11月17日
温泉津温泉を出発し、激しい雨の中降り立ったのは石見銀山。
ガイドさんに迎えられ、東屋で雨をよけながら説明を聞くが、まわりの山は雨に煙って定かに見えず。
5年前に世界遺産に登録された石見銀山は戦国期から江戸時代初期に最盛期を迎え、一時期は世界の銀産出量の3分の一ほども掘り出されていたとか。そのため大内氏やら尼子氏、毛利氏と戦国大名たちがその領有をめぐって争いまくったが、その間も銀の採掘は滞ることはなかったそう。
最初の説明を聞いた後はガイドさんの後について歩き始めるが
ガイドさん、歩くのが速い。
大雨の中というせいもあるが、歩くのは民家がぱらぱらと建つ普通の道路上が多く、正直言ってとても地味。
途中、明治期に鉱山の再開発を試みたものの失敗した跡なども見るが、そのためにどれだけの巨額を損したかとか、その会社が今は箱根小涌園や椿山荘を経営する藤田観光のグループだとか、ガイドさんの説明がなければ面白くないだろう。
あちらこちらで説明を聞きながらたどり着くのは龍源寺間歩。
銀山と聞いて連想する坑道にやっとお目にかかる。
実際には600メートルある坑道の4分の一だけが歩けるようになっているが、これまたノミの跡が見えたり、水抜きや通気のためのたくさんの横穴が確認できるものの、基本トンネルを歩くだけ。
石見銀山の鉱夫には佐渡のように罪人が使われることはなく、賃金も下級武士程度が支給され、労災のための仕組みもいろいろあって待遇は悪くなかったらしいが、やはり労働は厳しくて鉱夫の平均寿命は30代半ばととても若かったとか。
岩手出身というガイドさんは何でもとても詳しくて、おかげで長い歩きの銀山見学も興味深く見られたが、観光地としては非常に地味なのがやはり悩みの種らしい。
石見が世界遺産に認定された理由も鉱山としては自然環境が破壊されていないというほかに、明への銀輸出など世界経済への影響があったためで、だから説明なしに銀山だけ見ても何もわからないのだと強調されていた。
3時間ほども歩き回ってずぶぬれになり、お昼をいただく武家屋敷にあがるのもためらわれるが
暖かい部屋でおかずのぎっしり詰まった「丁銀弁当」をいただきほっと一息。
食事を終えて玄関を出ようとするとカウンターにもぐらがいる。
なんでも昨年、石見銀山のキャラクター募集があってこのもぐらが生まれたが、結局鉱山で使われたさざえの灯明「らとちゃん」に負けちゃったんだそうな。それでもこれを飾っているところを見るとよほど未練があるのだろう。
それにしても「らとちゃん」、ゆるキャラグランプリにも出場したらしいが、「螺灯(らとう)」は難しすぎるだろう。大体どこもかしこもゆるキャラって、いかがなもんか。
食事の後は銀山地区を離れて街並み地区へ。
その入り口にある羅漢寺。
岩山に石窟が3つ掘られたさまは規模は小さいが中国あたりの石窟寺院のよう。
中には1766年に完成したという五百羅漢の像が、真面目な顔をしたり、あくびをしたり、笑っていたりしてなかなか楽しい(堂内は撮影禁止のため残念ながら写真なし)。
大森町は江戸末期の面影を残す言うが
軒の低い木造家屋は築100年ぐらいたっているらしい。
自販機やエアコンの室外機に木のカバーをつけたり、電線を地中に埋めたり、街並みの保存にはかなり努力している様子。
赤い石州瓦も美しい。
熊谷家は土地の有力商家のお屋敷。
お役人様などを迎えたであろう表座敷は立派だけれど
貧乏人にはやっぱり台所や女中部屋の方が面白かったりする。
最後は1902年に建てられた郡役所が転じた石見銀山資料館。
見学した龍源寺間歩以外にもたくさんの坑道があったことを確認して観光終了。
石見銀山には天気の良い日に運動靴をはき、ガイドさんについて歩くことをおすすめする。
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温泉津温泉を出発し、激しい雨の中降り立ったのは石見銀山。
ガイドさんに迎えられ、東屋で雨をよけながら説明を聞くが、まわりの山は雨に煙って定かに見えず。
5年前に世界遺産に登録された石見銀山は戦国期から江戸時代初期に最盛期を迎え、一時期は世界の銀産出量の3分の一ほども掘り出されていたとか。そのため大内氏やら尼子氏、毛利氏と戦国大名たちがその領有をめぐって争いまくったが、その間も銀の採掘は滞ることはなかったそう。
最初の説明を聞いた後はガイドさんの後について歩き始めるが
ガイドさん、歩くのが速い。
大雨の中というせいもあるが、歩くのは民家がぱらぱらと建つ普通の道路上が多く、正直言ってとても地味。
途中、明治期に鉱山の再開発を試みたものの失敗した跡なども見るが、そのためにどれだけの巨額を損したかとか、その会社が今は箱根小涌園や椿山荘を経営する藤田観光のグループだとか、ガイドさんの説明がなければ面白くないだろう。
あちらこちらで説明を聞きながらたどり着くのは龍源寺間歩。
銀山と聞いて連想する坑道にやっとお目にかかる。
実際には600メートルある坑道の4分の一だけが歩けるようになっているが、これまたノミの跡が見えたり、水抜きや通気のためのたくさんの横穴が確認できるものの、基本トンネルを歩くだけ。
石見銀山の鉱夫には佐渡のように罪人が使われることはなく、賃金も下級武士程度が支給され、労災のための仕組みもいろいろあって待遇は悪くなかったらしいが、やはり労働は厳しくて鉱夫の平均寿命は30代半ばととても若かったとか。
岩手出身というガイドさんは何でもとても詳しくて、おかげで長い歩きの銀山見学も興味深く見られたが、観光地としては非常に地味なのがやはり悩みの種らしい。
石見が世界遺産に認定された理由も鉱山としては自然環境が破壊されていないというほかに、明への銀輸出など世界経済への影響があったためで、だから説明なしに銀山だけ見ても何もわからないのだと強調されていた。
3時間ほども歩き回ってずぶぬれになり、お昼をいただく武家屋敷にあがるのもためらわれるが
暖かい部屋でおかずのぎっしり詰まった「丁銀弁当」をいただきほっと一息。
食事を終えて玄関を出ようとするとカウンターにもぐらがいる。
なんでも昨年、石見銀山のキャラクター募集があってこのもぐらが生まれたが、結局鉱山で使われたさざえの灯明「らとちゃん」に負けちゃったんだそうな。それでもこれを飾っているところを見るとよほど未練があるのだろう。
それにしても「らとちゃん」、ゆるキャラグランプリにも出場したらしいが、「螺灯(らとう)」は難しすぎるだろう。大体どこもかしこもゆるキャラって、いかがなもんか。
食事の後は銀山地区を離れて街並み地区へ。
その入り口にある羅漢寺。
岩山に石窟が3つ掘られたさまは規模は小さいが中国あたりの石窟寺院のよう。
中には1766年に完成したという五百羅漢の像が、真面目な顔をしたり、あくびをしたり、笑っていたりしてなかなか楽しい(堂内は撮影禁止のため残念ながら写真なし)。
大森町は江戸末期の面影を残す言うが
軒の低い木造家屋は築100年ぐらいたっているらしい。
自販機やエアコンの室外機に木のカバーをつけたり、電線を地中に埋めたり、街並みの保存にはかなり努力している様子。
赤い石州瓦も美しい。
熊谷家は土地の有力商家のお屋敷。
お役人様などを迎えたであろう表座敷は立派だけれど
貧乏人にはやっぱり台所や女中部屋の方が面白かったりする。
最後は1902年に建てられた郡役所が転じた石見銀山資料館。
見学した龍源寺間歩以外にもたくさんの坑道があったことを確認して観光終了。
石見銀山には天気の良い日に運動靴をはき、ガイドさんについて歩くことをおすすめする。
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