雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

これや限りの

2019-11-15 08:19:32 | 新古今和歌集を楽しむ

     逢ふことは これや限りの 旅ならん
                草の枕も 霜枯れにけり 


                    作者  馬内侍

( No.1209  巻第十三 恋歌三 )
                 あふことは これやかぎりの たびならん
                            くさのまくらも しもかれにけり



* 作者は、平安時代中期の宮廷女房、女流歌人である。生没年は不詳とされるが、( 949 - 1011 )とする書もある。いずれにしても、村上天皇の御代から一条天皇の御代にかけての平安王朝の絢爛期に活躍した女性であることは確認できる。

* 歌意は、「 あなたと逢うことは これが最後となる 旅なのでしょうか 草の枕も 別れを暗示しているように 霜で枯れてしまっています 」と、何とも切ない歌である。なお、「枯れ」は「離(カ)れ」との掛詞になっている。
この和歌の「前書き(詞書)」には、「 左大将朝光(アサテル)、久しうおとづれ侍らで、旅なる所に来あひて、枕のなければ、草を結びてしたるに 」とある。「旅なる所」は、旅先でといった意味。
旅先で出逢った朝光(アサテル・藤原氏)は、後に関白太政大臣になった人物である。和歌そのものは切なさを感じさせるが、前書きと合わせてみると、何とも妖艶で、馬内侍の華麗な生涯の一端が窺える和歌のように思われる。

* 馬内侍の父は、源時明(ミナモトノトキアキラ・左馬権頭、播磨守)の娘であるが、実父は時明の兄の致明というのが定説らしい。いずれにしても、中級貴族の出自である。
最初、村上天皇の女御・徽子女王に仕え、円融天皇中宮媓子、賀茂斎院選子内親王、円融天皇女御東三条院詮子などに仕えたあと、一条天皇中宮(皇后)定子に仕えている。出仕先については異説もあるようだが、選子内親王に仕えていた頃に「うま」と呼ばれていたらしい。これは、おそらく父の官職からきているものと推定される。そして、中宮定子に仕えている時に掌侍(ナイシノジョウ・内侍司の判官。従五位相当とも。)に任じられ、馬内侍、中宮内侍と呼ばれるようになったという。

* 多くの女御・中宮や内親王に仕えたとされているが、歌人としては評価が高かったが、それだけではない有能な人材であったようだ。当時の代表的な文化人との交流も多かった。
さらに、多才なだけでなく、掲題歌にある藤原朝光をはじめ、藤原伊尹(右大臣)、藤原道隆(摂政・関白)、藤原道兼(関白)等との恋愛関係が伝えられており、華やかな宮廷生活を送ったと推定される。

* 馬内侍が生きた時代は、藤原氏の全盛期にあたり、平安女流文学の絶頂期にも重なる。絢爛豪華な王朝文化は、わが国の歴史全体を通じてもその華やかさは突出していたのではないだろうか。
馬内侍は、多くの有能な女房が集った中において、中宮定子に仕えていた時は掌侍という上流女房の地位にあり、清少納言や紫式部などとはかなり上級職の女房であった。
また、その華やかな恋愛遍歴から想像するに、和泉式部には及ばないまでも、美貌という面でも超一流の女性であったと思うのである。

* 晩年は、出家して宇治院に住んだと伝えられている。
最後に仕えた中宮(皇后)定子は、中関白家の没落に加え、二十五歳で逝去という悲しい晩年を送っており、そのあたりのことは「枕草子」にも記されているが、馬内侍も定子の悲哀を間近で見守っていたものと推定できる。
宇治院に隠棲したのには、そのような事も影響していたのかどうかは分からないが、華やかな自らの生涯と、毀誉褒貶絶えることのない浮世を噛みしめていたのであろうか。
いずれにしても、私たちの馬内侍に対する評価はまだまだ足らないのではないだろうか。

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