京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

春の錦の六角堂

2024年04月04日 | こんなところ訪ねて
    見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける   素性  (「古今和歌集」)



ここ六角堂境内も春の錦に染められている。



「西国三十三所一八番札所」にあたる頂法寺六角堂。
ということなのだが、

ここに親しみを持って参拝し出したのは、地元紙に連載された五木寛之氏の『親鸞』がきっかけだった。
あの頃、何年前になるのか、同じく連載された新聞を読んでおられた方々と、ブログでお話させていただくことがあった。
読後は新聞を切り抜いて保存して、一年しっかり楽しんだ。けれどあれから読み返すことがなく、記憶はあいまいに。


折も折、六角堂の桜を思い出すきっかけがあって、昨日一日降り続いた雨も上がったのを幸いに、訪れてみた。
かなりのお参り?でにぎわい、街中のせいか桜の開花も進んでいた。
柳の2本の枝をおみくじで結ぶと良縁に恵まれるとか。柳にとっていいのかどうか…。

親鸞聖人は29歳のとき比叡山を下り、ここ六角堂に100日参篭を志した。そして95日?の暁に聖徳太子の夢告を得たと伝わる。
そして法然上人を訪ねる。
 ― ひたすら念仏もうすのみだ。念仏のさまたげになるものはすべて捨てよ。妻を娶って念仏が深まるのなら妻帯も結構だ

人間が人間らしく生きることが救われれること…。
だがその後も思い悩むことは続き、七日七夜の参篭に入った。と、何日目かに六角堂の本尊、救世観音が現れる。
のだったかな。


〈御本尊の宝冠には 阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている観音様と阿弥陀様の法力が合わされたお姿である
建仁元年(1201)には浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ
「いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く」と告げられた〉

と記されている。



下は、2009年4月3日に訪れたとき。 15年を経て…。

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京に燃えたおんな

2024年03月22日 | こんなところ訪ねて
昼から河原町通りにある書店MARUZENに出向いた。用を済ませて店内を見歩いていて、澤田瞳子さんの『のち更に咲く』という単行本が出ているのに気づいた。最新作のようだ。
古代、中古が時代背景の作品が好きなものだから大ファンなのだけれど、この頃は澤田作品が遠のいていた。

帯には【時代に抗う 和泉式部  すべて見通す 紫式部】とかあった。
今の時流に乗らんとするかのような?『のち更に…』、などと言っては失礼だけど、それでもなにかかるそう~って感じ。

今年はNHK大河ドラマの影響か、2008(平成20)年の「源氏物語千年紀」の賑わい再来かと思える催しが各所で見られる。
源氏物語成立千年となるのを記念した行事ごとだった。「古典の日」が制定されたのもその延長。寂聴さんが演壇にあがられていたのを思い出す。


昨日は和泉式部忌だったのを思いだし、和泉式部の寺とも親しまれる誠心院に行ってみることにした。書店からは近い新京極の通りに面して、門を構えている。

 

藤原彰子(道長の娘・一条天皇の中宮)に仕えた式部のために、道長が小御堂(こごどう)を与え、晩年、式部はそこに住んだとされる。そのお堂を、この地に移建した。

 

   春はただわが宿にのみ梅咲かば
       かれにし人も見にときなまし

ゆかりの梅の木は本堂前に。そして、墓とされる宝筐塔がある、

 

〈愛の遍歴を知った深い悲しみ〉
〈大胆に愛うたう情熱歌人〉
〈燃えた恋はただ二人〉
〈恋人との逢瀬描く〉 
『京に燃えたおんな』の和泉式部にはこんな表現が散見する。

【式部に噂の男は多かった。子供を産んだとなれば、うるさい詮索。面と向かってぶしつけに「どなたを親に決めましたの」と問う。プライバシーの侵害に憤然とした彼女は、「そんなに知りたければ、あなたがお死にになってから閻魔さまにでもお聞きなさい」と歌を詠んで手厳しく反撃した】
「現代女性のさきがけのような心意気を示した女性」と紹介している。

でもね、物語風の『和泉式部日記』を読むと、また違う彼女の姿が透けてくる。心には表裏があるもの。

式部が貴船神社に参詣した折に詠んだ歌が残されている。
     
     もの思へば沢の蛍もわが身より
          あくがれ出づる魂かとぞ見る



昨年11月末に孫娘と見た蛍岩。貴船は見事な紅葉だった。
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18歳の永徳が

2024年01月30日 | こんなところ訪ねて
立春を数日後にした京の空は、青く晴れ渡った。
日差しも温かさを増してきた午前11時ごろ。地下鉄の今出川駅で降り、烏丸今出川の交差点から西へ、室町通を越えて新町通まで歩いていた。

2筋目だから大した距離ではない。途中振り返ってみても、青い道路標識の先の右手、京都御苑の北西の角をのぞめる。


新町通から南に下がるや、ほとんど出会う人はいないまま、目指すは元誓願寺通。
今出川通りからどのくらい下がったか、これも知れている。
ここ、赤い塀のところから西に入ればよさそうだ。


西は元誓願寺通り。

ああ。ここね! このあたり「狩野元信邸址」


「道幅の狭い上京の辻」
「永徳の屋敷は、上京の誓願寺のそばにある。
あたりが狩野の図子(ずし)と呼ばれているのは、狩野家の名がそれだけ京で知れわたっているのと、本家を中心にして一族や弟子たちの家がたくさん集まっているためである。図子は、辻子(ずし)とも書き、細い通りや町の一角のことだ。
通りの両側に板葺き屋根に石を乗せた家が立ち並んでいる」
いかめしい侍の一行、坊主の乗った輿、大きな荷をかついだ物売り、辻には人が多い。上京のなかでもいちばん繁華な界隈だ、と描写される。
白梅が咲き出した永禄3年(1560)の初春。18歳になった永徳が登場した。(『花鳥の夢』)

「いつまで読後の余韻のなかにいるのよ!?」って、友の声がしてきそうだわ。

ここから今出川通りまで出て、小川通りを北へ。すると本法寺はまもなくのこと。禁裏も近い。
戦乱、争乱。再興しては焼失を繰り返し、京の街は絶えず変化し続けてきた。
将軍足利義輝から洛中洛外図を依頼されて、洛中の邸宅や寺社を巡り歩いた永徳。足跡をいっぱいつけて。
そうか!このあたりだったのか。初めて訪れた“狩野の図子”に、ちょっぴり感動。

「小説を読む、それは存在がはっきりしない何かを信じるという行為。例えば太宰を読むことは太宰を信じること。千年前に死んで会ったこともなく、しかも外国語で書いた作者をすごいと思って読んだりもするわけで」。文学的空間において自然に成立する「信頼関係」だ。

先日読んだばかりの高橋源一郎さんの言葉を友に伝えよう。ふらふら出歩く言い訳になる?
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ひとつひとつ深く心にとどめながら

2024年01月28日 | こんなところ訪ねて

本法寺に長谷川等伯による「佛涅槃図」を拝見しようと出かけたところ、ちょうど春季特別寺宝展が開催されていた。



           
平素は原寸大(縦約10m・横約6m)の複製が展示されているがて、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が拝観できるとのこと。
首を真上に向けて見上げる。でっかい~って感じ。
「一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣をきて、ほお杖をついている男」を探した。下から見上げ、二階から、半分上を近くに見ることができる。洋犬も探し当てた。
多くの縁者と別れがあった。60歳を過ぎた老境の身での作。

帰り際、誰もいない気楽さから少しお話をさせてもらった。
「そこに白い壁が見えますやろ。等伯さんはそこに住んで本法寺にかよわはったといいます」
拝観受付の窓口で座って指さす先を振り返った。

〈安土桃山文化の芸術担い手となったのは、法華檀信徒だった。狩野元信・永徳、等伯、本阿弥光悦(王林派の祖)。日蓮の革新的性格が伝統様式から解放したのでは〉などと何かで目にしたことがある。光悦と等伯のかかわりも深い本法寺。

カラーでしたつもりなのにごめんなさい、といってくださった。
 

「生き残ったものにできるのは、死んだ者を背負って生きることだけだ」「ひとはそれぞれ重荷を背負いながら、一日一日を懸命に生きている。大切なのはその生き様であって、地位や名誉を手にすることではない」(『等伯』)
『等伯』を読み、五木寛之氏の『百寺巡礼』第9巻の本法寺、能登半島の付け根、羽咋にある妙成寺について第2巻で読むなどして、そして、狩野永徳を主人公にした『花鳥の夢』とも出会い、
「長谷川等伯とは、いったいどんな人生を送った人だったのだろう」と私も関心を寄せた。
自分で史実を調べるということまでには至らないのだけれど…。


2015年に高野山夏季大学でお会いした当時82歳の女性の、「『等伯』を読んでごらんなさい」のひと言が心にとどまり、巡り巡って今に至る、この巡り合わせの不思議を思うばかりだ。

「東福寺の涅槃図には猫が描かれているそうですね」
私は観たことがないと言ってから、こんなふうに添えた。
「猫は明兆さんのお手伝いをよくしたそうですよ。それで、お前も描いておいてやろうって描き足したそうです。エライ先生がおっしゃっていました。ほんとうでしょうかね」
「真如堂の涅槃図にはやはり猫が描かれていました。ガンジス川が流れているのですが、タコやクジラまで描いてありました」

帰りのバスの車内で、こんな会話もしたのだった。面白そうに小さく笑ったのを覚えている。このとき、それまでずっとしていたマスクを外されたから。
彼女は本法寺のこの大きな佛涅槃図は御覧になっていたのだろうか。



妙覚寺で狩野家累代の墓に参った。塀沿いに山梔子の実が生るのが見えた。

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“wow, really!?“

2023年12月18日 | こんなところ訪ねて


定朝が持てる限りの技を以て制作した本堂の棟の鳳凰像、堂内の四方の壁の52体の雲中供養菩薩。中でも目を引く螺鈿の須弥壇に安置された阿弥陀如来像。

開眼供養を半月後に控えて- 
白々とした朝日が、磨き上げられた本堂の板間に、淡い影を落としている。
 臈長けた鶯の鳴き声に眠りを破られ、定朝は背を預けていた板戸からはっと起き直った」

『満つる月の如し 仏師・定朝』(澤田瞳子)の物語はこう始まる。
定朝がもたれて眠っていた板戸とは、このあたりか?などと、作品読後の思いに酔いながら平等院鳳凰堂を参拝したのは’20.2.18だった。

この日は孫娘と一緒に。
墨を流したような空のもと、境内地内を巡っていたところ、この世に花を絶やすまいと?たんぽぽ一輪、返り花が咲いていた。

10円玉に刻まれた鳳凰堂、1万円札にみる鳳凰の姿。父親にちょっと自慢気な写真を添えて・・・
“wow, really!?“ うーん、反応は…ちいさい、いや…フツー、か。
知らなかったとだけは言える。


参道脇に並ぶ店先で、おいしそうな抹茶のパフェに引き寄せられて入ったのは、三星園上林本店さん。
「16代目で日本で一番古い茶どころ」 「利休がのんだお茶はここの」
「最古だから! わかるでしょ?」
「どこへも下ろしていないから、ここでしかのめない」
愛想のよいスポークスマンのようなお方が店頭で説明してくださる。
「地図記号の茶畑は、うちのマークよ」

ちょっとお高めのパフェだったけど、
「ここに来なければたべられないんだから、まあいいか」とJessie。
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この日も、人、人、人

2023年12月13日 | こんなところ訪ねて
「清水寺の門前は、この日も、人、人、人である。」
およそ20年ほど前に五木寛之氏が書いている。

今日も、20年前をはるかに上回るのではないかと思うほどの人、人、人だった。
テレビで見ていた通りだった。
で、どちらかと言えば敬遠したかった場所の一つだったのだけれど、「ダディが清水寺に行ってみればって言ってる」という孫娘の言葉に耳を貸し…。

清水坂を上がるコースで行きましたわ。人、人、人。




今頃の、こんな時期に、修学旅行生が溢れているのには驚いたが、Jessieもお土産を物色し、十分に楽しんでいる。
私も嫌いじゃないから、(ほかの場所にも売ってるんじゃない?)は最後の最後に回し、彼女の興味につきあい、「どっちがいい?」と聞かれれば「こっち」で収める。水を差してはね…。


青空のもとに欅の巨木で組み上げられた舞台が壮観。
あの上からは京都の市街が一望のもとに見渡せる。
楓の多くはすでに散って、道の脇にふかふかと散り積もる。それを蹴とばして歩く18歳。

人混みにまぎれて、ひそかに観音様に現世利益を願ってみたり、おいしそうな店先の誘惑に乗ってちょっと無駄遣い…と、気楽な観光を楽しんだ。
笑って暮らそ、ふふふふふ。

うららかな初冬の一日だった。
夕日が静かに比叡山を照らすのを、「きれいだね」と眺めながら家路を急いだ。
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 山の吹雪の音もうれしき

2023年12月11日 | こんなところ訪ねて


季節外れの陽気に、午後から鞍馬に向かった。
九十九折の参道を本殿金堂まで歩いて30分(標高410m)。
「ケーブルカーで行こう?」という孫娘に、「せっかくだから歩かなくちゃ」と誘う。



歩きだしは少々きつく、山道に階段に、息切れはどうしようもないのだが、それでも次第にペースができてきた。とはいえ、で、最後の数段の階段は腰がもうふらふら、やっとこさ登り切ったというところだった。

日本の仏教教団では珍しい女性のトップを貫主(かんす)として40年以上も勤められ、寺とお山を守った信楽香仁さんという方のことを、息を切らし切らしJessieに話して聞かせながら進む。
92歳だった香仁さんのお話をこのお山までお聞きしに来たことがあった(2017.6.14)こと。去年97歳で亡くなられたこと。ここには水道がきてないこととか、…。



雪の中に明ける鞍馬の新春のさまを綴られた文章にしたためられた歌は、あたたかく心に残っている。
    掌を合わすぬくもりの中に身をおけば
        山の吹雪の音もうれしき

 月のように美しく
 太陽のように温かく
 大地のように力強く

鞍馬の教えの中心にあるという。
「のどかわいたあー」と叫んだこの日を、記憶に残してほしい。

久しぶりの雨音が心地よい夜。「雨の音って好き」って18歳。





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紅葉且つ散る

2023年11月28日 | こんなところ訪ねて
22日に学友と一緒に“卒業旅行”の名目で?日本にやってきた孫娘。大阪で3日間をたっぷり遊んで、ホテルチェックアウト後は真っすぐ京都へやってきました。
互いに姿を見つけるや、手を挙げて合図。笑顔で歩み寄り合いハグまでいかないまでも体を寄せ合って「久しぶりだねー」「4年ぶり?」と言葉を交わしたのでしたか…。
まず健康保険証を作らなくてはなりませんでした。

来年の1月16日が帰国予定ですので、衣類やら、たくさんの化粧品、…等々の荷物を整理し、お土産にあずかり…。
疲れをとってと休養を重ねての今日。

冬紅葉となりましたが、きれいなうちにどこかへ見に行きたいという孫娘と、南禅寺から永観堂へと歩きました。
ひときわ華やかなのが楓。そこに銀杏黄落。日差しを浴びて、はらはらと散る紅葉。
花筏と言いますが、池や川に浮かぶ紅葉はなんと…。




永観堂では思いがけず長谷川等伯の作品を目にする機会を得ましたのに、足早に過ぎる孫娘。
たくさんの人で見ずらく、気持ちもあまりむかないのか、あとを追ってさささとその場を離れることに。





何枚も写真を撮りながら堪能していた様子に、脚の疲れはお口チャック。
帰宅後は両親にLINEで写真を送ったり会話したり。声も弾んでいましたね、楽しんでくれてよかったよかった。

弟のTylerから「明日はるーちいの誕生日」と言われ、「わすれてたー」。

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「埋め木」を探して

2023年10月28日 | こんなところ訪ねて
点訳の仲間との待ち合わせに、今日は京津線を利用して大津へと向かった。帰り、三条京阪駅で降りて、三条大橋を渡ろうと考えていた。

この夏、三条大橋の欄干が京北や鞍馬で伐採されたヒノキを用いて新しく作りかえられた。
その橋を見に、ではあるが、そこに〈ハートマーク♡がある〉という新聞での記事を読んだことで、ただただ好奇心、どれどれ?と見てみたくなったのだ。

橋の上では写真を撮ったり、川を覗き込む人たちが立ち止まる。見ずらかったが、菱形らしきものを人の隙間に覗き、実際すべすべした手ざわりでこの亀甲模様を撫でてきた。ハートマークはわからなかった(出直しだ)。


記事によれば、
修復に関わった宮大工棟梁の指示で「埋め木」と呼ばれるハート型や菱形、亀甲模様は埋め込まれた。
節や割れがあればその部分を取り除き、埋め木をする。取り除いたままにしておけば、そこに水がたまり腐食してしまう。埋め木のデザインを決めるには、大工さんの遊び心もあるのだろう。


割れの部分を深さ1.5~2センチ削り、木目の似た同じ形の木材をはめ込む。表側の面より少し広くした奥側をたたいて縮ませてからはめ込むと、元の形に膨らんで抜けなくなる。接着剤を使わなくても緩まない仕上がりは、まさに大工さんの腕の見せどころというわけだ。

西本願寺には縁側の床や堂内の柱にまで、至る所に縁起物をかたどった埋め木が施されているという。東寺の御影堂でも見られると。
三条大橋には十数カ所あるらしい。一人で探すしぐさは…ちょっと恥ずかしいかな。お連れが欲しいな。

ブログを通じて、新潟県魚沼市において石川雲蝶が遺した素晴らしい彫り物など、技巧の数々を拝見させていただき引き込まれた後だったから、ガラッと世界は変わったが、「埋め木」細工へと導かれた不思議な縁を感じている。
しばらく埋め木探しのウオークラリーが楽しめそうだ。

今夜のHk番組「ブラタモリ」でも、山口県岩国市にある錦帯橋の補修にも「埋め木」がなされ、さまざま補修を重ねながら美しい景観を保ってきたことが伝えられていた。
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細川護熙さん

2023年10月21日 | こんなところ訪ねて
中学か高校の修学旅行でだったか、そのあとでか、一度は訪れた龍安寺。
徳大寺家の別荘だったのを、1450年に管領細川勝元が譲り受けて寺地としたのが始まりという。
ここに元首相の細川護熙さんが昨年32枚、今年8枚、雲龍図の襖絵を奉納された。全40枚の公開は10月31日までというので拝見してきた。




政治活動を退いてからは陶芸や書、水墨画などの創作活動を続け、これまで地蔵院、建仁寺、同寺塔頭の正伝永源院、そして龍安寺に、襖絵を奉納された。現在は「これを最後に」と南禅寺の襖絵を制作中だと、昨年地元紙が伝ええていた。


その後たまたま古書店での出会いがあって『不東庵日常』を手に入れた。
灯りがともる窓の向こうは、作陶に励まれる細川さん。

60歳での政界引退は決して唐突だったわけではなく、隠棲して「晴耕雨読」の実践をすることを前々から決めていたという。

3歳のときに母親が亡くなり、ひねくれた落ちこぼれの少年時代を過ごしたらしい。
父親から素読による教養を仕込まれる一方で、人物論、伝記(それも古今東西の歴史を動かしたリーダーたちの物語)、歴史書、紀行文といったものを夢中で読んだそうだ。
祖父は「いちばん勉強になるのは人物論をよむことと、当代一流の人物に会うことである」と言い、機会を作ってはさまざまな分野の人々に会わせてくれたと書いている。

巷と不即不離の程よい位置にある湯河原で工房と窯を構え、「不東庵」での閑居の生活を続けられる。

「『晴耕雨読』をベースに、気の向くままに轆轤(ろくろ)を回し、筆を執り、茶を点て、花を活け、季節至れば渓流に糸を垂れる、そんな自分なりの草庵主義の徹底が、「残生」を生きるこれからの私の目指すところだ。」
今年85歳におなりだ。

楽しむ。楽しんで生きたい。
「ひとってぇ、いくつになっても、だれのタメでもなく自分のために、ホントに好きなことしたいこと、持っているのがいいのとちがいますか」
聖子さんも言われていましたっけ…。
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実は引き寄せられた出会い

2023年10月17日 | こんなところ訪ねて
父の祥月命日を目前にして東本願寺に参拝した。


親鸞聖人の御真影を安置する御影堂は、内陣と外陣あわせて927畳の広さがある。座って対面していると、高校生らしい男女の一団が上がってこられた。
小松大谷高校1年生の東本願寺研修参拝とのことだった。小松って…? 

真宗宗歌を唱和したあと、寺の僧侶からお話があり、朝8時に出発し3時間かけての到着に「疲れたでしょう」とねぎらう言葉が掛けられていた。
話の内容は出会いの大切さを説き、それに気づける自分となるために学びがある、というようなことだった。
彼らは親鸞聖人の教えを学ぼうとされる石川県の高校生たち。きちんと顔を上げ前を向いて話を聞く姿は気持ち良い。


式の最後の恩徳讃は音楽に合わせ一緒に唱和させていただく。この恩徳讃は、なぜか不思議と言葉にならない思いがあふれる。

昨日ではなく、今日この時間に参拝したことは、見えない力で引き寄せられていたのだ。彼らに出会わせていただけるよう、布置された出会いだったのだろう。偶然、のようでそうではなく。そう考えてみる。
後方に下がって同席して、よいお参りになった。

くも膜下出血で倒れた父は意識を回復したものの私を娘と認識できず、「お寺の」と呼んだ。穏やかだけど意志的ではない笑顔が、やはり寂しかったが、退院の話が出るようになって誤嚥から肺炎を併発し亡くなった。74歳。写真を見ながら思い出を手繰り寄せている。


【感情に染まらない記憶などないのだ。人間の記憶というのはいつしか創作され改竄され、物語が作られる。記憶は変容する。】『御開帳綺譚』(玄侑宗久)

物語の中で、記憶というものがいかに曖昧なものであるかをさらして見せてくれた。薬師如来の眩しい光に包まれた御開帳。ラストでは救いが描かれた。
ちっぽけな自分を主張するより、〈あずける〉。すると〈いただく〉ものがある。夕子の言葉を自分に引き寄せてみると、得るものがあった。
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蒲生野万葉の森へ

2023年10月13日 | こんなところ訪ねて
秋晴れに、近江「蒲生野」にある「万葉の森船岡山」を目指した。
琵琶湖の東岸、近江八幡から東の方に八日市というところがあるが、その一帯の原野をいう。




667年、飛鳥から近江に遷都し、天智天皇(中大兄皇子)が即位した。
668年5月5日、蒲生野で薬猟(くすりがり)が行なわれた。不老長寿の薬にするため男性は鹿の袋角(出始めの角)を取り、女性は薬草を摘む。
このときに額田王と大海人皇子との間で交わされた有名な贈答歌がある。


大海人皇子が馬上から額田王に袖を振って見せる。〈袖を振る〉ことは愛情表現だと高校時代に習った。

  額田王が作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

額田王は天皇の弟の大海人皇子との間に十市皇女を生んでいたが、遷都後は天智天皇の寵愛を受けていた。
「そんなことなすっては野の番人がみるではございませんか」

野守を天智と解して、「うちの夫の天智が見るわよ」って調子では品のない歌になる。そうじゃなくって「人が見るではございませんか」がいいんです。「野の番人」としたところに面白みがあるのだ。と言われる犬養孝さん。

大海人皇子は答えた。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

「非常に豪放で男らしい歌ですね」

犬養孝さんの万葉集は楽しくもある。
元夫がしきりと袖を振る姿をもっと見ていたい見ていたい、けれど危ない危ない。うっとりと陶酔しているような、女性のハラハラとした心持ち。そこまで高校時代に習わなかったなあ。けど「蒲生野」は印象付けられた。一つ望みをかなえた日。



だあれもいない。広々として空も大きく、芝生はふっかふか。あちこちにベンチがある。虫の音と鳥のさえずりばかり。
お弁当をつつきながら、ロマンに浸る。
司馬さんが言われた「精神の酔い」という言葉が浮かぶ。

   秋晴れの日記も簡を極めけり  相生垣瓜人
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今度はお薬師さま

2023年10月11日 | こんなところ訪ねて

京都十二薬師霊場で特別公開が始まって、平等寺(因幡薬師堂)を訪れた。
烏丸四条から下るか、五条側から上るか(この方が近い)して少し東に入った街中にあるお薬師さんで、秘仏の本尊薬師如来立像が御開帳されている。頭には頭巾というお姿だった。
がん封じ、諸病悉除、当病平癒、厄難消除など信仰厚い仏さまで、初めて訪れたのは母が病を得たときだったから34年前になる。


公開は収蔵庫でなされており、小さいので中に入れば仏像との距離がとても近い。
中にはご住職がいて説明してくださったが、二人も入れば動きがとりにくいほどだ。かといって拝観者だけでは、ちょっと心配にもなる秘仏や寺宝が収まっている。絵に描いた仁王像は珍しいが、両脇に掛けられていた。
本堂でならじっくり、気のすむまで座ってということも可能だろうに、ザンネン。




そも薬師如来は、大いなる薬師として大医王と称せられ、また急を救うその足取り軽きによりて医王善逝(ぜんせい)とも称せられけり。菩薩としてご修行にありし時、十二の誓願を立てられ給う。本願は、衆生の病を癒し、天変地異の災難をうち沈め、あらゆる苦悩に思い悩みし全ての衆生を救わんとの有難きお心 ― おんころころせんだりまとうぎそわか― その大願叶うまではいかでか如来になるべき、とて仰せられけり。(『御開帳奇譚』玄侑宗久)

無状和尚は、兼務する隣町の薬師堂のお薬師さまを21年ぶりに公開するときの儀式で読みあげるシナリオを準備した。
物語は途中途中に、そのシナリオを挟みながら展開していく。

本尊の薬師如来は本物ではないと言ってきた男たち。
寺の近隣から出火したとき、出火元の家の少女が像を抱えて救い出したのはよかったが途中で滑ってしまってお薬師さんを放り出してしまった。その時、本尊の指が折れてしまった。
事情を知って、どうやらこの男自身がすり替えたらしい。

・・・まだあと三分の一ほど読み残している。

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人生をおいしくするもの

2023年08月11日 | こんなところ訪ねて
「うちも自己流やけどな、見栄えよう立てたらいい」のだと言う義母の手元を見ながら、見よう見まねで覚えてきた本堂のお花を立て終えた。

本堂の縁で、阿弥陀様とお脇にそれぞれにお花を立てながら、代代を支えた女(坊守)たちに思いがいくのが常のことなら、ふと自分の来し方を振り返ることもまたいつものことだろうか。

義母と私の実父とは幼馴染みだったが、父の母親(私の祖母)は、やはり真宗寺院の生まれだった。私が嫁いできたころ、この「おみを」さんを知る人もいて、せせこましい世間を煩わしくさえ思ったことがある。
遠く離れた父の郷里は、馴染みもなく縁遠い地だった。それが、この地に来て、自分は知らなくてもよそ様は私を知っているという様々な縁の中で暮らすようになったのだから、やっかいだった。
人との結びつき方を模索しながら日常に根を張る。そんな努力が求められた、今は昔のこと。

やがては自分自身が確実に「先祖」の仲間入り…。けれど、8月13日にはこの世に戻って来るよなんて、おそらくありはしないことなのだろうなあ、と思ったりする。


毎年ちょっと気ぜわしい思いを抱えながらも出向かずにはいられないのが、この時期に糺の森で開催される下鴨納涼古本まつり(~16日)。


講談社学芸文庫で手に入ることを知ってはいたが、現物を前にしてはためらってきた。
この一冊を求めて足を運んだともいえる今回、最後の最後になって、あった!のだ。 800円と半値以下で手に入れた。手元に欲しかったのだ。
「新刊本が売れないだろ」という息子の言葉は、頭の中を通り抜ける。


「よかったですね」「出会いがありましたね」と、私の喜びに店の人たちが言葉を添えて下さった。

「期待とはずみ心は人生をおいしくするためのもの」って田辺聖子さんが言われていたっけ。
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たゆまぬ精進

2023年07月31日 | こんなところ訪ねて

参拝者は少ない。いつだって解放されていて、「ようお参り」と迎えてくれる東本願寺さん。
ほんのひととき静かに座っているだけで気持ちは整えられるし、安らぎも覚える。今日恵まれたこの機会に、ご縁に感謝して合掌。

隣の阿弥陀堂に移ると、高齢の女性が椅子に座っていた。
「この金箔、本物かなあ」って私に(みたいだった)。
エーッ!?

 

加齢とともに一日のエネルギー量は減るのに、タンパク質の推奨量は変わらないという。
「毎朝、豆腐ばかり食うようになった」とは安岡章太郎(短編集『酒屋へ三里、豆腐屋へ二里』の表題作に)。
「冷奴で食うのが一番いい」。そんな暑さが続く。

なんだ、まだ豆腐屋の話をするのか?と思われるだろうか。
が、やはり松下豆腐店(『豆腐屋の四季 ある青春の記録』)に登場いただけば、梅雨が明けてカラリとした晴天が続くと豆腐もよく売れるようになるという。お客さんには新しい豆腐を売るために、夜明け前、午前、午後、夕べと、小分けして豆腐作りに励む。
かといって炎暑続きでも売れ行きは下降するらしく、「ある日は大不足で、ある日はたくさん廃棄となる」。
機械化を嫌い、手作りにこだわる店主の気持ちはざわつく。
「いったい、人が豆腐を食べようという気になる条件は何なのか?」
「昨日はあんなに豆腐を欲しがったくせに、今日はサッパリ食べようとしねえ!」

一年間の、豆腐屋の四季。
寝る前に読み継いで三週間。「五本のマッチ」の火よりもっとぬくく、温かく心を灯してくれた一冊だった。


いい豆腐は、ゆでても崩れない。「どんなことがあっても崩れた狂言はするな」という教えも込めて「お豆腐狂言」の家訓を掲げる狂言の茂山家。
竜一兄ちゃんの奮闘も負けてはいない、豆腐作りに、歌に、随筆に。

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