蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

子育て

2013-07-01 | 人生

子供のこと、書いてみようかな、とふと思う。

幼い声が、まだ耳に残っている、息子。
いまは、遠く離れて住んでいるが、
彼にとって、実家離れ、親離れ、自分探し、人生の道探しの時期だと、わたしは思っている。
糸の切れた凧のごとく、飛んでいってしまうのか、はたまた、・・・??

息子は、生まれる前から誕生を待ち望まれ、生まれたその瞬間から、熱く喜ばれ、
無条件に強烈に愛された。
娘たちも愛されたが、特に、義父の、息子(=孫)に対する可愛がりようは、なかなかのものだった。
親よりも、じいちゃんのほうが、ずっとずっと可愛がっていた。

かといって、甘やかせて、スポイルすることはなかった。
息子(=孫)に、家の行事のやり方を、義父は直接、教えていた。
息子は、教わった内容を、絵や説明文に書き残していた。

息子が遠くに行って、滅多に帰ってこれなくなった近年では、
年末に、わたしたち(義母と)が、息子のメモを見ながら、見よう見まねで、やってみた。
義父から息子(=孫)へ、家での男の役割を伝えた。
本来は、義父→夫→息子というのが正しい順序であると思うのだが、
夫を抜かしている(スキップしている)ことは、わたしは、腹立たしく苛立つ。
が、いいことばかり、100点満点ばかりを求めても、つまらない。
少しずつ、足していけばいい。

息子(=孫)の成長を楽しみにしながら、義父は他界した。


わたしの父は、自分の息子ばかりに重きを置き、わたしたち娘(女の子)は、眼中になかった。
女の子は、いずれ嫁に行くもの、可愛がってもしかたない、と、いつも言っていた。
わたしの子供たちは、外孫にあたるし、滅多に訪れなかったので、父には、なつかなかった。
昔人間である、厳格な父は、孫だからと目じりを下げることもなく、距離感があった。
が、父は決して冷たい人間ではないことをわたしはよく知っている。
うまく、子供たち(=孫たち)と理想的なコミュニケーションを取れなかった原因のひとつに、
わたしの努力のなさ、力の至らなさもある。

父も、子供たち(=孫たち)の将来を夢見る前に、この世を去った。


で、かんじんの親である我々は、育てることに必死だった。
アタマの古臭い古典夫は、家事、育児、子育て、家のこと、すべてはわたしに任せっきり。
そういう夫とわかっていて結婚したのだから、そんな夫を選んだわたしは、やるしかなかった。
そうとなれば、役割分担を徹底した。
義母、義父も喜んで大いに参加してくれた。
感謝して余りある。

末子が幼稚園に入った瞬間、わたしは第一次子育てから解放された。
自分で決めた。自分を解放した。
その後は、子育てと、自分育てを同時進行した。

子供たちも自立し、自分の子育てを振り返ると、光陰矢のごとし。
われわれの親たちからの、熱い、たっぷりの愛情を注いでもらったおかげで、今日がある。
とくに、子育ての指針は、親の影響大である。
同時進行の自分育ては、さてさて、どうなったやら・・・?


わたしは、知らず知らずに、
あんなに嫌っていた、煙たがっていた親たちの生き方を踏襲しようとしている。
ただし、時代に対応させ、自分流の方法で。
なにも言わなくても、長い間に、伝わるものである。

さて、息子や娘たちは、どういう道を行くのか。
遠くから、あるいは、近くから、見守っていきたい・・・というものの・・・
わたしの生き方を背中から見ていることだろうと思うと、非常に複雑な心境になる。

 

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