枕草子 第九十八段 雨のうちはへ降るころ
雨のうちはへ降るころ、今日も降るに、御使にて、式部丞信経まゐりたり。
例のごと、褥さし出でたるを、常よりも遠く、おしやりて居たれば、
「誰が料ぞ」
といへば、笑ひて、
「かかる雨に、のぼりはべらば、足形つきて、いと不便にきたなくなりはべりなむ」
といへば、
「など、洗足料紙にこそはならめ」
といふを、
「これは、御前に、かしこう仰せらるるにあらず。信経が、足形のことを申さざらましかば、得のたまはざらまし」
と、かへすがへすいひしこそ、をかしかりしか。
(以下割愛)
雨がとりわけひどく降るころ、今日も降るのに、天皇の御使いとして、式部の丞信経(紫式部の従兄に当たる人物で、清少納言より三歳ほど年下)が中宮様のもとに参上して来ました。
いつものように敷物を差し出しましたのを、ふだんより遠くへ押しやって座っているので、
「誰が使うものですか」
と私が言いますと、笑って、
「こんな雨の時に敷物に上がりましては、足の跡が付いて、大変不都合で汚くなってしまいます」
と言うので、
「どうしてですか。足拭き紙ぐらいにはなりましょうに」
と言うのを、(洗足と氈褥[センゾク・毛皮などの敷物]とを掛けた洒落らしい)
「この洒落は、あなたが、うまくおっしゃったのではない。信経が足の跡のことを申しませんでしたら、とてもおっしゃれなかったでしょう」
と、繰り返し繰り返し言うのが、とても可笑しかった。
「ずっと昔のことですが、中后の宮(村上天皇の中宮、藤原安子)に、ゑぬたきといって名高い下仕えの者がおりました。
美濃守在任中に亡くなった藤原時柄が蔵人であった時に、この下仕えたちがいる所に立ち寄って、『これがあの名高いゑぬたきか。どうして、そんなに「高く」は見えないのだ』と言ったのに対する、ゑぬたきの返事に、『それは時柄(その時次第)で、低く見えるのでしょう』と言ったというのは、『わざわざ競争相手を選び出しても、こんな呼吸の合った相手はめったになかろう』と、上達部・殿上人まで、洒落たものだとして評判なさったそうです。
それもそうでしょうね。今日までこう言い伝えられているのですから」
と式部の丞にお話しました。
すると式部の丞は、
「それもまた、時柄が、言わせたとみていいでしょう。何だって、まずは出題次第でしてね、詩も歌もうまく出来るものです」と言うので、
「なるほど、そういうこともあるのでしょうね。それでは、私が題を出しましょう。歌をお詠み下さい」と言いました。
「それは大変結構なことですね」と言うので、
「一つではつまらないので、同じするのなら、たくさん題を差し上げましょう」
などと言っているうちに、中宮様からの天皇への御返事が出来てきましたので、それをしおとばかりに、
「ああ恐ろしや。逃げて帰ります」
と言って、出て行ってしまったのを、
「とても、漢字も仮名も下手なのを、人が笑い物にするので、避けているのですよ」と、女房たちが言うのも可笑しい。
式部の丞が作物所の別当をしていたころ、誰の所に送った手紙であろうか、何かの絵図面を届けるというので、
「こんなふうに作って差し上げよ」
と書いてある漢字の書風や字体が、世にもまれなほどに下手くそなのを見つけて、
「この指図通りにお作りしたら、さぞかし異様な物が出来上がることでしょう」と書き添えて、殿上の間に届けたので、人々がそれを手にして、ひどく笑ったらしいので、式部の丞は大変立腹して、私のことを憎んだことでしょう。
この時代、洒落や機転などの優劣がかなり重視されていたようです。
そのあたりの才能は少納言さまの最も得意とするところだったことでしょう。
本段でからかわれている式部の丞は、少納言さまの三歳ほど年下で、日頃から気安い付き合いがあったからこそ、このようなやり取りが出来たのだと思うのですが、悪筆の私としましては式部の丞に同情してしまいます。
雨のうちはへ降るころ、今日も降るに、御使にて、式部丞信経まゐりたり。
例のごと、褥さし出でたるを、常よりも遠く、おしやりて居たれば、
「誰が料ぞ」
といへば、笑ひて、
「かかる雨に、のぼりはべらば、足形つきて、いと不便にきたなくなりはべりなむ」
といへば、
「など、洗足料紙にこそはならめ」
といふを、
「これは、御前に、かしこう仰せらるるにあらず。信経が、足形のことを申さざらましかば、得のたまはざらまし」
と、かへすがへすいひしこそ、をかしかりしか。
(以下割愛)
雨がとりわけひどく降るころ、今日も降るのに、天皇の御使いとして、式部の丞信経(紫式部の従兄に当たる人物で、清少納言より三歳ほど年下)が中宮様のもとに参上して来ました。
いつものように敷物を差し出しましたのを、ふだんより遠くへ押しやって座っているので、
「誰が使うものですか」
と私が言いますと、笑って、
「こんな雨の時に敷物に上がりましては、足の跡が付いて、大変不都合で汚くなってしまいます」
と言うので、
「どうしてですか。足拭き紙ぐらいにはなりましょうに」
と言うのを、(洗足と氈褥[センゾク・毛皮などの敷物]とを掛けた洒落らしい)
「この洒落は、あなたが、うまくおっしゃったのではない。信経が足の跡のことを申しませんでしたら、とてもおっしゃれなかったでしょう」
と、繰り返し繰り返し言うのが、とても可笑しかった。
「ずっと昔のことですが、中后の宮(村上天皇の中宮、藤原安子)に、ゑぬたきといって名高い下仕えの者がおりました。
美濃守在任中に亡くなった藤原時柄が蔵人であった時に、この下仕えたちがいる所に立ち寄って、『これがあの名高いゑぬたきか。どうして、そんなに「高く」は見えないのだ』と言ったのに対する、ゑぬたきの返事に、『それは時柄(その時次第)で、低く見えるのでしょう』と言ったというのは、『わざわざ競争相手を選び出しても、こんな呼吸の合った相手はめったになかろう』と、上達部・殿上人まで、洒落たものだとして評判なさったそうです。
それもそうでしょうね。今日までこう言い伝えられているのですから」
と式部の丞にお話しました。
すると式部の丞は、
「それもまた、時柄が、言わせたとみていいでしょう。何だって、まずは出題次第でしてね、詩も歌もうまく出来るものです」と言うので、
「なるほど、そういうこともあるのでしょうね。それでは、私が題を出しましょう。歌をお詠み下さい」と言いました。
「それは大変結構なことですね」と言うので、
「一つではつまらないので、同じするのなら、たくさん題を差し上げましょう」
などと言っているうちに、中宮様からの天皇への御返事が出来てきましたので、それをしおとばかりに、
「ああ恐ろしや。逃げて帰ります」
と言って、出て行ってしまったのを、
「とても、漢字も仮名も下手なのを、人が笑い物にするので、避けているのですよ」と、女房たちが言うのも可笑しい。
式部の丞が作物所の別当をしていたころ、誰の所に送った手紙であろうか、何かの絵図面を届けるというので、
「こんなふうに作って差し上げよ」
と書いてある漢字の書風や字体が、世にもまれなほどに下手くそなのを見つけて、
「この指図通りにお作りしたら、さぞかし異様な物が出来上がることでしょう」と書き添えて、殿上の間に届けたので、人々がそれを手にして、ひどく笑ったらしいので、式部の丞は大変立腹して、私のことを憎んだことでしょう。
この時代、洒落や機転などの優劣がかなり重視されていたようです。
そのあたりの才能は少納言さまの最も得意とするところだったことでしょう。
本段でからかわれている式部の丞は、少納言さまの三歳ほど年下で、日頃から気安い付き合いがあったからこそ、このようなやり取りが出来たのだと思うのですが、悪筆の私としましては式部の丞に同情してしまいます。