今朝のフランス語・ラジオ講座BGMは、ひどかった。
(番組は、いつも通りに、まじめにちゃんと行われていたが)
放送中、わたしは、育ちがいい、悪いについて考えていた。
なので、「過去分詞が性・数に一致する」とかなんとか、まったく、ぜんぜん、アタマに1ミリも入っていなかった。
(この項目、もう、何度も年度を変えて通過しているが、BGMにしている限り、一生、何度聴いても同じ)
エリザベス女王みたいに、歴代をさかのぼって、よい血筋・血統、
そういうのが、育ちがいい、と言うのか?
家庭教師がいて、でも、親や親戚は、政変やら政局やらとは切り離せなくて、
プライベートとパブリックが、いっしょで、
これは、育ちがいいが、しあわせなのか?
大統領の家族もそうだ。
おっとっと・・・、例が極端過ぎた。
もっと、身近にある例を出さねば、説得力がない。
電気もガスも水道もない、「大草原の小さな家」のような、開拓者の暮らし。
家族でまとまって、苦労を共にするが、これは、育ちが悪いのか?
描き方にもよる。
大草原の小さな家だから、ステキっぽいが、開拓村の悲惨な暮らしや、
引き連れてこられた奴隷の家族みたいなのになると、
また、テイストが違う。
物語ふうに、とらえると、現実味がなくなる。
イージーに映画を見すぎている?
ドキュメントか、イメージ寄りか。
これを身近な現実の世界に置き換えると・・・
育ちがよいOR悪い。
年収や親の社会的立場、背景、居住地、エンゲル係数、学歴、家族構成、生活状況・・・
などなど、客観的事実を比べるのではなく、
どう感じるか、だ。
だが、じつのところ、これは、キレイごとにすぎなくて、
やはり、背景にある客観的な環境ぬきには、語れない。
選択肢があり、選べて、あえて、こっちを選ぶ、あっちを選ぶ、なら、いいが、
選択肢がなくて、しかたなく、こっち。あるいは、あっち。
これには、好き嫌いとか、感性とか、入り込む余地はあまりない。
話は、ころっと変わって・・・
ご近所ブロガーのみなさん、やはり感性が豊かです。
深く、鋭く、突き詰めようとしても、やはり、わたしは、無理。
長所と短所は、表裏一体。
わたし。
いい加減で、ちゃらんぽらんだからこその、突き抜ける天然。
(突き詰めようとしても、脳がバテて、途中で放棄。
膨らませていた風船も、途中で空気が抜け、しぼむ)
ある人。
追究型、完璧主義だからこその、苦悩、自意識。
(どんどん脳がパワーアップして過大になり、ついには、矛先が自分に・・・。
ぱんぱんに張り詰め、限界地点で、パーンと破裂)
小説にも、性格や人間性は出ますね~。
自分は、育ちがいいのか、悪いのか、考えてたら、
霜降り肉の、肉と脂みたいに、
異なる民族の居住地が、モザイク状に入り混じっている、中近東のとある地域みたいに、
両方が切り離せない状態でわけがわからなくなって、
結局また、脳が、白旗をあげて、降参している。
結論を出さずに、ほったらかすのは、わたしの、常套手段。
やればできる、のではなく、やっても、できないので、
ほったらかしにしたまんまの課題が、あっちこっち、未解決のまま、ごろごろ転がっている。
なので、自意識やら、苦悩やらに至りつくこともなく、がーがーと(電車内でも、どこでも)睡眠をむさぼっている。
これはこれで、いちおう、「天然」の苦悩だろうか?