昨日、母、姉、義姉と、シャンソン&ピアノのコンサートに出かけた。
義姉のお友達が出演。
天は二物も三物も与えるんですね~、という、感想。
ステキな時間だった。
ランチをした時に、
GWの旅行話が出て、わたしが皆に惨状を訴えたところ(=たんなるグチ)、
わたしのブログを知る姉が、母に、
「ブログで日々のことを世界中に発信し、公開している」と、大げさに面白おかしく説明した。
母は、それを真に受け、そんな大層なブログにまでアップするほど、深刻なことになっていると思い、
「あなたは、わがままだ。もっとご主人を大事にしなさい。なにがなんでも、、旅行にいっしょに行きなさい」
と延々、わたしに説教が続いた。
ランチのあいだじゅう、ランチが終わっても、なかなか終わらない説教を聞かされて、うんざり。
わたしは、旅行の方法について、意見が噛み合わない、話し合いの余地がない、と嘆いているのだが、
言葉足らずのわたしと、思い込みの強い母とでは、どうも、意思疎通がスムーズにいかない。
以前にわたしが娘と参加した団体旅行(フランス)に、奥さんだけで参加されている女性が個々に2人いた。
ご主人とは、行き先の嗜好が合わないので、お互いに行きたいところに別々に参加されているそうだ。
その団体フランス旅行参加者には、独身らしき女性が、さらにもう2人。
独身らしき男性は1人。
不倫カップルと思われる中年男女が1組。(わたしの独断と偏見の、予想)
あとは、ファミリーと、母娘、新婚さんだった。(新婚でないご夫婦もいたかも?)
けっこうな大人数で、団体ならではの辛酸をなめ、
この旅行を最後に、わたしは団体旅行・卒業宣言をこころに誓った。
よくよく考えれば、わたしの実家では、小さいときから、旅行は個人旅行だった。
(ある世代には、「小さい時から旅行なんて贅沢だ」と反感を買うかも知れない。
ラグジュアリーなものではなく、山登りや、時刻表片手にプランを立てたり、オリジナル性を重視した旅。
父は、仕事が超多忙だったので、家族旅行はあまりいっしょに行けず、
母が連れて行ってくれた。
母が、小さい子供たち(わたしたち、きょうだい)と、
ホームに到着した列車に飛び乗ったら、反対方向だった、なんてこともあったりした。
子供たち(われわれ)が独立したあとは、北海道でレンタカーを借りたり、両親揃って旅行に行くこともあったが、
お互い別々の旅行に出かけることも、よくあったようだ。
(というか、父は、相変わらず、仕事が超多忙で、連泊旅行には数えるほどしか行けなかった)
夫側の両親は、旅行に行くようになったのは、おそらく義父が60歳を過ぎてからだと思う。
いつも義父の選んだ団体旅行に、義母と参加する。
義母は、どこに行ったのかもよくわからないまま、あとを着いていくだけ。
団体バスの席も、前方と後ろ側とに、別々に座っていたとか。
バスから降りて観光する時も、時によっては、
義父だけ、もうその場所はいいからパス、と、喫茶店でお茶を飲んで、義母だけ観光に歩かせることもあったそうだ。
わたしの目から見ると、まったく面白くもなんともない団体旅行の、ほとんど同じコースを何度も繰り返し行く。
ほんの一部分だけ、違う要素が組み入れられている、団体旅行を選ぶ。
ひとそれぞれ、好みがあるので、自分のお金と、自分の時間を使って行くんだから、べつに構わないが、
行ってきた団体旅行の話や、これから行こうとする団体ツアーの予定を聞かせてもらっても
「へえ~。そうなんですかあ~」と、相槌を打つだけだ。
先日、義母は、ぽつんとこう言った。
「おとうさんには、あちこち旅行に連れて行ってもらったけれど、覚えているのは食べたものぐらい。
自分は、いったい、なにをしてたんやろうって、虚しいような気持ちになるわ」
それとともに、人生を振り返って、
前はよく、自分はいかに幸せか、ということを親戚や友人と比較しながら、納得していたが、
ここのところ、言うことが違ってきている。
義母たちは、家制度が崩壊する前で、しかも、軍国主義真っ盛りの頃に青春をつぶされた世代。
「自分は、なんのために結婚して、なんのために生きてきたんだろう。
あんなに自分を犠牲にして尽くしてきたものは、なんだったんだろう」
そういったニュアンスが読み取れる。
一生懸命、ガマンして、辛くても耐えて忍んで、頑張ってきた過去の日々。
時代の流れ、価値観、ライススタイルの変化、
自分の居場所を見失い、それらに取り残されたかのような寂しさ。
どの時代の、どんな人にもあると思う。
特に、義母は、イエに尽くしてきたこと、
当時の男尊女卑の風土、風習、慣習のことを語りだすと、怒りや悔しさがこみ上げ、うっすら涙すら浮かべる。
男性だって、定年後、自分の居場所を見失う人が多い。
あんなに一生懸命、骨身を削って寝食を忘れるほど頑張ってきたのに、
戻ってきた家庭には、ご苦労様という安らぎの場所は見当たらず、
「げっ、あんた毎日、一日中、いるの?」という、変わり果てた妻の、ふて顔。(きみまろネタそのもの)
そりゃあ、気の毒。
現役の頃から、退職したらぜひ行こうと計画していた旅行。
わくわく、アタマの中でプランを立てる。
妻を誘えば、「あんた、一人で行ったら? わたし、もう、そんなトコ、何回も行ってるし、団体なんかヤダ」
と、けんもほろろ。
と、哀れをさそい、不幸はクライマックスに。
いつまでも、真っ暗い顔をして、真っ暗な部屋の隅っこで、ひとり膝を抱えて三角座り(=体育座り)してなくっても、
アタマを切り替えて、
だったら、一人で行けばいいんじゃない? 一人は、いいですよ~。
相手が嫌だって言ってるんだったら、強制的はよろしくない。
「オレがわざわざ、2人で歩こう、って、言ってやってるのに」、
なんて高い位置から頭ごなしに考えるから、不調和音になるのだ。
(関係ないけれど、
社交ダンスでも、自分本位で引っ張りまわす踊りの男性は、女性にめちゃめちゃ嫌われる)
妻は、お先に、一人で、もしくは、仲間たちとお先に半歩も10歩も先に歩いている。
その間、出遅れたのは、仕事のせいもあるので、かわいそうではある。
でも、仕事を最優先で、家庭は一切関係なし、仕方ないにしても、
言葉がけ、会話がなくても理解されているはず、というスタンス、ほんとうにそれでよかったの?
よくなかった妻は、子供が成長したあとは、一人歩きしてしまったようだ。
なかには、ちゃんと歩調が合った、仲良しのご夫婦もおられる。
ただし、歩調を合わせるのには、努力と時間がかかる。
定年後、時間はみな平等だが(介護がある人を除く)、交友関係、お金には、多少ばらつきがある。
その限られた資源の中で(人も大事な資源のひとつ)
自分に合った、自分がやりたい道を選んで進むと、と~~っても、楽しい老後が待っている(はずだ)。
決して、妻に寄りかからないで。
お互い、ポイント、ポイントで、タイミングが合えば、フレキシブルに、いっしょに行動すればいいと思うのだが、
どんなもんでしょう。
客観的なこと、ひとのことは、すっきり見通せるのに、
自分のこととなると、あああ、重い~~~。
それもわたしが今まで、サボってきた長い道のりの結果、自業自得だ。