蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

隣の芝生は、ゴージャスな薔薇の香り

2012-12-29 | 暮らし

ブログ散歩をしていて、
特定の人だけが読める限定記事や、コメントがあると、なんだか、温度が下がる。
ないと、なにも感じないが、あると、なにか・・そう・・・
身内と、身内でないものを分けているのが、はっきりわかって、自分が、たんなる通りすがりのモノだということがわかる。
そして、勝手に距離を感じる。

長い間、ご無沙汰していた、とあるブログを1年ぶり?に、(何年ぶり? それもちゃんと覚えていない)
その、わたしにとって、卒業ブログを昨日、ふと訪れてみた。
なぜ、卒業ブログかというと、「好きで、キライ」、の、ブログ。
決して好きではないのに、最初の頃、時には、コメントを入れたりしていた。
好きではないが、気になっていたのだろう。

なぜ、好きでないのに、気になるのか?
おそらく、憧れが、捻じ曲がって、卑屈な感情に支配されているのではないかと分析する。
グルメ、インテリア、お出かけ、・・・ゴージャスな生活。
美しい写真で、これでもか、これでもか、と、上質・美生活がアップされている。
彼女に任されている、毎月手渡されている家計費は、おそらく50万円は下らないだろうと想像する。
それは、純粋に食費と、彼女のお稽古事や食べ歩き、娯楽、ちょっとした買い物などの消費に費やす費用。

稼ぐ旦那さんが、気持ちよく、ぽーんと大金を毎月、くださるのだから、それはそれで、けっこうなことだ。
まったくの、アカの他人なのに、惜しげもなく、鍵カッコ非公開コメントにもせず、公開メンバー限定にもせず、
その絢爛豪華な生活を垣間見ることができて、ありがたいことだ。
仲良しさんも、そうでない人も、分け隔てのない、天真爛漫な彼女の、気が変わらないことを願うばかりだった。
のだが・・・

しだいに、自分の生き方と違うということが、わかってきた。
ライフスタイル、生活信条が、まるで違う。
憧れ、家庭生活のお手本に、と思っていたが、だんだん、憧れなくなってきた。
部分的には、食卓に乗るメニューは、参考になるが、メザシは食卓には乗っていない。
材料費もとても高そうなものなので、参考にするにも、できないものも大いにあるが、
まあ、それはそれ。
(こんな素材なら、美味しくないわけがない、というような、高級食材)

いえ、ひねくれているわけでは、ないのですが・・・
(他人が見れば、この状況、ひねくれている、ひがんでいる、としか見えないと、思うが)

で、他人にどう思われようが、(コメントとか、ほとんどやりとりもないし)
胃がもたれるような、なんか、快適ではないような気がして、前々から、どうしようかと思っていたが、
ある日、そのブログから遠ざかることに決めた。(訪問しないだけだが)

で、で、久々ぶりに、そのブログを、えいやっと訪れたわけである。
まあ、なんと、前とまったく同じ。
まあーーったく、同じ。
内容、イベント、同じ。
同じ家、同じ訪問先、同じような出歩き先。

わたしのブログだって、まったく同じなんだけれど、
久しぶりに同じ内容を見て、とても不思議なような気がした。
彼女は、このライフスタイルが確立されているんだ。

いや、しかし、世の中には、お金持ちはいるものだ。
ゴージャスマダムである彼女が、贅の極めっぷりに圧倒され、目を丸くして参加する、お稽古の先生のお宅(別荘)・・・
パーティには100人近い人が参加し、著名人もゲストで招待されるようだ。(毎年、恒例)
会場や、お食事が素晴らしいのは勿論のこと、
別荘の維持費、どこから出ているんだろう、なんて、下世話な好奇心が、むくむく。
お稽古にしても、生徒に教えていても、あの内容では、持ち出しが多く、趣味としか思えないので、赤字だろう。
いわゆる、サロンだ。
(お金もうけは、旦那さんに任せ、趣味を極めた、「採算」とは別のマダム世界)
膨大な赤字と、維持費、この固定費、どこから出ているのか?
ご主人の会社がらみの経費で落としているのか?
だとすると、なに関連の会社だろう?
オーナー社長?
維持し続けられるのか?

暮れに、掃除しないといけない、カウントダウンの時計の音がチカチカしているというのに、
こんな、まったく関係ないこと書いていて、どうする?
いや、ちょっと興味があったもので。

ま、その卒業ブログ、同じコトを繰り返して、行っておられるスタンスは、人それぞれ、素晴らしい。
人によって、内容は、正反対であっても、しょぼいことを日々、繰り返して行っている人も、素晴らしい。
同じコトを繰り返し行うことによって、人は、なんらかの信条、モットー、身につくもの、気付き、が、ある。
人それぞれの哲学が生まれる。

哲学なんか、持たないという哲学も、立派な哲学だ。
哲学なんか、なんのこと?という、哲学の存在も知らないことも、それはそれで幸せだ。
「考える」という局面に立ったことのない人は、怖いものなしだ。

「ぶーぶーいって、ひねくれて、やぶにらみしているのが哲学だ」、
なんて勘違いしているかも知れないより、純粋かも?

アタマを使うか、お金を使うか、どっちも使うか、どっちも使わないか、
人それぞれ。
ないものは、使えない、これもチョイスできない、チョイスだ。
選択肢を持たないという選択をする、・・・これも、ひとつの選択。
選択肢を持てないという選択になってしまう、・・・これもひとつの道。
チョイスそのものが、できない。迷いがない、迷いようがない。道は、一本。


なんの役にも立たないことをうだうだ書いてないで、
さ、はやく、掃除にかかろう。
昨日は、ごそごそ整頓で、時間が来てしまった。
暗くなってしまったので、掃除は日をまたいで持ち越すことにし、夜から明け方3時半まで、年賀状を書いていた。
(いまどきの時代に、オール手書き、手製。7~8時間かかった。究極のアホかも知れない)

かなりオシリに火がついてきた。
もう、パソコン前のイスから半分、オシリが浮いている。
暗くならないうちに、掃除を完了しなければ、誰が見ても、正真正銘のアホである。

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