雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

五月の御精進のほど・・その1

2014-11-16 11:04:12 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第九十四段  五月の御精進のほど・・その1

五月の御精進のほど、職におはしますころ、塗籠の前の二間なるところを、殊にしつらひたれば、例ざまならぬも、をかし。

朔より、雨がちに曇りすぐす。
「つれづれなるを。郭公(ホトトギス)の声、たづねにいかばや」
といふを、
「われも」
「われも」
と、出で立つ。
          (以下割愛)



五月のご精進の間、中宮様が職の御曹司においでであった頃、塗籠の前の二間を、特別に部屋飾りをしてあるので、いつもと様子が違っているのも、趣きがあります。

月初めから雨がちで曇天の日が続く。
「退屈だわねぇ。ほととぎすの声を探しに行きましょうよ」
と私が言いますと、
「私も」
「私も」
ということになり、そろって出発しました。

「賀茂の奥に、何とか崎とかいいましたね、織女星の渡るかささぎの橋ではなくて、感じの悪い名前が付いていましたよね。そのあたりで、ほととぎすが鳴くのよ」と誰かが言うと、
「それは、ひぐらしですよ」と言う人もいる。
「そこへ行きましょう」ということになり、五日の朝に、中宮職の役人に、牛車の手配を頼み、北の陣を通って、「五月雨の時は、車を入れても咎められない」ということで、職の御曹司の階際に車をつけさせて、四人くらいが、それに乗ってゆく。
残った女房はうらやましがって、
「いっそ、もう一台仕立てて、同じことだから連れて行って」などと言うと、
「駄目ですよ」と中宮様が仰せになるので、こちらは他の人の言葉は耳にもとめず、薄情なふりをしてさっさと出掛けていくと、馬場(ウマバ)というところで、人が大勢で騒いでいる。

「何をしているのか」とたずねると、
「駒射(ウマユミ)の演習があって、弓を射るのです。しばらくご見物なさって下さい」と供の者が言うので、車をとめました。
「左近の中将殿、お二人とも来ておられる」と人々が言っているが、そういう人も見えない。六位の役人などが、あちこちうろうろしているので、
「見たくもないことよ、さっさと行きなさい」と言って、どんどん走らせる道中も、賀茂祭の頃が思い出されて、懐かしい。

このように話している所は、明順の朝臣(中宮の伯父に当たる)の家だったのです。
「そこも、早速寄りましょう」と言って、車を寄せて降りました。
田舎風で、閑散としていて、馬の絵を描いてある衝立障子、網代屏風、三稜草の簾など、わざと古風な造りを模している。
建物の様子も簡素な風で、全体が渡り廊下のように奥行きがなく、貧弱ではあるが趣のある家で、なるほど、「うるさい」と思うほどに鳴き合っているほととぎすの声に、
「残念なことね。中宮様にお聞かせ出来ないし、あんなに来たがっていた人たちにも」と思う。

「場所が場所だから、こうしたことを見るのがいいよ」
ということで、稲というものを取り出して、若い下層の女たちの、小ざっぱりしたその辺の娘などを連れてきて、五、六人で稲こきをさせ、また見たこともないくるくる回る機具を、二人がかりでひかせて、歌をうたわせなどするのを、珍しくて楽しみました。そのため「ほととぎすの歌を詠もう」と思って来たことを忘れてしまっていました。
唐絵に描かれているような食卓を使って、ご馳走してくれたのですが、誰も見向きもしないので、家の主人の明順は、
「いかにも田舎風な料理です。けれども、こんな田舎へ来た都の人は、うっかりすると、主人が逃げ出しそうなほど、お代わりを催促して召し上がるものですよ。全然手つかずなんて、都の人らしくないですよ」などと言って、座を取り持って、

「この下蕨は、私が自分で摘んだものです」などというので、私が、
「だって、ねえ、女官なんかのように、食卓にずらっと並んででは、とても」と笑うと、(身分の低い女官は局住まいではなく、大部屋で食卓に並んで食事をしたらしい。局を持っている女房たちには気に入らなかったのでしょう)
「それなら、食卓から下ろして召しあがれ。いつものように、腹這いに慣れていらっしゃるあなた方ですから(身分の高い女房は、その服装からも、気楽にしている時は腹這いに近い姿勢だったらしい)」などと、あれこれ食事の世話で騒いでいるうちに、供の者が、「雨が降ってきました」と言うので、私たちは急いで車に乗ろうとしましたが、その時女房の一人が、
「ところで、肝心のほととぎすの歌は、ここで詠まなくてはね」と言うので、私は、
「それもそうだけれど、帰り道ででも詠めるわ」などと言って、皆車に乗ってしまいました。

花が、みごとに咲いているのを折って、車の簾や脇などに差し、それでもまだ余るので、車の屋根や棟などに、長い枝を屋根を葺いたように挿したので、まるで「卯の花の垣根を牛にひかせているのか」といった風に見えました。
供をしている男たちも、大笑いしながら、「ここがまだだ」「ここがまだだ」と、皆で挿し合っているのです。
「誰かしかるべき人に出会いたい」と思うのですが、いっこうに会えず、身分の低い法師や、下層の者だけが、たまに出会うくらいなのが、とても残念で、御所近くまで来てしまったけれど、
「いくら何でも、このままで終わらせるような風情ではないですよ。誰かに噂を広めさせずにはおかれませんよ」と言うことで、一条殿のあたりに車を止めて、
「侍従殿はおいでになりますか。ほととぎすの声を聞いて、今帰るところでございます」と言わせに行かせた使いが帰ってきて、
「『すぐに参ります。どうかしばらくお待ちください』とおっしゃっておいでです。侍所に裸でいらっしゃいましたが、慌てて起きて、指貫をお召しでした」と言う。
          
          (以下は、その2に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五月の御精進のほど・・その2

2014-11-16 11:02:01 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          (その1からの続き

「待っている必要なんかないわ」
というわけで、車を土御門の方へ走らせると、侍従(故一条太政大臣藤原為光の六男公信、二十二歳、従五位下)はいつの間に装束を着けたのか、帯は道々に結んで、「しばらく・・・、しばらく」と言いながら追って来る。供の侍も三、四人ばかり、履物もはかないで走って来るようです。
「もっと早く走らせなさい」と、いっそう急がせて、土御門に到着したところへ、息を切らせながら追いついてきて、私たちの車の格好を見て、たいそうお笑いになる。
「生きている人間が乗っているとはねぇ、とてもそうは見えない。まあ、車から降りて見て御覧なさい」などとお笑いになるので、供をして走っていた人たちも一緒に面白がって笑う。

「歌はどうでしたか。それを伺いましょう」とおっしゃるので、
「これから、中宮様のお目にかけて、そのあとで」などと話しているうちに、雨が本降りになってしまった。
「『どうして他の御門のようではなく、土御門に限って、屋根もなく作り上げたのだろう』と、今日のような日はとても憎らしい」などと言って、侍従殿は、
「どうやって帰ろうというんだ。ここまでは、『とにかく遅れまい』と思っていたので、人目もかまわず走って来られたが、これから先は実に不様なことだ」とおっしゃるので、
「さあ、いらっしゃいませ、宮中へ」と言いますと、
「烏帽子でなんか、どうして参れましょう」
「冠を取りに、使いをおやりなさいませ」
などとやりとりしているうちに、雨もいよいよ強くなってきたので、かぶり笠もないこちらの供の男たちは、さっさと車を門内に引き入れてしまう。
侍従殿は一条の邸から大傘を持ってきているのをささせて、振り返り振り返りしながら、今度はのろのろと億劫そうで、卯の花の一枝を手に持っていらっしゃるのも、滑稽です。

そうして、中宮様のもとに参上しますと、今日の様子などをお尋ねになられる。一緒に行けずに恨んでいた人たちは、嫌味を言ったり情けながったりしながらも、藤侍従が一条の大路を走った時の話になると、皆笑い出してしまいました。
「それで、どうなったの、歌は」
とお尋ねになられるので、「こうこうでございます」と申し上げますと、
「情けないことねぇ。殿上人などが耳にしたら、どうして、しゃれた歌の一つもなくてすませるというの。そのほととぎすを聞いたという所で、さっと詠めばよかったのに。あまりに慎重になり過ぎたのは、感心できない。さあ、ここででも詠みなさい。本当にしようのないこと」
などと仰せになるものですから、「もっともだ」と思うにつけても、実につらいことですよ・・・。

歌の相談などしている時に、藤侍従が、先ほど持ち帰った卯の花の枝につけて寄こした、卯の花がさねの薄様に歌が書いてある。ただ、この歌は覚えていません。
「この歌の返事をまずしよう」ということで、硯を取りに自室に使いをやると、中宮様が、
「ともかく、これを使って早く返事をしなさい」と言って、御硯箱の蓋に紙など入れてお下しになられたので、
「宰相の君(同行した中の上臈女房)、お書き下さい」と私が言いますと、
「やはりあなたが」などと言っているうちに、空を真っ暗にして雨が降って、雷もひどく恐ろしく鳴り出したので、怖さに何も分からず、ひたすら恐ろしさにまかせて、御格子を大慌てでお下ろしして回っているうちに、歌の返事をすることも忘れてしまいました。

大変長い間雷が鳴って、少しやむ頃には日が暮れて暗くなってしまっている。
「今すぐ、何とかしてこの返歌を差し上げよう」ということで、返歌に取りかかっていますと、上臈女房や上達部などが、雷のお見舞いに中宮様の御前に参上なさったので、西の廂に出て、応対の座についてお相手を勤めているうちに、歌のことは取り紛れてしまいました。
他の女房たちもまた、
「名指しで歌を貰った人が、返歌すべきだ」ということで、手を引いていた。
「やはり、どうも歌には縁のない日なんだろう」と落胆して、
「こうなっては、めったに『ほととぎすを聞きにいった』ということさえ、あまり人に聞かせないようにしましょうよ」などと言って笑う。

「たった今でも、どうして、出掛けた人たち皆で詠めないというのか。けれど、『歌は詠むまい』と思っているのであろう」と、中宮様が御不快そうな顔つきでいらっしゃるのも、とても可笑しい。
「そうは申しましても、今となっては、時機を外して興ざめになってしまっています」と申し上げる。
「興ざめだなどと言えることですか。とんでもない」などと仰せになられましたが、それなりで終わってしまいました。

(以下はその3に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五月の御精進のほど・・その3

2014-11-16 11:00:56 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          (その2からの続き)

二日ほど経って、その日のことなどを話していると、宰相の君が、
「どうでした、『明順の朝臣自ら摘んだ』と言っていた下蕨の味は」と言われるのを中宮様がお耳になさって、
「思い出すことといったら、食べ物の話だなんて」とお笑いになられて、お手元に散らかっている紙に、
  『下蕨こそ恋しかりけれ』
とお書きになられて、
「上の句をつけなさい」と仰せになるのが、とても可笑しい。

  『郭公(ホトトギス)たづねて聞きし声よりも』
と書いて差し上げましたところ、
「随分厚かましいことね。それにしても、食い意地が張っていても、ほととぎすにこだわったのは、やはり気にかかっていたのね」とお笑いになるのも恥ずかしい思いでしたが、
「いえもう、私が『歌は詠みますまい』と思っておりますのに、晴れがましい場所などで、他の人が詠みます時にも、私に『詠め』などと仰せになりますなら、とてもいたたまれない気持ちがいたします。といいましても、まさか、歌の字数も知らないとか、春には冬の歌、秋には梅や桜の花などを詠むことはございませんが、けれども、『歌を詠む』と言われた者の子孫は、少しは人並み以上に詠めて、『あの時の歌は、この者が優れていたとか』『何といっても、誰それの子なのだから』などと言われてこそ、詠みがいのある気持ちもすることでしょう。全然、取り立てて才能があるわけでもないのに、いっぱしの歌のつもりで『私こそが元輔の子だ』と思っているかのように、得意気に真っ先に詠み上げますのは、亡き人(祖父清原深養父、父清原元輔を指す)にとっても可哀そうなことでございます」
と、真剣に申し上げましたので、お笑いになって、
「それならば、一切そなたの心にまかせよう。私からは『詠め』とは言うまい」と仰せになられるので、
「とても気分が楽になりました。もう、歌のことは気に致しません」
などということがありました頃、
「中宮様が庚申をなされる」ということで、内大臣殿は、大変心を配って御用意されていらっしゃいました。
(庚申の夜は、眠ると悪虫が体内に入って害をなすので、眠らずに夜を明かすという道教の信仰行事があった)

次第に夜が更けてきた頃、題を出して、女房にも歌をお詠ませになる。
皆緊張し、苦心して歌をひねり出すのに、私は中宮様の近く侍して、何かお話申し上げなどして、和歌とは関係のないお話ばかりしているのを、内大臣殿が御覧になって、
「どうして歌を詠まないで、むやみに離れて座っているのか。題を取れ」とおっしゃって題を下さるのを、
「そうする必要はないというお言葉を承りまして、歌は詠まないことになっておりますので、考えても居りません」と申し上げる。
「異な事だな。まさか、そのようなことはございますまい。どうして、そのようなことをお許しになられるのです。とんでもないことです。まあよい。他の時はどうでもよいが、今宵は詠め」
などとお責めになられますが、きっぱりと聞き入れもしないで御前に控えていますと、他の人たちは皆歌を作って出して、良し悪しなどを評定なさっている間に、中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、私に投げてお寄こしになられました。見てみますと、

  「元輔が後といはるる君しもや 今宵の歌にはづれてはおる」

とあるのを見るにつけ、その可笑しさはとても辛抱できないほどです。私が、ひどく笑ってしまったものですから、
「何事だ、何事だ」と内大臣殿もお尋ねるになる。 

「『その人の後といはれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし』
遠慮することがございませんのなら、千首の歌だって、たった今からでも、出てまいることでございましょうに」
と申し上げました。


長い章段ですが、文脈としてはそれほど難しくないように思われます。
同時に、いくつかの疑問を示してくれている、ともいえます。

一つは、「どうも退屈だから、ほととぎすを聞きに行こう」と思い立ったからといって、簡単に公の牛車を使って、仲間だけで出掛けることが出来たのでしょうか。いくら中宮の口添えがあったとしてもです。
二つ目は、「明順の朝臣」や「藤侍従」との、やりとりです。
出掛けて行ったのは四人の女房と何人かの従者だと思うのですが、少納言さまたち一行が相当上位にあるように感じられます。
四人の女房のうちの一人、「宰相の君」は上臈女房で、少納言さまは中臈女房に当たると思われますが、好き勝手に振る舞っているように見えます。
中宮の権威がそれだけ絶大であったという証左かもしれません。

さらに、少納言さまが残された和歌の数が極めて少ない理由の大きな原因の一つとして、この章段の経緯が挙げられています。本当にそうなのでしょうか・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする