蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

同情するならカネをくれ

2013-03-07 | 子育て

50歳を過ぎて、語学留学に挑戦しようという人のブログがあるそうだ。
お気に入りブログに紹介してあったが、時間の関係上、見つけ出すことができなかった。
ゴマンとあるブログのなかでは、このジャンルは、そんなに特別ではないと思うが、
そういう人のエネルギーって、わたしにとっては、爽やかな風になる。
向上心や、やる気のある人のオーラ、大好きだ。
ただし、プラスの分だけ、苦悩・努力は、セットだけれど。

わたしは、人と悩みを共有することが出来ない。
それが、悩みだ。
とても嫌なヤツなのだ。わたしという人物は。
悩みがないことが、悩みの人など、ぜったいに、嫌われる。
だから、悩みがあるように装おうかと考えた。
が、見栄を張ったり、強がりを言ったり、いいカッコしたり、プラス方面になら、わからないでもないが、
負の方向に虚偽の自分を演じて、なにかいいことがある?
なので、バカらしくなって、やめた。

注目を集めようと、不幸自慢するには、
ネタがなさすぎて、考え出すアイデアが、あまりにもチャチで凡庸、稚拙な作り話、非現実的になりそうだ。

「あなたなんかには、わからない」
そう言われるのが、いちばん、つらい。
いままで、身近に感じていた距離感が、ぐっと離れていく瞬間だ。
辛い経験をしていないことが、劣等感に似たような感覚として、後ろめたいことのように感じる。

そういう意味では、同じ傷、痛みを持つ人同士が、お互いの悩みを話し合い、理解し合い、
傷を少しでも治していく方向へ、いっしょに歩むのは、とてもいいことだと思う。
同じ悩み、傷を持つ人同士にしかわからない、その痛みは、
なまじっか、経験のない、痛みのわからない人に、中途半端に同情されても、気まずい空気が漂うだけだろう。

わたしは、よく、内々で群れるのは好まない、と言っているが、
それは、お気楽方面の話であって、シリアスな分野ではない。
悩みを共有しない人が、その悩みを持たない自分の目線から
「なんだよ、そんなこと」みたいな発言は、その場では適切でないと感じる。


元、同じ職場のI女史。
職場スタッフに、子育てで、結構、深刻に悩んでいるお母さんがいて、悩みを口に出した。
それを独身で、子育て経験のない若いI女史が、さらっと、こう言った。
「そんなの、かんたんですよ。(いいですか? 聞いてくださいね) これこれ、こうしたら、いいんです」

わたしは、唖然とした。
そのお母さんは、さぞや、あれこれ苦悩して、試行錯誤して、解決方法を探っていると思う。
それを、まったくなんの経験もない、しかも、その道のプロ(学者や研究者)でもないI女史が、
誰もがまず初めに考え付くような安易なコメント、アドバイスをなんの臆面もなく、していた。
それができないから、うまくいかないから悩んでいるんじゃないの、と私は思った。
そのお母さんも、おそらく、そう感じただろうけれど、なにも言わなかった。

I女史、なんで、誰が聞いても、どこかで軽く聞きかじったようなことを、
しかも、発する途端に、知ったかぶりが暴露されるようなことを平気な顔で言うのか。
これも、彼女のキャラクターの一部であるが。
「どうです? これで、あなたの悩みは解決、明日から悩みから解放されますね」
みたいなノリで平然と言ってのける神経には、驚かずにはいられなかった。

世の中、いろんな人がいる。
安っぽい同情は、失礼になったり、相手を不快にさせることもある。
同情すること自体が、相手を侮辱していることになることさえある。
傷や痛みを分かち合える人同士が、いちばん、よくわかる。

うすっぺらな、うわっつらだけの言葉なら、かけないほうがマシ。
同情しているフリも、だめ。
本当に同情するなら、・・・その人のいちばん役に立つモノ、コト、行いをするべきだ。

が、気持ちに正直に、同情の具体的方法を示すのは、かなり難しい。

 

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