蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

没頭できるものは、カタチあるものとは限らない

2012-07-11 | 趣味

趣味について。

義父(故人)が現役時代、とても細かいレース編みに凝っていた時期があった。
わたしは、今もココ、真横にあるパソコンの上に、義父の作品を無造作に掛けている。
ものすごく目が細かく、狂いも歪みもない、結構、大きなサイズ。買えばお高そう。
義父は、とても几帳面な性格の人だった。(わたしとは真逆)
庭の草引きは、愛用のピンセットを使って一本一本、根っこから丁寧に抜き、
リタイアする、うんと前から、休日は、朝から晩まで、じっと座って一日中、草を引いていた。
盆栽や、花木も趣味だった。

手先を使う趣味は、わたしは、すべてダメ。
ぶ厚い大きなグローブをつけて、作業しているかんじだ。
針に糸を通すのも、面倒。
今、愛用している裁縫箱は、保険屋さんにもらったキティちゃんの3段引き出し式BOX。
少食向き・お弁当箱ぐらいの大きさ。プラスチック製で、引き出しは透明。ケースみたいなかんじ。
ミニミニサイズで、はさみも、ちいさい握りバサミが、ちょこんと入っている。
裁縫系は、まるでダメ。不器用。
せいぜい、ボタン付けと、繕いもの程度。

小学校の高学年だったか、夏休みの自由課題かなにかの作品で作ったパジャマは、ひどかった。
布選びからしても、終わっていた。
そもそもパジャマ用ではない生地を平然と平気で選んでいた。
色柄に至っては、あれは、いったいなに?
型紙など、当然なし。参考にするものも、まるでなし。
デザインもアタマで漠然と適当にイメージしたものを、本当に場当たり的に縫っていた。
波打つ曲線を出すための、フリルの間隔やら細かさ、詰まりようなんて、糸を、いい加減に、ぎゅっとしぼるだけ。

他の子たちは、お母さんの手が明らかに加わっていると思われる作品だった。
わたしの場合は、過保護の反対、つまり、放任もいいとこなので、
母は、子供がどんな不細工な、無様な、恥ずかしい作品を作り、
しかも、それを休み明けの課題作品展で全校生の前で恥をさらされようが、
まったく知らなかった。
(忙しくて、眼中になかった)

昔から、子供時代から、厚顔無恥なわたしだったが、
さすがにあのパジャマは、子供ながらに、作品展で並べられていた、あの、変わった奇妙なパジャマには、
恥ずかしい思いをした記憶が、ぼんやりある。

(実家には、わたしが中学時代に毛糸で編んだ壁掛けが、まだ置いてある。
早く捨てて、って、思うけれど、まあ、人の家だし、好きにすればいいと思っている)

今まで、ひとつのことに、夢中になった経験は、あまりなく、熱くなっているのは今、現在ぐらいだろうか。

わたしは、小学生の頃から日記や小遣い帳はつけていた。
それが今に至り、カタチを変え、ブログになっている。
同じく小学生のとき、ロマンチックなドレスに憧れて、親にせがんで始めたバレエは、
発表会の期待はずれなドレスに、肩を落とし、それっきり。
子供がまだ小さかった頃に、少し英語に夢中になった時期もあったが、
脳細胞がカチンコチンで、新しいことが覚えられないことがわかり、挫折。

脳トレ系は、まったくダメ。
多大な膨大な時間をかけても、まるで、1ミリたりとも、進まない。
岩石のような、頑丈で硬い外部に囲まれた脳は、トレーニングを許してくれない。
岩窟王、頑固な脳。
カッキーンと、ピッケルを跳ね除ける。

一時期、仕事に、燃えていたこともあった。
子育てに燃えていた頃もあった。
それは、楽しくて、燃えていたのではなく、鬼の形相、気迫で頑張っていた。
(実際の顔は、にたにたしていると思うが・・・)

作品として残るものがあまりないので、助かっている。
(脳にも残っていない・・・)

作品として残っているのは、「子供という生き物」かも知れない。
なにもなかった無の状態から、意識できないけれど、生命がお腹に宿り、
やがて胎内で大きくなって、この世に誕生。
その10ヶ月間だけでも、貴重な作品づくりの期間だ。
フィジカルな固体、人間をこの世に送り出す、大切なモノづくり時間だ。

あとは、子供が手を離れるまで、(どの時点で手を離れるのか、個人差はあるだろう)
作品づくりの後半だ。
お腹の中が、ベースのベース。
DNAと環境に左右される部分は大きい。

今となれば、そんなこともあったっけ・・???というぐらい、遠い目。
が、子育ては、大きな作業だ。
愛情とサポートがないと、たいへんだろうと思う。


と、趣味の話から、脱線している・・・

身体がいうことをきかなくなっても、長く続けられる趣味と、身体が動く時の趣味は違う。
今しかできないことと、状況が変わっても続けられること、
両方、やっているのが、一番いいけれど、
なんだかアタマで計算して、計画して趣味を、というのはねえ・・・
計画停電みたいなかんじ? (ちょっと違う?)
だが、没頭するとか、そういう熱い状態になるには、キッカケは関係ないかもしれない。

ご夫婦で社交ダンスをされている人は、いいなあと思う。
一度、身に付いたものは、片方が亡くなっても、片割れだけでも続けられる。
ただ、片方が亡くならないで、しかしダンスができない状態の期間が、辛い。
そう思うと、わたしは、結婚当初から、はじめっからペアで動いていないので、気楽だ。

いなくなれば、寂しいだろうけれど、
わたしの母も義母も、「夫が亡くなってから、その、よさ、偉大さがわかった」と言っている。
傍目で見ていると、喪失感と、同時に、開放感も結構あったと思うけど。(義母は特に)
ただ、男たちは、家事は、すべて妻に任せるくせに、重要なことは全部、自分で仕切っていたので、
先に自分が亡くなることを想定しせず、前々からいろんな引きつぎ事項を妻たちに教えてなかった。
あとに、なって、「おとうさんが、いないから、わからないわあ」と、無知を露呈し、
周囲にもなめられる事態にも発展する。

妻が先に亡くなると、家事をしてこなかった夫は、あとで、自分だけでなく、周りも巻き込んで迷惑をかける。
今から夫に家事を仕込んでおくのは、「あなたのタメだから」である。
(お金があれば、ある程度の解決はつくが)


失ってみないと、よさがわからないことは、とてもたくさんある。
当たり前と思っていたことが、当たり前ではなかった。
気づいたときは、もう遅い。
日々、感謝。
感謝しないといけませんね。(と、自分に言い聞かせる)

趣味のブログも、今日も更新できて、感謝、感謝。
そういう状態、状況が保てることに、感謝。


さて、ぶらさがっている用事を目の前に、ちょっと気合を入れて頑張りますかあ。

 

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