和歌の名人 藤原公任・ 今昔物語 ( 24-34 )
今は昔、
公任大納言は、春の頃、白川の家においでになっていたが、そこへ然るべき殿上人が四、五人ほど訪れて、「花が大変美しいので見に伺いました」と言うので、酒など勧めて遊んだが、その時、大納言は歌をお詠みになった。
『 春きてぞ 人もとひける やまざとは 花こそやどの あるじなりけれ 』
( 春が来て 人が訪れてくれた。 この山里では この花こそが 家の主人なのであろう。)
殿上人たちはこれを聞いて、たいそう感嘆して詠み上げたが、これに比べ得る歌は誰も詠むことが出来なかった。
また、この大納言は、父の三条太政大臣(藤原頼忠)が亡くなられた年の九月中旬のある夜、月がたいそう明るいので、夜が更けていくなか空を眺めていたが、侍の詰所の方から、「実にきれいな月だなあ」と人が言っているのを聞いて、大納言は、
『 いにしへを こふるなみだに くらされて おぼろにみゆる あきの夜の月 』
( 父が生きていた頃を 恋い悲しむ涙に 曇らされてしまって 明るいはずの月がおぼろ月のように見える 秋の夜の月かな )
と詠んだ。
また、この大納言は、九月の頃、月が雲にかかるのを見て、こう詠んだ。
『 すむとても いくよもすぐじ 世中に くもりがちなる あきの夜の月 』
( いくらきれいに澄み渡っていても 幾夜も続くものではあるまい。この世に生きている私も すぐに曇ってしまうことだろうなあ、秋の夜の月よ。 )
また、この大納言は、宰相中将(サイショウノチュウジョウ・参議兼中将)であった時、然るべき上達部や殿上人を大勢連れて、大井河(京都保津川の嵐山の辺り)に遊びに出かけたが、紅葉が川の中の堰にせき止められているのを見て、こう詠んだ。
『 おちつもる もみぢをみれば 大井河 いせきに秋は とまるなりけり 』
( 落ちては積もる あの紅葉を見ると ゆく秋は 大井河の堰の所で 止められているのだなあ。 )
また、この大納言の御娘は、二条殿(藤原教通)の北の方でいらっしゃったが、雪の降った朝、その方のもとに差し上げた歌。
『 ふるゆきは としとともにぞ つもりける いづれかたかく なりまさるらむ 』
( 降る雪はしだいに積もっていくが 私の白髪も年とともに増えていく 雪と白髪と どちらが高く積もるのだろうか。)
また、この大納言が世の中を恨んで蟄居した時、八重菊を見て詠んだ歌。(長女、次女に続いて先立たれ、世をはかなんで長谷に蟄居している)
『 をしなべて さくしらぎくは やへやへの 花のしもとぞ みえわたりける 』
( いちように 白く咲き誇っている白菊は 八重に咲く花に一面に霜が 置いているように見える。)
また、出家する人が多くあった頃、大納言はこう詠んだ。
『 おもひしる 人もありける 世中に いつをいつとて すごすなるらむ 』
( この世の無常を知って 出家する人もいるのに 私はどうしていつまでも 世の中に関わっているのだろう。)
また、関白殿(藤原頼通)が饗宴をなさった時の屏風に、山里に紅葉見物に来ているところを絵に描いている所に、このように詠んだ。
『 山里の もきぢみにとか おもふらむ ちりはててこそ とふべかりけれ 』
( 紅葉の盛りに行くと、山里の 紅葉を見に来たと 人は思うだろうなあ。紅葉がすべて散り果ててから 訪れるべきであった。)
このように、公任大納言は、すばらしい和歌の名人であった、
となむ語り伝へたるとや。
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今は昔、
公任大納言は、春の頃、白川の家においでになっていたが、そこへ然るべき殿上人が四、五人ほど訪れて、「花が大変美しいので見に伺いました」と言うので、酒など勧めて遊んだが、その時、大納言は歌をお詠みになった。
『 春きてぞ 人もとひける やまざとは 花こそやどの あるじなりけれ 』
( 春が来て 人が訪れてくれた。 この山里では この花こそが 家の主人なのであろう。)
殿上人たちはこれを聞いて、たいそう感嘆して詠み上げたが、これに比べ得る歌は誰も詠むことが出来なかった。
また、この大納言は、父の三条太政大臣(藤原頼忠)が亡くなられた年の九月中旬のある夜、月がたいそう明るいので、夜が更けていくなか空を眺めていたが、侍の詰所の方から、「実にきれいな月だなあ」と人が言っているのを聞いて、大納言は、
『 いにしへを こふるなみだに くらされて おぼろにみゆる あきの夜の月 』
( 父が生きていた頃を 恋い悲しむ涙に 曇らされてしまって 明るいはずの月がおぼろ月のように見える 秋の夜の月かな )
と詠んだ。
また、この大納言は、九月の頃、月が雲にかかるのを見て、こう詠んだ。
『 すむとても いくよもすぐじ 世中に くもりがちなる あきの夜の月 』
( いくらきれいに澄み渡っていても 幾夜も続くものではあるまい。この世に生きている私も すぐに曇ってしまうことだろうなあ、秋の夜の月よ。 )
また、この大納言は、宰相中将(サイショウノチュウジョウ・参議兼中将)であった時、然るべき上達部や殿上人を大勢連れて、大井河(京都保津川の嵐山の辺り)に遊びに出かけたが、紅葉が川の中の堰にせき止められているのを見て、こう詠んだ。
『 おちつもる もみぢをみれば 大井河 いせきに秋は とまるなりけり 』
( 落ちては積もる あの紅葉を見ると ゆく秋は 大井河の堰の所で 止められているのだなあ。 )
また、この大納言の御娘は、二条殿(藤原教通)の北の方でいらっしゃったが、雪の降った朝、その方のもとに差し上げた歌。
『 ふるゆきは としとともにぞ つもりける いづれかたかく なりまさるらむ 』
( 降る雪はしだいに積もっていくが 私の白髪も年とともに増えていく 雪と白髪と どちらが高く積もるのだろうか。)
また、この大納言が世の中を恨んで蟄居した時、八重菊を見て詠んだ歌。(長女、次女に続いて先立たれ、世をはかなんで長谷に蟄居している)
『 をしなべて さくしらぎくは やへやへの 花のしもとぞ みえわたりける 』
( いちように 白く咲き誇っている白菊は 八重に咲く花に一面に霜が 置いているように見える。)
また、出家する人が多くあった頃、大納言はこう詠んだ。
『 おもひしる 人もありける 世中に いつをいつとて すごすなるらむ 』
( この世の無常を知って 出家する人もいるのに 私はどうしていつまでも 世の中に関わっているのだろう。)
また、関白殿(藤原頼通)が饗宴をなさった時の屏風に、山里に紅葉見物に来ているところを絵に描いている所に、このように詠んだ。
『 山里の もきぢみにとか おもふらむ ちりはててこそ とふべかりけれ 』
( 紅葉の盛りに行くと、山里の 紅葉を見に来たと 人は思うだろうなあ。紅葉がすべて散り果ててから 訪れるべきであった。)
このように、公任大納言は、すばらしい和歌の名人であった、
となむ語り伝へたるとや。
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