1日、1日が、まるで違う1日のようだ。
過ごす相手、内容によって、まったく違う。
日めくりカレンダーのように、パラパラと。
連続性がある場合もあるし、まったくない場合もある。
ちょっと落ち着かない今日この頃。
大きなイベントを抱えていて、それが済まないと、気が落ち着かない。
ブログは、わたしの話し相手だが、このお相手は、友人の姿をした、他でもない、もう一人の自分だ。
この友人は、うわの空である場合もあるし、
時間がない忙しい友人であることもある。
手ごたえがまるでない、霞(かすみ)のような友人であることもあるし、
ずっしり重みを勝手にひとりで感じていることもある。
この友人としゃべると、こころが軽くなるが、しゃべりすぎると、自分が、からっぽになって疲れる。
友人の顔色を見ようとしても、ちっとも反応がない。
肩をたたこうにも、なんの手ごたえもない、透明な肩にすっと手が入りこみ、肩透かしをくらう。
ああ、そうだった、友人なんていないんだ、一人二役、自分が友人のフリをしているだけだった、と、当たり前ながら、気付く。
友人のフリをしたブログでさえそうなんだから、
親や子供、肉親のフリをした、愛する人々は、実体があるような、ないような。
この世にいても、いなくても、わたしのこころに大きな影響を与える。
自分自身と語るのがブログだとすると、大切な人たちと語るのは、何だろう?
時がお彼岸だったりすると、語る大切な人は、この世にいない人だが、
この世にいて、遠くに住んでいたり、近くに住んでいたり、いっしょの家に住んでいたりする人は?
語らいというのは、声帯をふるわせて、たんに声を発することだけではない。
思い、想い、のやりとりである。
何気ない日常では、気持ちを表す必要もなく、ルーチンワークで日々が過ぎていく。
この、どうってことない、一見、無意味のような日常が、途切れない限り、わたしは幸せなんだと思う。
今日も、いつものように、一日が始まる。
日めくりは、どんなページになっているだろうか。
後に振り返れば、この平凡な日々がいちばん幸せだったと気付くことだろう。