蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ガス抜き効果

2013-07-21 | 暮らし

わたしは、自分自身のことは、非公開主義。
友だちも、いない。

家にも友人関係では訪問客は、ほとんどいない。
(以前は、いたこともあったが、今は呼ばないし、来なくなった・・・)

で、代りに、誰が来るか、誰と付き合うか・・・というと、
家族、子供、兄弟、婚家関係、実家関係。
家に来るのも、行くのも、そういう人々。
まあ、めったに来ないけれど。

来週、バーベキューをしようかと考えている。
その1週間先だと、実家関係で大掛かりなバーベキューをするらしい。
が、連続参加は大変なので、自分の家族関係だけにしておこうと思う。
面倒になったら、家の中で、焼肉。
ダイニングテーブルの真上の照明器具が、天井からチェーンで吊り下がっているデザイン上、
ライトが、べとべと、ぎんぎらになるだろうけれど。


友だちとのお客様ごっこは、キライ。
でも、子供一家など、家族の付き合いは、大事にする。
はじめてバーベキューをしたのは、
ホストファミリーをしてアメリカの学生を預かっていた10年以上前、
サクラに娘の友人たちを招いてのイベントとしてだった。


わたしは、接待は、家族を中心にして行う。
(夫の友人たちが来て、グルメ&飲み会をすることもあるが、まあ、それはそれ)

日頃、わたしは、家族サービスをさぼっている。
で、たまには、人に尽くしたいという願望が、むくっと沸き起こるから不思議。
家族が喜ぶ顔を見るのは、なにより。
そして、家族は、末広がりに、多ければ多いほどいい、と、最近のわたしは思うようになった。

ただし、アンチ同居派。

ちょっと離れた、スープがぬるくなるぐらいのところで、付かず離れずがいい。
お互いに、大嫌いにならないよう、大嫌いになる前に手を打つ。
接近しすぎは、なにごとも、よろしくない。
息抜き、空気抜き、風抜き、ガス抜きが、大事。
緊張と緩和、いい顔と、ぶすっとした顔、べんちゃらと本音、強弱、相反するメリハリが、
プラスの相乗効果を生み出す。

仮に、もし自分が単体(シングル)であったとしても、家族の付き合い、絆は大事にすると思う。

そう思いはじめたのは、ついつい、ほんの少し前からだ。
年を重ね、見える風景が変わってきたのだろうか。

 

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人生時間の時間割

2013-07-20 | 日々のこと

昨日から涼しい風が吹いている。
その風にあたると、とたんに幸せな気分になる。
好きだな~、この風。
暑いさなかに、ご褒美みたいな、ひんやり。

暑い時期は、庭掃除も大変だ。
車での移動も大変だ。

直木賞と芥川賞。
受賞者は、いずれも女性。
頑張っておられますね。

この賞をゲットしようと、密かに裏工作に走っている人が、リアル社会におられて、
なぜかわたしは、その人を知っている。
そんな仕組みもあるのか。へ~~~。
どの道にもあるようだが、ショートカットの道が。
だが、最終的には選には、もれる。
でも、夢見て頑張っておられるその姿には、ある意味、アタマが下がる。
モチベーション、欲求、願望というものは、人によって、こうも違うのかという、
新鮮な驚きとともに、いやはや・・・。

いま、わたしは、あれこれ、とある実践のための具体的計画を立てていて、
そちらのほうに時間を取られ、ブログタイムは、なおざりになっている感がある。
そして、人生時間の展開のため、
わたしの持ち時間の空き時間が、大幅に縮小されている。

そういう時は、ブログへの集中力が欠ける。
逆に時間のなさが、おもしろい発想を生むこともあるのだが。

人生の時間割が変わりつつある今、
興味や、充実の内容が変わってきている。
時間の移り変わり、季節の移り変わりを感じて、自分自身の変化を楽しんでいる。

 

 

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共感

2013-07-19 | ブログ

じつは、わたしは楽しく毎日を暮らしている。
んで、ああ、楽しい、なんて楽しいんだろう、
あんなことがあった、こんなことがあった、こんなことをしなくっちゃ、あんなことも、・・・
と、つらつら書いてもいいのだけれど。

リアル面で楽しい状態で完結しているので、書くには及ばない。
もちろん、悲しいことも、腹立たしいことも、その場で完結していることが多い。
書く場合は、それを引きずっている場合、深く掘り下げる場合、
そして、なんにも考えていない場合、場当たり的きまぐれでキーを叩く。
気分屋さんなので。
気分屋さんの割には、毎日、律儀にブログを更新している。
この矛盾。
はい、人間は、矛盾する生き物でございます。

で・・・
ひとのブログは、おもしろいときもあるけれど、
退屈なときもある。
わたしのブログもそう。

最近の、ブログ散歩、お気に入りは、ちょっと前と変わってきている。
前からのお気に入りと、そう遠くはないのだが、
なんというか・・・
芯のあるものが、好き。

おなじテーマ、カテゴリーでも、目線が、びしっとしているものが、気持ちいい。
第三者的目線が、暑苦しくなく、ナマあたたかくなく、媚びも同情路線もなく、
無機質っぽいところが、いいかんじ。
事実だけの追究。
ブロガーさんも、感じたことを書かれているが、どう捉えるかは、読み手の想像の世界。
引っ張られたり、押し付けられたりするのではなく、
お互いの双方からの、共同作業的なテンションが生まれて、気持ちいい。

同じブログでも、記事によっては、キライだなあ・・と思うこともあるが、
読み続けてみると
(なぜか、わたしは、キライでもある程度、読み続ける・・・。大嫌いなものは、もちろん論外)
その人の芯みたいなものが見えてくる。
で、けっこう、共感をもつ。
ただし、共感であって、好感ではない。

読み物というものは、それでいいと思っている。
好感は、だんだん飽きてくる。
なぜなら、なんのお付き合いも、関わりもないのだから。
が、共感は、違う。
発信していることに対して、好き嫌いを越えて、自分のなかで共通するものを感じる。

自分のことでさえ、すごく贔屓目に見ても、嫌いでたまらないことが、山ほどあるのに、
努力してもなかなか直らないことが、わんさかあるのに、
赤の他人のことを、スミからスミまで、大好きでい続けられるはずがない。

なので、好感でなくて、共感でいい。

この人、つまらんことを言ってるな~という日があっても、まったく構わないのだ。
わたしは、もっとつまらんことを言い続けているんだし。
というか、つまらんことを言っているときも、まともなことを言ってることもあり、
それは、支離滅裂に、順不同で、気分屋の特権で、
めちゃめちゃアットランダムに、べらべらつらつら綴っていて、
そのうちのたったひとつの記事を読んでも、わからないはずだ。
(わかる人にはわかるか。
選者が、応募作品に目を通す場合、最初の数行だけで、わかるというし)

で、・・・・・
ブログ記事の「起承転結」の「結」が、本日に限って、わたしには、あるのだが、
あえて書かない。

 

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憧れ

2013-07-18 | 暮らし

ふと思う。

人生時間の中で占める割合。

仕事の時間と、私的時間。
義務時間と、自由時間。

頑張る時間と、リラックスタイム。
考える時間と、実行する時間。
計画する時間と、実践する時間。
緊張時間と、緩和時間。
有意義な時間と、無意味な時間。

食事、入浴、就寝などの、生活の基本時間と、
晩酌、テレビ、音楽、読書など、労働への再生産のための時間。

平日と、休日。

・・・・・・

就労経験は、大事だ。
転職するにも、それまでの経験を生かしたり、
あるいは、前職が採用のジャッジ基準に影響する。

新卒で、なかなか内定を受けられずに苦しんでいる人も多いので、
軽はずみはことは、言えないが。

一度、職を離れると、復帰するのは困難になる。
なので、できる限りは、勤め続けたい・・・・・と、まあ、これは理想ではあるが。

わたしが、非常に不思議なのは、
結婚を機に、仕事を辞めること。
男性も、そうしているか?
わたしは、あまり知らない。

子供が出来てからなら、まあ、わからないこともない。
辞めるとまではいいかなくても、休む。いわゆる産休と、育休。
でも、単身の身で仕事を辞めるというのは、
例えば、仕事の勤務体制、時間が不規則で、夫婦の時間に支障をきたすとか、
お互いの望む結婚生活が築けないとか、まあ、それならわからないでもない。

プロ選手の妻で、健康管理にかかりつけになる、とか、
家元や、歌舞伎役者の妻や、
相撲部屋の親方の妻で、おかみさんとして、しきらなければならないとか、
そういうのも、ありえる。

ひと昔前は、結婚相手の両親の介護とかのために、仕事を辞めなければならなかったりもした。

結婚を機に気分転換して、前の仕事、例えば、プロ競技選手やオリンピック選手など、
それを辞めるなんてこともある。
でも、ひと休みすると、また復活しているケース、あるいは、指導側に回ることが多い。


今は、専業主婦のいる家庭を維持していける男性は、どれぐらいいるのだろう?
夫婦共稼ぎでも、カツカツの家庭もある。
大黒柱の収入が多いと、安定した暮らしが営める。

ただし、収入が多いのは、なにも、偶然や、幸運だけではない。
なかには、不正をしている人もいるかも知れない。
そういう場合は、幸福の春は長くは続かない。
嫉まれたとしても、実はコツコツ努力をし、人の見えないところで頑張りを積み重ねている場合もある。

同じように努力をしているのに、花開かない人と、開く人がいる。
努力、成果は、はたして、まったく同じの質、内容なのだろうか?
本人の性質、資質も、まったく同じなのだろうか?

明らかに、劣っている人のほうが、評価され、
優れている自分のほうが、評価されない場合もある。
大企業の、大組織で、偉くなった人を、じーーーーっと、長年、観察した人がいる。
自分と、どこが、違うのか?

自分の才能に溺れて努力を怠る人は、大成しない。
これは、どの分野にも言えることだ。

揉み手で、ゴマすりをして、上の人に取り入るのではなく、(そういう人は、途中で頭打ち)
一生懸命、実直に、汗かいて努力している人が、可愛がられ、出世している。

別にサラリーマンではなければ、そんな大きな組織でなければ、
そういう例は、あまり参考にならないかも知れない。
もうリタイアしていたら、全然、関係ない話かも知れない。

が・・・・・

わたしは、努力する人が好きだ。
上昇志向、おおいに、けっこう。

あ、自分は、へろへろしているけれど。
自分は、縁の下の力持ちになるのが、憧れだ。
(なぜ憧れかというと、実際は、できていないから)

縁の下の、腐った厄介者にならないよう、日々、気をつけたいと思っている。

 

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脛にキズ

2013-07-17 | 思い出

わたしのブログ・・・つまらんねえ。

エッセーにランキングされているブログは、正統派。
わたしのは、ちょっと、エッセーっぽくない。

自分のことばっかり書いている。

そもそもわたしは、自分の位置を見誤っている。
それは、幼少時代からである。

小学校~中学校と、クラスに秀才がフツーにごろごろ混じっていて、
学校も、全国の教育機関のトライアル試験校みたいなもので、
先生達が全国からぞろぞろ視察や研修にやってきて、新しい試みを先駆けてやっていた。
生徒は、モルモットだ。
で、モルモットでガキんちょのくせに、先生やら教育をなめていて、
そのくせ、自分(わたし)の成績は、めちゃめちゃ悪くて。

自分は、落ちこぼれなんだけど、まわりは、どうも、普通とは違うようなかんじ。
つまり、世間一般的なスタンダード、真ん中がない。
勉強はするものの、デキはイマイチ、という学生はいても、
人生を捨てている不良は、いなかった。

ほんとうは、いたのだろうけれど、
成績上位にいる人は目に入るが、下位にいる人は、発言もしないし目立たないので、目に入らない。
下位の子は、学校では不良にはならなくて、卒業して学校から消えていってから、
どこかで不良になっているのかも知れない。
少なくても、在籍中は不良にはなれない、そういう雰囲気だ。
彼らは卒業してから一度たりとも姿を現さないし、音信不通だ。
学校の適正基準からはみ出し、学校が大嫌いだったと思われる。
わたしも、はみ出していたけれど、学校のほうが、家より、まだマシだった。

というわけで、下位の人々は、存在感がなく、いないようなものだったので、
視界に入る、まわりには、フツーに偉い子がわんさかいるが、
いざ、自分の実力を実感すると、奈落の底。ひゅーん。どっかーーん。
普通の、明るい無邪気な、あどけない、お嬢さま笑顔とか、小さい頃から無かったというわけだ。

このヒネ根性。
お金ではない。親の職業でもない。ルックスでもない。性格でもない。運動神経でもない。
成績に支配される社会・・・ううう・・・
純粋に自分だけの力で、競争。
成績絶対主義・・・・落ちこぼれ・・・る・・・
なかなかトラウマが、治らない。


なので、ママ友たちの争いとか、ぜんぜん、ぴんと来ないし、どうでもいい。
わたしの観点と、まったくズレまくっている。(わたしが、ズレている)
家がどうとか、服がどうとか、食べ物がああ、とか、まったくといっていいほど、どうでもいい。
競っている人たちを見ると、宇宙人を見るかのごとく。
だが、トラウマが成績部門だからといって、子供の進学や成績で競うかというと、そんなことは、しない。
自分と子供は、別人格。
あり地獄、砂に呑まれてしまうようなことは、しない。
興味の対象は、自分。
自分は、どうなのか?ってこと。

まあ、誰でも脛に傷を持つ。
とっくに定年退職した男性たちも、リタイア生活を十二分に満喫している人も、
まだ、とうに過ぎ去った現役時代の、会社での不満がくすぶっている人がいる。
自分への評価に,納得がいかない。
もう、済んだことなのに。

それと似ている、わたしも。
もう済んだことなのに、いまだにうなされている。
一生、そうだろう。
歪んでしまったものは、なかなか直らない。

 

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厳しい目は、ほどほどに

2013-07-16 | オトコとオンナ

アラサーの女性たちの会話。
一人は既婚、一人は未婚。
男性に対する評価が厳しい。
う、う、う、・・・となってしまう。

経済観念、生活信条は、結婚する上で、大きなポイントとなるようだ。
年齢、年収、貯蓄額、・・・たんに貯蓄額だけではなく、キャッシュフローも問題だそうな。
付き合っている間に、見極めるのが大事だとか。

バブリーな男性は、結婚向きでないから、やめたほうがいいそうだ。
実際はイケメンなのに、イケメンではない男性がいるらしい。
自信なさげで、どっかの理系の大学院あたりに、ごろごろいるそうな。
もったいない。。。

逆に、イケメンモテ風、というのがいるらしい。
顔はたいしたことがないけれど、モテ風、イケメン風なんだそうだ。
雰囲気、オーラらしい。性格や行動から来るものらしい。
関西でいえば、某私立大学のテニスサークルあたりにいるんだと。
女子高校生向きの雑誌に、憧れの大学生活で紹介されていたらしい。

へ~~~~。

見かけがよくて、中身がよくて、頭がよくて、いい仕事の人は、
なかなか、そこらへんには、ごろごろしていなくて、知り合う機会がないらしい。
そういう人は、学生時代(東大とかなんだろう)に彼女を見つけるのか?
いや、女性に目ざとく見つけられて、早々に、つかまってしまうのだろう。
一級品は、売約済み。
なので、社会人になってある程度の年齢になると、どれかを妥協しないと、相手はいないそうだ。

妥協するのは、見かけと、年収。
妥協できないのは、中身。性格。生活信条。

だらしない人や、怠惰な人、やる気のない人、マイナス志向の人、ダメンズ、・・・
そんな人とは家庭を築き、子供を育てる気にならない。
ある程度、自分も稼がないと、理想ばかりは言えないけれど。

しかし、ある程度、自分が稼ぐと、なにも、気乗りしない相手と結婚する意味がなくて、
結婚に対するハードルが高くなってしまい、モチベーションは低くなってしまう。
だって、自分でお金を稼ぎ、住む家はあり、生活は安定し、じゃあ、
よほど気に入った人でもない限り、今の生活を手放すことはないし。
ダメンズが寄ってくる場合もあるけれど。(事件にもなっていた例がある)

生活の質が落ちるような結婚を望む人は、あまりいないだろう。
全てを捨てて大恋愛の末に。。。なんていう年齢ではないし。

とすると、気の毒なのは男性。
まあ、女性と同レベルであれば、問題はないのだが。
サークルなどで自然に出会えればいいね。
と、他人事なので軽く考える、わたし。

同じようなレベルの人同士が、同じような価値観を持っていて、同じような生活信条だと思うので、
お互い、惨めになることもなく、高飛車になることもなく、
ほどほどの相手とカップルになればいい。

ということで、娘たちのまわりは、まだまだ結婚ラッシュが続いている。

 

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親の顔が見たい

2013-07-15 | 子育て

わたしは、子供がちっちゃい頃、つまり、ベビーカーを使わなければならない頃、
電車に乗ったことがなかった。
田園風景のなか、牛の鳴く横っちょを通ったり、ひとっこ一人いない道を通ったり、
ベビーカーを押して、がたんこ、がたんご、ひたすら一人で歩いていた。

電車に乗って街に出かけるなんてことは、しなかった。
(バスは、あるけれど)
子供を大勢の人々が乗っている電車に乗せるなんて、ストレスのモトだ。

「静かにしなさい」なんていっても、子供は動物レベルで、まだ、日本語は解さないし、
なんにもわかっちゃいない子供に、へんな我慢や苦痛を強いるのは、理に合わないので、
誰に文句も言われない、おもちゃ散らかし放題の家の中や、
だあれもいない公園やら、だあれもいない、そこらへんで遊ばせていた。

だあれもいない、ということは、大人もだあれもいないのであって、
大人であるわたしとしては、非常に、孤独ではあった。
自分は動物のブリーダーみたいに思っていたらいいのかも知れないが、
実際のところ、そうではないので、孤独感をひしひしと感じていた。

が、子供と正面向いて向かう、生真面目な母親ではなかった。
大人が、子供(幼児)相手に、100%合わせるのは、しんどい。
子供の相手を、子供にやらせた。
つまり、子供同士遊ばせた。
こりゃあ楽だわい。
年子がごちゃっと、かたまっているのは、ある意味、保育所みたいなものだ。
子供同士、同世代の遊び相手には、不自由しない。
ただし、大人であるわたしは、ママ友なんぞもなく、
外で大人の声がしたら、大人恋しさに、飛び出していったりしたものだ。

ああ、人間と会話したい~~と、思った。

でも、子供はすくすくと育ち、ぜんぜん遊んでやらなくても、成長した。
わたしは手抜きではあったが、それなりに、孤独でもあった。

朝8時からの民放と、9時半からのNHKの子供番組の時間に用事などを済ませ、
あとは、子供の昼寝時間が黄金時間。
子供といっしょに、自分も楽しむということは、念頭になかった。
なので、いまの若いお母さんたちみたいに(娘を含む)、電車の乗って、
自分が楽しむ欲求を満たす、そして、街が、そのために整備されている、
そういうことに隔世の思い。
街も、エレベーターや授乳室が整い、子育てにやさしい環境が整いつつある。
じつに結構なことだ。
育メンも続出しているし。

ま、時代は変わったということだ。

わたしのように、育メンてなに?と、父帰らずで、八方塞で子育てをしていると、
(帰って来ると手間が増えるので、帰って来ないほうが望ましい)
子育て中に溜まったエネルギーは、かなりなものになった。
これはこれで、わたしの原動力になった。
決してマイナスのエネルギーではなく、プラスのエネルギーとして、後々のわたしの礎になった。

子育て世代で、非常識でダメダメな、感じ悪いママや、パパ、ジジババもいるが、
そうでもない、健気な人たちもいる。(思わず、がんばれ!と、応援したくなる)
そういう人たちを、ひとくくりには出来ない。

・・・
ちなみに、
健康で、時間もあって、ヨレヨレへろへろでもなく、ご高齢でもない、
荷物も持ってない、足にも支障のない、
見た目も、実際も、現実の状況も、なんの問題もない大人の人に言いたい。
2階まで上がるのに(1階上に上がるのに)、エレベーターを使うのはいかがなるものかと。
階段で歩けないのか?

見た目はどうもなくても、わたしのように足が悪い人もいるので、
いちがいに見た目だけで決められないところがある。
(足が悪いのにダンスを恐る恐るするのは、足が悪いと言うのか? 
明らかに、気まま自己基準、勝手な言い分である)

ま、そういう感じ悪い人はさておいて、
問題ない人は、エレベーターで行けばいいのに・・・
ということを言っているような、・・・そんな感想に近い感覚を、
とあるブログを読んで感じた。


なにごともそうであるが、
一概に、ベビーカーが悪いのではなく、
一概に、ベビーカーを折りたたまないのが悪いのではなく、
ぎゅーぎゅー混んでいる時間帯に、
堂々とベビーカーをなんの臆面もなく、無神経に、涼しい顔で、
折りたたまない親、ジジババ一族が、よろしくない、ということである。

がらーんとした電車内ならいいと、わたしは思う。
そして・・・
そんなベビーカー年齢の子供を連れ歩くな、と、おっしゃりたい人もいると思うが、
わたしは、自分が電車に乗せなかったからといって、他の人もそうすべきだ、とは感じない。
自分ができなかったことは、他人もすべきでない、けしからん、とは思わない。
自分ができなかったから、改善できればいい、と考えるほうだ。

ただ、まわりの、まったく子育てに、なんの関心も関わりもない人に対する配慮が必要。
しかし、非常識な、感じ悪い親に対して、過保護にすべきでもない。
自分しか見えない人間には、それなりに、自覚してもらわないと、暖かい手を差し伸べる気にならない。
子育てに死にもの狂いで必死で、いっぱいいっぱいな場合と、単なる自己チューとは違う。

が、子育て真っ最中だと、人のことまで考える余裕がないことも事実。
夫や、ジジババがいっしょなら、プレッシャーや、余裕のなさが軽減されることだろうけれど。
夫やジジババも、同じ環境で育ち、類は友を呼ぶので、
ママと同じような、ありえないような誰もが眉をひそめる自己チュー軍団である場合もあるので、
これまた、ややこしい。

 

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役に立つどころか、厄介者に

2013-07-14 | 暮らし

親と同居している人って、尊敬する。
我が家の両隣は、親の家に、子供一家が同居している。
3軒隣の家も、小学1年ぐらいの子が、つい先日、家に入るのを見かけた。
同じ町内にも、三男一家と同居されているSさんご夫婦がおられる。

娘の子供たちをまとめて面倒見ているかんじの、お隣の元気グランマさん。
娘婿の存在気配は、いっさい伝わってこないが、
こういう娘一家で、お婿さんはマスオさんなら、まだしも、息子の嫁と同居って、たいへんだろう。
奥さんが働いていて、おばあちゃんが孫の世話ヘルプをするパターンが多い。
もう一方の隣家が、こういう息子一家との同居なのだが、
想像するに、おばあちゃんの居室と、息子一家は、廊下を隔てて、少し離れた部屋になっている。
かつては、姑、夫、子供たちと住んでいた家に、今は、一人なので、一人で住むよりも、賑やかでいいんだろう。
また、Sさんのように、上の階と下の階での完全分離世帯住宅にして、光熱費も別々、
ほとんどノータッチのケースもある。
子供一家と同居するため、増改築したりする家が、あちこちに見られるようになった。
ただし、わたしの知っている限りでは、片方の親(おじいちゃん)は亡くなっている。

顔を合わせる時間のずれ、空間のずれ、
そういうのをうまく利用した同居は、そこそこ合理的のようだ。

問題は、限られたスペースでの同居。
これは、顔を突き合せるし、家事など分担といっても、やることが少ないだろうし、
やり方も違うだろうし、もし、主婦が二人とも働いていなければ、
お互いに至近距離で近すぎて目に付くので、イザコザが起こりやすいだろう。

田舎のやたら広い家なら、問題はないが、
別のところに問題がある。
職場から遠すぎて、通勤に不向きだ。
通えば通えなくもないが、そこまで身をすり減らして、時間を削って通う、住む意味があるのか。
仕事を優先できる環境を整えたいと願う。

また、子育てにおいても、環境は大事だ。
自分と同じような考えを持った人が集まる環境に身を置くのが、
いちばん自然体で子供を育てられる。
子供にとっても、親にとっても、環境は欠かせない重要なポイントだ。

親はあくまでも黒衣(くろご)のごとく、子供たちを縁の下から支えるサポートが望ましい。
しゃしゃり出るのも、甘やかすのもよくない。
もちろん、足を引っ張るのはよくない。
手かせ足かせになって、子供の重荷になってはいけない。

なにかの時に、お互いにサポートし合える、そんな位置関係が理想。
一方的に寄りかかったり、寄りかかられたり、べったりは、よろしくない。
時期や状況により、臨機応変に役割を交代できればいい。

お互いの距離感は、住居や生活だけでなく、こころの距離感も大事だ。
そのためには、お互いに、自立していなければならない。
自立は、すぐにできるものでもないし、ずっといつまでも自立を継続できるものでもない。
お互い、こころの支え、最後の砦ぐらいにかまえて、
できるだけ、できるところまで頑張っていきたいものだ。

孫(ベビー)、子供(社会人)、自分(シニア)、親(高齢者)、・・・・
支えたり、支えられたり、の、ちょうど自分は中間にあって、
軸足を決め、どこにでもフットワーク軽く動けるように、スタンバイしたいものである。


・・・と理想を書きつつ、
(あくまでの理想。理想はどんなダメな人でも、誰でも言うことができる)

これは、まだ育児サポートや、介護が本格的に始まっていないから、
できもしない、うわっすべりなことを言っているだけで、
実際、幕が切って落とされたら、いちばん自分が、みんなからのサポートが必要になったりして・・・。
足が痛いだの、どこやらが悪いだの・・・
孫や老親からヘルプの要請を受けても、すぐには動けず、
持病を悪化させて、まだ、なにもお手伝いもしてなくて役にも立ってないのに、
みんなの足手まといになる可能性は、・・・充分ある。

 

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夏の生ゴミは、腐るのが早い

2013-07-12 | 人生

ご近所ブログ以外のブログをちらちら見ていると、
なんだか眠くなってきた。
首かっくん。舟こぎ。

なんでだろ?
あ、きっと、年齢の違い。
なので、興味の対象が違うし、行動も違う。
だから、眠くなるんだろう。

年齢って、大きい。
個性がみんな違うんだから、年齢も関係ない、と言いたいところだが、
いやいや、年齢は、非常に絶対的な要素、影響をもつ。
人生経験や、それにともなう精神年齢もさることながら、カラダの絶対年齢というものは、動きようがない。
肉体!!健康!!
はずすことのできない重要不可欠キーワード。

健やかな精神は、健やかなカラダに宿る。
かといって、病気がちな人が、暗くてだめ、なんて、まったく言っていなくて、
病気の人はほんとうに、その気力、頑張りにはアタマが下がる思い。
生活の芯、軸となる、行動力の原点であるカラダが、自分の思い通りにならないのだから。
こんな苦痛に耐えることは、筆舌に尽くしがたい。


年齢が違うということは、
子供の年齢も、子育ての段階も違うし、親の年齢も違う。
そのあたりで、生活が全然、違う。
なにを中心に回っているかという、軸になるものが違う。
同じように仕事をしていたとしても、
働く意味や、働き方まで違ってくるような気がする。

足腰が動くうちに・・・と、耳年寄りのごとく、多くの人が言っていることを見聞きしていたものの、
知識のうちのひとつとして他人事のように思っていた。
自分のこととして捉える時期が、ほんとうに足音を立てて刻一刻と近づいていると実感する。

こんなキモチは、若い人にはわからない。
ほんの少し前の自分でさえ、ぜんぜんピンときていなかったのだから。

キモチが醸成され飽和状態になり、さあやるぞ!!と、やる気にミチミチあふれてきたというのに、
その段階では、カラダが言うことをきかない。
「ほんと、人間は愚かだね」、と、言うために、神様は出現し、愚かな人間を赦してくれるのか。
はたまた、あざ笑うのか。

はやばやと気付く人は、カラダが動く間に、とっとと計画を立てて、そこそこ満足のいく人生を送っていることだろう。
ただし、強欲にまみれている人(わたしのような)は、どんなに好き勝手しようが、
人生、悔いがなかった・・・と、爽やかに言い切れないだろう。
執念、執着が、たっぷりあることだろう。
自分の「欲」に対しての、執着である。
この際、人なんか、どうでもいい。

あきらめのいい、爽快で、すっきりした、澄み切った秋空みたいに、
目の前にあるであろう黄昏の草木、枯れ枝を眺めていたいものだ。
カサカサ踏むと、壊れ砕け散る枯れ草。
が、それは、無理。
ぬめっ、じとっ、べちゃっとした、何層にも重なり吹き溜まる濡れ落ち葉のごとく・・・だろう。
そして、なんども言うが、対象は他人ではなく、自分。
所詮、わたしは自分のことにしか興味がないのだ。

他人は、自分を確認、認識するため、客観視するための、ツール、測りにすぎない。
なので、羨ましいとか、妬ましいとか、思わない。
わたしより若い人たちは、いずれ、あなた方も同じ道。
わたしよりうんと年上の方々は、・・・うーーん・・・、
ああいうふうにはなりたくないが、あれが現実・・・と、冷静に自分の将来の姿をさらしてくれる。
なかには、あんな枯れ方、そして最善のこの世の去り方をしたいものだと、理想を描くが。

生臭いわたしには、しょせん無理だろうけれど。
腐敗臭がしないように、消臭剤をふりかけようか。

自分の人生の夏はとっくに過ぎているが、
季節が過ぎても賞味期限切れのナマモノを抱え、暑苦しいなか、さ迷っている。
クールな季節が一日も早く来ることを待ち望んでいる・・・
のだが・・・。

暑苦しい・・・。

 

 

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できることしか、しない

2013-07-11 | 日々のこと

介護ヘルパーの一日体験をした。
で、顎を出した。
お下品な言葉では、「KETUWAWI」ともいう。

わたしは、とても介護士にはなれない。
あのような激務をされている方々を、こころの底から尊敬する。

今回、こりごりの体験をさせていただいたご老人は、・・・わたしの実母である。
あの方は、なかなか手ごわい。
元気な頃から、馬車馬(ばしゃうま)状態に、がむしゃらに、馬車馬以上に働くお方で、
体力、気力が、人並みはずれてパワフルなので、労働基準を自分を基にして考える。
なので、あれこれの動き、介護、用事など、赤子でもできるわい、というぐらいの認識しかなく、
次から次へと機関銃のように指令を発してくる。

あれしろ、これしろ、あれをとってこい、これをこっちにやって、あれをあっちにやって、
あーせい、こーせい。あーだ、こーだ。
そーじゃない、あーじゃない、こーじゃない。
あれをあーせいと、言ってるんだ。

全部、いままで自分で、いともカンタンに、日常に鼻歌まじりにやっていたことなので、
彼女の娘であるわたしは彼女より30歳近くも年が若いんだから、
どうしてハードであることがありましょうか、という、ノリ。

自分は、音声指令するのみ。
脳で指令して、自分が動いているような気になっている・・・が、
彼女の手足の代わりになって、動いているのは、わたし。
遠隔操作ロボットみないなもの。
遠隔操作している、当のご本人の身体への介護も、同時に指令する。

日中は、目の前で、ああだ、こうだと注文するが、
夜中、早朝にはナースコールのように、わたしのケータイを鳴らす。
じゃんじゃか、じゃんじゃか、ケータイが鳴る。

あれもこれも、と言われるままに従順に、要求どおりに請け負っていたが、
一日目の日中は、車で別の場所に移動し(歩けないから、身柄を移すのがまた、たいへん)、
数々の所用の注文どおりに動き、そして、その日の夜は、泊まり指示を受け、泊まりでスタンバイ。
だが、翌朝(二日目)、わたしの体が悲鳴をあげた。
ふたつの持病の初期症状が出始めた。

そして、朝に宣言した。
「もう無理。わたしには、明日からの自分がある。
これ以上がんばると、自分の体が壊れるから、今から、オーダーの80%を削減することにする。
必要とみなさないオーダーには、応えないから、そのつもりでね」

そして、本人のオーダーをコントロールすることにした。
優先順位をつけ、重要と思えるものだけを受注。
で、入院準備をどうにかこうにかして、入院予定の日時に病院に当人ごと運び込み、
這う這う(ほうほう)の体(てい)で、病院を後にして、昨日、一目散に逃げ帰ってきた。

そして、深々と、ヘルパーさんを尊敬したというわけだ。

やはり、身内が看るのは、並大抵のことではできない。
そして、ご近所ブログの皆々様(とくに老嬢母君をお世話されている方)の偉業には、
ほんとうにアタマが下がると、こころの底から尊敬した。

しかし、まだ始まったばかり。
初日でギブアップしていては、どうしようもない。

母に、
「あんたの世代は、いちばん力がある、なんでもできるエネルギッシュな年齢。
そんな年から、病気やなんて、年寄りみたいなことを言ってどうする?!」
と、言われたが、

わたしは、じつに申し訳ないが、母よりも、自分の体のほうが大事である。
わたしが体を壊しても、母は、わたしを面倒見てくれない。というか、見れるわけがない。

なので、じぶんの体を犠牲にしてまでも、人には尽くさない。
自分の体が、大丈夫な範囲でしか、がんばらない。
そう自分で考えたわけではなく、体がサインを出してくれたので、とても助かった。
言いにくいので我慢していた、なんてことはなく、
自分から嫌と言えない性格なので、
体からの指令は絶対的なもので、すぱっと言い切れて、わたしには、それのほうがありがたい。

わたしは、まだ、義母の世話も残っているし、孫も子供も、まだまだやることがあるのに、
無理をして倒れていては元も子もない。
 命にかかわるようなことなら、がんばるが、そうでないと見なす範囲では、
オーダーを厳選し、重要と思えないような注文は、却下することにした。

 なので、できることしか、やらない。
文句を言われても、わたしも病気持ち。
弱い体の子(この年になって弱くなったんだけど)を産んだ、母親(自分自身)のせいであります。

 

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