶人が出会い、新たな美意識で表装され、大切に保管されてきた。
その変遷、科学的な分析によって明るみに出たこと(衣装や顔の表情の描き方、使われている絵の具・・)等々、新聞紙上や10月来3回ほどNHKの番組でもオベンキョーさせてもらった。これは御覧になられた方も多いことでしょう。


今日からは後期の展示が始まり、作品の一部入れ替えで小大君が掛けられた。
歌の情趣を解し、詠んだ人物の心情までを描き出す細やかな絵師の工夫。恋の病に浮かれて頬をポーッと染める藤原仲文の表情をかわいいと言ってよいのかな。後ろ向きの小野小町に添えられた歌が「花の色は…」ではなく、「色みえで移ろふものは世の中の人の心のはなにぞありける」だったことは、奥深くある女の(小町の)心情を歌って、いいなあと思うところだった。
歌と組み合わせた肖像画の描き方、見方。ものにはさまざまな感受の仕方があるということが面白い。小町、斎宮女御、小大君に伊勢、そして中務、この5人の女性の美しさを、できればもう一度見分けておきたいが…。
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夏の一会…

2019年10月23日 | 展覧会

滋賀県守山市にある佐川美術館で開催中の「白隠と仙厓展ZENGA」へ。


2015年の夏だった。高野山夏季大学に参加し、その復路のバスで隣り合わせた方との一会の記憶を私は今も大切にしている。

往路が後部座席だった者には席の入れ替えが配慮されていて、前から2列目、通路側の席が指定されていた。すでに窓際にはマスクをした高齢の女性が、荷物で膨らんだ黒いリュックを背負ったまま両の手を足の前に立てた杖にのせて座っていた。網棚にリュックを上げましょうかと申し出ると、一旦は前に座る新聞社の方にお願いしてあるからと遠慮されたが、私が代わって、並んで腰を下ろした。
バスに乗り込む半時も前までお山の上も猛暑続きだったのが天候は急変。雷鳴に、一気に側溝から雨水があふれかえるほどの夕立に見舞われた。窓をたたく雨脚の強さに驚いていると、「空海さんがお帰りだわ」とその方はつぶやいた。晴れていれば行脚に、雨の降る日は高野山においでだと聞いたことがあった。

大きな手術を克服し82歳になった今は、股関節と腰の痛みを抱え杖が離せないとのことだった。娘さん家族との同居生活をやめて、群馬県内の介護付き施設で暮らしていると言い、「帰ったら出光美術館に桃山の美術展を見に行くのが一番の楽しみなのよ。ここに来る前に『等伯』を読み終えてきました。だから、帰って3日間は疲れた顔を見せない様に頑張らなくちゃ」とマスクの下で笑った。

出光美術館には行ったことがないと伝えながら、3か月ほど前に山折哲雄氏の講演を聞く機会があったことを思い出していた。つい3か月前、なのにその記憶は断片的で大雑把なものにすぎず、ちっとも咀嚼できていないのを情けないなあと思ったのを覚えている。氏のお話は、出光美術館に収蔵されているという□と△と〇とが微妙にくっついて横に並んだ仙厓和尚の絵から始まったのだ。曼荼羅の世界、白隠禅師や仙厓、芭蕉に本居宣長、…と広く話題が及んだことの切れ切れの印象を私は話した。山折氏のことも、仙厓のことも、よくご存じだった。仙厓の『老人六歌仙』の話をされたあと「『等伯』はぜひ読んでごらんなさい」と薦めてくれていた。

折しも台風19号による河川の氾濫が各地に大きな被害をもたらしているが、何事もなく済んでいればよいがという心配と、あの時が最後となる出会いと思い返す中で、今また新たに力が出る不思議を思っている。目の前にひとつひとつ楽しみごとを作って静かに生きる力を持続させていく女性を知ったのだった。喜びを感じていた。そして、白隠だ仙厓だと話すことのできる人との出会いなどめったにないことで、忘れ得ない時間にもなっていた。このお方を思いながら、私はこの展覧会に足を運んだ。

「分けのぼるふもとの道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」とあった。これは白隠さんだったかしら。

 
本を一冊買って帰った。
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「京都山国展」

2019年10月07日 | 展覧会

京都市右京区京北の山国地域は古くから都の木材を供給するなど天皇家とのつながりも深く、戊辰戦争(1865)の際に農民たちが「山国隊」を組織し、新政府(官軍)に参じていた。
細かに綴った当時の日記が残されていた。岩倉具視の指示で鳥取藩所属となり「山国隊」が誕生したという。鳥取藩の当主には家康の血が流れていたと説明があった

この地域には民家に多くの貴重な資料が眠っており、いまも続く調査の様子がかつて新聞に掲載されていた。今回は、その成果の紹介のために催される企画展とのことで、「維新勤王山国隊と山国神社の至宝」に触れる機会でもあった。存在だけは知っていた「山国隊」だが、何かを知りたいという特別な関心事はなく、軽い興味だったが行ってみることにした。

今年の4月、京北の地にある常照皇寺を訪れた帰り道、山國護国神社に立ち寄っていた。山國神社はまたにしようと思って、いまに思えば失敗だった。

 
      (左)鳥居脇には「官祭山國隊招魂塲」と刻まれ、(右)戦病死した7人の名がある。


山國神社に残されていた「大明地理之図」(複製)は平面に広げられ、縦約3メートル、横約4メートルの大きさで見事だった。中国を中心に描かれており、大河の支流にまで及んで鮮明に描かれてあり、地図の左端には黄河の源の地まで記されてあった。元禄3年(1690)に京の私塾「養志堂」にあったものを模写したとの記入があるそうで、日本も小さく細長く、大陸の東部沿岸に描き込まれてあった。南には琉球が。模写はいくつか現存しているという。
元禄と言えば綱吉、元禄文化華やかで、町人も台頭し儒学や諸学も広がりを見せた、そんな時代だったろう。「鎖国」の時代に、模写しながら思いは外に向かったのだろうか。どんな経緯で山奥のこの神社に伝わってきたのだろう。
 
会場は圧倒的に男性が多かった。研究・調査に携わっているらしい話題が耳に入るし、古い資料を読みながら、さん付けで話題にする年配の女性もいて、郷土の方、縁者だろうかなどと思わせるし、著者と読者の関係の会話が私の後ろでなされているし、近江との関係まで談義している人がいたり…。関係者いっぱいの会場の雰囲気に、ちょっと場違いなところに来ちゃったかしら…と思いながらも、しっかり拝見して後にした。
何の役に?なんてことはよくって、ささいでも自分の心が動いたということが大事、大事。そうは言っても、豊かな歴史のほんの一端を垣間見る貴重な機会を得たと思っている。
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「文化財よ、永遠に」

2019年09月18日 | 展覧会

出直して、特別展「文化財よ、永遠に」が開催中の泉屋博古館へ向かった。前回ここを訪れたのは’16年の11月だった。

夫婦と思われる二人連れの会話から男性の言葉が耳に入ってきた。「こんなふうに修理しました、いうことやな」。確かに、そうだった。
図解がなされ、修理中の発見の説明も丁寧に添えられてある。けど、もう少し文字サイズを大きくしてもらえるとありがたい。眼鏡を持参していたが目を凝らしての読み取りは疲れるものだった。

「文化財修復のために必要なものはヒト、モノ、カネ。まず、人の篤い意思が求められる」。
500年前、戦乱で焦土と化した京の街で仏像修復に一人の僧が勧進活動を始めたところ、関東地方にまで広がりを見せたそうだ。
そして400年経って、(昭和の修理で、とあったか)大覚寺の五大明王像のうちの大威徳明王像の胎内から、この修復の経緯など記したものが粗末な紙で小さく包まれて発見されたという。僧の名を忘れたが、その志に打たれる。

浄瑠璃寺の、あの暗いお堂に座す大日如来坐像を真直に拝見。藤原定家の「明月記」、「水月観音像」との再対面が大きな楽しみだった。
定家は不要となった書簡の紙をつなぎ合わせ、その裏に日記を認めていたことは知ってもいた。裏打ちした紙を取り去ったことで隠れていた書簡の内容が現れたのだ。全58巻の日記だからその情報量は膨大だろう。中世史の分野に寄与したという。裏面の書簡の文字がすけていた。


筆先で水をつけながら、ピンセットの先で少しずつ裏打ち紙をはがしていく作業は、水月観音像の修復作業を解説するビデオの中でみたが、このビデオが、読むより見るで、わかりやすかった。赤い糸に通した水晶の数珠に妙に魅かれるのだが、水晶の透明性を出すために、表と裏両面から赤い色を塗っているのだとか。金剛三昧院に伝来していたというから驚いた。その後一度海外に流れ、再び日本に。

酒井忠康氏が館長として展覧会図録に寄せたあいさつ文42編を一冊にした『展覧会の挨拶』が書評で紹介されていた。会場には行かずに、展覧会をのぞいてみようっと。足しげく博物館通いはしていないが、携わった様々な人たちの労苦、学芸員の方々の努力や工夫を思い、少しでも鑑賞の機会を増やそうか。鑑賞者のまなざしが、修復の気運を高めることにつながっているということが記されてもいたし…。
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『釈迦内柩唄』

2019年04月12日 | 展覧会

水上勉さんの生涯を、パネルで振り返るという展示がしんらん交流館(下京区)であることを知り、月初めに一度足を運んだ。生誕100周年、5月に氏の戯曲『釈迦内柩唄』がここで上演されるのに合わせた企画だという。作品の内容は知らずにいたが、申し込もうか…?という思いを潜ませていた。

生まれてから85歳で亡くなるまでが6枚のパネルで紹介されている。氏の本の装丁を多く手がけたという同郷の画家・渡辺淳氏の絵の複製も見られた。著書を手に取ってみることができるように配置されていた。当然、『釈迦内柩棺唄』のページを繰って、しばし立ち読み。
展示は物足りなかった。気持ちが削がれた感の無きにしも非ず…。まだいいか…。
が、おそらく二度とはない機会だろう。気になって気になって、今日は出直して、チケットを購入した。5月からは展示内容に追加があることを告げられた。

戦時中に秋田県の花岡鉱山で中国人労働者が過酷な労働や虐待に耐えかねて集団離脱した「花岡事件」を題材に、炭鉱近くの釈迦内で死体焼き場を家業とする家族の姿を描いた戯曲。〈わけへだてなき優しさと勇気 時代に問いかける人間賛歌〉

明日図書館で本を借りてこようと思っている。
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「自分の目で見る」

2018年03月21日 | 展覧会

先日、チケットがあるからと友人に誘われ、ベトナム戦争の報道で知られた写真家・沢田教一(1936-70年)の回顧展を見に行った。
氏は70年に銃撃を受けて亡くなったが、11歳年上の妻のサタさん(92)は開幕日に青森県弘前市から駆け付け、夫の思い出を語られたようだ。二人は三沢基地内の写真店で同僚として出会う。

川を泳いで逃げる母子を撮った「安全への逃避」など一連の写真でピュリツァ―賞を受賞した。名前の記憶などはなかったが、この写真は記憶している。隣同士だったので一緒に逃げた母子二組。沢田は地図にも載っていない地域へ分け入ってこの母子たちを探し出し、賞金の一部を送った。会場のビデオで、右端で抱かれた当時は2歳だった女性が、沢田への感謝の言葉を語るのを聴いた。「会ってお礼が言いたい」。

戦争の残酷な姿が何枚も撮影されている。一方で、子供たちの笑顔に目線を向けた写真も多い。
ちょうど孫たちと数日を過ごして戻ったばかりだった。彼らを目の前の世界に組み込んでチラとでも想像してみると、平和はありがたいなどという思いの前に、胸に迫るものがある。無性に悲しい。こんな体験をさせたくないと涙ぐみそうになるところをこらえるが、幸い誰かにそんな顔を見て取られることはない。それぞれが写真に見入り、きっと思いを共有していただろう。

立ちどまる。見る。自分の目で見る。じっと見つめる。それだけのことが、一瞬一瞬の出来事に忙しく目を走らせることに追われ、ふだんになかなかできにくくなってしまっている、と長田弘さん(『感受性の領分』)。「美術館は自分の目で見るという習慣の大切さを思い出させてくれる」。
この回顧展は、こんなことも考えさせた。

      
おかげさまで、16日17日には孫娘Jessieの小学校卒業、弟のTylerの幼稚園卒園を一緒に喜ばせてもらって帰ってきました。
一昨年の5月に来日し、間を置かずに居住地区の小学校、幼稚園に通い始めます。緊張も不安も多々あったはずですが、心配をよそにこのよき日を迎えました。
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情熱的で力強く…

2018年02月23日 | 展覧会

便利なキーワード3つ。「情熱的な色彩」・「力強くうねる筆致」・「日本好き」、これらの言葉から想像できる画家と言えば、ゴッホでしょう。
幾つか見知った絵があるという程度ですので、日曜美術館(NHK)の放送を聴いたり、新聞紙上でのゴッホ展関連記事を読んで少しオベンキョーしました。
開催中の【ゴッホ展 巡りゆく日本の夢】(1/20 ― 3/4 京都国立近代美術館)にそのうち行ってみようと思っていたからです。それがいつのまにか「まあ、いいか?」となって最終日が見えてきてしまいました。「やっぱり、もういいかな」、そんな思いでいると「割引カード(注・100円だけ)があるから行きませんか」と友人からが声がかかって、「ありがとう、行きたかったのよ」と即答。弾みがついて、双方の都合を確認して即決でした。この友とは、それぞれの日々の暮らしの中に求める波長が触れ合えるのか、興味の対象は違っていても刺激し合える大切な関係です。

〈江戸後期の浮世絵師が西洋遠近法を極端に吸収した。それを再び、西洋の近代画家が受容する、という循環。日本の美術に出会ったゴッホは、浮世絵を夢中で模写して色彩や構図を学び、たくさんの傑作が描かれた。そして彼の死後30年近く経って、そのゴッホに憧れた日本人の画家をはじめとする文化人が現地を巡礼する〉などとの専門家の解説を読み、本物を目の前にした贅沢な空気に触れました。

ときどきはしっかり立ちどまり、見えにくい解説の文字を読み取って、得ていた情報とすり合わせては「なるほど!」「なるほどねー」と、影響やつながりをわかったつもりになる。「花魁」の鮮烈さ! 柔らかなタッチ、やさしさを感じる目線のものには安息を感じ、「蝶とけし」なども意外に好きだと感じたり。
「ポプラ林の中の二人」を描いた翌月に自ら命を絶っているわけですが、昨年11月末に視た油絵が動くというアニメーションでの映画「ゴッホ 最後の手紙」ではこのあたりの謎を探っていました。


21日に入館者数が10万人を超えたと新聞で報道されました、10万人目の方は以前から関心があったとか。私にはそれがなく、百聞は一見に何とやらのにわか関心でした。

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コレクター「夢石庵」

2017年12月05日 | 展覧会

「末法/Apocalypse -失われた夢石庵コレクションを求めて」に誘っていただき細見美術館へ。この展覧会を催すスタンスが興味深かった。

「初公開」「新発見」「〇〇万人動員」あるいは「国宝・重要文化財指定」などとの指標だけで美術が語られる展覧会が次々と催されている。一方で、個性豊かな美意識・鑑識眼をもって美術品を蒐集していたコレクター・数奇者と呼ばれる人々が姿を消しつつある、と。これは美術にとってある種の末法の世ととらえている。その状況に戸惑いを感じる立場から、個人の美意識に基づいたコレクション展を催し、〈いいも悪いも、一人称で語り、評価する世界を楽しんでみて〉、と一石が投じられた。…と今展を理解してみた。

作品リストの一覧によれば、前・後期で多少の入れ替えがあるが展示作品は80点あまり。その中に国宝、重要文化財は一点もなかった。展示品の名称、時代と、中には所有者、伝来までが添えられたものがある。作者名がわかるのは長谷川等伯、与謝蕪村、丸山応挙、酒井抱一による絵画作品だけ。

見て回る際、少しでもいいから解説が欲しいと思ってしまった。いつも何がしかの説明を頼りに見ることが習慣づけられてきたせいか、物足りない。一見しただけでは、一つひとつの作品の奥がわからないのだ。けれど、そここそ個々に美の鑑賞が委ねられた部分でもあり、そこを楽しむのですよ、と投げかけられていたわけだろう。そうは言われても、語るほどのものを持ち合わせず、こういうのが身近にあったらいいのになと思うくらいで情けないこと。とは言え、で、いいなあと思うものからは、しみじみとした平安さ(?なんて表現があるかしら)、豊潤なぬくもり感(?などと言うかな…)で気持ちよく充たされる。この感覚、まさに個人的な好みの問題と言えそう。迦陵頻伽像(覚園寺伝来 パワーズ旧蔵)、金銅十一面観音懸仏(平安時代 藤田青華蔵)、薬師如来懸仏(鎌倉時代)などはとりわけ印象に残った。

見終わって出口を出たところに用意されてあった1枚の印刷物。そこから、この展覧会のちょっとした仕掛けを知って、「夢石庵って??」「えっ、どういうこと?」って、ワインを傾けながら友人と語り合う。その種明かし、ここではできない。この作品展の会期が終わるまでは、胸の内に収めておくという約束に…。語ってしまってる? いませんよね。


道路を挟んで東にあるロームシアター京都では「吉例顔見世興行」が開幕している。南座が改装工事中のためで、ここに掲げられたまねきの看板だけを見て帰ろうと立ち寄った。
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こんなふうに生きた人が、

2017年11月12日 | 展覧会

『湖の伝説 -画家・三橋節子の愛と死-』(梅原猛著)という本があります。夫との婚約時に郵送で届いた一冊でした。40年にもなろうかという昔のことで、当時読了したかさえ記憶にありません。以後、何度かはページを開き、昨年には改めて再読したという一冊ではあります。
誰にも引けを取らない美術館オンチ。そうなんですけれど、どんなスイッチが入ったのか。滋賀県大津市小関町にある三橋節子美術館を訪ねました。2回目ですが、今回は近松寺(湖西27名刹の5番)とセットで。

昭和14年3月3日、大阪で誕生。京都市立美術大学で学び、昭和43年、日本画家・鈴木靖将氏との結婚を機に滋賀県大津市の長等山の麓に居を構え、長等の風土や歴史を題材に数多く作品を発表された節子さん。二人の子供を授かります。昭和48年、鎖骨骨肉腫により右腕切断の大手術。術後すぐから、絵筆を左手に持ち替えて描くことに専念されたと。

退院してみると自宅の裏山の近松寺(ごんしょうじ)にある樹齢800年の菩提樹がスズランのような花を咲かせていたそうです。初めて左手で本格的に描かれた作品「菩提樹」。先が短いことを知って、夫や子供たち、父や母に別れを告げるために、近江の昔話に自分の思いを重ねて絵を残します。家族で余呉湖に遊び、互いに別れを受け入れ、さよならを言う時間を過ごし、そして描かれた絶筆が「余呉の天女」。我が子への遺言、「雷の落ちない村」。大切な人を失う悲しみ…。その中にも、亡くなった人こそいつまでも心の内に存在し、傍にいてくれると実感するのではないでしょうか。作品に用いられる白い線が、それと、使われる朱色がとても印象的に心に残ります。
靖将氏がスケッチしたデスマスク。亡くなる7時間前に二人の子供に当てて書いたという葉書2枚の展示も。地域の豊かな先人のゆかりを大切に継承されていることが学芸員さんや館内の雰囲気から伝わって、とても素敵な美術館です。
再婚された靖将さん。氏は新見南吉生誕100年を記念した企画で童話の挿絵を担当されていて、その挿絵原画展が新見南吉美術館で開催中だと教えられました。



美術館の裏からさらに少しだけ高みに、雨風に傷んではいましたが琵琶湖に開いて近松寺の本堂はありました。近松門左衛門が20歳から3年ほどをここで過ごしたと伝えられます。
そこかしこに眺められる寺の甍に目を奪われながら、ぶ~らぶ~らと京津線「上栄駅」まで戻りました。
「日本文化に多く見られる入れ子型構造の屋根の先端の反りは、上昇を志向するもんじゃなくて、内へ引き寄せながら外を包み込んでいる力だそうだ。…」。 ???同行者の言葉は宿題になりました。
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最古の壁画写真展

2017年05月01日 | 展覧会
先日、千日回峰行の写真展を拝見してから同行の友人とランチを共にしたあと、もう一つ、京都文化博物館(別館)で開催中の写真展に向かうことにした。15日から京都市内一帯で「KYOTOGRAPHY 京都国際写真展2017」が繰り広げられている。16あるプログラムの中の一つで、人類最古とされる壁画が残る世界遺産のフランス・ショーヴェ洞窟を写真で表現する「ラファエル・ダルポルタ展 ショーヴェ洞窟」が目的だった。


新聞紙上でこの太古の神秘世界が紹介されていたが、それによると――。
〈フランス南部にあるショーヴェ洞窟が発見されたのは1994年。2001年になって、ラスコー洞窟(およそ2万年前)をはるかにさかのぼる3万6千年前の壁画だと認定された。現在は非公開だが、ダルポルタ氏は6時間だけ立ち入りが許され、全方位360度を独自の技術で撮影した。会場には高さ3.9m、長さ11.8mの円弧状の4K超高度画質モニターが設置され、45分の動画映像で見ることができる。〉


線刻画で牛や馬、ライオン、サイなどが描かれいる。よくわからない動物の絵もあるが、すでに絶滅した動物らしい。岩の凹凸を利用した立体感ある群れ。輪郭線をずらして動きを感じさせる、アニメーションのような感覚。3万年以上前の人類によるものかと感嘆。


友人が漏らした一言から、ふっと思い出すことがあった。3年ほど前、「ことばと出会う 文学と出会う」と題したフォーラムに参加した折、芥川賞受賞作家・玄月氏のお話の後、俳人・坪内稔典氏との対談があった。その中で、玄月氏が「言葉より絵を描く方が先だったと思う」と発言されたのに対して、坪内氏は「私は、言葉が潜在していてイメージを絵にすると思うから言葉が先ではないかと思う」と応えられる経過があったのだ。

想像力は言語の発達と関係があるという。3歳ぐらいになると「顔」を想像して絵を完成させることができる。目、口、鼻などを書き込んでいけるのだ。でも、チンパンジーは輪郭をなぞっているが書き込むことができない。人間にだけ備わっている想像力の賜物か。そんなことも考えながらだが、太古の人類の、情報や意思の伝達手段はどのような形だったのかしら、とは不勉強ですか…。

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15歳で出家得度して

2017年04月29日 | 展覧会

前回(4/13)とは場所が変わって、東山区四条通に面した西利のギャラリーで開かれている写真展に出掛けた。蓮華笠と白い浄衣に身を包んで雪の山中を歩く光永圓道大阿闍梨です。昭和50年生まれ、42歳とお若い。

       
写真集出版を記念しての写真展でしたが、写真集には手が出せず、こちら『千日回峰行を生きる』を求めました。「何かしら生きる上での糧となるような機縁に」なるよう、読ませていただきたい。

実は昨日、出羽三山で修験道を今に守る羽黒山伏が唱える『感じるままに生きなさい 山伏の流儀』を購入したところでした。
羽黒山五重塔の一見をかなえたくて、ツアーでの参加を計画したものの先延ばしで断念することになった4月。これまでは、はるかに遠方の地、縁も薄いかと思っていたのですが、一歩踏み出したことで、タイミングさえ合えば行けるのだという思いを強くしています。気になっていた一冊でした。

       
山伏の流儀を読んで、「物事を頭で受け止める癖を改めて魂で受け止める方が、ストレスからの解放や生きやすさにつながるという道理がよく胸に落ちる」、かどうか。さっそくこちらから。
 ある書物を読んでいて、「結局、その信は教養以上には出ないのです」という言葉に触れました…。
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隣り合って

2017年04月21日 | 展覧会

「漢字三千年 ー漢字の歴史と美ー」 日中国交正常化45周年記念特別展。


「漢字」誕生以来3000年。最古の漢字として知られる甲骨文字、清の時代の漢字が刻まれた世界初公開となる兵馬俑。太鼓に似た大きな石・石鼓(せっこ)に刻まれた文字、…等々、およそ110点の出品があるようだ。毎日読んだり書いたりと漢字は身近なはずだが、深く考えることがない。気持ちが弾まないまま、足早に見て回ってしまった。この感性の乏しさ!
ただ、〈中国と日本は一衣帯水の隣国…〉、こう始まる掲示物の冒頭にあった「一衣帯水」という言葉を初めて知ることになった。


もともと気乗りせずに敬遠した展覧会だったが、友人に誘われ、行ってみる気になった。久しぶりに会う友人だったから、これを機にと私の中では目的がすり替わっていた。向かい合うより隣り合ってのお喋りを好む彼女は、私より7つ年上だが、一目見て元気そうだと感じた。どのような事情があれ、縁ある人との別れに穏やかではいられまい。それでも月日の経過は、とらわれていた心を軽くさせたようだ。
戸惑いや悩みにも、潤いをもたらす優しい雨が降る。気づかないくらい静かな、恵みの雨が、ね。
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比叡山千日回峯行写真展

2017年04月13日 | 展覧会

実は、中外日報社の宗教文化講座第2回目になる来月には、千日回峯行者・光永覚道氏の「千日回峯行のこころ」と題したお話が予定されています。すでに受講票も手元にあって心待ちにしているところに、この新聞記事が目に留まりました。光永覚道氏は光永圓道大阿闍梨の師であります。

「行は険しい山の道を歩くというイメージが強いが、祈りの部分を意識して撮影した」、と写真家の内田氏の言葉もありますが、『比叡山・千日回峯行酒井雄哉画賛集 ただ自然に』を開いてみました。、
〈回峯行とは歩く行だけではなく、むしろ、礼拝行である〉
「ひたすら礼拝して回る日々を過ごしてきた。口先でも頭の中だけでもなく、体をもって一生懸命に祈ること。小さな野の花をはじめとして、自分を取り巻くすべてのものに祈りをもって接する。これもまた行なのだ」「仏に華をたてまつれ」などと記されています。
         

会場の入り口に、B5サイズほどの小さな説明が貼られてました。印刷物はありませんが写真に撮っても構わない、と言ってもらえて…。それによると、
行者の「頭に戴く『お笠』は未敷蓮華(みふれんげ。蕾のままの蓮の葉を象り、檜で網代に編まれている)を象り、千日回峯行者でも第四百日目に入ってからでないと頭に戴くことは許されず、大切に手に持って歩く」「すべて白一色で整えられた行者の装束は死装束を意味し、お笠の中には三途の川の通行手形の六文銭がつけられている」のだそうです。

白い1輪の山百合が圓道さんの「お笠」に挿された写真があって、ひどく心に残った1枚です。斜め後方にはスクッと伸びた2輪が映っていました。厳しい行のさなかにあって手折って挿す、「仏に華をたてまつ」る行為を想像していました。

「不退の行」「捨身の行」とも言われ、断念するときは、自ら命を絶つ定めとなっているという回峯行は、自分のためではなく、衆生済度を願う「化他行(けたぎょう)」であるそうで、その真意を覚道氏がお話下さるというので楽しみにしているわけです。


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