昨日の「トルストイには、なれない?」わたしとしては、とてもお気に入り。
あーだ、こーだ、と言ってもね、現実は、現実。
むかし、父が、「おかあちゃんと離婚したい」って、ずっと言っていたけれど、
結局は離婚せずに、母より先に逝ってしまった。
トルストイのように、あの時代で82歳まで生きたこともすごいけれど、
やっとの思いで家出したものの、たったの1週間で亡くなってしまうなんて。
死ぬまでにやりたかったことが、ぎりぎりセーフで間に合ったということ。
それはそれで、よかったね、ってことですね。
12人(13人?)も子どもを作った妻を捨てるなんて・・・世間体が悪い?
世間体って、なに?
家族を捨てても、1週間後には亡くなっているのなら、「捨てた」と、言えるのだろうか。
捨てられた側に経済力がないと、わびしく、うち捨てられ、施設に収容されるのだろうけれど。
あんな、気難しいジイサン、出て行って、ああ、せいせいしたわ、
なんて、奥さんや子どもたちは思っているかも知れないし。
ジイサン側の立場で見るのか、バアサン側の立場で見るのかで、ものの見方は大きく変わる。
歴史や人物像は、光の当て方によって、かなり違う。
それがまた、おもしろいところなのだろうけれど。
ものごとの捉え方もそう。
表裏一体。光と影。
写実と、こころの目。
いろいろ解釈は様々あって、「これが答えだ、これ以外に答えはない」
という明確・明瞭・はっきり、きっちりは、ない。
わたしみたいに、ぐずぐず、うじうじ、のろのろ、
おなじところを何度もぐるぐる回っているような人間には
そういうのって、ありがたいような、ありがたくないような。
数学や、物理、化学のように、ひとつの数値でも間違えると、ストップして立ちゆかないほうが
ハッキリしていて、気持ちいいかも。
「数学は、書道や音楽とも、共通点がある。」
そう言ったひとがいる。
半永劫的に続く数字が、書道の大胆な筆払い、音楽の歯切れのよさや、リズム感と、つながるそうな。
とても意外な気がして、斬新な組み合わせに、わたしの小さな脳ミソが、きゅきゅっと喜んだ。
芸術家と結婚するひとって、たいへんだろうなあ。
芸術と生活は、同時進行できるものなのだろうか?
スイッチをオフにしたり、オンにしたり。
シーンごとに、使い分けるんだろうか。
芸術家でもなんでもない、超・凡人のわたし。
わたしのナノ・サイズの脳ミソでは、とてもそんな曲芸師的芸当はできない。
せいぜい、食べて、寝て、食べて、
繰り返される当たり前の日常に、麻痺せず、感謝するぐらいだ。
それがナノ脳には、難しかったりするのだが。