蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

そういう、あなたの子育ては?

2013-07-04 | 子育て

子供を産み育てること・・・。
シングルママは、たいへん。

たった一人では、子育てできない。
もし、やっているなら、ものすごいパワーの持ち主だ。

なぜなら、
例えば、外出時、大きなスーツケースを持ってトイレに行くとする。
スーツケースが大きすぎて、トイレの個室に入らない。
スーツケースを個室のドアのすぐ外に置いて、急いでコトを行わなければならない。

これが、スーツケースの代わり、赤ん坊だとする。
トイレのベビー用のイスには座れないような、首の据わらない赤ん坊。
立て抱きもできない。
横抱きにしたまま、トイレでコトを行うのは、けっこう、たいへんだ。
和式だったりすると、どうする?

ベビーベッドのあるトイレを足をくたくたにして探し当て、
ベビーベッドの上に放置したまんま、コトを行わなければならない。
出てきた時に、いなくなっていたり、誰かにイタズラされたり、という恐怖と背中合わせ。


電車の中も、そう。
ベビーカーを昼間時間に持ち込むのなら、まあいい。
通勤時にさしかかると、周囲のすごい無言の圧力。
ベビーカーを折りたたみ、抱っこするとする。
電車の中で、首は据わってないけれど、やたら思いベビー、ずるずると手からずり落ちそう・・・
でも、ずっとずっと立ったまま。

「すみません。あまりにも手がだるくて・・・。すみませんが、一瞬、持ってもらえませんか?」
と、限界に達して、隣に立っている人にベビーを頼むことになる。
隣の人は、「は?」となる。
座席のまん前に立っているなら、誰か席を代わってくれるだろうけれど、
人がいっぱいいる、人と人のおしくらまんじゅう、サンドイッチ、真ん中に立っていたら、
座席からは見えない。

昨日、電車の中で、ふと、ああ、わたしなら、どうするかなあ・・・
とアタマの中でシュミレーションしてみた。
限界が来たら、ベビー、床に置くわけにもいかないし・・・

自分の腕が、むくむくと筋力がついていくのが、若い頃。
限界レベルを押し上げていく。
しかし、ある程度の年になると、限界が来たら、限界を押し上げるのではなく、限界に負ける。
腕がへなへなとなる、トラブルを起こし、故障する。
なので、子育ては、若いうちのほうがいい。

仮に、自分が、緊急のサポートで、ベビーをどこかに連れて行かなければならなくなったとしたら、
ああ、どうしよう・・・
腕は、べきべきペキペキ震え、冷や汗は、たらたら・・・周囲は、気の毒がってくれ・・・
トイレにも行けず・・・

・・・

周囲に黙っていて、こっそり子供を産んだ場合、
近隣に子供の声が聞こえないよう、びくびく。
絶対に知られたくない、と固く思ったとしても、
生まれたばかりだと、近所の人が通ったり、回覧板を持ってきたり、来訪したり、
そういう時には、ベビーの声がしないよう、必死。
すぐ近くに敵の気配を察する防空壕の中で、ひっそり息を殺すかのごとく。
まあ、これは、世間にシングルママであることを隠している場合だが、
いつまでも隠し通せるものではない。

子供は病気もするだろうし、
シングルマザーでワーキングマザーなら、働くだろうから、保育所に預けなければならないし。
外の社会の目に触れさせずに子供を育てることは至難だ。

親元で暮らすなら、生活費は実家持ちかも知れないが。
ついでに、育児もサポートしてもらえるだろう。
が、親が、シングルマザーの娘と、仲良く暮らし、ニコニコと気持ちよくバックアップをするかどうか、だ。
嘆き、憐れみ、怒り、自己嫌悪、将来への不安、などなど・・・
いくら、さばけた、時代の流れを把握する、ものわかりのいい親を演じようとしても、
ああ、こんな子に育てた覚えはない、と、くどくど、うつうつ思うかも知れない。
自分が助けてやらなければ、どうしようもない、
と、吹っ切れて、がんばってサポートする展開も考えられるが、
我が子(=シングルマザー)の生き方が、どんな真剣で、真面目で、努力しているか、などなど・・・
胸を打つものがあるかどうか、そのあたり、大きく影響する。

実家暮らしのシングルマザーで、ものすごい遊び人である娘と、超・放任親(お金持ち)が巻き起こした、
普通の感覚では想像できないようなネグレクト事件があったことを思い出す。
あんなのは、論外だろうけれど。

 

・・・・

つまり、シングルマザーが、たった一人で、子供を育てるのは、いかに困難か、ってことだ。
精神面でも、物理面でも、(ハード面でも、ソフト面でも)、バックアップなしでは、やっていけない。
たいしてなにも考えずに、安易にシングルマザーになった、未熟な女性が、
同じように似たようなデキの悪い同居人とビジョンや計画もないまま、だらだらと暮らし、
子供を虐待したりして、事件になっている。


子供を育てたことのない人は、かんたんに子育てを論じられないと思う。
かつてのわたしの職場に、20代後半、未婚、子供なしの女史がいて、
既婚、子育て真っ最中、子供の悩みを抱える30代中半スタッフに、
机上の子育て指導をしていて、(しかも浅く薄い、誰でも知っているような当たり前のこと)
わたしは、こころの底から、驚いて呆れて、ひっくり返った。
なんの経験も勉強もしていない(専門でもなんでもない)、興味も関わりもない彼女が、
よくまあ、人生の先輩に、どの口でアドバイスしているのだろうと。

もし、人の子育てを非難したりすることがあるのなら、
明らかに親の怠慢で、子供を死なせたり、ネグレクトしたり、虐待したり、
だれが、どう見ても、社会的に道徳的に、間違っている場合だろう。
単なる価値観の違いだとすると、人の子育ては、非難できないと思う。

ただし、汚いよりキレイほうがいいだろううし、不味いより美味しいほうがいいだろし、
バカより賢いほうがいいだろうし、不細工より可愛いほうがいいだろう。
しかしそれは、個人の資質レベルの比較ではない。
部屋を汚くするよりはキチンとしたほうがいいだろうし、
料理も、果てしなくひどいよりは、そこそこの栄養の偏りがないものがいいだろうし、
よほどの大天才であったとしても、まったく勉強しないよりは、学習習慣を身につけさせるほうがいいだろう。

そういう目で見た場合、どうかと思うなあ・・・と感じることはあるだろう。
親が納得していれば、すべてよし、「ほっといてよ!」ということだろうけれど、
いくら親が納得していても、見るに耐えかねるとすると、自分の感想、意見を述べるだろう。

で、人の子育てを非難する人は、自分の信念が貫き通されていて、
どこの誰に対しても、正々堂々と、自分の子育てをなんの非もなく、胸を張って
素晴らしい子育てだと自他共に認めている、
特別に優秀で秀逸、人並みはずれた偉人であると、わたしは信じて疑わない。

偉人伝を読んでも、立派な人のお母さんの言葉を聞いても、
本音かどうかは知らないが、みなさん、謙虚である。
「わたしの母は、素晴らしい母で、感謝している」、というのは聞いたことはあっても、
「わたしの子供は、素晴らしい、わたしの子育てのおかげだ」と力説している人は、あまり知らない。
仮に、子供が偉業を成し遂げたとしても、親は、
「わたしたちには、過ぎた子供です」と謙遜されている。
(なかには、自分の成果を主張する親もいるようだが。
だが、子供は親とは、別個の人格を持つ)

逆に、完璧な子育ては、子供をダメにする。

親も子も、どんなにデキが悪かろうが、みなさん、それぞれに、プライドは持っていると思う。
よほど反社会行為でもない限り、それを否定する権利など、なん人たりともないはずだ。

しかし、各人、各家庭、子育ての方針というものは、あると思う。

ゆとり教育とか、のびのび教育、はたまた、英才教育とか、スパルタ教育とか、
どれかをイチオシ、推進したいために、どれかを非難する、なんていうのもあり得る。

・・・・・

 

と、文字数ばかり、増やして、どうするの、わたし?

いったい、なにが、したいんでしょうねえ・・・。

 

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