蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ごっちゃ煮生活

2013-07-10 | 暮らし

ブログ更新する時間が、やっとこさ取れた。

日頃、実質的には、ほぼ一人住まいに近いようなわたしだが、
いま、6人ごっちゃ煮同居、そして、遠路はるばる、わたしの実家への出張遠征・介護、と、
まったくをもって、180度違う生活をしている。

実家から帰り、さて、自分の家。
いつも、閑散と人の気配のないわたしの家だが、
わたしは、いま、賄のおばさん、寮母をやっている。
栄養管理士でもあり、調理スタッフでもある。
レパートリーは極端に少なく、冷奴と、豆腐と、モヤシが定番。

食費、びゅーんと、いっきに跳ね上がり。
買っても買っても、すぐになくなる。
一人に近いような時と比べると、えらく、どかんと開きのある動きになっている。
いつもは、すいすい涼しげな冷蔵庫が、ぎゅーぎゅー満員、詰め詰めになり、暑苦しい。

規則正しい食生活=デイリー生活。
出勤する時間が早い順番に、一人ずつ起きて朝食の後、順々に出勤。
わたしは、一番目の人から朝食作りし、自分は4番目の出勤。

帰りも、退社が早い人順に、勤務終了後、一人ずつ帰宅。
わたしは、一番目に帰宅。夕食作り役。
夕食は、最後の人が帰ってきてから、せいの~で、全員で食べる。
あまりにも遅い人は、待たないでほっておく。

孤食に近い状態から考えると、雲泥の違い。
ひと昔まえの、お茶の間テレビドラマのようだ。

お風呂も、朝の人、夜の人、順番、好み、いろいろ。
夜は、夕食後、デザート終了を合図に、リビング・食堂は消灯し、各自、各部屋に引き上げる。

ちょっとした、グループホームみたいなかんじか。
ホームステイしている外国人を数人預かっている、ホストファミリーみたいなものだ。

スタート時は、どうなることかと不安だったが、落ち着いてくると、けっこう、うまい按配だ。
各自、自分の活躍する時間帯が少しずつ違うし、コアタイムは、出勤しているから、
オフタイムだけの共同生活だ。
しかし、このオフタイムこそが、難しく、摩擦のもとになると懸念していたが、
いまのところ、いたって快適だ。
適度な距離感、そして、外出も、少しずつ時間がズレていたり。
個人やペアが、合流したり、個人行動だったり。

・・・・・・・

が、時間はさらになくなって、ブログタイムは制限を受ける。
今日は、ここで終了。

 

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「イヤなら来るな」だそうです。

2013-07-06 | ブログ

(わたしとは、なんの関わりもない、まったく知らない)どこかの誰かさんが、
とあるブログのコメント欄に、感想、意見みたいなものを書いておられた。

気に入らないブログ、気に入らないのなら見なければいい。
(ブログに書かれていることが、法を侵さない範囲内であれば)
わざわざ、「気に入らない」「そんな内容は、他の人も気を悪くする」
とコメントしたりするのは、いかがなるものかと。

なるほど。そのとおり。
わたしは、気に入らないブログは、いっさい見ない。
目に入らないようにしている。
見ても、なんのいいこともない。
気に入らない意見が、たらたらと書かれ、それに賛同するコメントが、ずらずら書かれ、
ただでさえ時間がないのに、そんなブログを見て、なにが楽しい?
なので、見ない。
じつに平和だ。

接点がないのに、接点を持とうなんていうのは、おかしい。
気に入らないのなら、近づかなければいい。
お互い、嫌い合う者同士、じつに仲良く無視し合えていいと思う。

大好き同士だって、距離が近すぎると、ベストな関係は保てない。
すこし、距離があるのが、いちばん。
風通しが、いい。


わたしは、基本的にひとりが好きなので、群れたりするのは性格的には苦痛。
友だちも、べつにいらない。
ひとりが気楽でいい。

なぜ、群れたい人たちは、群れたがるんだろう?
群れたくない人に対して、「なぜ群れないんだろう?」と、群れる人々は、疑問に思っているだろう。

買い物とか、ぜったい、いっしょに行きたくない。
ひとりのほうが、断然、効率がいい。
自分が欲しいものだけを見て、買う。
人が欲しいものなんて、どうでもいい。
買い物に付き合うなんて、時間の無駄使い以外のなにものでもない。
第一、お互い、プライバシーが保てる。
なにを、いつ、いくらで、どれだけ買ったか、という情報を共有するのはイヤ。

こっそり買っているのに、すぐ寄ってきたりして、勘弁して~、となる。


ぞろぞろぞろぞろぞろぞろ・・・これは、苦痛だ。
ただし、団体旅行のときは、アタマをまったく使わなくてよくて、
羊飼いに囲われている、羊になったような気になって、気楽ではある。
ただし、どこに行ったのか、地名など、まったく記憶にもこころにも残らず、
食事ぐらいしか覚えてない、などということに、なりかねない。
あとは、暑かっただの、寒かっただの、血管やら筋肉やら内臓やら、
からだのあちこちから、脳に直接訴える感覚的なものばかり。


ちなみに・・・
ママ友とか、わたしは不義理をしまくった。
全員にそっぽを向かれてもいいぐらい、ちゃんと真面目にお付き合いしてなかった。
塾の送り迎えなんかも、不公平極まりない、つるし上げにあっても、なんの不思議もないような、・・・
また、子ども会での、働きのなさ、気の利かなさ・・・
仕事を口実に、皆さんには、ご迷惑をおかけした。
皆さん、過激な方がおられなく、顔で笑って、こころでは、わたしを切って決別したことだろう。
でも、子育てが終われば、ママ友とも、ぷっつり。
すみません、わたしのママ友の皆さま方。

じゅうぶん反省したので、赦してください、とは言わないが、(言えるはずもなく)
わたしのフマジメさ、一生、その罪を背負っていくことだろう。
フマジメで、サボり。
わたしの十字架には、そう書かれている。

で、ママ友は、もういなくて、リセットになっているから(悪い意味で)、いいものの・・・
これからは、自分の関わること、まじめに取り組まなければ・・・。
でも、十字架には「フマジメで、サボり」と書いてあることだし、
「フマジメで、サボり」とは、一生のお付き合いになることだろう。

ああ・・・

 

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憧れの不良!!

2013-07-05 | ファッション

不良って面白い。

朝の連ドラ、お目目きらきら清純派カワイ子ちゃんが、いきなりブリーチ不良になって出てきた。
不良の特徴がよく出ていて、演技の勉強、スタイリストの勉強、行動心理学の勉強になった。

服装、ヘアスタイル、持ち物、姿勢、歩き方、しぐさ、表情、・・・。
あんなかんじの子、いるいるいるいる。

かつてのバイト先にも、こんな子がいた。
中途半端な田舎(関西)から出てきて、ヒールみたいなサンダルみたいなのを引っ掛けて、
仕事はオカタイ仕事だった。
が・・・わたしは、あの子は、もう、あの職業は続けていないと思う。
仕事より、異性に興味を示すタイプ。
先天的なニオイを感じ、夜の商売に向いている。

彼女と同郷の、同じく、中途半端な田舎から出てきていた女の子が、もうひとり、同期でいた。
彼女は、ものすごく真面目で、一人っ子、跡取り娘さんだった。
同じ高校出身なのだが、こんなに違う?というかんじ。

ただし、地方色、年齢は同じ。

職業とか、不良とかとは関係ない面で、
わたしは、その不良テイストの女の子がキライだった。
わたしは、生理的に受け付けない。
たんに、嗜好の問題だ。
が、ついでに言えば、彼女の今後の生き方も充分予想できた。

類は友を呼ぶ。
同類が集まる。おなじニオイ。

わたしは、どちらかというと、汚いものよりも美しいものが好きで、
だらしないものよりも、きちんとしたものが好きだ。
向上心のない、拗ねたよう生き方よりも、目標を持った生き方が好きだ。

醜悪なものや、嘘や偽善、そういうものは人間には内包されていると思うが、
自分に限ってそんなことは決してないと、自覚していない、気付いていない人は、
「自分は純粋だ」と思っているだろうが、それもまた、同じぐらい醜悪だ。

こころが醜悪だからといって、格好、体裁、見かけまで不良になってもカッコよくない。
ダサダサだ。

同じ不良っぽい格好をしたいなら、カッコイイ不良を目指してほしい。
でも、「自称・不良」という人がいる。
自分で言っている段階で、もうアウト。
ださだださチャンピオン。

マニュアル小僧のように、絵に描いたような不良の格好をしている子、人は、
同類が同じような格好をしているから影響を受けたのだろう。

わたしは、まえに仕事で担当していた、とある(怪しげな)企業のオーナー社長から
「髪を金髪にしたら?」と何回か言われたが、無視した。
なんで、わたしが、そんな人の言うことを聞かなければならない?
やれやれと言われる度に、「そうですね~」と口先のみ同意。
ぜんぜん、そんな動きを見せなかった。

金髪のほうが意外に似合う人もいるが、わたしは、こころが動かなかった。
日本人で金髪なんて、おかしい。
そもそも金髪は、太陽の光りが充分当たらない場所に住んでいる人種が、
長い間かかって、そうなった経緯がある。
強力な太陽が長時間、当たらないせいで、色が白く、目が黒くない。
メラニン色素の関係うんぬん。
なので、わたしは、自然の摂理で、金髪にはならない。
意図して金髪にもしない。
日本人の特徴のひとつ、・・・薄くのっぺり、目が細く、肌は黄土色っぽく、・・・
で、金髪じゃあ似合わない。
あえて、わざと、
「はずす」「壊す」「崩す」「見た目を悪くする」「調和を乱す」「醜悪なものを取り入れる」
という美的アプローチも、アリだが、わたしはチョイスしなかった。
前衛芸術家には、絶対に向いていないタイプ。

ただでさえ、ゴワゴワなのに、これ以上、ブリーチして髪が傷むのが嫌、というのもある。

と、あと、典型不良ファッションについて、いくつか書きたい。
が、時間がないので、ここでやむなく終了。




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そういう、あなたの子育ては?

2013-07-04 | 子育て

子供を産み育てること・・・。
シングルママは、たいへん。

たった一人では、子育てできない。
もし、やっているなら、ものすごいパワーの持ち主だ。

なぜなら、
例えば、外出時、大きなスーツケースを持ってトイレに行くとする。
スーツケースが大きすぎて、トイレの個室に入らない。
スーツケースを個室のドアのすぐ外に置いて、急いでコトを行わなければならない。

これが、スーツケースの代わり、赤ん坊だとする。
トイレのベビー用のイスには座れないような、首の据わらない赤ん坊。
立て抱きもできない。
横抱きにしたまま、トイレでコトを行うのは、けっこう、たいへんだ。
和式だったりすると、どうする?

ベビーベッドのあるトイレを足をくたくたにして探し当て、
ベビーベッドの上に放置したまんま、コトを行わなければならない。
出てきた時に、いなくなっていたり、誰かにイタズラされたり、という恐怖と背中合わせ。


電車の中も、そう。
ベビーカーを昼間時間に持ち込むのなら、まあいい。
通勤時にさしかかると、周囲のすごい無言の圧力。
ベビーカーを折りたたみ、抱っこするとする。
電車の中で、首は据わってないけれど、やたら思いベビー、ずるずると手からずり落ちそう・・・
でも、ずっとずっと立ったまま。

「すみません。あまりにも手がだるくて・・・。すみませんが、一瞬、持ってもらえませんか?」
と、限界に達して、隣に立っている人にベビーを頼むことになる。
隣の人は、「は?」となる。
座席のまん前に立っているなら、誰か席を代わってくれるだろうけれど、
人がいっぱいいる、人と人のおしくらまんじゅう、サンドイッチ、真ん中に立っていたら、
座席からは見えない。

昨日、電車の中で、ふと、ああ、わたしなら、どうするかなあ・・・
とアタマの中でシュミレーションしてみた。
限界が来たら、ベビー、床に置くわけにもいかないし・・・

自分の腕が、むくむくと筋力がついていくのが、若い頃。
限界レベルを押し上げていく。
しかし、ある程度の年になると、限界が来たら、限界を押し上げるのではなく、限界に負ける。
腕がへなへなとなる、トラブルを起こし、故障する。
なので、子育ては、若いうちのほうがいい。

仮に、自分が、緊急のサポートで、ベビーをどこかに連れて行かなければならなくなったとしたら、
ああ、どうしよう・・・
腕は、べきべきペキペキ震え、冷や汗は、たらたら・・・周囲は、気の毒がってくれ・・・
トイレにも行けず・・・

・・・

周囲に黙っていて、こっそり子供を産んだ場合、
近隣に子供の声が聞こえないよう、びくびく。
絶対に知られたくない、と固く思ったとしても、
生まれたばかりだと、近所の人が通ったり、回覧板を持ってきたり、来訪したり、
そういう時には、ベビーの声がしないよう、必死。
すぐ近くに敵の気配を察する防空壕の中で、ひっそり息を殺すかのごとく。
まあ、これは、世間にシングルママであることを隠している場合だが、
いつまでも隠し通せるものではない。

子供は病気もするだろうし、
シングルマザーでワーキングマザーなら、働くだろうから、保育所に預けなければならないし。
外の社会の目に触れさせずに子供を育てることは至難だ。

親元で暮らすなら、生活費は実家持ちかも知れないが。
ついでに、育児もサポートしてもらえるだろう。
が、親が、シングルマザーの娘と、仲良く暮らし、ニコニコと気持ちよくバックアップをするかどうか、だ。
嘆き、憐れみ、怒り、自己嫌悪、将来への不安、などなど・・・
いくら、さばけた、時代の流れを把握する、ものわかりのいい親を演じようとしても、
ああ、こんな子に育てた覚えはない、と、くどくど、うつうつ思うかも知れない。
自分が助けてやらなければ、どうしようもない、
と、吹っ切れて、がんばってサポートする展開も考えられるが、
我が子(=シングルマザー)の生き方が、どんな真剣で、真面目で、努力しているか、などなど・・・
胸を打つものがあるかどうか、そのあたり、大きく影響する。

実家暮らしのシングルマザーで、ものすごい遊び人である娘と、超・放任親(お金持ち)が巻き起こした、
普通の感覚では想像できないようなネグレクト事件があったことを思い出す。
あんなのは、論外だろうけれど。

 

・・・・

つまり、シングルマザーが、たった一人で、子供を育てるのは、いかに困難か、ってことだ。
精神面でも、物理面でも、(ハード面でも、ソフト面でも)、バックアップなしでは、やっていけない。
たいしてなにも考えずに、安易にシングルマザーになった、未熟な女性が、
同じように似たようなデキの悪い同居人とビジョンや計画もないまま、だらだらと暮らし、
子供を虐待したりして、事件になっている。


子供を育てたことのない人は、かんたんに子育てを論じられないと思う。
かつてのわたしの職場に、20代後半、未婚、子供なしの女史がいて、
既婚、子育て真っ最中、子供の悩みを抱える30代中半スタッフに、
机上の子育て指導をしていて、(しかも浅く薄い、誰でも知っているような当たり前のこと)
わたしは、こころの底から、驚いて呆れて、ひっくり返った。
なんの経験も勉強もしていない(専門でもなんでもない)、興味も関わりもない彼女が、
よくまあ、人生の先輩に、どの口でアドバイスしているのだろうと。

もし、人の子育てを非難したりすることがあるのなら、
明らかに親の怠慢で、子供を死なせたり、ネグレクトしたり、虐待したり、
だれが、どう見ても、社会的に道徳的に、間違っている場合だろう。
単なる価値観の違いだとすると、人の子育ては、非難できないと思う。

ただし、汚いよりキレイほうがいいだろううし、不味いより美味しいほうがいいだろし、
バカより賢いほうがいいだろうし、不細工より可愛いほうがいいだろう。
しかしそれは、個人の資質レベルの比較ではない。
部屋を汚くするよりはキチンとしたほうがいいだろうし、
料理も、果てしなくひどいよりは、そこそこの栄養の偏りがないものがいいだろうし、
よほどの大天才であったとしても、まったく勉強しないよりは、学習習慣を身につけさせるほうがいいだろう。

そういう目で見た場合、どうかと思うなあ・・・と感じることはあるだろう。
親が納得していれば、すべてよし、「ほっといてよ!」ということだろうけれど、
いくら親が納得していても、見るに耐えかねるとすると、自分の感想、意見を述べるだろう。

で、人の子育てを非難する人は、自分の信念が貫き通されていて、
どこの誰に対しても、正々堂々と、自分の子育てをなんの非もなく、胸を張って
素晴らしい子育てだと自他共に認めている、
特別に優秀で秀逸、人並みはずれた偉人であると、わたしは信じて疑わない。

偉人伝を読んでも、立派な人のお母さんの言葉を聞いても、
本音かどうかは知らないが、みなさん、謙虚である。
「わたしの母は、素晴らしい母で、感謝している」、というのは聞いたことはあっても、
「わたしの子供は、素晴らしい、わたしの子育てのおかげだ」と力説している人は、あまり知らない。
仮に、子供が偉業を成し遂げたとしても、親は、
「わたしたちには、過ぎた子供です」と謙遜されている。
(なかには、自分の成果を主張する親もいるようだが。
だが、子供は親とは、別個の人格を持つ)

逆に、完璧な子育ては、子供をダメにする。

親も子も、どんなにデキが悪かろうが、みなさん、それぞれに、プライドは持っていると思う。
よほど反社会行為でもない限り、それを否定する権利など、なん人たりともないはずだ。

しかし、各人、各家庭、子育ての方針というものは、あると思う。

ゆとり教育とか、のびのび教育、はたまた、英才教育とか、スパルタ教育とか、
どれかをイチオシ、推進したいために、どれかを非難する、なんていうのもあり得る。

・・・・・

 

と、文字数ばかり、増やして、どうするの、わたし?

いったい、なにが、したいんでしょうねえ・・・。

 

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書けない

2013-07-03 | ブログ

わたしも、ブログ村エッセー・カテゴリーを抜けようかと、ふと思ったり。
でも、まあ、とりあえず、このまま行こう。

ブログも新しいものに変えたいのだが、
あれこれ考えると面倒で、億劫で、時間がないので、そのままにしている。

あれこれあれこれ、あれこれ。
いろいろ、ありますが、うーーん・・・書けない・・・。
なので、本当に蝶ブログ、行き詰まり、困っている。

お引越しも必要だ。
が、よほどのことでもない限り、めんどくさいことは実行しない。
わたしの人生は、サボり根性で貫かれている。


わたしが、いつも散歩しているブログ。
あれと、これと、それ、そして、その他。
ここのところ、極端に時間がないので、タイトルを見た後、最初と最後だけ数行読んで、
中身は、ざざざーっとこぼれ抜け落ち読み、のみ。
斜め読みにも至っていない。

ガツンとパンチのあるものが好きだ。
芯、主張があるもの。
キレが、気持ちいい。
もちろん、同調できないブログもある。
性格や主張、ニオイ・・・、相容れない。
そういうものは読まない。(当たり前か)

くだくだしたものは、苦手。
ブロガーさんご自身の生き方と似ていることだろう。
そういうブログも、読まない。(当たり前か)

努力家が、好き。
骨太な人は、逞しく頼もしい。自分の道を切り拓いておられる。
問題意識を持っている人も好き。
考えるということは、大事。
ただし、興味の的、内容が重要だ。

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結婚観

2013-07-02 | 人生

結婚観は、人それぞれ。
自分の結婚観と、人の結婚観は違う。
違う結婚観を知ったり聞いたりして、同調したり、憤慨したり。
嫌な気になる場合は、自分を否定されたような気になるのだろう。
人は人、と思えないのは、自分の歩んでいる人生が納得できないからだろう。
人生、不公平だ、と。

結婚制度にこだわらないカップルもいる。
子供が出来たり、子育てをしていくと、状況ががらっと変わる。
自分の家族や、相手の家族との交流や、そのお付き合いの深さも変わってくるだろう。
自分だけ、相手だけ、単体で生活するなら、関係ないことだろう。
親や兄弟もいるけれど、絶縁状態なら、関わりがないことだろう。

余生をひっそりと肩を寄せ合って二人で暮らすのもいいかも?
(わたしと夫との場合、「ひっそりと肩を寄せ合って」という表現は、まるで適しないが)

と、書きつつ、わたしは、ひっそり快適空間で、ひとり気ままに暮らすのが好きだ。
だが、人の流れのない家は、空気が澱み溜まってしまう。
風通しをよくするためにも、自分だけの世界に閉じこもり、外の世界をシャットアウトしないほうが、
なにかとバリエーションがあって楽しい。

家族が単体で自分ひとりなら、外の世界で、お付き合いや活動を盛んに頑張らないと。
健康なら、単体(単身)は非常に動きやすい。
活動資金も必要だけど。

ここから、あれこれ、身を乗り出して書こうと、ノってきたところだが、
かなしいかな、時間切れ、アウト。

また、こんど。

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子育て

2013-07-01 | 人生

子供のこと、書いてみようかな、とふと思う。

幼い声が、まだ耳に残っている、息子。
いまは、遠く離れて住んでいるが、
彼にとって、実家離れ、親離れ、自分探し、人生の道探しの時期だと、わたしは思っている。
糸の切れた凧のごとく、飛んでいってしまうのか、はたまた、・・・??

息子は、生まれる前から誕生を待ち望まれ、生まれたその瞬間から、熱く喜ばれ、
無条件に強烈に愛された。
娘たちも愛されたが、特に、義父の、息子(=孫)に対する可愛がりようは、なかなかのものだった。
親よりも、じいちゃんのほうが、ずっとずっと可愛がっていた。

かといって、甘やかせて、スポイルすることはなかった。
息子(=孫)に、家の行事のやり方を、義父は直接、教えていた。
息子は、教わった内容を、絵や説明文に書き残していた。

息子が遠くに行って、滅多に帰ってこれなくなった近年では、
年末に、わたしたち(義母と)が、息子のメモを見ながら、見よう見まねで、やってみた。
義父から息子(=孫)へ、家での男の役割を伝えた。
本来は、義父→夫→息子というのが正しい順序であると思うのだが、
夫を抜かしている(スキップしている)ことは、わたしは、腹立たしく苛立つ。
が、いいことばかり、100点満点ばかりを求めても、つまらない。
少しずつ、足していけばいい。

息子(=孫)の成長を楽しみにしながら、義父は他界した。


わたしの父は、自分の息子ばかりに重きを置き、わたしたち娘(女の子)は、眼中になかった。
女の子は、いずれ嫁に行くもの、可愛がってもしかたない、と、いつも言っていた。
わたしの子供たちは、外孫にあたるし、滅多に訪れなかったので、父には、なつかなかった。
昔人間である、厳格な父は、孫だからと目じりを下げることもなく、距離感があった。
が、父は決して冷たい人間ではないことをわたしはよく知っている。
うまく、子供たち(=孫たち)と理想的なコミュニケーションを取れなかった原因のひとつに、
わたしの努力のなさ、力の至らなさもある。

父も、子供たち(=孫たち)の将来を夢見る前に、この世を去った。


で、かんじんの親である我々は、育てることに必死だった。
アタマの古臭い古典夫は、家事、育児、子育て、家のこと、すべてはわたしに任せっきり。
そういう夫とわかっていて結婚したのだから、そんな夫を選んだわたしは、やるしかなかった。
そうとなれば、役割分担を徹底した。
義母、義父も喜んで大いに参加してくれた。
感謝して余りある。

末子が幼稚園に入った瞬間、わたしは第一次子育てから解放された。
自分で決めた。自分を解放した。
その後は、子育てと、自分育てを同時進行した。

子供たちも自立し、自分の子育てを振り返ると、光陰矢のごとし。
われわれの親たちからの、熱い、たっぷりの愛情を注いでもらったおかげで、今日がある。
とくに、子育ての指針は、親の影響大である。
同時進行の自分育ては、さてさて、どうなったやら・・・?


わたしは、知らず知らずに、
あんなに嫌っていた、煙たがっていた親たちの生き方を踏襲しようとしている。
ただし、時代に対応させ、自分流の方法で。
なにも言わなくても、長い間に、伝わるものである。

さて、息子や娘たちは、どういう道を行くのか。
遠くから、あるいは、近くから、見守っていきたい・・・というものの・・・
わたしの生き方を背中から見ていることだろうと思うと、非常に複雑な心境になる。

 

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