昨日は、ブログ更新に手間取り、昨日分スケジュールを一部分、割愛した。
ブログごときで、カットできるスケジュールなんて、いったい、なんぼのもん?
いえ、まあ、そういう日もあるということで。
そのスケジュールをひとつ割愛したせいで、次の予定が狂った。
順番、順番に、ひとつずつズレていって、いつものパターンと違うことが起きた。
昼食をとる場所、店が、変わった。
いつもは、カンタンな、店とは言えないような、オープンスペースの場所なのだが、
密閉された場所(通常の飲食店)で、食べた。
ランチタイムのサービスに、ごはんと、お吸い物が無料でついて、
「ただ」という特典には、無条件で反応してしまうわたしは、お腹いっぱいになった。
で、胃袋満杯という、身体的なイレギュラー変化をもたらし、その後の行動に影響を与えた。
・・・・
書いていて、なんか、続きを書くのが面倒になったので、
「風が吹けば桶屋が儲かる」ハナシは、進まないまま、終わることにする。
・・・・・・
と、ハナシは、まるで関係ないのだが、
昨日のブログで、わたしは消化不良になっている。
時間が無く、泣く泣く、途中でやめた(無理やり終わらせて更新終了した)が、もやもやしている。
そのブログのせいで、昨日の行動がズレたぐらい、自分では気になっていたのだろう。
しかし、小学生や中学生レベルの問題ではあるが、
人間の基本的なコンプレックスというものは、根本的に、徹底的に退治しなければ、
大人になってもずっと、引きずるものである。
人格形成の上でも、重要なことだと思う次第だ。
ま、内容が、軽薄で、チャラいのは、しかたないとしても、だ。
外見と、能力。
容姿と、学力。
ジャンルが、やぱり中学生レベルだな~。
もっと、わたしの年齢にふさわしい悩みを書くべきである。
(が、それは、他の、重厚な、ご苦労されている方のブログをお読みください)
ここで、・・・いきなり、で・・・あるが・・・、
成績が悪い、勉強できないのは、自分のアタマが悪いからだ、ということに、昨日、はじめて気が付いた。
これだけ長い間、生きてきて、学生生活も長々と経験しておいて、同窓会にも皆勤賞並に出席しておいて、
いまごろ、それに気が付くなんて、なんて、アッパレなんだろう。
じゃあ、それまでは、どう思っていたか。
自分がサボっているせいで、勉強できない、と思っていた。
つまり、自分のアタマを信じていたことになる。
自分は、やれば出来る、アタマは決して悪くない、と、思っていたってことに、昨日、ブログを書いていて気が付いた。
しかし、自分は、アタマが悪くて、しかも、それを補う努力をしないせいで、勉強が出来なかったのだ。
決して、サボっているせいだけではなく、もともと、アタマが悪い、ということが、根本的な原因だったのだ。
それを補助すべき、努力を怠ったせいで、もともとデキない頭脳に、カビを生やすだけということになった。
怠惰な性格、行動だけでなく、脳自体が悪い。
そう気が付いて、目からウロコ。
今まで、あまり、自分の霞のかかった脳みそを解明しなかった。
出来、不出来という、結果だけで判断していた。
その原因は、どこにあるか、なんて、反省せず、ここまで来てしまった。
とても、すっきりした。
しかし、これは、解明されるまえより、落ち込むことになった。
精神面、こころの弱さ、意志の弱さが原因だと思っているときのほうが、気が楽だった。
よく世間や学校、塾で、一般的に言われる、
「○○ちゃんは、やる気にさえなれば、デキるのに」という言葉。
やる気がしない、やる気が起こらないこと、それ自体が、その子の能力なのである。
気力は、アタマとセットなのだ。切り離せない。
アタマが悪いのは、自分のせいではない、DNAのせいだ、と、人のせいにすると、自分は楽だ。
くよくよ自分を責める必要はなかったのだ。
だが、こころならともかく、どうにもならないアタマの悪さを改めて実感するだけであって、かえって辛い。
不快なこころ、嫌な気分を、人のせいにするのは、楽だ。
自分と対峙しなければいけないが、そんなことは、鬱陶しいので、手っ取り早く、人のせいにしておく。
すると、こころが、軽くなる。
精神衛生上、暗闇から抜け出す、こころを軽くするノウハウのひとつだろう。
わたしは、今まで、人のせいにするより、自分のせいにしてきた。
人を怨むことは、してこなかったが、自分を怨むこともしなかった。
これも、性格。楽天家なのだ。
「なんでだろ? ようわからんわ」で、すぐ投げ出す。
で、自分のアタマが、根本的に、DNA的に性能が悪い、
と、再認識できて、すっきりして、喜ぶ人が、どこにいるだろう?
でも、わたしは、半分、喜んで、半分、泣いている。
たとえ親であっても、兄弟であっても、子供であっても、
怨むなんていう、精神のメカニズムをわたしは体験したことがない。
「怨み、怨恨」は、「愛」と並んで、小説をはじめ、芸術のテーマにもなっている。
戦争や紛争も、長い歴史の間に、積もり積もった怨みが原因となっていることが多い。
そういう感情を経験したことがないということは、わたしのノーテンキな性質を生み出す土壌になっているのだろう。
(と、書くと、反感を買う場合もある。
どう書いても、なにを書いても、反感というものは、買うものである。
めんどくさいので、反感をお持ちの方は、そういう感情自体が、好きな人なのだろうと、放置することにする。
負のスパイラルで、そういう負の感情は、連鎖し、自分を支配する。
逆に、正の感情は、自分を高め、楽しくする。
ただし、文章にした場合、教科書みたいで、面白みに欠けて、眠くなるのが難点)
負の感情に支配された人と、関わる気持ちはない。
そう書くと、人の痛みのわからない人間とみなされる。
不幸やピンチに陥ったとき、ざまみろと、拍手喝さいを受けそうだ。
自分が、負の感情に支配されたときは、どうするのか?
ブログで吐きまくるか、音楽でも聴くか、ヒーリング療法でも施すか・・・
はたまた、怨念ブログでも新しく開設するか。
(自慢ブログも開設したいと、ふと思ったりすることもあるのだが・・・実際にする、しないは、別として)
アタマの悪さから、ここまでハナシが飛んできた。
分析してみるに、今日は、時間に余裕があるってことだ。
さ、別件に取り掛かる準備をしよう。