京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

天も花に酔ふべき

2024年04月26日 | こんなところ訪ねて
烏丸駅から阪急電車に乗って、待ち合わせの長岡天満宮駅に向かった。

娘家族が阪急宝塚沿線に住んでいたときはよく利用し行き来もしたが、彼らが2021年にAUSに戻って以降は今日が2度目。’21年11月に、アサヒビール大山崎山荘美術館に行って以来となる。時間に余裕はあったので、烏丸駅に入ってきた準急でのんびり外を眺めながら座っていた。

初めて見る光景が広がっていた長岡天満宮。



【長岡の地は、菅原道真が在原業平らとともに、しばしば管弦の遊びを楽しんだゆかりの深いところで、大宰府へ左遷されたとき立ち寄り「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。道真自作の木像を祀ったのが長岡天満宮の創立だ】などと説明されていた。

この八条が池は1638(寛永15)年の築造。



中堤のキリシマツツジは樹齢百数十年とかで、人の背丈をゆうに超えて壁のよう。
北村季吟が、東山のあたりに咲き満ちたツツジを見て「天も花に酔ふべき」と記している(『山乃井』)と読んだので、
もしやもしや… キリシマツツジも色を吹き上げ、天をも酔わす勢いかと今日の誘いに期待は大きかったが、あいにく盛りはとうに過ぎていた。
気温が高いばかりで日差しは今一つだったし。

鯉や亀が泳ぎ、コウボネの黄色い花が咲き、花菖蒲が時季を待っている。ぐるりのツツジはまだまだみごとだったし、ベンチも多く、何度も腰をおろした。

天満宮にもお参りした。目の醒めるるような新緑が爽やかだったなあ。
 



乙訓寺に牡丹の様子を見に行こうかという予定でもあった提案を彼女は言下に却下。
わたしより3つ4つ若かったんだよね…、でも歩くの苦手だよね。遠慮なく笑い合った。




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最後の花見に御衣黄桜

2024年04月19日 | こんなところ訪ねて
娘が親元を離れることになったのを機に携帯電話を持つようになった。以来ずっと機種変更しながら、スマートホンに変えても同社のもの一筋に使い続けて、20年をゆうに超えた。

電車内を見回しても今ほとんどの人がスマホの画面を見つめている。私には短時間の乗車にそうした必要性も対象もないので、いつもぼーっと周囲を見ている。それほどのスマホ利用者に、(なんかたかくない?)と支払い料金の不満が生じて久しい。請求額には相応の履歴があるんだろうに。

インターネットとも合わせて考え昨日、思い切って他社へ乗り換えることにした。
デジタル難民だ。もともと用語に精通しないし、使う機能は知れてる。とにかく使い勝手よく、あれこれある画面をすっきりさせたい。
(いらいらしない、しない!) ちっとも進まず何が何だかのまま放り出して、


千本釈迦堂に御衣黄桜を訪ねることにした。


寺は鎌倉初期の開創で千本釈迦堂は通称で正式には大報恩寺といい、本尊は釈迦如来坐像(秘仏)。
寺の東側がかつて千本通に面していた(寺の呼び名の由来になった)というから広大だ。その寺域に堂塔伽藍が整っていた。それが応仁の乱や重なる災禍で焼失し、本堂のみが残った。京洛最古の建造物で国宝に指定されている。堂内の柱に刀傷が残っていた。


『徒然草』第228段に「千本の釋迦念佛は、文永の比(ころ)、如輪上人、これをはじめられけり」と記されている千本釋迦念佛は、毎年2月に行われた大念仏で、今に続いて今年も3月22日に勤められている。


平安時代の貴族が着ていた衣服(御衣と言った)が萌黄色に近い色で、花の色が似ていることから名づけられたという御衣黄桜。
3月半ばに近くまで出た際に立ち寄ったこともあって、花の時季を待っていた。
境内で作業していた方が「今が満開です。あそこにもありますからゆっくり見ていってください」と。境内に2本、枝もたわわにみごとだった。
昔々、確かねねの道で見かけた記憶があるだけ。こんなにじっくり楽しんだのは初めてになる。

本堂前にはすでに咲き終わった阿亀桜。左手に、普賢象桜がこれもちょうど満開だった。
鼻をかすめる花の香も楽しんで…。

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我は咲くなり

2024年04月07日 | こんなところ訪ねて
明日からの天気を考えると花見には外せないお日和だ。賀茂川べりを歩き、上賀茂神社を覗いてみることにした。

一方通行の道で、平素は車で通ることもあるけれど、満開の桜の下をひっきりなしに徐行運転の車が続く。規制してほしいと思うのは、勝手に過ぎるのかな。
(それでも切れ目はあるわけで、がまんせい!と言われそう)





津村節子さんの『絹扇』を読んでいた。お名前や福井県出身であること、作品にちなんでつけられた「風花随筆文学賞」があることなど、存じ上げているけれど作品を読むのは初めてだった。
裏表紙には、機織りに生きる女の半生を福井の産業史に重ねて描いた作品だと記されている。

【4時を少し回ったころ。家中がまだ寝静まっていた。
蒲団の上に重ねて掛けてある筒袖の着物を寝巻の上から着こみ、つぎはぎの袖なしを着て、もう3日もはいていて汚れ冷え切った足袋をはいて、土間に板を張った機場(はたば)に入った。窓の破れ障子からは雪が吹き込んでくる。
母が織る一日分の糸を繰るために糸繰車を廻すのが、明治21年生まれの数えで9歳になったちよの一日の始まりだった】

「…学校行きたや / 遊びたや」
明治5年に学制が発布されたが、子守りや糸繰り、機織りに幼い女の子供は労働力としてあてにされ続けていた。


福井県はもともと絹織物の有数な産地で、奈良時代に越前、若狭に課せられた調(ちょう)の物産の中に、すでに絹織物が加えられていたいう。
江戸時代、明治維新と、福井羽二重が桐生、足利を凌ぎ、生産量日本一となって発展していく変遷が綴られる。

のぞまれて18歳で大手機(はた)業の次男に嫁いだちよ。独立し機業を創業した夫は、事業の拡張に意欲的だった。
「機を織るのは女の仕事。仕事を発展させるのは男の才覚や」
だが、機業界がバッタン機から力機織導入へと転換期を迎えるとき、夫の無鉄砲な事業欲は時勢を読み違えた。そして急死、借金が残った。
工場も住む家も失った。

「自己犠牲」ではないと思うのだ。献身的でありながら、意思を持つ。
苦難の数々を、すべて受け容れていく器の大きさはどこから来るのだろう。他人の身になるというより自分事として引き受ける中で、言動に現れる人となりには魅力もある。彼女をずっと見ている人がいた。


バッタン機一台を小さな小屋に据えて、子どもたちと一からの暮らしが始まった。


   人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり        実篤
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静謐な常照皇寺の桜

2024年04月05日 | こんなところ訪ねて
南北朝争乱の時代。
後醍醐天皇の討幕計画は発覚し、その後北条氏によって擁立されたのが光厳(こうごん)天皇だった。しかしそれも束の間、隠岐を脱出した後醍醐天皇の軍が北条氏を滅ぼし政権を回復したために、光厳天皇は皇位を去った。
政争の渦中に翻弄され、吉野の山中をさまよい歩いたりして周山街道に踏み入って、小さな皇室領を頼ったのか、終焉の地と自ら求めて二度と都に戻ることはなかったという。40歳を過ぎて仏門に入られた。

今は京北町と呼ばれる地にあるここ常照皇寺を終の棲家とされた。



方丈の間に掛けられた肖像画は色白で気品のあるお顔立ち。
〈さよふく窓のともしびつくづくと影もしづけし我もしづけし〉と詠まれている。
きれいなお顔を目の前にして、「墓など作るな。ただ埋めよ。そこに自ずと松柏が育とう」と言い遺し世を去った生涯を、わずかでも想像してみるのだった。



季節を問わず何度も訪れている。人の姿はまばらなときばかり。まだ一度も桜が満開の時期に訪れたことがない。
なんとなく行ってみたくなるのだ。
一つには清滝川に沿って開かれたくねくねと続く周山街道の風景が好きなことがある。
峠を越え、トンネルを抜けて、周山から右折、北國という地を桂川に添うように、さらに20分ほど走った先に寺はある。家から1時間半ほどで着く。

想像通りで、辛抱が足りなかった。



天然記念物の「九重桜」と呼ばれる枝垂桜の巨木が7分、8分咲きのところか。
奥には「左近の桜」があり、方丈前の「お車返しの桜」など、まだまだ蕾もつぼみ。


当然のように人は少ない。そこが好きな理由にもなるのだが、それでもやはり満開は見たい。
考え事したり、鳥の鳴き声を耳に、ただただぼうっとしたままでいたり。
遠方へ旅行をしなくても、少し時間をかけて日常との境目を作る。そしてそこで、静かにひとときを過ごせば、それなりの満足が得られる今。

帰路、すでにミツバツツジが山の斜面を染めているのに気づいた。
西明寺のご住職が、きれいだから見においでなさいと勧めてくれたことがあったのを思いだしたが、あっという間に通り過ぎる。
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春の錦の六角堂

2024年04月04日 | こんなところ訪ねて
    見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける   素性  (「古今和歌集」)



ここ六角堂境内も春の錦に染められている。



「西国三十三所一八番札所」にあたる頂法寺六角堂。
ということなのだが、

ここに親しみを持って参拝し出したのは、地元紙に連載された五木寛之氏の『親鸞』がきっかけだった。
あの頃、何年前になるのか、同じく連載された新聞を読んでおられた方々と、ブログでお話させていただくことがあった。
読後は新聞を切り抜いて保存して、一年しっかり楽しんだ。けれどあれから読み返すことがなく、記憶はあいまいに。


折も折、六角堂の桜を思い出すきっかけがあって、昨日一日降り続いた雨も上がったのを幸いに、訪れてみた。
かなりのお参り?でにぎわい、街中のせいか桜の開花も進んでいた。
柳の2本の枝をおみくじで結ぶと良縁に恵まれるとか。柳にとっていいのかどうか…。

親鸞聖人は29歳のとき比叡山を下り、ここ六角堂に100日参篭を志した。そして95日?の暁に聖徳太子の夢告を得たと伝わる。
そして法然上人を訪ねる。
 ― ひたすら念仏もうすのみだ。念仏のさまたげになるものはすべて捨てよ。妻を娶って念仏が深まるのなら妻帯も結構だ

人間が人間らしく生きることが救われれること…。
だがその後も思い悩むことは続き、七日七夜の参篭に入った。と、何日目かに六角堂の本尊、救世観音が現れる。
のだったかな。


〈御本尊の宝冠には 阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている観音様と阿弥陀様の法力が合わされたお姿である
建仁元年(1201)には浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ
「いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く」と告げられた〉

と記されている。



下は、2009年4月3日に訪れたとき。 15年を経て…。

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京に燃えたおんな

2024年03月22日 | こんなところ訪ねて
昼から河原町通りにある書店MARUZENに出向いた。用を済ませて店内を見歩いていて、澤田瞳子さんの『のち更に咲く』という単行本が出ているのに気づいた。最新作のようだ。
古代、中古が時代背景の作品が好きなものだから大ファンなのだけれど、この頃は澤田作品が遠のいていた。

帯には【時代に抗う 和泉式部  すべて見通す 紫式部】とかあった。
今の時流に乗らんとするかのような?『のち更に…』、などと言っては失礼だけど、それでもなにかかるそう~って感じ。

今年はNHK大河ドラマの影響か、2008(平成20)年の「源氏物語千年紀」の賑わい再来かと思える催しが各所で見られる。
源氏物語成立千年となるのを記念した行事ごとだった。「古典の日」が制定されたのもその延長。寂聴さんが演壇にあがられていたのを思い出す。


昨日は和泉式部忌だったのを思いだし、和泉式部の寺とも親しまれる誠心院に行ってみることにした。書店からは近い新京極の通りに面して、門を構えている。

 

藤原彰子(道長の娘・一条天皇の中宮)に仕えた式部のために、道長が小御堂(こごどう)を与え、晩年、式部はそこに住んだとされる。そのお堂を、この地に移建した。

 

   春はただわが宿にのみ梅咲かば
       かれにし人も見にときなまし

ゆかりの梅の木は本堂前に。そして、墓とされる宝筐塔がある、

 

〈愛の遍歴を知った深い悲しみ〉
〈大胆に愛うたう情熱歌人〉
〈燃えた恋はただ二人〉
〈恋人との逢瀬描く〉 
『京に燃えたおんな』の和泉式部にはこんな表現が散見する。

【式部に噂の男は多かった。子供を産んだとなれば、うるさい詮索。面と向かってぶしつけに「どなたを親に決めましたの」と問う。プライバシーの侵害に憤然とした彼女は、「そんなに知りたければ、あなたがお死にになってから閻魔さまにでもお聞きなさい」と歌を詠んで手厳しく反撃した】
「現代女性のさきがけのような心意気を示した女性」と紹介している。

でもね、物語風の『和泉式部日記』を読むと、また違う彼女の姿が透けてくる。心には表裏があるもの。

式部が貴船神社に参詣した折に詠んだ歌が残されている。
     
     もの思へば沢の蛍もわが身より
          あくがれ出づる魂かとぞ見る



昨年11月末に孫娘と見た蛍岩。貴船は見事な紅葉だった。
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18歳の永徳が

2024年01月30日 | こんなところ訪ねて
立春を数日後にした京の空は、青く晴れ渡った。
日差しも温かさを増してきた午前11時ごろ。地下鉄の今出川駅で降り、烏丸今出川の交差点から西へ、室町通を越えて新町通まで歩いていた。

2筋目だから大した距離ではない。途中振り返ってみても、青い道路標識の先の右手、京都御苑の北西の角をのぞめる。


新町通から南に下がるや、ほとんど出会う人はいないまま、目指すは元誓願寺通。
今出川通りからどのくらい下がったか、これも知れている。
ここ、赤い塀のところから西に入ればよさそうだ。


西は元誓願寺通り。

ああ。ここね! このあたり「狩野元信邸址」


「道幅の狭い上京の辻」
「永徳の屋敷は、上京の誓願寺のそばにある。
あたりが狩野の図子(ずし)と呼ばれているのは、狩野家の名がそれだけ京で知れわたっているのと、本家を中心にして一族や弟子たちの家がたくさん集まっているためである。図子は、辻子(ずし)とも書き、細い通りや町の一角のことだ。
通りの両側に板葺き屋根に石を乗せた家が立ち並んでいる」
いかめしい侍の一行、坊主の乗った輿、大きな荷をかついだ物売り、辻には人が多い。上京のなかでもいちばん繁華な界隈だ、と描写される。
白梅が咲き出した永禄3年(1560)の初春。18歳になった永徳が登場した。(『花鳥の夢』)

「いつまで読後の余韻のなかにいるのよ!?」って、友の声がしてきそうだわ。

ここから今出川通りまで出て、小川通りを北へ。すると本法寺はまもなくのこと。禁裏も近い。
戦乱、争乱。再興しては焼失を繰り返し、京の街は絶えず変化し続けてきた。
将軍足利義輝から洛中洛外図を依頼されて、洛中の邸宅や寺社を巡り歩いた永徳。足跡をいっぱいつけて。
そうか!このあたりだったのか。初めて訪れた“狩野の図子”に、ちょっぴり感動。

「小説を読む、それは存在がはっきりしない何かを信じるという行為。例えば太宰を読むことは太宰を信じること。千年前に死んで会ったこともなく、しかも外国語で書いた作者をすごいと思って読んだりもするわけで」。文学的空間において自然に成立する「信頼関係」だ。

先日読んだばかりの高橋源一郎さんの言葉を友に伝えよう。ふらふら出歩く言い訳になる?
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ひとつひとつ深く心にとどめながら

2024年01月28日 | こんなところ訪ねて

本法寺に長谷川等伯による「佛涅槃図」を拝見しようと出かけたところ、ちょうど春季特別寺宝展が開催されていた。



           
平素は原寸大(縦約10m・横約6m)の複製が展示されているがて、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が拝観できるとのこと。
首を真上に向けて見上げる。でっかい~って感じ。
「一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣をきて、ほお杖をついている男」を探した。下から見上げ、二階から、半分上を近くに見ることができる。洋犬も探し当てた。
多くの縁者と別れがあった。60歳を過ぎた老境の身での作。

帰り際、誰もいない気楽さから少しお話をさせてもらった。
「そこに白い壁が見えますやろ。等伯さんはそこに住んで本法寺にかよわはったといいます」
拝観受付の窓口で座って指さす先を振り返った。

〈安土桃山文化の芸術担い手となったのは、法華檀信徒だった。狩野元信・永徳、等伯、本阿弥光悦(王林派の祖)。日蓮の革新的性格が伝統様式から解放したのでは〉などと何かで目にしたことがある。光悦と等伯のかかわりも深い本法寺。

カラーでしたつもりなのにごめんなさい、といってくださった。
 

「生き残ったものにできるのは、死んだ者を背負って生きることだけだ」「ひとはそれぞれ重荷を背負いながら、一日一日を懸命に生きている。大切なのはその生き様であって、地位や名誉を手にすることではない」(『等伯』)
『等伯』を読み、五木寛之氏の『百寺巡礼』第9巻の本法寺、能登半島の付け根、羽咋にある妙成寺について第2巻で読むなどして、そして、狩野永徳を主人公にした『花鳥の夢』とも出会い、
「長谷川等伯とは、いったいどんな人生を送った人だったのだろう」と私も関心を寄せた。
自分で史実を調べるということまでには至らないのだけれど…。


2015年に高野山夏季大学でお会いした当時82歳の女性の、「『等伯』を読んでごらんなさい」のひと言が心にとどまり、巡り巡って今に至る、この巡り合わせの不思議を思うばかりだ。

「東福寺の涅槃図には猫が描かれているそうですね」
私は観たことがないと言ってから、こんなふうに添えた。
「猫は明兆さんのお手伝いをよくしたそうですよ。それで、お前も描いておいてやろうって描き足したそうです。エライ先生がおっしゃっていました。ほんとうでしょうかね」
「真如堂の涅槃図にはやはり猫が描かれていました。ガンジス川が流れているのですが、タコやクジラまで描いてありました」

帰りのバスの車内で、こんな会話もしたのだった。面白そうに小さく笑ったのを覚えている。このとき、それまでずっとしていたマスクを外されたから。
彼女は本法寺のこの大きな佛涅槃図は御覧になっていたのだろうか。



妙覚寺で狩野家累代の墓に参った。塀沿いに山梔子の実が生るのが見えた。

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“wow, really!?“

2023年12月18日 | こんなところ訪ねて


定朝が持てる限りの技を以て制作した本堂の棟の鳳凰像、堂内の四方の壁の52体の雲中供養菩薩。中でも目を引く螺鈿の須弥壇に安置された阿弥陀如来像。

開眼供養を半月後に控えて- 
白々とした朝日が、磨き上げられた本堂の板間に、淡い影を落としている。
 臈長けた鶯の鳴き声に眠りを破られ、定朝は背を預けていた板戸からはっと起き直った」

『満つる月の如し 仏師・定朝』(澤田瞳子)の物語はこう始まる。
定朝がもたれて眠っていた板戸とは、このあたりか?などと、作品読後の思いに酔いながら平等院鳳凰堂を参拝したのは’20.2.18だった。

この日は孫娘と一緒に。
墨を流したような空のもと、境内地内を巡っていたところ、この世に花を絶やすまいと?たんぽぽ一輪、返り花が咲いていた。

10円玉に刻まれた鳳凰堂、1万円札にみる鳳凰の姿。父親にちょっと自慢気な写真を添えて・・・
“wow, really!?“ うーん、反応は…ちいさい、いや…フツー、か。
知らなかったとだけは言える。


参道脇に並ぶ店先で、おいしそうな抹茶のパフェに引き寄せられて入ったのは、三星園上林本店さん。
「16代目で日本で一番古い茶どころ」 「利休がのんだお茶はここの」
「最古だから! わかるでしょ?」
「どこへも下ろしていないから、ここでしかのめない」
愛想のよいスポークスマンのようなお方が店頭で説明してくださる。
「地図記号の茶畑は、うちのマークよ」

ちょっとお高めのパフェだったけど、
「ここに来なければたべられないんだから、まあいいか」とJessie。
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この日も、人、人、人

2023年12月13日 | こんなところ訪ねて
「清水寺の門前は、この日も、人、人、人である。」
およそ20年ほど前に五木寛之氏が書いている。

今日も、20年前をはるかに上回るのではないかと思うほどの人、人、人だった。
テレビで見ていた通りだった。
で、どちらかと言えば敬遠したかった場所の一つだったのだけれど、「ダディが清水寺に行ってみればって言ってる」という孫娘の言葉に耳を貸し…。

清水坂を上がるコースで行きましたわ。人、人、人。




今頃の、こんな時期に、修学旅行生が溢れているのには驚いたが、Jessieもお土産を物色し、十分に楽しんでいる。
私も嫌いじゃないから、(ほかの場所にも売ってるんじゃない?)は最後の最後に回し、彼女の興味につきあい、「どっちがいい?」と聞かれれば「こっち」で収める。水を差してはね…。


青空のもとに欅の巨木で組み上げられた舞台が壮観。
あの上からは京都の市街が一望のもとに見渡せる。
楓の多くはすでに散って、道の脇にふかふかと散り積もる。それを蹴とばして歩く18歳。

人混みにまぎれて、ひそかに観音様に現世利益を願ってみたり、おいしそうな店先の誘惑に乗ってちょっと無駄遣い…と、気楽な観光を楽しんだ。
笑って暮らそ、ふふふふふ。

うららかな初冬の一日だった。
夕日が静かに比叡山を照らすのを、「きれいだね」と眺めながら家路を急いだ。
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 山の吹雪の音もうれしき

2023年12月11日 | こんなところ訪ねて


季節外れの陽気に、午後から鞍馬に向かった。
九十九折の参道を本殿金堂まで歩いて30分(標高410m)。
「ケーブルカーで行こう?」という孫娘に、「せっかくだから歩かなくちゃ」と誘う。



歩きだしは少々きつく、山道に階段に、息切れはどうしようもないのだが、それでも次第にペースができてきた。とはいえ、で、最後の数段の階段は腰がもうふらふら、やっとこさ登り切ったというところだった。

日本の仏教教団では珍しい女性のトップを貫主(かんす)として40年以上も勤められ、寺とお山を守った信楽香仁さんという方のことを、息を切らし切らしJessieに話して聞かせながら進む。
92歳だった香仁さんのお話をこのお山までお聞きしに来たことがあった(2017.6.14)こと。去年97歳で亡くなられたこと。ここには水道がきてないこととか、…。



雪の中に明ける鞍馬の新春のさまを綴られた文章にしたためられた歌は、あたたかく心に残っている。
    掌を合わすぬくもりの中に身をおけば
        山の吹雪の音もうれしき

 月のように美しく
 太陽のように温かく
 大地のように力強く

鞍馬の教えの中心にあるという。
「のどかわいたあー」と叫んだこの日を、記憶に残してほしい。

久しぶりの雨音が心地よい夜。「雨の音って好き」って18歳。





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紅葉且つ散る

2023年11月28日 | こんなところ訪ねて
22日に学友と一緒に“卒業旅行”の名目で?日本にやってきた孫娘。大阪で3日間をたっぷり遊んで、ホテルチェックアウト後は真っすぐ京都へやってきました。
互いに姿を見つけるや、手を挙げて合図。笑顔で歩み寄り合いハグまでいかないまでも体を寄せ合って「久しぶりだねー」「4年ぶり?」と言葉を交わしたのでしたか…。
まず健康保険証を作らなくてはなりませんでした。

来年の1月16日が帰国予定ですので、衣類やら、たくさんの化粧品、…等々の荷物を整理し、お土産にあずかり…。
疲れをとってと休養を重ねての今日。

冬紅葉となりましたが、きれいなうちにどこかへ見に行きたいという孫娘と、南禅寺から永観堂へと歩きました。
ひときわ華やかなのが楓。そこに銀杏黄落。日差しを浴びて、はらはらと散る紅葉。
花筏と言いますが、池や川に浮かぶ紅葉はなんと…。




永観堂では思いがけず長谷川等伯の作品を目にする機会を得ましたのに、足早に過ぎる孫娘。
たくさんの人で見ずらく、気持ちもあまりむかないのか、あとを追ってさささとその場を離れることに。





何枚も写真を撮りながら堪能していた様子に、脚の疲れはお口チャック。
帰宅後は両親にLINEで写真を送ったり会話したり。声も弾んでいましたね、楽しんでくれてよかったよかった。

弟のTylerから「明日はるーちいの誕生日」と言われ、「わすれてたー」。

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「埋め木」を探して

2023年10月28日 | こんなところ訪ねて
点訳の仲間との待ち合わせに、今日は京津線を利用して大津へと向かった。帰り、三条京阪駅で降りて、三条大橋を渡ろうと考えていた。

この夏、三条大橋の欄干が京北や鞍馬で伐採されたヒノキを用いて新しく作りかえられた。
その橋を見に、ではあるが、そこに〈ハートマーク♡がある〉という新聞での記事を読んだことで、ただただ好奇心、どれどれ?と見てみたくなったのだ。

橋の上では写真を撮ったり、川を覗き込む人たちが立ち止まる。見ずらかったが、菱形らしきものを人の隙間に覗き、実際すべすべした手ざわりでこの亀甲模様を撫でてきた。ハートマークはわからなかった(出直しだ)。


記事によれば、
修復に関わった宮大工棟梁の指示で「埋め木」と呼ばれるハート型や菱形、亀甲模様は埋め込まれた。
節や割れがあればその部分を取り除き、埋め木をする。取り除いたままにしておけば、そこに水がたまり腐食してしまう。埋め木のデザインを決めるには、大工さんの遊び心もあるのだろう。


割れの部分を深さ1.5~2センチ削り、木目の似た同じ形の木材をはめ込む。表側の面より少し広くした奥側をたたいて縮ませてからはめ込むと、元の形に膨らんで抜けなくなる。接着剤を使わなくても緩まない仕上がりは、まさに大工さんの腕の見せどころというわけだ。

西本願寺には縁側の床や堂内の柱にまで、至る所に縁起物をかたどった埋め木が施されているという。東寺の御影堂でも見られると。
三条大橋には十数カ所あるらしい。一人で探すしぐさは…ちょっと恥ずかしいかな。お連れが欲しいな。

ブログを通じて、新潟県魚沼市において石川雲蝶が遺した素晴らしい彫り物など、技巧の数々を拝見させていただき引き込まれた後だったから、ガラッと世界は変わったが、「埋め木」細工へと導かれた不思議な縁を感じている。
しばらく埋め木探しのウオークラリーが楽しめそうだ。

今夜のHk番組「ブラタモリ」でも、山口県岩国市にある錦帯橋の補修にも「埋め木」がなされ、さまざま補修を重ねながら美しい景観を保ってきたことが伝えられていた。
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細川護熙さん

2023年10月21日 | こんなところ訪ねて
中学か高校の修学旅行でだったか、そのあとでか、一度は訪れた龍安寺。
徳大寺家の別荘だったのを、1450年に管領細川勝元が譲り受けて寺地としたのが始まりという。
ここに元首相の細川護熙さんが昨年32枚、今年8枚、雲龍図の襖絵を奉納された。全40枚の公開は10月31日までというので拝見してきた。




政治活動を退いてからは陶芸や書、水墨画などの創作活動を続け、これまで地蔵院、建仁寺、同寺塔頭の正伝永源院、そして龍安寺に、襖絵を奉納された。現在は「これを最後に」と南禅寺の襖絵を制作中だと、昨年地元紙が伝ええていた。


その後たまたま古書店での出会いがあって『不東庵日常』を手に入れた。
灯りがともる窓の向こうは、作陶に励まれる細川さん。

60歳での政界引退は決して唐突だったわけではなく、隠棲して「晴耕雨読」の実践をすることを前々から決めていたという。

3歳のときに母親が亡くなり、ひねくれた落ちこぼれの少年時代を過ごしたらしい。
父親から素読による教養を仕込まれる一方で、人物論、伝記(それも古今東西の歴史を動かしたリーダーたちの物語)、歴史書、紀行文といったものを夢中で読んだそうだ。
祖父は「いちばん勉強になるのは人物論をよむことと、当代一流の人物に会うことである」と言い、機会を作ってはさまざまな分野の人々に会わせてくれたと書いている。

巷と不即不離の程よい位置にある湯河原で工房と窯を構え、「不東庵」での閑居の生活を続けられる。

「『晴耕雨読』をベースに、気の向くままに轆轤(ろくろ)を回し、筆を執り、茶を点て、花を活け、季節至れば渓流に糸を垂れる、そんな自分なりの草庵主義の徹底が、「残生」を生きるこれからの私の目指すところだ。」
今年85歳におなりだ。

楽しむ。楽しんで生きたい。
「ひとってぇ、いくつになっても、だれのタメでもなく自分のために、ホントに好きなことしたいこと、持っているのがいいのとちがいますか」
聖子さんも言われていましたっけ…。
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実は引き寄せられた出会い

2023年10月17日 | こんなところ訪ねて
父の祥月命日を目前にして東本願寺に参拝した。


親鸞聖人の御真影を安置する御影堂は、内陣と外陣あわせて927畳の広さがある。座って対面していると、高校生らしい男女の一団が上がってこられた。
小松大谷高校1年生の東本願寺研修参拝とのことだった。小松って…? 

真宗宗歌を唱和したあと、寺の僧侶からお話があり、朝8時に出発し3時間かけての到着に「疲れたでしょう」とねぎらう言葉が掛けられていた。
話の内容は出会いの大切さを説き、それに気づける自分となるために学びがある、というようなことだった。
彼らは親鸞聖人の教えを学ぼうとされる石川県の高校生たち。きちんと顔を上げ前を向いて話を聞く姿は気持ち良い。


式の最後の恩徳讃は音楽に合わせ一緒に唱和させていただく。この恩徳讃は、なぜか不思議と言葉にならない思いがあふれる。

昨日ではなく、今日この時間に参拝したことは、見えない力で引き寄せられていたのだ。彼らに出会わせていただけるよう、布置された出会いだったのだろう。偶然、のようでそうではなく。そう考えてみる。
後方に下がって同席して、よいお参りになった。

くも膜下出血で倒れた父は意識を回復したものの私を娘と認識できず、「お寺の」と呼んだ。穏やかだけど意志的ではない笑顔が、やはり寂しかったが、退院の話が出るようになって誤嚥から肺炎を併発し亡くなった。74歳。写真を見ながら思い出を手繰り寄せている。


【感情に染まらない記憶などないのだ。人間の記憶というのはいつしか創作され改竄され、物語が作られる。記憶は変容する。】『御開帳綺譚』(玄侑宗久)

物語の中で、記憶というものがいかに曖昧なものであるかをさらして見せてくれた。薬師如来の眩しい光に包まれた御開帳。ラストでは救いが描かれた。
ちっぽけな自分を主張するより、〈あずける〉。すると〈いただく〉ものがある。夕子の言葉を自分に引き寄せてみると、得るものがあった。
コメント (2)
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