あれが、あった。これこれが、あった。
そういう楽しい話を書きたいか・・・というと、
今のわたしは、そういう気分にはなれない。
ほんとうは、毎日、充実していて、楽しいのだけれど。
書きたいか、どうか、だ。
小説にする気にもなれない。
人生経験が、壮絶でなさすぎて、平凡すぎて、甘すぎて、ぬるすぎて、薄すぎるからだ。
そして、想像力や、創造力が、中途半端すぎるからだ。
しかも、本も読まない。調べ物もしない。サイテーのサボリ人間だ。
知識を得る努力もせず、組み立てる力もない。
そして、ボキャ貧。
なので、小説どころか、ブログも、すっかり書く気力が萎えている。
人の書いたものを読むのがいちばん、楽でいい。
読むのは、難しいものや、専門分野のものではなくフツーの人が書いた、フツーのもの。
読みやすい。
なぜか。
素人だから。
ボキャブラリーの量と質が、一般的だからだ。
そしてなによりも、カンタンに手っ取り早く、ワンクリックで、無料で、読むことができる。
第一、お隣に住んでいるかのごとく、身近で親近感があり、温もりを感じる。
わたしは、ファッションモデルにはなれなくても、ファッション画、デザインは描けなくても、
自分で「こういうデザインで」と、ゼロから創造しなくても、
店で売っている、手ごろな値段の既製品の洋服を買うことは、できる。
受身は、楽だ。
セミ・オーダーもできる。
既製品をあれこれ、組み合わせる。
マネマネ・盗品、ごった煮、寄せ寄せオリジナル。
ただし、お取り寄せピックアップ、抜粋するのは、自分。抜粋の比率を決めるのも。
自分の引き出しがなくても、上を向いたり、下を向いたり、左右をきょろきょろ見たりして、
自分は、じっとしているだけで、なにもしなくても、
人様からのおこぼれ、アウトプット産物に触れ、けっこう楽しむことができる。
受動態は、楽々だ。
自分で、なんの積み重ねも蓄えもせずに、枯渇した感性に潤いを与えてもらえ、
時には、触発されることもある。
ただし、チョイスは自分。
大きな大きな大海原を泳いでいるかのごとく、選択肢は360度あるが、いろんなものがある。
自由だが、それに伴うリスクは自己責任で。
文章は、とりあえず、日本語と、外来語日本語。
英語なら、簡単な中学英語。
その他の言語は、わからない。
言語で表現される場合は、「人」「考え方・思考方法」に興味がある。
興味対象は、文章以外にも、いろんな分野がある。
また、さらにインターネットだけではなく、ブログやネット以外の、実社会、実世界でのリアルな分野。
わたしは、どちらかというと、「美」の分野が好きである。
芸術系のものが好き。
のこのこと、あちこちに出向いて、わけがわからないまま、丸のみする。
食あたりすることもあるが、意外なプラスの展開をするものもある。
んでもって、経済、政治、社会には、疎い。(なんども言うようだが)
最近は、ジャズも好きになっている。
ただし、ジャズのジャの字も知らない。
でも、いいんです。
いろんなタイプのジャズをiTunesで流す。
その曲を聴き、イメージを勝手に、脳内スクリーンに描き出す。
(音なのに音響ではなく、映像)
あ、この音楽は、純喫茶風。どしりとした、古い、昭和風の店内。
民放サスペンス2時間ドラマでの、登場人物が、深刻な話を打ち明ける時にかかる、やつ。
登場人物のメイク、ヘアスタイル、表情、ファッション、・・・古っぽい。
また、別の曲は、とある静かなBAR。
「オシャレ」という表現を使うと同時に、オシャレとは対極の位置に堕ちてしまうが、
わたしの感じる、ステキな(ああ、また、「ステキ」と入力すると同時に、対極の「ダサダサ」に陥る)
なんと表現していいのか、わたしには、その素養がないので、表現しようがないのだが、
なにしろ、洗練された(ああ、また、こんな表現・・・がっかり・・・)
そういう軽妙なフィーリング(またまた、こういう表現・・・。エンドレス・スパイラル。だれか、ヘルプ・ミー)
踊るとかではなく、もっと、軽い、落ち着いた、
こころが、ふっと、わたしの知らない、どこか別世界に入り込んだような、
でも、まったく知らないわけでもないような、
どこかにあったけれど、潜在的にあったものの眠っていただけで
たまたま、いままで気付かなかったような、
憧れの世界であるような、
でも、いままで、ダサダサの自分には接点がない、縁がないとハナからあきらめていて、それで、興味もなかったけれど、
自分が、ひょっとすると、合っているかも知れないような、
対象物・自体は、不動だが、自分が変化したことにより、新しい世界が開け、
その憧れは、遠いところにあるのではなく、その世界に自分が近づき、適応、フィットしていることに気付き、
嬉しいような、くすぐったいような、そんな気分だ。
音楽の好みが変わるなんて、今まで、ほとんどないことであった。
というより、音楽自体、べつに、どうでもよかったのだ。
受け売りや、流行っているから、とか、話題になっているから、とか、そういう、受身のチョイスでしかなかった。
自分から、音楽に寄り添っていくことはなかったと思う。
ただ、ジャンルが、ジャズなのか、クラシックなのか、まだ、流動的ではある。
どっちにしても、いままで、興味のなかった世界、分野が、自分から能動的な揺さぶりが生じ、
好みが変わる、ということ、
こういう自分の変化をとても、面白く感じる。
音楽だけでなく、芸術や、美・全般にもいえる。
美を追求するのは、わたしにとって、
永遠の夢の世界に浸ることができる、架け橋をゆっくりゆっくり上ることである。