50歳を過ぎて、語学留学に挑戦しようという人のブログがあるそうだ。
お気に入りブログに紹介してあったが、時間の関係上、見つけ出すことができなかった。
ゴマンとあるブログのなかでは、このジャンルは、そんなに特別ではないと思うが、
そういう人のエネルギーって、わたしにとっては、爽やかな風になる。
向上心や、やる気のある人のオーラ、大好きだ。
ただし、プラスの分だけ、苦悩・努力は、セットだけれど。
わたしは、人と悩みを共有することが出来ない。
それが、悩みだ。
とても嫌なヤツなのだ。わたしという人物は。
悩みがないことが、悩みの人など、ぜったいに、嫌われる。
だから、悩みがあるように装おうかと考えた。
が、見栄を張ったり、強がりを言ったり、いいカッコしたり、プラス方面になら、わからないでもないが、
負の方向に虚偽の自分を演じて、なにかいいことがある?
なので、バカらしくなって、やめた。
注目を集めようと、不幸自慢するには、
ネタがなさすぎて、考え出すアイデアが、あまりにもチャチで凡庸、稚拙な作り話、非現実的になりそうだ。
「あなたなんかには、わからない」
そう言われるのが、いちばん、つらい。
いままで、身近に感じていた距離感が、ぐっと離れていく瞬間だ。
辛い経験をしていないことが、劣等感に似たような感覚として、後ろめたいことのように感じる。
そういう意味では、同じ傷、痛みを持つ人同士が、お互いの悩みを話し合い、理解し合い、
傷を少しでも治していく方向へ、いっしょに歩むのは、とてもいいことだと思う。
同じ悩み、傷を持つ人同士にしかわからない、その痛みは、
なまじっか、経験のない、痛みのわからない人に、中途半端に同情されても、気まずい空気が漂うだけだろう。
わたしは、よく、内々で群れるのは好まない、と言っているが、
それは、お気楽方面の話であって、シリアスな分野ではない。
悩みを共有しない人が、その悩みを持たない自分の目線から
「なんだよ、そんなこと」みたいな発言は、その場では適切でないと感じる。
元、同じ職場のI女史。
職場スタッフに、子育てで、結構、深刻に悩んでいるお母さんがいて、悩みを口に出した。
それを独身で、子育て経験のない若いI女史が、さらっと、こう言った。
「そんなの、かんたんですよ。(いいですか? 聞いてくださいね) これこれ、こうしたら、いいんです」
わたしは、唖然とした。
そのお母さんは、さぞや、あれこれ苦悩して、試行錯誤して、解決方法を探っていると思う。
それを、まったくなんの経験もない、しかも、その道のプロ(学者や研究者)でもないI女史が、
誰もがまず初めに考え付くような安易なコメント、アドバイスをなんの臆面もなく、していた。
それができないから、うまくいかないから悩んでいるんじゃないの、と私は思った。
そのお母さんも、おそらく、そう感じただろうけれど、なにも言わなかった。
I女史、なんで、誰が聞いても、どこかで軽く聞きかじったようなことを、
しかも、発する途端に、知ったかぶりが暴露されるようなことを平気な顔で言うのか。
これも、彼女のキャラクターの一部であるが。
「どうです? これで、あなたの悩みは解決、明日から悩みから解放されますね」
みたいなノリで平然と言ってのける神経には、驚かずにはいられなかった。
世の中、いろんな人がいる。
安っぽい同情は、失礼になったり、相手を不快にさせることもある。
同情すること自体が、相手を侮辱していることになることさえある。
傷や痛みを分かち合える人同士が、いちばん、よくわかる。
うすっぺらな、うわっつらだけの言葉なら、かけないほうがマシ。
同情しているフリも、だめ。
本当に同情するなら、・・・その人のいちばん役に立つモノ、コト、行いをするべきだ。
が、気持ちに正直に、同情の具体的方法を示すのは、かなり難しい。