さてさて、ブログタイム。
昨日は、ウォーミングアップの2行を入力しただけで、時間切れのため、アップできなかった。
今日は、またまた、さあ、と思う前からアウトで、背後で赤子が、ぎゃーぎゃ-、わんわん、泣いている。
が、赤子泣いても蓋とるな、と言われるとおり、蓋はとらずに、ちゃっちゃと、すごいスピードで、入力しよう。
いま、別のブログから流れる、ピアノの曲を流しながら、入力している。
別のブログを開いて、音楽を聴きながら同時に、自分のブログ作業ができる、なんて、今の今まで、知らなかった。
なので、何十分も、聴く時間が取れないから、困ったなあ・・・と、あきらめていたところ、
赤子の母親が、「同時に複数のタブを開いたら?」と、教えてくれた。
へー、そうだったの。
同時タブ開き。
ということで、BGMにすると、画面を見ないで失礼な!と、叱られそうだが、
ブログを書きながら、聴かせていただくことにした。
(途中、トークが入るときは、タブ切り替え)
これからは、この手を使おう。
いい音だ。
スローな、やさしいリズム、音色の部分になると、静かに、こころが解き放されるような気になる。
重々しい音の重なりの時も、そう感じたが、
ひとつひとつの曲のうねりに、弾き手側の込められた気持ちが伝わり、聴き手と一体感が生じる。
アップ、スロー、強弱、硬軟、高低、長短、
テンポ、キレ、メリハリ、柔軟さ、粘り、リズム、調子・・・ダンスと共通点あり。
ダンスは、音に合わせて踊るのだ。
わたしも、言わずもがな、ヘタではあるのは事実中の事実である・・・にもかかわらず、
ダンスの技術ももちろんだが、芸術面を高めるポイントも意識下におきながら、踊っている。
意識におくだけであって、現実は、足がもつれ、相手の足を踏み、相手に足を踏まれ、
リズム、テンポを間違え、ステップを間違え、方向を間違え、いろんなことを間違え、(基本が、まだ、なっていない)
膝は痛い、つま先は痛い、首は、だる痛い、
大きく、速く、強く、大回転に振り回され、付いていけず、滑ってコケそうになる恐怖に見舞われ、
他の人とぶつかり、相手とぶつかり、ヘア・アクセサリーは、ぶっ飛び、
教え魔には、いまだ、ぐたぐた、「教え魔」流に直され、
霧のなか、暗雲たちこめるなか、懲りずにやっている。
嫌な思いもいっぱいし、自信も無くし、
もともと低い鼻も、ぺっちゃんこに、へし折られ
(そもそも、生まれつき鼻が高くないので、折れるには、かなりの重圧が必要)
ヘタな人にしか相手にしてもらえず、レベルの低い、プライドのない踊りに冷笑を浴び、
高いレッスン料を払い(・・・上達ほど遠い)、
それでも、嫌になりながらも、なぜ、踊り続けるのか・・・?
ひとつには・・・踊りが好き、ということ。
ふたつには・・・今よりも、少しは上手になるに違いない・・と、淡い期待を抱いていること。
みっつには・・・ブログ村と同じで、いろんな人がいて、興味が尽きないこと。
嫌なことも、ひとつひとつクリアーしていけば、きっと、自分の糧になるだろう、
なんて、根拠のない楽天脳の持ち主である。
ただただ若いだけでも良さが出ない、社交ダンス(パーティ)は、まさに高齢者の社交の場である。
(その一方で、競技ダンスは、また別枠の、純然たるスポーツである)
集う人々は、ダンスという共通点はあるものの、生活や人生、ライフスタイルは、それぞれの独自のものがある。
別々の自立した人々が、ダンスを一緒に踊る、という点で接する、絶妙な、クロス・ポイント。
スパークリングしたり、フィットしたり、馴染んだり、助け合ったり、包み込んだり、
パーツパーツを別々に分担して責任を持って踊ったり、
でも、人生は、お互い、各自、別々で、別であることが、なんの難点もなかったりして、
じつに面白いものである。
別々の立ち位置で、共存し合うには、
自立した別個のものであるほうが、いい影響を与え合うことが多いことだろう。
(競技ダンスは、ペアは、夫婦であるケースが多い)
それよりも、なによりも、
なにごとも、楽しむことが、第一である。
楽しくなければ、意味がない。
壊され、もがき、癒され、再生され、楽しむ、これの繰り返し。
楽しさは、生きる意欲、人生のベースになる。