蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ロボット人生

2012-12-26 | 人生

人には、なんでも、ひとつぐらいは「取柄(とりえ)」というものがある。
わたしは、いくら頑張って考えてみても、それが・・・ない。

強いて言えば、取柄がないということを自覚していることぐらいか。
しかし、努力して治そうとしないので、自覚しても、あまり意味がない。

人生のコンセプトは、役には立たないが、人の迷惑にならないこと。

わたしの人生での役目は、ほぼ終盤戦を迎えようとしている。
一つ目は、自分が生まれて成長したこと。(9割終了)
二つ目は、子供を産み育てたこと。(終了)
三つ目は、親を見送ること。(未了)

2つの「生」、1つの「死」に、関わることだ。
「死」の順番が逆になるという悲劇も、今のところ経験せず、その幸運に感謝している。

この3つのこと以外は、お遊びだと捉えている感がある。
その時、その時は、必死なのかも知れないが、生死に関わるほどでもないことは、あまり重要視しない。
ただ、生きる質を向上させるための努力は、したほうが、しないより、自分が心身ともに快適に暮らせる。

わたしは、努力をするとしたら、人のためではなく、自分のためである。
自己チューそのものだ。
もし、人を喜ばせたいために、なにかをするとしても、喜んだ顔を見たい、という、自分の欲求を満たすためだ。
時に、それは、喜んだ顔をしなくてはいけない人にとっては、迷惑だったりもする。


人を好きになるとしても、
相手そのものが好きなのではなく、その人に対する、自分の気持ちが愛しいだけだったりする。
なので、相手が自分を好きでなかったら、とたんに自分の気持ちも冷める。
ねちねち執着しない。
これは、相手のことを本当に、とことん好きではないこと、無償の愛ではないこと、
見返りを求めるものだということが、はっきりわかる。

逆に、自分は、相手のことをなんとも思っていなくても、相手がわたしのことを好きであれば、
その人が良い人なら、わたしも相手のことが好きになる。
相手自体、人間そのものを好きなのではなく、たんに、感情だけの問題だ。
自分を良いように思ってくれる気持ちが、自分にとって心地よいだけだったりする。
自己愛に包まれ、自己陶酔しているのだろう。


愛憎ゾーンに踏み込むほど、感情があまり動かない。
ロボットみたいだ。
ローリスク・ローリターン。
冷めている。

人を好きになる情熱をあまり持たず、その分、自分が好き。
常に関心を寄せるのは、自分自身のこと、自分しかない。
なので、自己チューなのだ。(何度も言っている)
人には期待をしない。

熱くなるときは、瞬間湯沸かし器のように、一瞬で沸騰する。
理性は、吹っ飛び、一直線。
これをやると、たいがい、相手は逃げる。

そして、また、元のロボットに戻る。

弱火で、ちょろちょろ、とろとろ、長時間、じっくり暖める、そういうストーブが欲しいところだ。


感情の起伏が激しい人は、たいへんだ。
見ていて、暑苦しかったりする。
かといって、あんまり上下しない人は、クールすぎて、冷徹みたいで、イメージがよくない。

わたしは、母が、いつも火を噴き、父が消火するどころか、その何倍も火を噴き、噴火する活火山で育った。
そのせいで、自然鎮火するまで、ずっと辛抱強く待つクセが身についてしまったようだ。
何を言われても、じっと嵐がおさまるまで耐えて待つ。
その間は、他のことを考える。
激情がおさまったころに、やっと埋められた地中から地面へ顔を出す。
わ、太陽がまぶしい、空は青いぞ、快晴だ、
とはならないで、たいがいは、ぼたぼた雪が溶けたような、まだ冷たい小雨が降っているかんじだが、
台風の勢いは、衰えている。

という環境で育ったが、姉は、わたしと、まったく違う性格だ。
環境のせいではないってことだ。
自分自身のせいだ。
オトナになれば、すべて自分のせいだ。
いつまでも、親のせいにしても仕方ないのは、虐待を受けて育った被害者ぐらいか。

日本人は、血にこだわる。
血統、血筋、肉親、実子。
里子や養子は、外国ほど、あまりポピュラーではない。
血を分けた子供に対しては、無条件に愛を注ぐ。無償の愛。
時として、それが、接近しすぎて、うまくいかないこともあるようだが。

親、子供や家族には、感謝の念と、理屈抜きの愛情を感じる。
そして、暖かい気持ちで接してくださる、わたしと関わる人々には、深く感謝している。


今日のブログ、着地点がない。
オチが、ない。時間も、ない。
どうすればいい?

ここまで読んでくださった方に、謝るしかない。

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